鬼の継子(おにのまゝこ)(二番目)
▲女「越中の国・芦倉の里に、藤五三郎と申す者の、妻でござる。妾(わらは)が配偶(つれあひ)は、去歳(こぞ)の秋、お死にあつたによつて、それより、面白からぬ月日を送る事でござる。又、親里から呼びに参つた程に、まづ、あの方へ行かうと思ひまする。誠に、夫(をつと)に別れた時は、髪をおろし、様(さま)を変えようと存じてはござれども、この忘れ紀念(がたみ)に心が惹かれて、一日一日と延ぶる事でござる。これはいかな事。思ひの外、今日は日が晩じた。その上、人通りもなし。気味の悪い事ぢや。
▲シテ「人臭い、人臭い。これは、只ならぬ事ぢや。さればこそ。とつて噛まう、とつて噛まう。
▲女「なう、恐ろしや、恐ろしや。
▲シテ「やい。扨々、己は不敵な奴ぢや。この所は、七つ下がれども、人の行き通ひもないに、見れば、まだ年若な女ぢやに、只一人通る。定めて、いたづら者であらう。
▲女「いや、いたづら者ではござらぬ、命を助けて下されい。
▲シテ「まだぬかし居る。おのれ、たつたひと口に服(ぶく)せうと思へども、容儀も十人並ぢやによつて、不憫に思ふ。心静かに服する程に、さう心得。扨、おのれは何処(いづこ)の者ぢや。
▲女「妾は、越中の国・芦倉の里に、藤五三郎と申す者の妻でござる。
▲シテ「藤五三郎が妻か。これはいかな事。誰ぞと思うたれば、三郎が妻ぢやよなう。芦倉の藤五三郎は、去歳の秋死んだが、その後、外(ほか)の男を持たずに居るか。
▲女「そなたは、知つた様に云はつせあるが、藤五三郎を、どうして御存じでござるぞ。
▲シテ「不審、尤ぢや。藤五三郎は、娑婆の業が深いによつて、地獄へ落として、夜に三度、日に三度の責めを受くる。我々、この役として、朝夕手に掛くるによつて、よう知つて居る。
▲女「なうなう、哀しや。様々の仏事を為し、後(あと)を弔ひまするが、その甲斐もござらぬかいなう。扨、まづ、どのやうな責めに遭はれまするぞ。
▲シテ「以ての外、罪が深い。中にも、三郎が伯父の馬を盗んで来て、老馬の歯をもぎ、足より血を取つて、若馬に造りなし、白い所を墨で塗つて、他郷の市へ牽いて行(い)て売つた。この罪、甚だ軽からず。閻魔王の憤り強く、舌を抜かれ、臼ではたかれ、箕でひられ、暫時も安からぬ事ぢや。
▲女「扨も扨も、それは痛はしい事でござる。様々の弔ひも致せども、その甲斐もござらぬよなう。
▲シテ「重い罪ぢやによつて、中々届く事ではないぞいやい。
▲女「どうぞ、御前(おまへ)を頼みまする。閻魔様とやらへ取り合はせを仰せられて、三郎も極楽へやつて下され。
▲シテ「そちは、三郎に別れて、まだ男は持たぬか。
▲女「三郎は、幼な馴染みでござる。何の、外の男を持ちませう。
▲シテ「それは、奇特な事ぢや。しからば、身共が云ふ事を聞かうならば、三郎を極楽へやつてやらう。
▲女「三郎をだに、極楽へやつて下さるならば、何なりとも、云はせらるゝ事を聞きませう。
▲シテ「別の事でもない。こゝにほころびがあるが、縫うてくれぬか。
▲女「なうなう、恐ろしや、恐ろしや。鬼の妻に、ならるゝものかいやい、ならるゝものかいやい。
▲シテ「《笑》ほころびの事を云へば、妻の詮索を召さられて、ひとしほ、心が引かるゝ。この上は、何を隠さう。身共も、この年になるまで、一人身(ひとりみ)ぢや。近頃、云ひかねたが、どうぞ、身共が妻になつてくれさしめ。
▲女「不興(ぶつきよう)や、不興や。その様な事は、ならぬわいなう、ならぬわいなう。
▲シテ「嫌ならば、己、ひと口に、とつて噛まう、とつて噛まう。
▲女「まづ、待たせられい、待たせられい。こゝに、藤五三郎と妾との中に、忘れ筐(がたみ)がござる。これを可愛がつて下さるゝならば、どうもしませう。
▲シテ「忘れがたみとは、何の事ぢや。
▲女「これ、この様な子でござる。
