文山賊(ふみやまだち)(二番目)

▲アト「やるまいぞ、やるまいぞ。
▲シテ「やれやれ。
{と云ひて、二人、舞台一遍廻るなり。}
何と、やつたか。
▲アト「おゝ、やつた。
▲シテ「やつたとは。
▲アト「そちが、やれやれと云うたによつて、あちへやつた。
▲シテ「そちは、山賊の合言葉を知らぬか。やれやれ。と云うは、かの者のこゝをやれ。といふ事ぢや。
▲アト「それならば、それと云へば良いに。余り汝が、やれやれと云ふによつて、もし、知音(ちいん)でもあるかと思うて、やつた。
▲シテ「扨々、そちは、卑怯者ぢや。
▲アト「卑怯者とは。
▲シテ「それ。先度(せんど)も、駈け出(で)の山伏の通つた時、やれやれと云うたれば、つひ、逃がしてやつたではないか。
▲アト「山伏といふ者は、貝を吹けば友が大勢集まる。と聞いたによつて、仕損じてはならぬと思うて往(い)なしたが、何とした。
▲シテ「それそれ。それが、卑怯ではないか。
▲アト「いや。その様に卑怯卑怯と云へども、そちと身共と云ひ合つて、遂に利を得た事がない。向後(かうご)は、弓矢八幡、申し通ぜぬぞ。
{と云ひて、弓矢を脇座へ捨つるなり。}
▲シテ「弓矢八幡、申し通ぜぬと云うて、その弓矢を捨てたは、身共への面打(つらう)ちか。
▲アト「面打ちならば、面打ちであらうまでよ。
▲シテ「身共も、そちと云ひ合つて、終に利を得た事がない。向後は、愛宕白山、申し通ぜぬぞ。
{と云ひて、槍を名乗座上へ捨てる。}
▲アト「愛宕白山、申し通ぜぬと云うて、その槍を捨てたは、身共への返報か。
▲シテ「返報ならば、返報であらうまでよ。
▲アト「おのれは憎い奴の。
▲シテ「もはや、了簡がならぬ。
{と云ひて、両人、脇差に手を懸けて、組み合ふなり。}
▲アト「あゝ。まづ、待て待て。
▲シテ「何と、待てとは。
▲アト「後ろが茨叢(いばらぐろ)ぢや。
▲シテ「茨叢(いばらぐろ)ならば、痛からう。もそつと、こゝへ寄れ。
▲アト「心得た。
{と云ひて、シテの方へ寄り、以前の如く、「やあやあ」と云ひて、組み合ふ。}
▲シテ「あゝ。まづ、待て待て。
▲アト「何と、待てとは。
▲シテ「後ろは崖ぢや。
▲アト「それは危ない。もうそつと、こちへ寄れ。
▲シテ「心得た。
{と云ひて、寄り、互に組み合ふ。}
まづ、待て待て。
▲アト「何と、待てとは。
▲シテ「この様に組み合うた所を人が見たらば、健気者ぢやと云ふであらう。
▲アト「をゝ、をゝ。健気者ぢやと云うて、さぞ褒むるであらう。
▲シテ「かうして死ぬるは、畢竟、犬死にも同然ぢや。書き置きもして死なうと思ふが、何とあらう。
▲アト「これは一段と良からう。さりながら、こう取り組んだ手の、放し様がない。
▲シテ「これは、さあさあ。と三つ声をかけて、三つ目の声で放さう。
▲アト「これは良からう。
▲シテ「良いか。
▲アト「良いぞ。
{と云ひて、三つ声をかけて、飛び退(の)き、刀の柄に手を掛ける。}
ぬかる事ではないぞ。
▲シテ「身共も、ぬからぬぞ。
▲アト「又、この手の放し様がないわ。
▲シテ「これも、三つ目の声で放さう。
▲アト「一段と良からう。
{と云ひて、三つ懸け、二人とも寛(くつろ)ぐ。}
▲シテ「あゝ。ゆるりとした。
▲アト「その通りぢや。
▲シテ「扨、そなたは、硯紙の用意があるか。
▲アト「身共は、何も用意はない。
▲シテ「身共は、仕合(しあは)せをした時、付合(つけあひ){*1}をせうと思うて、矢立(やたて)を用意した。
▲アト「扨々、良い嗜みぢや。
▲シテ「扨、書かう程に、文章を好ましめ。
▲アト「何と書いたら良からうぞ。
▲シテ「何とが良からうぞ。
▲アト「一筆(いつぴつ)啓上せしめ候ふ。と書け。
▲シテ「そのやうな堅い事が、何と、書かるゝものぢや。
▲アト「堅うて悪いか。
▲シテ「中々。
▲アト「堅うて悪くば、一筆(ひとふで)湿し参らせ候ふ。と書け。
▲シテ「扨々、むさとした事を云ふ。身共に任して置かしめ。
▲アト「心得た。はゝあ。書くわ、書くわ。いかう手を上げたと見えて、ぴんぴんはねるわ。
▲シテ「さあ、書いた。
▲アト「早(はや)、書けたか。
▲シテ「読まう程に、聞かしめ。
▲アト「心得た。
▲シテ「扨も扨も、只、かりそめに家を出で、山賊を仕損じ、人の物をも取らずして、結局、同士同士口論し、引くなよ。我も遁(のが)さじ。と、刀の柄(つか)に手を懸くる。
▲アト「抜かる事ではないぞ。
{と云ひて、そり打つ。シテも、そり打つ。}
▲シテ「これは、何とする。
▲アト「刀の柄(つか)に手をかくる。と云ふ程に、ぬかる事ではないぞ。
▲シテ「これは、文章ぢや。
▲アト「文章ならば、文章と云へば良いに。良い肝を潰した。
▲シテ「扨、この後(あと)は、口説きに書いた。これへ寄つて、読ましませ。
▲アト「心得た。
▲シテ「刀の柄(つか)に手をかくる。
▲二人「{*2}構へて構へて、辺りの人々に、健気に死にたる。と語り伝へて給ふべし。と、書き流したる水茎の、あとに留(とゞ)まる女房や、娘子供の吠えんこと、思ひやられて憐れなり。
{と云ひて、二人とも泣く。}
▲シテ「この様な事とは知らず、内には、待ちかね居るであらう。
▲アト「いつも戻る時分ぢやと思うて、洗足の湯も、沸かして待つて居るであらう。
▲シテ「身共は、伊勢講の当に当たつた。これ過ぎてから、死にたいものぢや。
▲アト「身共は夜咄(よばなし)の約束をした。ならう事ならば、これ過ぎてから、死にたいものぢや。
▲シテ「畢竟これは、人の知つた事ではなし、そなたと身共さへ了簡をすれば、済む事ぢや。何と、了簡もないか。
▲アト「身共も、余り死にたうはない。ならうことなら、了簡してくれい。
▲シテ「それならば、仲を直さう。
▲アト「何ぢや。仲を直さう。
▲シテ「中々。
▲アト「やれやれ。嬉しや、嬉しや。あだの命を拾うた。
▲シテ「この様な時は、いざ、どつと和歌も上げて往(い)なう。
▲アト「一段と良からう。
▲シテ「わごりよも謡へ。
▲アト「心得た。
▲シテ「《上》{*3}思へば無用の死なりと。
▲二人「思へば無用の死なりと、二人の者は仲直り。さるにても、賢(かしこ)う過ちしつらんと、手に手をとりて我が宿へ、犬死にせでぞ帰りける、犬死にせでぞ帰りける。
▲シテ「そなたと。
▲アト「そなたと。
▲シテ「五百八十年。
▲アト「七廻り。
▲シテ「それこそめでたけれ。ちやつと渡しめ。
▲アト「心得た、心得た。
{と云ひて、留めて入るなり。}

校訂者注
 1:「付合(つけあひ)」は、連歌で次の句を付けること。
 2:底本、ここから「思ひやられて憐れなり」まで、傍点がある。
 3:底本、ここから「帰りける、犬死せでぞ帰りける」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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文山賊(フミヤマダチ)(二番目)

▲アト「やるまいぞやるまいぞ▲シテ「やれやれ{ト云ひて二人舞台一遍廻るなり}{*1}何とやつたか▲アト「おゝやつた▲シテ「やつたとは▲アト「そちがやれやれと言ふたに依つてあちへやつた▲シテ「そちは山賊の合言葉を知らぬか、やれやれと言ふはかの者の爰をやれと言ふ事ぢや▲アト「それならばそれと言へばよいに、余り汝がやれやれと言ふに依つて、若し知音でもあるかと思ふてやつた▲シテ「扨々そちは卑怯者ぢや▲アト「卑怯者とは▲シテ「それせんどもかけでの山伏の通た時、やれやれといふたればつひ逃してやつたではないか▲アト「山伏と言ふ者は貝を吹けば友が大勢集まるときいたに依つて、仕損じてはならぬと思