馬口労(ばくらう)(二番目 三番目)

{鬼、次第にて出で名乗る。道行、「朝比奈」の通り。六道の辻に着いて、笛の座に入るなり。}
▲シテ「《次第》《上》{*1}人を誑(たら)さぬ馬口労の、人を誑(たら)さぬ馬口労の、冥土の道の徒然さよ。
《詞》これは、娑婆に隠れもない、馬口労でござる。寿命の程も定まりぬるか、無常の風に誘はれ、只今、冥土に赴く。冥土には、六道と云うて、六つの道がある。これで、必ず迷ふと申す。迷はぬやうに、そろりそろりと参らう。
▲アト「むゝ。人臭い、人臭い。殊の外、人臭うなつた。定めて、罪人が来たものであらう。さればこそ、罪人ぢや。とつて噛まう、とつて噛まう。
{と云ひて、追ひ廻す。シテ、恐がり、脇座へ行く。}
やい。おのれは、娑婆で何者であつた。
▲シテ「私は、馬口労でござる。
▲アト「扨こそ、おのれは大悪人ぢや。やがて服(ぶく)する程に、さう心得い。
▲シテ「いや、悪人ではござらぬ。極楽へ遣つて下され。
▲アト「まだそのつれを云ふ。おれが良う知つて居る。己こそ、大悪人なれ。まづ、老馬の歯を捥(も)いで、若馬と見せて人を誑(たぶら)かし、或いは又、筋を絶つて血を取り、焼鉄(やきがね)を当てつ打(う)つ叩いつするこの咎(とが)、夥(おびたゞ)しい事ではないか。
▲シテ「いや。それは皆、馬の養生にこそ致せ、これが、科(とが)になりさうな事ではござらぬ。
▲アト「やい。養生といふものは、病(やまひ)があらば、薬を飲ませ、痛む所は撫でつさすりつするこそ、養生なれ。歯を捥(も)いだり、血を絞るが養生か、養生か。
{と云ひて、強く杖にて打つ。}
扨々、憎い奴の。たつた一口にとつて噛まうと思へども、おのれ程の罪人を、その儘に服するは、惜しい事ぢや。地獄へ責め落とし、苦を見せて、その後、服せう。扨、まづ、おのれを剣(つるぎ)の山へ責め上(のぼ)さうか。但し又、舌を抜かうか、臼ではたかうか、箕でひようか、何とせうぞ。とかく云ふ内に、時刻が移る。《イロ》いかに、罪人。地獄、遠きにあらず。極楽、遥かなれ。急げとこそ。
{責めあつて、「急げ、急げ」と云ふ。シテ、よろよろ行く。「それよ、それよ」と云ひて、竹馬に乗り、橋懸りより、「こちへ、こちへ」と招く。シテ、舞台先へ出る。鬼、追ひ詰めて打つなり。口伝。}
思ひ知つたか、思ひ知つたか。
▲シテ「お許されませ、お許されませ。
▲アト「やい。最前から、何やら、ぐわらりぐわらりと鳴る物を持つて居る。それは何ぢや。
▲シテ「これは、轡でござる。
▲アト「轡とは、何の事ぢや。
▲シテ「轡と申して、これを馬に食(は)ませますれば、何程、口の強(こは)い馬{*2}でも、疳(かん)の強い馬でも、乗り鎮めまする馬具でござる。
▲アト「すれば、その轡を掛けたらば、乗りつけぬ者が乗つても、落ちぬか。
▲シテ「いや。少しも気遣ひな事はござらぬ。馬を、きつくりともさせませぬ。
▲アト「それは、調法な事ぢや。身共も、ちと馬の稽古がしたい。汝、教へてくれい。
▲シテ「御前(おまへ)は、馬を稽古なされて、何になされまする。
▲アト「されば、毎日、死出の山・剣の山へ登るに、辛労な。その外、三途の河に大水の出た時分などは、馬上で行きたい。それ故、馬を稽古せうと云ふ事ぢや。
▲シテ「成程、教へませうが、さりながら、まづ始めの間は、御前、馬におなりなされて、轡・手綱の様子、鞍・鐙の加減をも、良うお覚えなされねばならぬ事でござる。
▲アト「尤な事ぢや。成程、馬にならうが、誰が乗る事ぢや。