▲シテ「扨々、重荷を持つてゐるなあ。どれどれ、見せい。
▲女「何と、美しい子でござるか。
▲シテ「これはどうやら、美味(うま)さうなものぢや。
▲女「なうなう、恐ろしや、恐ろしや。大事の子を、美味さうと云ふ事が、あるものでござるか。
▲シテ「その様なものは、喰ひごたへがあるまい。連れて行(い)ても、役に立たぬ程に、捨てゝ来い。
▲女「扨も扨も、胴欲な。この子故にこそ、面白からぬ月日をも送れ。この上は、妾ともに、いか様になるとても、そなたの妻になる事はなりませぬ。
▲シテ「もつけな事を云ふ。是非に及ばぬ。その子俱(とも)に、連れて来い。
▲女「必ず、胴欲にせずとも、そなたの真実の子ぢやと思うて、可愛がつて下されいや。
▲シテ「その段は、気遣ひせずとも、さあ、来さしめ。
▲女「扨、そなたの宿は、何処でござるぞ。
▲シテ「身共が宿は、地獄ぢや。
▲女「恐(こわ)や、恐(こわ)や。死んでさへ、地獄へは行きたうないに、生きながら地獄へ、何と、行かるゝものぞいの。
▲シテ「いや。聞けば、恐ろしけれども、地獄にも知辺(しるべ)。と云うて、住み馴れては、住み良い所ぢや。早う来さしめ。
▲女「その地獄へは、程が遠うござるか。
▲シテ「いや。程はないが、鬼の妻が、その様な生温(なまぬる)い体(てい)ではならぬ。身拵へをして、道を急がしめ。
▲女「それならば、身拵へをしませう。この子の守(もり)を、ちとして下され。
▲シテ「己(おれ)は、終に子守をした事がない。
▲女「妾が忙しい時には、子守もさせられねばなりませぬ。継子ぢやと思はずとも、真実の子ぢやと思うて、守をさせられい。
▲シテ「どれどれ。これは、いかう柔らかい、気味の悪いものぢやあ。これに付いて、思ひ出した事がある。この中(ぢゆう)、閻魔王の前へ、女の罪人が来た程に、何者かと問うたれば、娑婆で継子を憎んで、辛(つら)う当たつた科(とが)で、地獄へ落ちたと云ふ事ぢやが。継子と思へば、余り、可愛うないものぢや。
▲女「むさとした事を云はずとも、まづ、可愛がらせられい。
▲シテ「扨も扨も、子供は、正直なものぢや。とゝが顔を、恐(こわ)いとも思はず、ほやほや笑ふわ。
▲女「それを見さつせ。あれなら、可愛うなりませう。
▲シテ「これは、しほらしい事ぢや。
▲女「その子は、芸がござる。
▲シテ「何をする。
▲女「手打ち、手打ち。と云はつせあれ。
▲シテ「てうちとは、何の事ぢや。
▲女「まづ、さう云うて見さつせあれ。
▲シテ「さあさあ、てうちが見たいの。てうち、てうち、てうち。わあ。小さい手を出して、何やらするぞや。
▲女「それが、手打ちでござる。
▲シテ「扨々、幼気(いたいけ)な。まだ、何ぞないか。
▲女「塩の目をせい。と云はせられい。
▲シテ「さあ、塩の目、塩の目。あれ、目をしばしばする。塩の目、塩の目。《笑》
▲女「あゝ。あまり、大きい声をさせらるゝな。かいを作りまする。
▲シテ「わあ、わあ。ほえるぞよ。
▲女「賺(すか)さつせあれ、賺(すか)さつせあれ。
▲シテ「どりや、肩へ上へて、賺(すか)さう。《ノル》鬼の継子を肩に乗せて、御所へ参らう。れろれろれろや、ひよろゝん、ひよろゝん、ひよろゝんや。
▲女「それそれ、機嫌が直りまする。
▲シテ「やつと、ほえやんだ。扨も扨も、喧(かしま)しい。ちと、おろして休まう。
▲女「ちと、下に置かせられい。なうなう。それは、何をさつせある。
▲シテ「思へば思へば、美味さうな。ひと口に、ほゝばらう。
▲シテ「思へば思へば、美味さうな。ひと口に、ほゝばらう。
▲女「なう、悲しや。誰もないか。助けてくれいゝ。
▲シテ「とつて噛まう、とつて噛まう。
底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.)
