花盗人(はなぬすびと)(二番目)

{後見、作り物持ちて出で、脇正面に直す。アト、出る。}
▲アト「この辺りの者でござる。いつもとは申しながら、当年の花は、別して見事にござるによつて、花見なども多いと申す。又、夜前(やぜん)、何者やら、某(それがし)の庭の花を折り取つて、帰つたと申す。参つて、様子を見ようと存ずる。これはいかな事。花を散々に荒らした。扨も扨も、憎い事かな。何と致さうぞ。又参らぬといふ事はあるまい。今宵は、こゝに自身番を致し、かの花盗人を捕らへようと存ずる。
▲シテ「この辺りの者でござる。誠に、いつの春よりも、当年の様な長閑な事はござらぬ。又、辺り近い所に、見事な桜がござる。只今、盛りでござる程に、夜前忍うで、ひと枝手折り、さる上(うへ)つ方(がた)へ進じてござれば、殊の外御満足なされて、扨々、見事な花ぢや。これは、そちが庭前にあるか。と仰せられたを、只、何心もなう、はあ。と申してござれば、是非とも今ひと枝、くるゝ様に。との御事ぢや。又、今宵も参り、花を盗んで帰らうと存ずる。誠に、木の枝を折る程の事なれども、主(ぬし)のある者を盗むと思へば、扨々、心遣ひな事でござる。首尾良う、折つて参られば良いが。これぢや。扨も扨も、見事な花ぢや。咲きも残らず散りも始めぬ。と云ふは、この花の事ぢや。これを折るといふは、心ない事なれども、堅々(かたがた)の御約束ぢや。思ひ切つて、ひと枝折らう。扨、辺りに人は居ぬか。嬉しや嬉しや、人音もせぬ。扨、どの枝にせうぞ。この枝が良からうか。これも、見事なり。まづ、之をひと枝折らう。
▲アト「捕つたぞ。
{と云ひて、縛る。}
▲シテ「これは、何となさるゝ。
▲アト「何とするとは。秘蔵の花を、よう荒らしたな。生けては帰さぬ。覚悟せい。
▲シテ「成程、御尤でござる。この辺りを通りましたれば、余り見事に咲いてござつたによつて、ふと、出来心でひと枝、手折りましてござる。まつぴら、お許されて下されい。
▲アト「いや、憎い事を云ふ。おのれ、夕べも花を折つた。定めて、おのれであらう。
▲シテ「いや。私は、今宵が初めてゞござる。
▲アト「たとひ初めてにもせよ、この如く、禁制の札を立てゝ置くものを、聊爾に折るといふ事があるものか。
▲シテ「その御高札を、見ぬでもござらぬ。何を隠しませう。御前(おまへ)の花が、余り見事な程に、ひと枝折つて進ぜうと、かたがた約束致した方がござるによつて、是非に及ばず、参つてござる。
▲アト「なほ以て、不届きな事を云ふ。人の物を心当てにして、約束するといふ事があるものか。おのれは、花ばかりではあるまい。定めて、盗賊であらう。追つ付け、成敗せうけれども、おのれが様な奴は、暫くも面(つら)をさらしたが良い。
▲シテ「いや、なう。申し申し、あやまりました。扨も扨も、是非にも及ばぬ事かな。
{と云ひて、泣く。}
誠に、生まれてこのかた、人の物とては、楊枝一本違(たが)へた事もなし。その上、この辺りでは、黒面(くろづら)をも見知られた某が、木の枝を折る程の事は、盗人ではあるまいと思うたが、一生の不覚で、この如く、縄目の恥を蒙り、非業の命を捨つるとは、扨も扨も、口惜しい。誠に、神仏の御慈悲にも、見離されたか。
{と云ひて、泣く。}
おゝ、愚かや、愚かや。由(よし)ない事に、落涙した。遠霞(えんが)、跡を埋(うづ)んで、花の暮れを愛(をし)む。祚国(さこく)は、まさに身を捨てゝ、後(のち)の春を待たず。この心は、播州唐土(たうど)に祚国(さこく)と云つし者、花故、心を空(そら)にして、峨々たる谷に落ちて、身を空しくなる。されば、今の某も、花故に切られん事、何とも思ふべからず。あら、佗ぶまじや。あら、佗び候ふまじ。