▲シテ「私が乗りまする。
▲アト「推参千万な。身共に乗つたらば、暫時も乗せては置くまい。落としてやらうぞ。
▲シテ「いかないかな。この轡を掛けましてからは、きつくりとも動かせませぬ。
▲アト「それならば、さあさあ、乗つて見せい。
▲シテ「しからば、轡を掛けませう。これへ御出なされませ。
▲アト「心得た。
{二人、笛座へ行き、鬼、壺折脱ぎ、轡を繋ぎつける内、しかじか。}
▲シテ「扨々、不思議な所で御目に掛かりました。まづ、御前は何と申す御方でござる。
▲アト「身共は、地獄の主人(あるじ)、閻魔大王ぢや。
▲シテ「娑婆で承りましたは、閻魔王と申すは、玉の冠を召され、石の帯をし、金銀をちりばめ、辺り輝く御様子。と承つてござる。御前の御姿は、格別でござる。
▲アト「扨々、面目ない事ぢや。成程、そちが云ふ通りの筈なれども、今は、娑婆の人間が賢うなつて、後生を願うて極楽へばかり行くによつて、地獄の飢饉、以ての外ぢや。さるによつて、玉の冠も石の帯も、皆紛失して、やうやうかやうの姿で、自身、六道の辻へ出で、罪人を責むる事ぢや。
▲シテ「扨々、それは、御苦労をなされまする。さらば、轡をかけましてござる。
▲アト「良くば、乗れ、乗れ。
▲シテ「さらば、乗りまするぞ。
{アト、かくて跳ね落とさんとするなり。}
▲シテ「どうどう。扨、これは、地(ぢ)といふ事を乗りまする。轡・手綱の加減を、良うお覚えなされませ。
▲アト「これは、いかう窮屈なものぢや。
▲シテ「はい、はい、はい。
{と云ひて、一遍廻りて、}
《乗》{*3}いでいで、さらば、鬼に乗り。
▲地「いでいで、さらば鬼に乗り、秘術を顕はし見せ申さんと、昔も今もなき事なれば、鞭や手綱・腰・鐙の、大事はこゝぞ。跳ね馬・立つ馬、来む時の大事を残さず乗らんと思ひつく。手綱を引きつめ、鐙を強く、鞭を振り上げ、前(さき)の苛責の無念を散ぜんと、したゝかにこそは、打つたりけれ。
▲アト「あゝ痛、あゝ痛。これは、かつて面白うないものぢや。置け、置け。
▲シテ「最前、身共を色々と責めたが、良いか。これが良いか、これが良いか。
▲アト「まづ、待て待て。馬の稽古を熄(や)めにせう。早うおりてくれい。
▲シテ「それならば、極楽へ導きをせい。
▲アト「勝ちに乗つて、様々の事を云ふ。己が行きたい所へ行かうまでよ。
▲シテ「己、導きをせまいか、せまいか。
{と云ひて、叩く。}
▲アト「あ痛、あ痛。まづ、待て待て。扨々、閻魔当たりの強い奴ぢや。是非に及ばぬ。教へてやらう。あれ、左に見ゆるが極楽、右に見えたは地獄ぢや。同じくは、右の方へ行(い)てくれい。
▲シテ「{*4}只今左に見ゆるこそ、只今左に見ゆるこそ、浄土の道なれ。こゝを行き過ぎ、地獄へ行つては叶ふまじと、左の手綱を強く引きつめ、右の手綱を差しくつろげて、小耳の間(あい)を丁々と打ちければ、只ひと馬場{*5}に浄土へ駆け入り、鬼をも誑(たら)す馬口労の、鬼をも誑(たら)す馬口労の手立て、恐れぬ閻魔はなかりけれ。

校訂者注
 1:底本、ここから「冥土の道の徒然さよ」まで、傍点がある。
 2:「口が強(つよ/こわ)い馬」は、「性質が荒く扱いにくい馬」の意。
 3:底本、ここから「確にこそに打つたりけれ」まで、傍点がある。
 4:底本、ここから最後まで、全て傍点がある。
