首引(くびゝき)(三番目 四番目)

▲アト「鎮西の八郎為朝でござる。某(それがし)、さる仔細あつて、西国に罷りあつた。この度、上方へ罷り上らうと存ずる。誠に、某、幼少より逞しう生まれ付いて、所々(しよしよ)に於いて、手柄を挙げて、数ふべからず。しかれども、未だ武具(ものゝぐ)を脱ぎ、心に油断は少しもござない。何かと云ふ内に、播磨の印南野(いなみの)ぢや。惣じてこの所は、暮れに及うでは、人の往来(ゆきゝ)もかつてない所でござる。某、天(あま)が下に於いて、恐ろしいと存ずる事はないによつて、昼夜(ちうや)、難所を厭はず歩(あり)く事でござる。
▲シテ「人臭い、人臭い。これは、何者ぞ参つたさうな。俄(にはか)に人臭うなつた。さればこそ。とつて噛まう、とつて噛まう。
▲アト「まつぴら、許させられい、許させられい。
▲シテ「この所は、七つ下がつて、人の通らぬ所ぢやが、おのれは何者ぢや。
▲アト「これは、旅人でござる。左様の所と存ぜいで、通りました。命を助けて下され。
▲シテ「いやいや。知らぬ事はあるまい。おのれが根性が横着で、通つたものであらう。とかく、命を助くる事はならぬ。追つ付け、とつて服(ぶく)する。さりながら、某、秘蔵の乙娘(おとむすめ)を持つた。これに、喰ひ初めをさせたい。姫に喰はれようか。但し、身共に噛まるゝか。
▲アト「とても、助けさせられまいならば、御姫様に喰はれませう。
▲シテ「己も、ちと優しい心があると見えた。まづ、姫を呼び出さう。やいやい、姫。来い、来い。
▲乙「父様(とゝさま)、何ぞ。
▲シテ「そちは、とゝが秘蔵子ぢやによつて、常々可愛がる。されども、未だ人の喰ひ初めをさせぬ。幸ひ今日(けふ)、良い若い者が来た。あれへ行(い)て、喰はい、喰はい。
▲乙「とゝ様。喰ひ切つて下されたら、喰ひませう。
▲シテ「その様に、何時(いつ)まで親の世話になるぞ。早う行(い)て、一口に喰はい。
▲乙「それでも、喰ひ初めは愧(は)づかしい。
▲シテ「大事ない。早う行かい。
▲乙「どれ。何処(どこ)に居る。
▲シテ「あれ、あそこに居る。
▲乙「あれは、良い男ぢや。うまからう。
▲シテ「うまさうなによつて、父が喰はうと思へども、そちに喰はす程に、早う喰はい。
▲乙「それなら、とつて噛まう。
{と云つて、アトの傍へ寄る。アト、扇にて叩く。}
▲乙「あ痛、あ痛。
▲シテ「何とした、何とした。
▲乙「あの男が叩いた。
▲シテ「な泣いそ、な泣いそ。とゝが、叱つてやらう。堪(こら)へい、堪へい。扨々、己は憎い奴ぢや。秘蔵の姫を、何故(なぜ)に打擲した。
▲アト「いや。今のは、私の腕に行き当たらせられて、触つたさうにござる。
▲シテ「構へて、聊爾をするな。叱つて置いた。早う行(い)て、喰はい。
▲乙「おれは、怖い。もはや、嫌ぢや。
▲シテ「嫌と云ふ事があるものか。思ひ切つて喰はしめ。
▲乙「頭から喰うても、大事ないか。
▲シテ「何処からなりとも、好きな所から喰はい。
▲乙「喰うぞや。
▲シテ「早う喰はい。
▲乙「噛まう。
{と云つて行く所を、扇にて叩く。}
▲乙「あ痛、あ痛。又、叩いた、叩いた。
▲シテ「な泣いそ、な泣いそ。とゝが、叱つてやらう。やいやい。言語道断、憎い奴ぢや。この上は、たつた一口に、取つて噛まう。
▲アト「まづ、お待ちなされませ、お待ちなされませ。
▲シテ「何と、待てとは。
▲アト「鬼神に横道なし、と申す。何の咎もなうて、服なされう筈はござらぬ。この上は、何ぞ力勝負を致して、勝負に負けたらば、服させられい。
