簸屑(ひくず)(二番目 三番目)

▲アト「宇治の里に住居(すまひ)致す者でござる。何かと申す内に、宇治橋の供養も、近々(きんきん)になつてござる。それに付き、太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{呼び出す。常の如し。}
汝呼び出す、別の事でもない。何と、宇治橋の供養も、近々になつたではないか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、宇治橋の供養も、近々(ちかぢか)になりました。
▲アト「それに付いて、大勢の道者であらう。
▲シテ「何(いづ)れ、夥(おびたゞ)しい道者でござりませう。
▲アト「又、当年は、先祖の年忌に当たつたによつて、志のため、接待をせうと思ふが、何とあらう。
▲シテ「これは、結構な思し召しでござる。一段と良うござりませう。
▲アト「身共が思ふは、畢竟、咽(のど)の渇きさへ已(や)めば良いによつて、煎茶よりは、薄茶にして出さうと思ふが、何とあらう。
▲シテ「これは、猶良うござりませうが、して、その茶には、どれをお遣ひなされます。
▲アト「それも思案をして置いた。茶時に簸屑を大分のけて置いた。あれを使はうと思ふ。則ち、汝に云ひ付くる。大儀ながら、挽いてくれい。
▲シテ「畏つてはござれども、私は御内証に御用もござらう程に、次郎冠者に仰せ付けられませ。
▲アト「いや、こゝな者が。今朝も今朝で、山一つあなたへ行けと云へば、持病に脚気があると云うたによりて、次郎冠者を遣はした。これが、今日(けふ)ばかりで済む事ではない。次郎冠者にも云ひ付くる。まづ、今日(けふ)は汝挽け。
▲シテ「それならば、畏つてござる。
▲アト「暫くそれに待て。
▲シテ「心得ました。
▲アト「やいやい。これは、極(ごく)の内を選(よ)り抜いた簸屑ぢや。随分、麁末にならぬ様に挽け。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「臼も、あれに出させて置いた。身共は用事あつて、山一つあなたへ行く。留守の内、油断なう挽け。
▲シテ「その段は、そつとも御気遣ひなされますな。
▲アト「やがて戻らう。
▲シテ「やがてお帰りなされませ。
▲アト「心得た。
▲シテ「出られた。扨も扨も、迷惑な事を云ひ付けられた。さりながら、挽かずばなるまい。臼も出させて置いたと仰(お)せある。どれにある事ぢや。さればこそ、これにある。さらば、こゝで挽かう。まづ、蓋を取つて見よう。扨も扨も、色の悪い茶ぢや。さりながら、極のゆかり程あつて、香(にほ)ひは良い。まづ、臼へ移さう。あゝ。頼うだ人の様な、しんまくな人はあるまい。他所(よそ)には、茶時に簸屑がたまれば、川へ流しつ火にくべつ、又は出入りの者にとらせたりするに、大事にかけて残して置かるゝは、何のためぢやと思へば、この様なあてのある事ぢや。扨も扨も、しんまくな人ぢや。さらば、茶を挽かう。扨、この度、宇治橋の供養がなくば、道者もあるまい。道者がなくば、接待もせられまい。接待がなくば、この様に茶を挽く事もあるまいに。あゝ、うるさな橋の供養ぢや。これはいかな事。早(はや)、眠たうなつた。身共は、この茶を挽くと馬に乗るとは、後ろから揺らるゝ様になつて、その儘眠たうなる。
▲小アト「急ぎの使ひに、山一つあなたへ参つて、只今帰つてござる。申し、頼うだ御方。只今帰りました。えい、太郎冠者。やい、太郎冠者。
▲シテ「おゝ、次郎冠者か。
▲小アト「今、戻つた。
▲シテ「おゝ。太儀、太儀。
▲小アト「はあ。汝は茶を挽くが、客があるか。
▲シテ「いゝや、客はない。
▲小アト「まづは、色の悪い茶ぢやなあ。