鬼の継子(オニノマゝコ)(二番目)
▲女「越中の国芦倉の里に藤五三郎と申す者の妻で御座る。妾{*1}が配偶は去歳の秋、お死にあつたに依て、夫より面白からぬ月日を送る事で御座る。又親里から呼びに参た程に、先づあの方へ行かうと思ひまする、誠に夫に別れた時は髪をおろし様を替えやうと存じては御座れども、此忘れ紀念に心が惹かれて、一日一日と延る事で御座る、是は如何な事、思ひの外今日は日が晩じた、其上人通りもなし気味の悪い事ぢや▲シテ「人臭い人臭い、是は唯ならぬ事ぢや、去ればこそ執つて噛まう執つて噛まう▲女「なう恐ろしや恐ろしや▲シテ「やい、扨々己は不敵な奴ぢや、此所は七つ下れども、人の行通ひもないに、見ればまだ年若な女ぢやに唯一人通る、定めて徒ら者であらう▲女「いや悪戯者では御座らぬ命を助けて下されイ▲シテ「まだ{*2}ぬかし居る、おのれたつた一ト口にぶくせうと思へども、ようぎも十人並ぢやに依つて不憫{*3}に思ふ、心静かに服する程にさう心得、扨おのれは何処の者ぢや▲女「妾{*4}は越中の国芦倉の里に、藤五三郎と申す者の妻で御座る▲シテ「藤五三郎が妻か、是は如何な事、誰ぞと思ふたれば三郎が妻ぢやよのう、芦倉の藤五三郎は去歳の秋死んだが、其後外の男をもたずに居るか▲女「そなたは知つた様に言はつせあるが、藤五三郎をどうして御存で御座るぞ▲シテ「不審尤ぢや、藤五三郎は娑婆の業が深いに依つて、地獄へ落して夜に三度、日に三度の責を請る、我々この役として朝夕手に掛るに依て、よう知つて居る。▲女「なうなう哀しや、様々の仏事を為し跡を弔ひまするが、其甲斐も御座らぬかいのう、扨、先どのやうな責に逢はれまするぞ▲シテ「以ての外罪が深い。中にも三郎が伯父の馬を盗んできて、老馬の歯をもぎ足より血を取つて若馬に造りなし、白い所を墨で塗つて、他郷の市へ牽いていて売つた、此罪甚だ軽からず、閻魔王の憤り強く、舌を抜かれ臼ではたかれ箕でひられ、暫時も安からぬ事ぢや▲女「扨も扨も夫は痛はしい事で御座る、様々の弔ひも致せども、其甲斐も御座らぬよなう▲シテ「重い罪ぢやに依て中々届く事ではないぞいやい▲女「どうぞお前を頼まする、閻魔様とやらへ執合はせを仰せられて、三郎も極楽へやつて下され▲シテ「そちは三郎に別れてまだ男はもたぬか▲女「三郎は幼な馴染で御座る、何の外の男を持ちませう▲シテ「夫は奇特な事ぢや、然らば身共が云ふ事を聞うならば、三郎を極楽へやつてやらう▲女「三郎をだに極楽へやつて下さるならば、何なりとも言はせらるゝ事を聞きませう▲シテ「別の事でもない、爰にほころびが有るが、縫うて呉れぬか▲女「なうなう恐ろしや恐ろしや、鬼の妻にならるゝ物かいやい、ならるゝ物かいやい▲シテ「《笑》ほころびの事を言へば妻の詮索を召さられて一入心がひかるゝ、此上は何を隠さう、身共も此年になるまで独り身ぢや、近頃云ひ兼ねたが、どうぞ身どもが妻になつて呉さしめ▲女「不興や不興や、其様な事はならぬわいなうならぬわいなう▲シテ「いやならば己れ一ト口に執つてかまう執つてかまう▲女「先づまたせられいまたせられい、爰に藤五三郎と妾{*5}との中に忘れ筐が御座る、是を可愛がつて下さるゝならばどうもしませう▲シテ「忘れがたみとは何の事ぢや▲女「是、此様な子で御座る▲シテ「扨々重荷を持てゐるなあ、どれどれ見せい▲女「何と美しひ子で御座るか{*6}▲シテ「是はどうやら美味さうな物ぢや▲女「なうなう恐ろしや恐ろしや、大事の子を美味さうと云ふ事があるもので御座るか▲シテ「其様な物は喰ひごたへ{*7}があるまい、連れていても役に立たぬ程に捨てゝ来い▲女「扨も扨も胴欲な、此子故にこそ面白からぬ月日をもおくれ、此上は妾{*8}共に如何様になるとても、そなたの妻になる事はなりませぬ▲シテ「もつけ{*9}な事を言ふ。