▲シテ「これは、そちが云ふに、無理もない。さして科(とが)もなけれども、暮れに及うで、人の通らぬ所を通るによつての事ぢや。勝負をせうが、身共とするか、姫とするか。
▲アト「御姫様の喰ひ初めと仰せられまする程に、御姫様と勝負をしませう。
▲シテ「おのれも、悪うは惚れぬな。勝負は何をする。
▲アト「腕押しを致しませう。
▲シテ「一段と良からう。やいやい、姫。あの男と、勝負に腕押しをせい。
▲乙「腕押しは嫌ぢや。腹押しならせう。
▲シテ「卑しい事を云ふ。急いで、腕押しをせい。さあさあ、これへ寄れ。
{二人、腕押しをする。アト、乙のを強くすりつける。}
▲乙「あ痛、あ痛。きつう、すり付けをつた。
▲シテ「何処をすり付けをつた。
▲乙「こゝぢや、こゝぢや。
▲シテ「憎い奴かな。やい。何故に姫を痛めた。
▲アト「痛めは致しませぬ。柔らかい美しい御手(おて)へ、私の荒(あら)くもしい手が触りましたによつて、あの様に仰せられまする。
▲シテ「今のでは知れぬ。も一勝負せい。
▲アト「今度は、臑押(すねお)しを致しませう。
▲シテ「これは良からう。姫。又、あれへ出て、臑押しをしさい。とゝが見て居る。早うさしめ。
{二人、足押しをする。乙、負ける。}
▲乙「あれあれ、太い足を押し込むによつて、堪へられませぬ。
▲シテ「泣かしむな。叱つてやらう。最前から、姫を色々と痛め居る。何故、尋常に勝負をせぬ。
▲アト「とかく、柔らかな御身へ、私の不束(ふつゝか)な手足が触りまするによつて、御機嫌が損じまする。所詮、今度は首引きを致しませう。
▲シテ「これは尤ぢや。が、そちが手足を美しう生まれ付いたによつて、彼奴が荒くもしい手足が、きつう当たる。今度は、首引きをせうと云ふ程に、さしめ。
▲乙「いや。男を喰はいでも、大事ない。首引きをする事は、嫌ぢや。
▲シテ「扨、卑怯千万な。父(とゝ)が子と生まれて、人を喰ふ事を、嫌と云うてなるものか。云ふ事を聞かずば、つめつめするぞへ。
▲乙「それでも、怖いもの。
{と云つて、泣く。}
▲シテ「あゝ、こりやこりや。その様に泣くと、虫が出る。涙を零(こぼ)すないやい。さあさあ、あれへ行け。とゝが、後ろから捉へて居てやらう。
{と云つて、布の縄を持ち出し、二人の首へ懸けさせる。}
▲シテ「さあさあ、尋常に首引きをせい。
{「えいや、えいや」と云つて、曳く。乙、負けになる。シテ、後ろから手を懸ける。アト、扇にてシテを払ふ。シテ、退く。又、乙の負けになる時、ひたもの、始めの通りするなり。}
▲シテ「やいやい。小鬼ども、眷属ども。早う来い、早う来い。
▲立衆「何事ぢや、何事ぢや。
▲シテ「姫が、首引きをする。負けになる程に、加勢して、引け、引け。
▲衆「心得た。えいや、えいや。
▲シテ「拍子にかゝつて、引け、引け。
《ノル》{*1}えいさらさ、えいさらさ。
▲衆「えいさらさ、えいさらさ。
▲シテ「姫が方が、弱いわ。
▲衆「えいさらさ、えいさらさ。
{引いて、舞台、も一遍、廻る。アト、橋懸かりへ行く。小鬼ども、舞台の中程の太鼓座の辺りへ来る時、縄を外し、アト、入るなり。小鬼ども、将棋倒しに転がる。後より皆々、「取つて噛まう」と云つて、追ひ込み、入るなり。但し、シテ、姫を労はり、後より入るも良し。但し、アト、縄外す時、「えいや、えいや」、段々云ふ。「えいえい、をう」と云うて、縄を外すが良し。}