▲シテ「色の悪い筈ぢや。簸屑ぢや。
▲小アト「して、簸屑を挽いて、何にせらるゝ事ぢや。
▲シテ「さればの事ぢや。宇治橋の供養も近々(きんきん)になつた。それに付いて、当年は、頼うだ人が先祖の年忌とやらに当たられて、志のため接待をすると云うて、この様に茶を挽かさるゝ。そちも覚悟せい。大分挽かねばならぬ。
▲小アト「あゝ。それは、もつけな事が始まつたなあ。
▲シテ「いや。も、うるさい事が始まつた。
▲小アト「これはいかな事。太郎冠者、やい、太郎冠者。
▲シテ「何事ぢや。
▲小アト「そちは、いかう眠るが、眠たいか。
▲シテ「最前から独り言を云うて居るが、身共が、この茶を挽くと馬に乗つては、後ろから揺らるゝ様になつて、その儘、眠たうなる。
▲小アト「これはいかな事。太郎冠者、太郎冠者。やい、太郎冠者。
▲シテ「何事ぢやぞいやい。
▲小アト「汝はいかう眠たいさうな。目の覚むる様に、何ぞ、話をして聞かせうか。
▲シテ「それは良からう。話して聞かせい。
▲小アト「この中(ぢゆう)、月の夜、河原に相撲のあつたを知つて居るか。
▲シテ「成程、知つて居る。
▲小アト「身共は川向ひへ御使ひに行(い)たが、立ち寄つて見物して居たれば、東の方(かた)から小男が出て、西の方を取り干(ほ)した。もはや、あの相撲に続く相撲はあるまいと、座中、評判であつた。身共も堪(こら)へかねて、裸になつて出て、かの小男と、やつと手合ひをするといなや、身共が小腕(こがひな)をみじととらへた。じつとゝらへさせて置いて、引つぱづし、大地へずでいどうと投げ付けたが、何と、いかい手柄をせうの。これはいかな事。太郎冠者、やい、太郎冠者。
▲シテ「何事ぢや。
▲小アト「今の話を聞いたか。
▲シテ「何の話を。
▲小アト「はて、相撲の話を。
▲シテ「いゝや。何も聞かぬ。
▲小アト「これは、いかな事。人に話をさせて置いて、眠るといふ事があるものか。
▲シテ「その、人に話をさせて置いて、聞き聞き眠るは、なほ良いものぢや。
▲小アト「これはいかな事。言葉の下から眠り居る。太郎冠者、太郎冠者。やい、太郎冠者。
▲シテ「あゝ、姦(かしま)しい。何事ぢやぞいやい。
▲小アト「あゝ。その様に挽いたらば、茶が粗(あら)からうぞよ。
▲シテ「粗くば大事か。簸屑ぢやわいやい。
▲小アト「そちは、いかう眠たいさうな。身共はこの中(ぢゆう)、小舞を稽古する。目の覚むる様に、舞を舞うて見せうか。
▲シテ「何ぢや、舞を舞ふ。
▲小アト「中々。
▲シテ「これは良からう。早う舞うて見せい。
▲小アト「それならば、汝も地を謡うてくれ。
▲シテ「心得た。
{小舞の内、シテ、寝る。}
▲小アト「扨々、不調法をした。これはいかな事。人に舞を舞はせて置いて、たつたひと寝入りにしをつた。やい、太郎冠者、太郎冠者。いかないかな。揺すつても抱へても、目を覚まさぬ。扨々、腹の立つ事ぢや。何としたものであらうぞ。いや、致し様がござる。これで良い。まづ、様子を見ようと存ずる。
▲シテ「むゝ。寝た事かな、寝た事かな。扨も扨も、良う寝た。たつたひと寝入りにした。これはいかな事。こりや、茶が何程も挽けぬ。頼うだ御方がお帰りなされたらば、良いとは仰せられまい。急いで挽かう。こりや、枕さがりに寝た加減か、どうやら顔が重腫(おもは)れた様な。水がな欲しや。冷(ひい)やりと手水が使ひたい事ぢや。
▲アト「只今、帰つてござる。さぞ、太郎冠者が待ちかねて居るでござらう。太郎冠者。今、戻つた。太郎冠者、戻つたぞ、戻つたぞ。
▲シテ「そりやあ、頼うだ御方がお帰りなされた。えい、頼うだ御方、お帰りなされましたか。
▲アト「なう、恐ろしや。鬼が来た。あちへ行け、あちへ行け。