 5:「ひと馬場」は、「馬に乗り一気に目的地まで駆け通す」意。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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馬口労(バクラウ)(二番目 三番目)

{鬼次第にて出で名乗、道行朝比奈の通り六道の辻に就て笛の座に入るなり}▲シテ「《次第》《上》人をたらさぬ馬口労の、人をたらさぬ馬口労の冥土の道の徒然さよ《詞》是は娑婆に隠れもない馬口労で御座る、寿命の程も定りぬるか、無常の風に誘はれ{*1}唯今冥土に赴く。冥土には六道と言うて六つの道がある、是で必ず迷ふと申す、迷はぬやうにそろりそろりと参らう▲アト「むゝ人臭ひ、人臭ひ、殊の外人臭うなつた、定めて罪人が来たものであらう、さればこそ罪人ぢや、捕つて噛まう捕つて噛まう{ト云ひて追廻す、シテ恐がり脇座へ行く}{*2}やいおのれは娑婆で何者であつた▲シテ「私は馬口労で御座る▲アト「扨こそおのれは大悪人ぢや、頓て服する程にそう心得い▲シテ「いや悪人では御座らぬ、極楽へ遣つて下され▲アト「まだそのつれをいふ、おれがよう知つて居る。己{*3}こそ大悪人なれ、先づ老馬の歯をもいで若馬と見せて人を誑かし、あるひは又筋を絶つて血を取り、焼鉄をあてつ打つたゝいつする此咎、夥多しい事ではないか▲シテ「いや夫は皆馬の養生にこそ致せ、是が科になりさうな事では御座らぬ▲アト「やい養生といふものは、病があらば、薬を飲ませ、痛む所は撫でつ、さすりつするこそ養生なれ、歯を捥いだり{*4}、血を絞るが養生か養生か{ト云ひて強く杖にて打つ}{*5}扨扨憎い奴の、たつた一口に取つて噛まうと思へども、おのれ程の罪人を其儘に服するは惜しい事ぢや、地獄へ責め落し苦を見せて、其後服せう、扨先づおのれを剣の山へ責め上さうか、但し又舌を抜うか、臼ではたかうか、箕でひやうか、何とせうぞ。兎角言ふ内に時刻が移る《イロ》如何に罪人、地獄遠きにあらず、極楽はるかなれ、急げとこそ{責あつて急げ急げと云ふ、シテよろよろ行く、それよそれよと云ひて竹馬に乗り橋懸よりこちへこちへと招く。シテ舞台先へ出る。鬼追詰めて打つなり。口伝。}{*6}思ひ知つたか、思ひ知つたか▲シテ「御宥るされませ、御宥るされませ▲アト「やい最前から何やらぐわらりぐわらりとなる物を持つて居る、夫は何ぢや▲シテ「是は轡で御座る▲アト「轡とは何の事ぢや▲シテ「轡と申して是を馬にはませますれば、何程口の恐い馬でも、かんの強い馬でも乗り鎮めまする馬具で御座る▲アト「すれば其轡を掛たらば、乗りつけぬ者が乗つても落ちぬか▲シテ「いや少しも気遣ひな事は御座らぬ、馬をきつくりともさせませぬ▲アト「それは調法な事ぢや、身共もちと馬の稽古がしたい、汝教へて呉れい▲シテ「お前は馬を稽古なされて何になされまする▲アト「されば毎日死出の山、剣の山へ登るに辛労な、其外三途の河に大水の出た時分などは馬上で行きたい、夫故、馬を稽古せうと言ふ事ぢや▲シテ「成程教へませうが、さりながら、先づ始の間はお前馬におなりなされて、轡手綱の様子、鞍、鐙の加減をもようお覚なされねばならぬ事で御座る▲アト「尤な事ぢや、成程馬にならうが、誰が乗る事ぢや▲シテ「私が乗りまする▲アト「推参千万な、身共に乗つたらば暫時{*7}も乗せてはおくまい{*8}、おとしてやらうぞ▲シテ「いかないかな此轡を掛けましてからは、きつくりとも動かせませぬ▲アト「それならばさあさあ乗つて見せい▲シテ「然らば轡を掛けませう、是へお出でなされませ▲アト「心得た{二人笛座へ行き鬼壺折脱ぎ轡を繋ぎつける内しかじか{*9}}▲シテ「扨々不思議な所でお目に掛りました。