校訂者注
 1:底本、ここから最後まで、全て傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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首引(クヒゞキ)(三番目 四番目)

▲アト「鎮西の八郎為朝で御座る、某、去る仔細有つて西国に罷在つた、此度上方へ罷り上らうと存ずる、誠に某幼少より逞しう生れ付いて、所々に於て手柄{*1}を挙げて数ふべからず、然れども未だ武具を脱ぎ、心に油断は少しも御座ない、何彼といふ内に播磨の印南野ぢや、惣じてこの所は暮に及うでは、人の往来も曽てない所で御座る、某、天下に於て恐ろしいと存ずる事はないに依て、昼夜難所を厭はずありく事で御座る▲シテ「人くさい人くさい、是は何者ぞ参つたさうな、俄に人くさうなつた、さればこそ、とつてかまうとつてかまう▲アト「まつぴらゆるさせられいゆるさせられい▲シテ「この所は七ツ下つて人の通らぬ所ぢやが、おのれは何者ぢや▲アト「是は旅人で御座る、左様の所と存ぜいで通りました、命を助けて下され▲シテ「いやいやしらぬ事はあるまい、おのれが根性が横着で通つた物であらう、兎角命を助くる事はならぬ、追付{*2}とつてぶくする、さりながら某秘蔵の乙娘を持つた、是に喰初をさせたい、姫に喰はれやうか、但、身共に噛まるゝか▲アト「迚も助けさせられまいならば、お姫様に喰はれませう▲シテ「己もちと優しい心があると見えた、先、姫を呼出さう、やいやい姫来い姫来い▲乙「父様何んぞ▲シテ「そちはとゝが秘蔵子ぢやに依つて、常々可愛がる、されども未だ人の喰初をさせぬ、幸ひ今日よい若い者が来た。あれへいてくはいくはい▲乙「とゝ様喰切つて下されたら喰ひませう▲シテ「其様に何時迄親の世話になるぞ、早う行て一口にくはい▲乙「それでも喰初めは愧しい▲シテ「大事ない早うゆかい▲乙「どれ何処に居る▲シテ「あれあそこにゐる▲乙「あれはよい男ぢや甘からう▲シテ「美味さうなに依つて父が喰ふと思へどもそちに喰はす程に早うくはい▲乙「それなら執つてかまう、{ト云て{*3}アトのそばへよる、アト扇にて叩く}▲乙「あいたあいた▲シテ「何とした何とした▲乙「あの男が叩いた▲シテ「なゝいそ{*4}なゝいそ、とゝが叱つて{*5}やらう、こらえいこらえい、扨々己は憎い奴ぢや、秘蔵の姫を何故に打擲した▲アト「いや今のは私の腕に行当たらせられて触つたさうに御座る▲シテ「かまへてりやうじをするな、叱つて置いた、早ういてくはい▲乙「おれ{*6}はこはい最早いやぢや▲シテ「嫌と言ふ事があるものか、思切つて喰はしめ▲乙「頭から喰うても大事ないか▲シテ「何処からなりとも好きな所からくはい▲乙「喰うぞや▲シテ「早うくはい▲乙「かまう{ト云て行く所を扇にて叩く}▲乙「あいたあいた、又叩いた叩いた▲シテ「なゝいそ{*7}なゝいそ、とゝが叱つて遣らう。