節分(せつぶん)(二番目)
▲女「妾(わらは)は、この家の主(あるじ)でござる。これの子は、出雲の大社へ、年を取りに参られてござる。妾ばかり、内祝ひをせうと思ひまする。
▲シテ「《次第。打切》{*1}節分の夜にもなりたり、節分の夜にもなりたり。いざ、豆拾うて噛まうよ。
《詞》これは、蓬莱の島の鬼でござる。いつも節分の夜は、日本へ渡る。当年も、相変らず日本へ渡り、豆を拾うて噛まばやと存じ候ふ。
《道行。シヤ》{*2}蓬莱の島をばあとに見なしつゝ、(打切)島をばあとに見なしつゝ、行末とへば白雲の、行末とへば白雲の、(打切)足に任せて行く程に、足に任せて行く程に、日本の地にも着きにけり。
急ぐ程に、日本の地に着いた。あゝ、草臥(くたび)れやの、草臥れやの。ちと、軒へなりとも立ち寄つて、休みたいものぢやが。あれに、灯(ひ)の光が見ゆる。まづ、内の体(てい)を見よう。あ痛、あ痛。扨も扨も、痛やの、痛やの。今、思ひ出した。何時(いつ)も節分の夜は、門々に柊を差いて置くといふ事を、はたと忘れて、したゝか目を突いた。扨も扨も、痛い事かな。
{*3}あまりに日本の恋しさに、窓より内を覗けば、柊を差いて、目を突いた。あら、目ひらゝぎや{*4}。
《詞》このやうな物は、かう、かち落として置いたが良い。まづ、案内を乞はう。
{と云ひて、案内乞ふ。女、常の如し。}
▲女「表に案内がある。案内とは誰(た)そ。ざらざら。これは、誰もないものを。ざらざら。
{と云ひて、戸を挿す体(てい)をして、又、座に着いて居るなり。}
▲シテ「これはいかな事。たつた今、女が出たが、身共が鼻の先に居るに、誰もないものを。と云うて入つたは、どうした事ぢや。はあ。隠れ蓑に隠れ笠を着て居るによつて、見付けぬ筈ぢや。これは尤ぢや。まづ、蓑笠を取らう。
{と云つて、大鼓座より蓑・笠取つて出で、又、案内乞ふ。}
物も、案内も。
▲女「又、表に案内がある。案内とは誰(た)そ。ざらざらざら。なう、恐ろしや。鬼が来た。あちへ往(い)け、あちへ往け。
▲シテ「あゝ、これこれ。そなたはいかう恐ろしがるが、何ぞ、恐い物でもあるか。
▲女「鬼が恐(こは)うなうて、何が恐からう。あちへ往け、あちへ往けいやい。
▲シテ「それならば、安堵した。身共は又、何ぞ外に恐い物でもあるかと思うて、よい肝を潰した。いや、なう。身共は、蓬莱の島の鬼といふ者で、恐(こは)い者でも、恐ろしい者でもをりないぞ。
▲女「なう、恐ろしや。あちへ往け、あちへ往きをれいやい。
▲シテ「それほど恐くば、往(い)にもせうが、遥々(はるばる)来たれば、いかう徒然(とぜん)な。何ぞ、喰ふ物があるか、おくれあれ。
▲女「喰ふ物を遣つたらば、往(い)ぬるか。
▲シテ「まあ、おくれあいの。
▲女「そりあ。
▲シテ「どりあ。これは、何ぢや。
▲女「三宝のおふくろの荒麦ぢや。
▲シテ「何ぢや。荒麦ぢや。
▲女「中々。
▲シテ「《イロ》鬼の心は荒麦の、鬼の心は荒麦の、喰ふ物とは知つたれど、調(てう)する術(すべ)を知らばこそ。てんざいのかはにせい。
▲女「えゝ。あの罰当り奴(め)が、しをる事わいやい。
▲シテ「おのれ、その様に云はゞ、猶、かうかき廻いて置かうまでよ。
▲女「その根性ぢやによつて、鬼になり居るわい、やいやい。
▲シテ「いや、なう。見れば、そなたは容儀も良いが、何と、この内に一人居るか、二人居るか。
▲女「一人居ようと、二人居ようと、構うてのやうは。
▲シテ「《イロ》それが、ちと構ひたい。といふ事ぢや。
▲女「なう、恐ろしや。あちへ行け、あちへ行けいやい。
▲シテ「{*5}あら、美しの女房や。
{返し無しにも}
あら、美しの女房や。漢の李夫人・楊貴妃・小野の小町は、見ねば知らず。これ程美しい女房は、世にも、やはかあらん。あら、ほそたへがたや。
いや、なう。こゝに、綻びがあるが、縫うておくりやるまいか。
▲女「鬼の妻に、何と、ならるゝものぢや。あちへ往け、あちへ往けいやい。
▲シテ「《笑》綻びの事を云へば、妻の詮索を召されて、ひとしほ心が引かるゝ。こゝに、蓬莱の島に流行(はや)る、面白い小唄があるが、謡うて聞かせうか。
▲女「いゝや、聞きたうない。