先お前は何と申すお方で御座る▲アト「身共は地獄の主人、閻魔大王ぢや▲シテ「娑婆で承りましたは閻魔王と申すは、玉の冠を召され石の帯をし、金銀の{*10}鏤、辺輝く御様子と承つて御座る、お前のお姿は格別で御座る▲アト「扨々面目ない事ぢや、成程そちが言ふ通りの筈なれども、今は娑婆の人間が賢うなつて、後生を願うて極楽へばかり行くに依つて、地獄の飢饉以ての外ぢや、去るに依つて玉の冠も石の帯も皆紛失して、やうやう斯様の姿で、自身六道の辻へ出で、罪人を責むる事ぢや▲シテ「扨々それは御苦労をなされまする、さらば轡をかけまして御座る▲アト「よくば乗れ乗れ▲シテ「さらば乗りまするぞ{アト斯くて跳ね落さんとする也}▲シテ「どうどう、扨是は地と言う事をのりまする、轡、手綱の加減をようお覚えなされませ▲アト「是はいかう窮窟な物ぢや▲シテ「はいはいはい{ト云ひて一遍廻りて}{*11}《乗》いでいでさらば鬼にのり▲地「いでいでさらば鬼に乗り、秘術を顕はし見せ申さんと、昔も今もなき事なれば、鞭や手綱腰鐙の、大事は爰ぞ跳ね馬、たつ馬、こむ時の大事を残さず乗らん{*12}と思ひつく、手綱を引きつめ鐙を強く、鞭を振上げさきの苛責の無念を散ぜんと、したゝかにこそは{*13}打つたりけれ▲アト「あゝ痛たあゝ痛た、是は曽て面白うない物ぢやおけおけ▲シテ「最前身共を色々と責めたがよいか是がよいか是がよいか▲アト「先づ待て待て、馬の稽古を熄めにせう早うおりてくれい▲シテ「それならば極楽へ道引をせい▲アト「勝に乗つて様々の事を言ふ、己{*14}が行きたい所へ行かう迄よ▲シテ「己{*15}、道引をせまいかせまいか{ト云ひて叩く}▲アト「あ痛たあ痛た{*16}、先づ待て待て。扨々閻魔あたりの強い奴ぢや、是非に及ばぬ、教へてやらう、あれ左に見ゆるが極楽、右に見えたは地獄ぢや、同じくは右の方へ行てくれい▲シテ「唯今左に見ゆる{*17}こそ、唯今左に見ゆるこそ。浄土の道なれ、爰を行き過ぎ地獄へ行つては叶ふまじと、左の手綱を強く引きつめ右の手綱を差しくつろげて小耳のあいを丁々と打ちければ唯、ひと馬場に浄土へ駆け入り鬼をもたらす{*18}馬口労の、鬼をもたらす{*19}馬口労のてだて恐れぬ閻魔はなかりけれ。

校訂者注
 1:底本は、「誘ははれ」。
 2・5・6:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 3・14・15:底本は、「已(おのれ)」。
 4:底本は、「挘(も)いだり」。
 7:底本は、「漸時(ざんじ)」。
 8:底本は、「おくまいね」。
 9:底本は、「しが(二字以上の繰り返し記号)」。
 10:「金銀の鏤(ちりばめ)」は、底本のまま。前の「朝比奈」や後の「八尾」には「金銀を鏤(ちりば)め」とある。「の」とあるのは、演者が実際にセリフを読む時の発音をそのまま表記したものであろう。
 11:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
 12:底本は、「乗ららんと」。
 13:底本は、「確にこそに」。「節分」に「確(したゝ)か」があり、その例に従った。
 16:底本は、「痛(あ)いた(二字以上の繰り返し記号)」。
 17:底本は、「左に見へゆるこそ」。
 18・19:底本は、「鬼をもたらず馬口労の」。