▲アト「これはいかな事。花盗人が、何やらひとり言を申す。どうでも彼奴(きやつ)は、心ある者と見えた。あれへ参り、いよいよ心を引いて見ようと存ずる。なうなう。そなたは何やら、ひとり言を仰(お)せある。さりながら、物を良う思案をして見さしませ。総じて、花といふものは、雨露(うろ)の恵みを受け、風を含んで綻(ほころ)ぶ。されども、盛りの時分は、その雨風をさへ厭(いと)ふではないか。春風は花の辺りをよぎつて吹け、心づからや移らふと見ん。などゝも詠み置かれた。この優しい花を、折るといふやうな不得心な事が、あるものでおりあるか。
▲シテ「仰せらるゝ通り、御尤でござる。さりながら、惜しませらるゝも、又折り取るにも、情(なさけ)がござる。花は、春だにあらば、今年に限らず、明年(みやうねん)も、又明々年も咲くものでござる。その上、花に名残が惜しくば、折り取つても苦しかるまい古歌がござる。
▲アト「その古歌は、何と。
▲シテ「見てのみや、人に語らん桜花、手ごとに折りて家土産(いへづと)にせん。と承つてござる。
▲アト「そなたは、面白い人ぢや。総じて、歌には鬼神も納受ある。と云ふ。この花に就いて、歌を一首、お詠みあれ。お詠みあつたらば、科(とが)を許して、命を助けうぞ。
▲シテ「それは、誠でござるか。
▲アト「和歌三神も昭覧あれ。何の、偽りを云はう。
▲シテ「扨も扨も、ありがたや。それならば、一首詠みませう。
▲アト「一段と良からう。
▲シテ「かうもござらうか。
▲アト「何と。
▲シテ「この春は、花の元にて縄付きぬ、烏帽子桜と人や云ふらむ。
▲アト「一段と出来た。扨も扨も、面白い事ぢや。どれどれ、縄を取つておませうぞ。
▲シテ「これは、忝う存じまする。
▲アト「さぞ、手が痛みつらん。
▲シテ「いや、左様にもござらぬ。
▲アト「暫くながらも、窮屈にあらう。気晴らしに、酒を一つ申さう。まづ、下に居さしめ。
▲シテ「もはや、御無用になされて下されい。
▲アト「平(ひら)に下にお居あれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「さあさあ、一つ呑ましめ。
▲シテ「扨も扨も、結構な御酒(ごしゆ)でござる。
▲アト「気に入つたらば、もう一つ参れ。
▲シテ「それならば、もう一つ下さりませう。
▲アト「酒がなつて、良い事でおりある。
▲シテ「たぶればたぶる程、良い御酒でござる。
▲アト「これへ、くれさしませ。
▲シテ「それは、憚りでござりまする。
▲アト「いやいや、苦しうない程に、くれさしませ。
▲シテ「とかく、御意次第に致しませう。御前も一つ、お上がりなさりませ。
▲アト「扨、丁度、受け持つた。何ぞ、ちと諷(うた)はしめ。
▲シテ「左様の事は、不調法にござる。
▲アト「いやいや。ならぬといふ事は、あるまい。是非とも、所望でおりある。
▲シテ「それならば、伜の時分習ひました、小唄を諷ひませう。
▲アト「一段と良からう。
{小唄あり。但し、小舞、舞ふ事もあり。その時は、小唄無し。}
▲アト「よいや、よいや。扨も扨も、面白い事でおりやつた。扨、もう一つ参らぬか。
▲シテ「いや。も、たべますまい。
▲アト「それならば、盃も取らう。扨々、面白い人に、近付きになつた。まづ、ゆるゆると話して行かしめ。
▲シテ「誠に今日は、存じ寄らぬ御馳走に預りました。これは正真の、盗人に追い。と申すのでござる。
▲アト「これは、痛み入つた挨拶でおりある。
▲シテ「いつまでも、名残は同じ事。只、ひとふし謡うて帰りませう。
▲アト「それならば、土産を進ぜう。
▲シテ「何を下されまする。
▲アト「この花を、ひと枝遣らう。
▲シテ「これは、ありがたう存じまする。さらば、御暇申しまする。
▲アト「ともかくも、召され。
▲シテ「月の光、花の影。何か、今宵の思ひ出ならん。さりながら。