▲シテ「はて、まあ、お聞きやいなう。
{*6}あの島先に、折あればこそ、御手をかくれ。当たらぬその矢先に、御手をかくるでもなし。あら、お苛々(いらいら)しや。お軽忽(きやうこつ)やの。
何と、面白いか。
▲女「いゝや、面白うない。
▲シテ「もそつと謡はう。
《下》{*7}津の国の中島に、中津河原をせきかねて、土持ちが持ちかねて、しい持ちもせで、畚(もこ)の畚(もこ)の、その下にこそ、千鳥足を踏め。
えいやらさらとこ、えいやらさらとこ、えいと、やつと、えいやさ。《イロ》余りの徒然に、余りの徒然に、かどに瓢箪吊るいて、折節風が吹いて来て、あなたへちやつきりひよ。こなたへちやつきりひよ。ひよひよらひよひよ。
{三つ、拍子を踏む。}
{*8}ひようたん吊るいて、面白やの。
いや、なう。近頃云ひかねたが、この杖の先を、ちと舐(ねぶ)つておくりやるまいか。
▲女「その様な事が、なるものか。あちへ往け、あちへ往けいやい。
▲シテ「もそつと謡はう。
{*9}忍ぶその夜の、太刀は鍔広し、大長刀は仰々しい、槍は柄長しや、弓靭は犬が吠え候ふ、竹杖はお忌々しや、棒撮棒(さいぼう)がな突いて行かう。もがりはね越えて、何ぼう先の良い夜、さきの夜、忍ぶ小切戸が、きりゝとなる程に、誰よと思うて走り出でて見たれば、北風の山颪(やまおろし)めが吹き来て、妻戸に当たりた。おやしや、わごりよと思うたりや。憂しや偏無(へんな){*10}や。なう、風ぢやもの。しめしめと降る夜も、西が霽(は)るれば熄(や)むものを、何とてか、家恋の、霽れやる事のなかるろ。
{泣くなり。}
扨も扨も、そなたは胴欲な人ぢや。最前から、とつおいつ口説けども、承引召されぬ。扨も扨も、心強い人ぢやなう。
{と云つて、泣くなり。}
▲女「これはいかな事。あの鬼は、誠、妾を思ひ入れたが、定(ぢやう)さうな。蓬莱の島には、数の{*11}宝があると申す。騙して、この方へ取らうと思ひまする。
{*12}いかにやいかに、鬼殿よ。誠、妾を思ひなば、宝を我にたび給へ。
▲シテ「《笑》そなたも、欲の道はよう知つたなう。
{*13}安き間の御所望なり、安き間の御所望なり。さらば、宝を参らせん。
蓬莱の島なる、蓬莱の島なる、己(おれ)が持つ宝は、隠れ蓑に隠れ笠、打出の小槌。諸行無量常、諸行無量常。くわつしこくに、くわつと添へて、とらするぞ。
▲女「これさへ取れば、心安い。
▲シテ「これで、ざつと埒があいた。これからは、これの亭主ぢや。これへ寄つて、腰を打つておくれあれ。草臥れやの、草臥れやの。
▲女「やうやう、豆を囃す時分でござる。
{*14}節分の豆を取り出し。
《詞》福は内、福は内。鬼は外、鬼は外。
▲シテ「はあ、はあ。
{と云ひて、逃げて入る。女、追ひ込み入る。}
校訂者注
1:底本、ここから「いざ豆拾うてかまうよ」まで、傍点がある。
2:底本、ここから「日本の地にも着きにけり」まで、傍点がある。但し、途中一か所、二字以上の繰り返し記号に傍点がなく、(打切)に傍点がある。
3:底本、ここから「あら、目ひらゝきや」まで、傍点がある。
4:「ひららく」は、「ひりひりと痛む」の意。「ひららき」は、「ひらぎ(柊)」の洒落か。
5:底本、ここから「あら、ほそたへがたや」まで、傍点がある。
6:底本、ここから「おきやうこつやの」まで、傍点がある。
7:底本、ここから「その下にこそ千鳥足を踏(め)」まで、傍点がある(末尾の「め」には傍点がないが、ある筈の所である)。
8:底本、「ひようたん吊るいて面白やの」に、傍点がある。なお、この瓢箪の小唄は、黒澤明「乱」(1985)において、道化の狂阿弥(ピーター)により、ほぼそのままの形で演じられている。
9:底本、ここから「霽れやる事のながるろ」まで、傍点がある。
10:「偏無(へんな)し」は、「つまらない。甲斐がない」の意。
11:「数の」は、「多くの」の意。
12:底本、ここから「宝を我にたび給へ」まで、傍点がある。
13:底本、ここから「さらば宝を参らせん」まで、傍点がある。
14:底本、「節分の豆を取出し」に、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.)