やいやい、言語道断憎い奴ぢや、此上はたつた一口に取つてかまう▲アト「先づお待ちなされませお待ちなされませ▲シテ「何とまてとは▲アト「鬼神に横道なしと申す、何んの咎もなうてぶくなされう筈は御座らぬ、此上は何ぞ力勝負を致して、勝負に負けたらばぶくさせられい▲シテ「是はそちが言ふに無理もない、さして科もなけれども、暮に及うで人の通らぬ所を通るに依つての事ぢや、勝負をせうが身共とするか姫とするか▲アト「お姫様の喰初と仰せられまする程に、お姫様と勝負をしませう▲シテ「おのれも悪うは惚れぬな、勝負は何をする▲アト「腕押しを致しませう▲シテ「一段とよからう、やいやい姫、あの男と勝負に腕押しをせい▲乙「腕押しは嫌ぢや、腹押ならせう▲シテ「卑しい事を言ふ、急いで腕押しをせい、さあさあ是へ寄れ{二人腕押しをするアト乙のを強くすりつける}▲乙「あいたあいた、きつう{*8}すりつけおつた▲シテ「何処を摺付け居つた▲乙「爰ぢや爰ぢや▲シテ「憎い奴かな、やい何故に姫を痛めた▲アト「痛めは致しませぬ、柔らかい{*9}美しいお手へ、私の荒くもしい手が触りましたによつて、あの様に仰せられまする▲シテ「今のでは知れぬ、も一勝負せい▲アト「今度はすね押しを致しませう▲シテ「是はよからう、姫又あれへ出てすね押しをしさい{*10}、とゝが見て居る、早うさしめ{二人足押しをする、乙負ける}▲乙「あれあれ太い足を押し込むに依つて耐えられませぬ▲シテ「なかしむな、叱つて{*11}遣らう、最前から姫を色々と痛め居る、何故尋常に勝負をせぬ▲アト「兎角柔らかなお身へ、私の不束な手足が触りまするに依つて御機嫌が損じまする、所詮今度は首引を致しませう▲シテ「是は尤ぢや、がそちが手足を美しう生れついたに依つて、彼奴が荒くもしい手足がきつう{*12}あたる、今度は首引をせうといふ程にさしめ▲乙「いや男を喰はいでも大事ない、首引をする事は嫌ぢや▲シテ「扨卑怯千万な、父が子と生れて、人を喰ふ事を嫌と言ふてなるものか、言ふ事をきかずば、つめつめするぞへ▲乙「それでもこはいもの{ト云て泣く}▲シテ「あゝこりやこりや、其様に泣くと虫が出る、涙を零すないやい、さあさああれへ行け、とゝがうしろから捉へていてやらう。{ト云て布の縄を持出し、二人の首へ懸させる}▲シテ「さあさあ尋常に首引をせい{えいやえいやと云つて曳く、乙負けになる、シテ後から手を懸ける、アト扇にてシテをはらふシテ退く又乙の負けになる時ひたもの始めの通りするなり}▲シテ「やいやい小鬼ども、眷属共、早う来い早う来い▲立衆「何事ぢや何事ぢや▲シテ「姫が首引をする、負になる程に加勢して引け引け▲衆「心得た、えいやえいや▲シテ「拍子にかゝつてひけひけ《ノル》{*13}えいさらさえいさらさ▲衆「得いさらさ得いさらさ▲シテ「姫が方がよはいは▲衆「えいさらさえいさらさ{ひ居て{*14}舞台も一遍廻る、アト橋懸へ行く、小鬼共舞台の中程の太鼓座の辺りへ来る時、縄を外づしアト入るなり、小鬼共将棋{*15}斃しに転る、後より皆々取つて噛まうと云つて追込み{*16}入るなり、但しシテ、姫を労はり後より入るもよし、但しアト縄外づす時えいやえいや段々云ふ、えいえい、をうと云ふて縄をはづすがよし}

校訂者注
 1:底本は、「手抦(てがら)」。
 2:底本は、「押付(おつゝけ)」。
 3:底本は、「ト云を」。
 4・7:底本は、「なゝいぞ(二字以上の繰り返し記号)」。
 5・11:底本は、「呵(しか)つて」。
 6:底本は、「己(おれ)」。
 8:底本は、「強(き)つう」。
 9:底本は、「柔(やわらか)い」。
 10:「すね押しをしさい」は、底本のまま。
 12:底本は、「強(きつ)う」。
 13:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
 14:底本は、「ひおつて」。
 15:底本は、「将碁斃し」。
 16:底本は、「追入み」。