{*1}あはれ、ひと枝を花の袖に手折りて、月をも共に詠(なが)めばやの、望みは残れり。この春の、望みは残れり。
もはや、かう参りまする。
▲アト「おりやるか。
▲シテ「中々。
▲二人「さらば。
{と云ひて、留めて入るなり。}

校訂者注
 1:底本、ここから「此春の望は残れり」まで、傍点がある(但し、最初の「あ」は傍点を欠く)。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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花盗人(ハナヌスビト)(二番目)

{後見作り物持ちて出で脇正面に直ほすアト出る}▲アト「此辺りの者で御座る、いつもとは申しながら、当年の花は別して見事に御座るに依つて、花見抔も多いと申す、又夜前何者やら、某の庭の花を折り取つて帰つたと申す、参つて様子を見やうと存ずる、是は如何な事、花を散々に荒した、扨も扨も憎い事かな、何と致さうぞ、又参らぬといふ事はあるまい、今宵は此処に自身番を致し、彼の花盗人を捕へやうと存ずる▲シテ「此辺りの者で御座る、誠に何時の春よりも当年の様な長閑な事は御座らぬ、又辺り近い所に見事な桜が御座る、唯今盛りで御座る程に、夜前忍うでひと枝手折り、去る上つ方へ進じて御座れば、殊の外御満足なされて、扨々見事な花ぢや、是はそちが庭前にあるかと仰せられたを、唯何心もなう、ハアと申して御座れば、是非とも今一枝呉るゝ様にとの御事ぢや、又今宵も参り、花を盗んで帰らうと存ずる、誠に木の枝を折る程の事なれども、主のある者を盗むと思へば、扨々心遣ひな事で御座る、首尾よう折つて参らればよいが、是ぢや、扨も扨も見事な花ぢや、咲も残らず散りも始めぬと言ふは此花の事ぢや、是を折ると言ふは心ない事なれども堅々のお約束ぢや、思ひ切つて一枝折らう、扨、辺りに人は居ぬか、嬉しや嬉しや人音もせぬ、扨どの枝にせうぞ、此枝がよからうか、是も見事なり、先づ之を一枝折らう▲アト「捕つたぞ{ト云ひて縛る、}▲シテ「是は何となさるゝ▲アト「何とするとは秘蔵の花をよう荒したな、いけては帰さぬ覚悟せい▲シテ「成程御尤で御座る、此辺りを通りましたれば余り見事に咲いて御座つたに依つて、不図出来心で一枝手折まして御座る、真平御宥るされて下されい▲アト「いや憎い事をいふ、おのれ夕辺も花を折つた、定めておのれであらう▲シテ「いや私は今宵が初めてゞ御座る▲アト「たとひ初めてにもせよ、此の如く禁制の札を立てゝ置く物を、聊爾に折るといふ事があるものか▲シテ「その御高札を見ぬでも御座らぬ、何を隠しませう、お前の花が余り見事な程に、一と枝折つて進ぜうと、かたがた約束致した方が御座るに依つて、是非に及ばず参つて御座る▲アト「猶以て不届な事をいふ、人の物を心当にして約束するといふ事があるものか、おのれは花計りではあるまい、定めて盗賊であらう追付け成敗せうけれども、おのれが様な奴は暫くもつらをさらしたがよい▲シテ「いやなう申々あやまりました、扨も扨も是非にも及ばぬ事かな{ト云ひて泣く、}誠に生れてこのかた、人の物とては楊枝一本違へた事もなし、その上此辺りでは黒づらをも見知られた某が、木の枝を折る程の事は、盗人ではあるまいと思ふたが一生の不覚で、此の如く縄目の恥を蒙り、非業の命を捨つるとは、扨も扨も口惜しい、誠に神仏のお慈悲にも見離されたか{ト云ひて泣く。