節分(セツブン)(二番目)
▲女「妾{*1}は此家の主で御座る。是の子は出雲の大社へ年を取りに参られて御座る、妾{*2}ばかり内祝ひをせうとおもひまする▲シテ「《次第。打切》節分の夜にもなりたり節分の夜にもなりたり、いざ豆拾うてかまうよ《詞》是は蓬莱の島の鬼で御座る。いつも節分の夜は日本へ渡る、当年も相変らず日本へ渡り、豆を拾うて噛まばやと存候《道行。シヤ》蓬莱の島をばあとに見なしつゝ(打切)島をばあとに見なしつゝ行末とへば白雲の。行末とへば白雲の(打切)足に任せて行く程に。足に任せて行く程に日本の地にも着きにけり。急ぐ程に、日本の地に着いた。あゝ草臥やの草臥やの、ちと軒へなりとも立寄つて休みたい物ぢやが、あれに灯の光りが見ゆる、先づ内の体を見やう。あいたあいた。扨も扨も、痛やの痛やの、今思出した。何時も節分の夜は門々に柊を差いて置くと言ふ事を、はたと忘れて、確か目を突いた。扨も扨も痛い事かな。あまりに日本の恋しさに、窓より内を覗けば、柊を挿いて目をついた。あら、目ひらゝきや。《詞》此やうな物はかうかち落しておいたがよい。先づ案内を乞ふ{と云ひて案内乞女如常}▲女「表に案内がある、案内とは、たそ、ざらざら、是は誰もない物を、ざらざら{と云ひて戸を挿す体をして亦座に着いて居るなり}▲シテ「是は如何な事、たつた今女が出たが、身共が鼻の先に居るに、誰もない物をと言うて這入つたはどうした事ぢや、はあ隠れ蓑に隠れ笠を着て居るに依つて見付けぬ筈ぢや。是は尤ぢや、先づ蓑笠を取らう{と云つて大鼓座より蓑笠取つて出で亦案内乞ふ}{*3}物も案内も▲女「又表に案内がある案内とはたそ、ざらざらざら、なう恐ろしや鬼が来た、あちへ往けあちへ往け▲シテ「あゝこれこれ、そなたはいかう恐ろしがるが、何ぞ恐い物でもあるか▲女「鬼がこはうなうて何が恐からう。あちへ往けあちへ往けいやい▲シテ「それならば安堵した、身共は又何んぞ外に恐い物でもあるかと思ふて好い肝を潰した。いやのう、身共は蓬莱の島の鬼といふ者で恐い者でも恐ろしい者でもをりないぞ▲女「なう恐ろしやあちへ往け、あちへ往きをれいやい▲シテ「それほど恐くばいにもせうが、遥々来たればいかう徒然な、何んぞ喰ふ物が有るかおくれあれ▲女「喰ふ物を遣つたらばいぬるか▲シテ「まあお呉れあいの{*4}▲女「そりあ▲シテ「どりあ、是は何ぢや▲女「三宝のおふくろの荒麦ぢや▲シテ「何ぢや荒麦ぢや▲女「中々▲シテ「《イロ》鬼の心は荒麦の鬼の心は荒麦の、喰ふ物とは知つたれど、てうする術{*5}を知らばこそ、てんざいのかはにせい▲女「えゝ、あの罰当り奴がしをる事はいやい▲シテ「おのれ其様に言はゞ、猶斯うかきまはいて置かう迄よ▲女「其根性ぢやに依て鬼になり居るはいやいやい▲シテ「いやのう、見ればそなたは容儀もよいが、何と此内に一人居るか二人居るか▲女「独り居ようと二人居ようとかまうてのようは▲シテ「《イロ》それがちとかまいたいと言ふ事ぢや▲女「のう恐ろしやあちへ行けあちへ行けいやい▲シテ「あら美しの女房やあら美しの女房や{返シ無シニモ{*6}}かんの李夫人、楊貴妃、小野の小町は見ねばしらず。是程美しい女房は、世にもやはかあらん。あら、ほそたへがたや、いやなう、爰にほころびがあるが、縫うておくりやるまいか▲女「鬼の妻に何とならるゝ物ぢや、あちへ往けあちへ往けいやい▲シテ「《笑》綻びの事を言へば、妻の詮索を召されて一入心が引かるゝ。