▲シテ「申し申し。鬼は、どれに居ります。
▲アト「己が鬼ぢや。次郎冠者はをらぬか。出合へ、出合へ。
▲小アト「申し申し。何事でござる。
▲アト「身共が所へ鬼が来た。
▲小アト「して、どれに居ります。
▲アト「それそれ、それに居る。
▲小アト「なう、恐ろしや。
▲二人「あちへ行け、あちへ行け。
▲シテ「申し申し。声でなりとも、聞き知らせられて下されい。私は、太郎冠者でござる。
▲アト「成程、声は太郎冠者なれども、面(つら)が鬼ぢやなあ。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「扨々、合点の行かぬ事ぢや。次郎冠者、朋輩のよしみに、水鏡を見せてくれい。
▲小アト「何と致しませう。
▲アト「見せてやれ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「あゝ、こりやこりや。余り傍へは無用ぢや。
▲小アト「畏つてござる。そりや。
▲シテ「どりや。《泣》終に、人を悪かれと思うた事はないに、何として、この様な浅ましい鬼になつた事ぢや。
▲アト「扨々、不思議な事ぢやなあ。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「やいやい。何としてその様な恐ろしい鬼になつたぞ。
▲シテ「さればの事でござる。今朝(こんてう)、茶を挽けと仰せられたによつて、精を出して挽いてをりましたが、余り眠たうござつたによつて、暫くまどらうてをりましたれば、いつの間にやら、この様な恐ろしい面になりました。
▲アト「扨々、それは不憫な事ぢや。さりながら、身が内に、人が生きながら鬼となつたと云うては、世間の外聞もいかゞぢや。身が内には叶はぬ程に、さあさあ、出て行け、出て行け。
▲シテ「成程、御尤に存じまする。さりながら、この面でよそ外(ほか)へ参つたりとも、寄せ付けは致しますまい。只今までの御奉公は叶ひませずとも、どうぞ、御門の番なりともおさせなされて下されい。
▲アト「これはいかな事。身が門に、鬼が番をすると云はゞ、人の出入りがあるまい。身が内には叶はぬ。次郎冠者、早う追ひ出せ。
▲小アト「畏つてござる。さあさあ、出てお行きあれ。
▲シテ「左様ならば、御台所の御釜の火なりとも、お焚(た)かせなされて下されませ。
▲アト「扨々、むさとした事を云ふ。台所へは、女わらんべもをるに、その様な恐ろしい面で、何と、火が焚かさるゝものぢや。身が内には叶はぬ。出て行け、出て行け。
▲シテ「申し申し。左様ならば、御医者衆に仰せ付けられて、ひと療治おさせなされて下されませ。
▲アト「まだそのつれをぬかしをる。医者は、人間の病ひをこそ治せ。鬼の療治をするといふ事は、終に聞いた事がない。とかく、身が内には叶はぬ。次郎冠者、早う追ひ出せ。
▲小アト「申し申し。私が追ひ出しませう。御前(おまへ)がこれにござつて、御怪我でもあれば、悪うござる。御前は奥に御出なされませ。
▲アト「それならば、身共は奥へ行く程に、早う追ひ出せ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「なうなう、恐ろしや恐ろしや。
▲シテ「申し申し。
▲小アト「さあさあ、鬼殿。もはや叶はぬ。出てお行きあれ。
▲シテ「そちまでも、その様に云うてくるゝか。犬も朋輩、鷹も朋輩。と云ふ程に、良い様に取りなしをしてくれい。
▲小アト「身共も、何ぼの朋輩も持つたれども、鬼の朋輩を持つことはない。さあさあ、出てお行きあれ、出てお行きあれ。
▲シテ「こりやこりや。それならば、そちが所へ連れて行(い)て、かくまうてくれい。