}おゝ愚かや愚かやよしない事に落涙した、遠霞跡を埋んで花の暮を愛む祚国はまさに身を捨て後の春を待たず、此心は播州唐土にさこくといつし者、花故心を空にして峨々たる谷に落ちて身を空しくなる、されば今の某も、花故にきられん事、何共思ふべからず、あら佗ぶまじや、あら佗び候まじ▲アト「是はいかな事、花盗人が何やらひとりごとを申す、どうでも彼奴は心ある者と見得た、あれへ参りいよいよ心を引いて見やうと存ずる、なうなう、そなたは何やらひとりごとを仰有る、さりながら物をよう思案をして見さしませ、総じて花といふものは、雨露の恵みを請、風を含んで綻ぶ、されども盛りの時分は、その雨風をさへ厭うではないか、春風は花の辺りをよぎつて吹け、心づからやうつらふと見ん、抔ともよみ置かれた、此優しい花を折るといふやうな、不得心な事があるものでおりあるか▲シテ「仰せらるゝ通り御尤で御座る、去りながらおしませらるゝも又折取るにも情が御座る、花は春だにあらば今年に限らず、明年も亦明々年も咲物で御座る、その上花に名残が惜しくば折取つても苦しかるまい古歌が御座る▲アト「其古歌は何と▲シテ「見てのみや、人に語らん桜花、手毎に折りて家土産にせんと承つて御座る▲アト「そなたは面白い人ぢや、総じて歌には鬼神も納受有るといふ、此花に就いて歌を一首お詠みあれ、お詠みあつたらば科を許して命を助けうぞ▲シテ「それは誠で御座るか▲アト「和歌三神も昭覧あれ、何んの偽を言はう▲シテ「扨も扨も有難や、それならば一首詠ませう▲アト「一段とよからう▲シテ「かうも{*1}御座らうか▲アト「何と▲シテ「此の春は、花の元にてなはつきぬ、烏帽子桜と人や言ふらむ▲アト「一段と出来た、扨も扨も面白い事ぢや、どれどれ縄を取つておませうぞ▲シテ「是は忝なう存じまする▲アト「嘸、手が痛みつらん{*2}▲シテ「いや左様にも御座らぬ▲アト「暫くながらも窮屈に有らう、気晴しに酒を一つ申さう、先づ下に居さしめ▲シテ「最早や御無用になされて下されい▲アト「ひらに下にお居あれ▲シテ「畏つて御座る▲アト「さあさあ一つ呑ましめ{*3}▲シテ「扨も扨も結構な御酒で御座る▲アト「気に入つたらば最一つ参れ▲シテ「それならば最一つ下さりませう▲アト「酒がなつてよい事でおりある▲シテ「たぶれば{*4}たぶる程よい御酒で御座る▲アト「是へくれさしませ▲シテ「それは憚で御座りまする▲アト「いやいや苦敷うない程にくれさしませ▲シテ「兎角御意次第に致しませう、お前も一つお上りなさりませ▲アト「扨、丁度受持つた、何んぞちと諷はしめ▲シテ「左様の事は不調法に御座る▲アト「いやいやならぬといふ事はあるまい、是非とも所望でおりある▲シテ「それならば忰の時分習ひました小唄を諷ひませう▲アト「一段とよからう{小唄有り、但し小舞、舞事も有り、其時は小歌無し。}▲アト{*5}「よいやよいや扨も扨も面白い事でおりやつた、扨最一つ参らぬか▲シテ「いやもたべますまい▲アト「それならば盃も取らう、扨々面白い人に近付きになつた、先づゆるゆると話して行かしめ▲シテ「誠に今日は存じよらぬ御馳走に預りました、是は正真の盗人においと申すので御座る▲アト「是は痛み入つた挨拶でおりある▲シテ「何時迄も名残は同じ事、唯一とふし謡うて帰りませう▲アト「それならば土産を進ぜう▲シテ「何を下されまする▲アト「此花を一枝遣らう▲シテ「是は有難う存じまする、さらばお暇申しまする▲アト「兎も角も召され▲シテ「月の光り、花の影、何か今宵の思出ならん、去りながら、あはれ一枝を花の袖に手折て、月をも共に詠ばやの{*6}、望は残れり。此春の望は残れり。最早や斯う参りまする▲アト「おりやるか▲シテ「中々▲二人「さらば{ト云ひて留て入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「這(こ)うも」。
 2:底本は、「痛みつらう」。同じ文末表現「つらう」が、後の「文山賊」にもある。
 3:底本は、「呑(の)めしめ」。
 4:底本は、「たふれば」。
 5:底本は、「▲シテ「よいや」。
 6:底本は、「月をも友に詠はやの」。