爰に蓬莱の島に流行る面白い小唄があるが謡うて聞かせうか▲女「いゝや聞きたうない▲シテ「はてまあおきゝやいのう。あの島さきにおりあればこそ、お手をかくれあたらぬ其矢先に、お手をかくるでもなし。あら、おいらいらしや、おきやうこつやの、何と面白いか▲女「いゝや{*7}面白うない▲シテ「最そつと謡はう《下》津の国の中島に中津河原をせきかねて土持ちが持ち兼ねてしい持ちもせで。もこのもこのその下にこそ千鳥足を踏め、得いやらさらとこ得いやらさらとこ、えいとやつとえいやさ《イロ》余りの徒然に余りの徒然に、かどに瓢箪吊るいて{*8}、折節風が吹いてきて、あなたへちやつきりひよ、こなたへちやつきりひよ、ひよひよらひよひよ{三つ拍子を踏む}ひようたん吊るいて{*9}面白やの、いやのう、近頃言ひ兼ねたが、此杖の先をちと舐つて{*10}おくりやるまいか▲女「其様な事がなる者か、あちへ往けあちへ往けいやい▲シテ「最そつと謡はう、忍ぶ其夜の、太刀は鍔広し大長刀は仰々しい。槍は柄ながしや、弓靭は犬が吠え候竹杖はおいまいましや棒さい棒がなついて行う、もがりはねこえて、なんぼうさきのよいよさきの夜、忍ぶ小切戸が、きりゝとなる程に誰よと思ふて走り出でて見たれば、北風の山颪しめが吹来て、妻戸に当りた、おやしやわごりよと思ふたりや、うしやへんなやな、う風ぢや物、しめしめと降る夜も、西が霽るれば熄むものを、何とてか家恋の、霽れやる事のなかるろ{*11}{泣クナリ}扨も扨もそなたは胴欲な人ぢや、最前からとつおいつ口説けども承引召されぬ、扨も扨も心強い人ぢやなう{ト云テ泣ナリ}▲女「是は如何な事、あの鬼は誠、妾{*12}を思ひ入れたが定{*13}さうな、蓬莱の島には数の宝があると申す、だまして此方へ取らうと思ひまする、如何にや如何に鬼殿よ、誠妾{*14}を思ひなば宝を我にたび給へ▲シテ「《笑》そなたも欲の道はよう知つたなう、安き間の御所望なり、安き間の御所望なり。さらば宝を参らせん蓬莱の島なる蓬莱の島なる、己が持つ宝は隠れ蓑に隠れ笠、打出の小槌{*15}、諸行無量常諸行無量常、くわつしこくにくわつと添えてとらするぞ▲女「是さへ取れば心易い▲シテ「是れでざつと埒があいた、是からは是の亭主ぢや、是へよつて腰を打つておくれあれ、草臥れ{*16}やの草臥れやの▲女「ようよう豆をはやす時分で御座る。節分の豆を取出し《詞》福は内福は内、鬼は外鬼は外▲シテ「ハアハア{ト云ヒテ逃テ{*17}入ル、女追込ミ入ル{*18}}
校訂者注
1・2・12・14:底本は、「童(わらは)」。
3:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
4:「お呉れあいの」は、底本のまま。
5:底本は、「業(すべ)」。
6:底本は、「あら美しの女房や{返シ無シニモ(二字以上の繰り返し記号)}」。
7:底本は、「否ゝや」。
8・9:底本は、「吊るいで」。
10:底本は、「甜(ねぶ)つて」。
11:底本は、「ながるろ」。
13:底本は、「誠(じやう)」。
15:底本は、「小鎚」。
16:底本は、「疲(くたびれ)れやの(二字以上の繰り返し記号)」。
17:底本は、「追テ」。
18:底本は、「女追込ミ入レル」。
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