▲小アト「汝をかくまうては、身共が迷惑をする。おのれが様な者は、かうして置いたが良い。
▲シテ「やいやい、次郎冠者。
▲小アト「何事ぢや。
▲シテ「ちよつと来い。
▲小アト「何事ぢや。
▲シテ「これは何ぢや。
▲小アト「これか。
▲シテ「中々。
▲小アト「やい、うつけ。
▲シテ「何と、うつけとは。
▲小アト「あまり汝が良う寝て居たによつて、鬼の面(めん)を着せて置いた。
▲シテ「扨は、おのれが仕業ぢやな。
▲小アト「あの、うつけよ。
▲シテ「扨々、憎い奴め。よう身共を騙しをつた。何とせうぞ。
▲小アト「うつけよ、うつけよ。
▲シテ「あの横着者。やるまいぞ、やるまいぞ。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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簸屑(ヒクヅ)(二番目 三番目)

▲アト「宇治の里に住居致す者で御座る、何かと申す内に、宇治橋の供養も近々に成て御座る、夫に付太郎冠者を呼出し、申付る事が御座る、{呼出す如常{*1}、}汝呼出す別の事でもない、何と宇治橋の供養も近々に成たではないか▲シテ「御意なさるゝ通り、宇治橋の供養も近々になりました▲アト「夫に付て大勢の道者で{*2}有う▲シテ「何れおびたゞしい道者で御座りませう▲アト「又当年は先祖の年忌に当つたに依つて、志の為接待{*3}をせうと思ふが何と有う▲シテ「是は結構な思召で御座る、一段とよう御座りませう▲アト「身共が思ふは畢竟咽のかわきさへ止めばよいに依つて、煎茶よりは薄茶にして出さうと思ふが何と有う▲シテ「是は猶よう御座りませうが、して其茶にはどれをお遣ひ被成ます▲アト「夫も思案をして置た、茶時に簸屑を大分のけておゐた、あれを使はうと思ふ、則汝に言ひ付る大儀ながらひいて呉い▲シテ「畏つては御座れ共、私は御内せうに御用も御座らう程に、次郎冠者に仰せ付けられませ▲アト「いや爰な者が、今朝も今朝で山一ツあなたへ行けといへば、持病に脚気があるといふたに依りて、次郎冠者を遣はした、是がけう計りで済事ではない、次郎冠者にも云ひ付る、先けふは汝挽け▲シテ「夫ならば畏つて御座る▲アト「暫く夫にまて▲シテ「心得ました▲アト「やいやい、是は極の内をよりぬひた簸屑ぢや、随分麁末にならぬ様にひけ▲シテ「畏つて御座る▲アト「臼もあれに出させて置た、身共は用事あつて山一つあなたへ行、留守の内油断なうひけ▲シテ「其段は卒ツ都もお気遣被成ますな▲アト「頓て戻らう▲シテ「頓てお帰り被成ませ▲アト「心得た▲シテ「出られた、扨も扨も迷惑な事を言ひ付けられた、去り乍ら挽かずば成まひ、臼も出させて置たとおせある、どれにある事ぢや、去ればこそ是にある、さらば爰で挽う、先ふたを取つて見やう、扨も扨も色のわるい茶ぢや、去り乍ら、極のゆかり程あつて香ひはよい、先臼へ移さう、あゝ頼うだ{*4}人の様なしんまくな人は有まい、他所には茶時に簸屑がたまれば、川へ流しつ火にくべつ、又は出入の者にとらせたりするに、大事にかけて残しておかるゝは何の為ぢやと思へば、此様なあての有事ぢや、扨も扨もしんまくな人ぢや、さらば茶を挽う、扨此度宇治橋の供養がなくば道者もあるまい、道者がなくば接待{*5}もせられまい、接待{*6}がなくば此様に茶を挽く事も有まいに、あゝうるさな橋の供養ぢや、是はいかな事、はやねむたう成つた、身共は此茶を挽と、馬に乗とは後ろからゆらるゝ様に成つて其儘ねむたうなる▲小アト「急の使に山一つあなたへ参つて唯今帰つて御座る、申頼うだお方唯今帰りました、えい太郎冠者やい太郎冠者▲シテ「おゝ次郎冠者か▲小アト「今戻つた▲シテ「おゝ太儀太儀▲小アト「ハア