是非に及ばぬ、其子俱に連れて来い▲女「必ず胴欲にせずともそなたの真実の子ぢやと思うて可愛がつて下されいや▲シテ「其段は気遣せずともさあ来さしめ▲女「扨そなたの宿は何処で御座るぞ▲シテ「身共が宿は地獄ぢや▲女「恐わや恐わや死んでさえ地獄へは行きたうないに、生きながら地獄へ何と行かるゝ物ぞいの▲シテ「いやきけば恐ろしけれども、地獄にも知るべと云うて、住み馴れては住よい所ぢや早う来さしめ▲女「其地獄へは程が{*10}遠う御座るか▲シテ「いや程はないが、鬼の妻が其様な生温るい体ではならぬ、身拵をして道を急がしめ▲女「夫ならば身拵をしませう此子の守をちとして下され▲シテ「己は終に子守をした事がない▲女「妾{*11}が忙しい時には子守もさせられねばなりませぬ、継子ぢやと思はずとも、真実の子ぢやと思うて守をさせられい▲シテ「どれどれ是はいかう柔い気味の悪い物ぢやア、是に付て思ひ出た事がある、この中、閻魔王の前へ女の罪人が来た程に、何者かと問ふたれば、娑婆で継子を憎んで辛う当つた科で地獄へ落ちたと云ふ事ぢやが、継子と思へば余り可愛うない物ぢや▲女「むさとした事を言はずとも、先づ可愛がらせられい▲シテ「扨も扨も子供は正直な物ぢや、とゝが顔を恐いとも思はず、ほやほや笑ふわ▲女「夫を見さつせあれなら可愛う成りませう▲シテ「是はしほらしい事ぢや▲女「其子は芸が御座る▲シテ「何をする▲女「てうちてうちと言はつせあれ▲シテ「てうちとは何の事ぢや▲女「先づさう言うて見さつせあれ▲シテ「さあさあてうちが見たいの、てうちてうちてうち、わあ小さい{*12}手を出して何やらするぞや▲女「夫がてうちで御座る▲シテ「扨々いたいけな{*13}、まだ何ぞないか▲女「塩の目をせいと言はせられい▲シテ「さあ塩の目塩の目、あれ目をしばしばする、塩の目塩の目《笑》▲女「あゝあまり大きい声をさせらるゝな。かいを作りまする▲シテ「わあわあほえるぞよ▲女「すかさつせあれすかさつせあれ▲シテ「どりや{*14}かたへ上てすかそう、《ノル》鬼の継子をかたに乗せて御所へ参らう、れろれろれろやひよろろんひよろろんひよろろんや▲女「夫々機嫌がなほりまする▲シテ「漸つとほえやんだ、扨も扨もかしましい、ちとおろして休まう▲女「ちと下におかせられい{*15}なうなう夫は何をさつせある▲シテ「思へば思へば美味さうな、一ト口にほうばらう▲女「なう悲しや誰もないか、助けてくれいイ▲シテ「とつてかまうとつてかまう。
校訂者注
1・4・5・8・11:底本は、「童(わらは)」。
2:底本は、「未(まだ)」。
3:底本は、「不便(ふびん)」。
6:「何と美しひ子で御座るか」は、底本のまま。
7:底本は、「喰ひこたへ」。
9:底本は、「僥倖(もつけ)」。
10:底本は、「程か」。
12:底本は、「少(ちひ)さい」。
13:底本は、「痛いげな」。
14:底本は、「どりり」。
15:底本、ここに「▲女「」がある(略す)。
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