汝は茶を挽が客があるか▲シテ「いゝや客はない▲小アト「先は色のわるい茶ぢやなあ▲シテ「色のわるい筈ぢやひくずぢや▲小アト「して簸屑を挽て何にせらるゝ事ぢや▲シテ「去ればの事ぢや、宇治橋の供養も近々になつた、夫に付て当年は頼うだ{*7}人が、先祖の年忌とやらに当られて、志のため接待{*8}をするといふて、此様に茶を挽かさるゝ、そちも覚悟せい、大分挽ねばならぬ▲小アト「あゝ夫はもつけな事が始つたなあ▲シテ「いやもうるさい事が始つた▲小アト「是はいかな事、太郎冠者やい太郎冠者▲シテ「何事ぢや▲小アト「そちはいかうねむるが寝むたいか▲シテ「最前から独言を云て居るが、身共が此茶を挽くと、馬に乗つては後ろからゆらるゝ様に成て、其儘ねむたうなる▲小アト「是はいかな事、太郎冠者太郎冠者やい太郎冠者▲シテ「何事ぢやぞいやい▲小アト「汝はいかうねむたいさうな、目のさむる様に、何ぞ咄をして聞かせうか▲シテ「夫はよからう、噺して聞かせい▲小アト「此中月の夜河原に相撲の有つたを知つて居るか▲シテ「成程知つて居る▲小アト「身共は川向へお使にいたが、立寄て見物して居たれば、東の方から小男が出て、西の方を取ほした、最早あの角力に続く相撲はあるまいと、座中評判で有つた身共もこらへかねて、はだかになつて出て、彼の小男とやつと手合ひをするといなや、身共が小がひなをみじととらへた、じつととらへさせて置て、引ぱづし、大地へずでいどうとなげ付たが、何といかひ手柄{*9}をせうの、是はいかな事、太郎冠者。やひ太郎冠者▲シテ「何事ぢや▲小アト「今の話を聞たか▲シテ「何のはなしを▲小アト「果、相撲の話を▲シテ「いゝや何も聞かぬ▲小アト「是はいかな事、人に話をさせて置て眠るといふ事がある者か▲シテ「其人に話をさせて置てきゝきゝ眠るは尚よいものぢや▲小アト「是はいかな事、言葉の下からねむり居る、太郎冠者太郎冠者やい太郎冠者▲シテ「あゝ姦しい何事ぢやぞいやい▲小アト「あゝ其様に挽たらば茶が荒からうぞよ、▲シテ{*10}「あらくば大事か簸屑ぢやわひやい▲小アト「そちはいかうねむたひさうな、身共は此中小舞を稽古する、目のさむる様に、舞をまうて見せうか▲シテ「何ぢや舞を舞ふ▲小アト「中々▲シテ「是はよからう、早う舞ふて見せひ▲小アト「夫ならば汝も地を謡ふて呉れ▲シテ「心得た{小舞の内シテ寝る}▲小アト「扨々不調法をした、是はいかな事、人に舞をまはせて置ひて、たつた一トね入にしおつた、やい太郎冠者太郎冠者、いかないかなゆすつても抱えても目をさまさぬ、扨々腹の立つ事ぢや、何とした者であらうぞ、いや致し様が御座る、是でよい、先様子を見やうと存ずる▲シテ「むゝねた事かなねた事かな扨も扨もようねた、たつた一トね入にした是はいかな事こりや茶が何程も挽けぬ、頼うだお方がお帰り被成たらばよいとは仰られまい、急で{*11}挽う、こりや枕さがりにねたかげんか、どうやら顔がおもはれた様な、水がなほしや冷やりと手水がつかいたい事ぢや▲アト「只今帰て御座る、嘸太郎冠者が待かねて居るで御座らう、太郎冠者今戻つた、太郎冠者戻つたぞ戻つたぞ▲シテ「そりやあ頼うだお方がお帰り被成た、えい頼うだ{*12}お方お帰り被成ましたか▲アト{*13}「のう恐しや鬼が来たあちへ行けあちへ行け▲シテ「もうしもうし鬼はどれに居ります▲アト「己{*14}が鬼ぢや、次郎冠者はおらぬか、出合出合▲小アト「申々何事で御座る▲アト「身共が所へ鬼がきた▲小アト「してどれに居ります▲アト「夫々それに居る▲小アト「のう恐ろしや▲二人「あちへ行けあちへ行け▲シテ「申々、声でなりとも聞しらせられて{*15}下されい、私は太郎冠者で御座る▲アト「成程声は太郎冠者なれども、つらが鬼ぢやなあ▲小アト「左様で御座る▲シテ「扨々合点のゆかぬ事ぢや、次郎冠者朋輩のよしみに水鏡を見せて呉れい▲小アト「何と致しませう▲アト「見せてやれ▲小アト「畏つて御座る▲アト「あゝこりやこりや、余りそばへは無用ぢや▲小アト「畏つて御座る、そりや▲シテ「どりや、《泣》、終に人をわるかれと思ふた事はないに、何として此様な浅間敷い鬼に成つた事ぢや▲アト「扨々不思議な事ぢやなあ▲小アト「左様で御座る▲アト「やいやい、何として其様な恐ろしい鬼に成つたぞ▲シテ「去ばの事で御座る、今朝茶を挽と仰られたに依つて、せいを出して挽ておりましたが、余りねむたう御座つたに依つて暫くまどらうておりましたれば、いつの間にやら此様な恐ろしいつらに成ました▲アト「扨々夫は不憫{*16}な事ぢや、去り乍ら、身が内に人が生きながら鬼となつたといふては、世間の外聞もいかゞぢや、身が内には叶はぬ程に、さあさあ出て行け出て行け▲シテ「成程御尤に存じまする、去りながら、此つらでよそ外へ参つたり共よせ付けは致しますまい、唯今迄の御奉公は叶ませずとも、どうぞ御門の番なりともおさせ被成て下されイ▲アト「是はいかな事、身が門に鬼が番をするといはば、人の出入があるまひ、身が内には叶はぬ次郎冠者早うおひ出せ▲小アト「畏つて御座る、さあさあ出てお行きあれ▲シテ「左様ならばお台所のお釜の火なりともおたかせ被成て下されませ▲アト「扨々むさとした事をいふ台所へは女わらんべもおるに、其様な恐ろしいつらで何と火がたかさるゝものぢや、身が内には叶はぬ出て行け出て行け▲シテ「もうしもうし、左様ならばお医者{*17}衆に仰付られて、一療治おさせ被成れて下されませ▲アト「まだ其つれをぬかしおる、医者{*18}は人間の病をこそなほせ、鬼の療治をするといふ事は終に聞た事がない、兎角身が内には叶はぬ、次郎冠者早う追出せ▲小アト「もうしもうし、私が追出しませう、お前が是に御座つて、お怪我でもあれば悪う御座る、お前は奥にお出被成ませ▲アト「夫ならば身共は奥へ行く程に、早う追ひ出せ▲小アト「畏つて御座る▲アト「のふのふ恐ろしや恐ろしや▲シテ「申々、▲小アト「さあさあ鬼殿、最早叶はぬ出ておゆきあれ▲シテ「そち迄も其様に云ふてくるゝか、犬も朋輩鷹も朋輩といふ程によい様に、とりなしをして呉い▲小アト「身共もなんぼの朋輩も持つたれども、鬼の朋輩を持つことはない、さあさあ出ておゆきあれ出ておゆきあれ▲シテ「こりやこりや、夫ならば、そちが所へ連れていてかくまうて呉イ▲小アト「汝をかくもふては身共が迷惑をする、おのれが様な者はこうして置たがよい▲シテ「やいやい次郎冠者▲小アト「何事ぢや▲シテ「鳥渡来い▲小アト「何事ぢや▲シテ「是はなんぢや▲小アト「是か▲シテ「中々▲小アト「やいうつけ▲シテ「何とうつけとは▲小アト「あまり汝がようねて居たに依つて、鬼の面をきせて置いた▲シテ「扨てはおのれが仕業{*19}ぢやな▲小アト「あのうつけよ▲シテ「扨々憎イ奴め、よう身共をだましおつた何とせうぞ、▲小アト「うつけようつけよ、▲シテ「あの横着者やるまひぞやるまひぞ。

校訂者注
 1:底本は、「呼出す如常」。
 2:底本は、「道者て有う」。
 3・5・6・8:底本は、「摂待(せつたい)」。
 4・7・12:底本は、「頼うた」。
 9:底本は、「手抦(てがら)」。
 10:底本、ここに「▲シテ「」はない。
 11:底本は、「急(いそい)て」。
 13:底本は、「▲小アト「のう恐しや鬼が来た」。
 14:底本は、「巳(おのれ)」。
 15:底本は、「聞しらせれて」。
 16:底本は、「不便(ふ ん)」。
 17・18:底本は、「医師(いしや)」。
 19:底本は、「仕事(しわざ)」。