ふていなしたが何とした▲シテ「それそれ、夫が卑怯ではないか▲アト「いや其様に卑怯々々といへども、そちと身共と言ひ合つて遂に利を得た事がない、向後は弓矢八幡申通ぜぬぞ{*2}{ト云ひて弓矢を脇座へ捨つるなり}▲シテ「弓矢八幡申通ぜぬ{*3}と言ふて、その弓矢を捨てたは身共への面打か▲アト「面打ならば面打で有らう迄よ▲シテ「身共もそちと言ひ合つて、終に利を得た事がない、向後は愛宕白山申通ぜぬ{*4}ぞ{ト云ひて鑓を名乗座上へ捨てる}▲アト「愛宕白山申通ぜぬ{*5}と言ふて、その槍を捨てたは身共への返報か▲シテ「返報ならば返報で有らう迄よ▲アト「おのれは憎い奴の▲シテ「最早や了簡がならぬ{ト云ひて両人脇差に手を懸けて組合う也}▲アト「あゝ先づ待て待て▲シテ「何と待てとは▲アト「うしろがいばら黒ぢや▲シテ「いばら黒ならば痛からう、最そつと{*6}此処へ寄れ▲アト「心得た{ト云ひてシテの方へ寄り以前の如くヤアヤアト云ひて組合う}▲シテ「あゝ先づ待て待て▲アト「何と待てとは▲シテ「うしろ{*7}は崖ぢや▲アト「それは危険ない、もうそつと{*7}こちへ寄れ▲シテ「心得た{ト云ひて寄り互に組合う}{*8}先づ待て待て▲アト「何と待てとは▲シテ「此様に組合うた所を人が見たらば、健気者ぢやと言ふであらう▲アト「をゝをゝ健気者ぢやと言ふて、嘸褒むるであらう▲シテ「斯うして死ぬるは畢竟犬死も同前ぢや、書置もして死なうと思ふが何と有らう▲アト「是は一段とよからう、去りながらこう取組んだ手のはなし様がない▲シテ「是はさあさあと三つ声をかけて、三つ目の声で放さう▲アト「是はよからう▲シテ「よいか▲アト「よいぞ{ト云ひて三つ声をかけて飛び退き刀の柄に手を掛ける}{*9}ぬかる事ではないぞ▲シテ「身共もぬからぬぞ▲アト「又此手の放し様がないは▲シテ「是も三つ目の声で放さう▲アト「一段とよからう{ト云ひて三つ懸け二人共寛ぐ{*10}}▲シテ「あゝゆるりとした▲アト「その通りぢや▲シテ「扨そなたは硯紙の用意があるか▲アト「身共は何も用意はない▲シテ「身共は仕合せをした時、つけ合をせうと思うて、やたてを用意した▲アト「扨々よい嗜みぢや▲シテ「扨書かう程に文章を好ましめ▲アト「何と書いたらよからうぞ▲シテ「何とがよからうぞ▲アト「一筆啓上せしめ候と書け▲シテ「そのやうなかたい事が何と書かるる物ぢや▲アト「かとうて悪いか▲シテ「中々▲アト「固うて悪くば一筆湿し{*11}参らせ候とかけ▲シテ「扨々無差とした事を言ふ、身共に任して置かしめ▲アト「心得た、はゝあ書くは書くは、いかう手を上げたと見えてぴんぴんはねるは{*12}▲シテ「さあ書いた▲アト「早や書けたか▲シテ「読まう程に聞かしめ▲アト「心得た▲シテ「扨も扨も、唯仮初に家を出で、山賊を仕損じ、人の物をも取らずして、結局同士々々口論し引なよ我も遁さじと、刀の柄に手を懸る▲アト「抜かる事ではないぞ{ト云ひてソリ打シテもソリ打}▲シテ「是は何とする▲アト「刀の柄に手をかくると言ふ程にぬかる事ではないぞ▲シテ「是は文章ぢや▲アト「文章ならば文章といへば好いに好い肝を潰した▲シテ「扨此跡はくどきに書いた、是へ寄つて読ましませ▲アト「心得た▲シテ「刀の柄に手をかくる▲二人「かまえてかまえてあたりの人々に、健気に死にたると、語り伝へて給ふべしと、書き流したる水茎の、跡に止る女房や、娘子供のほえんこと、思ひやられて憐れなり{ト云ひて二人とも泣く}▲シテ「此様な事とは知らず、内には待ち兼ね居るであらう▲アト「いつも戻る時分ぢやと思ふて、洗足の湯も湧かして待つて居るであらう▲シテ「身共は伊勢講の当にあたつた、是過ぎてから死にたい物ぢや▲アト「身共は夜咄しの約束をした{*13}ならう事ならば是過ぎてから死にたい物ぢや▲シテ「畢竟是は人の知つた事ではなし、そなたと身共さへ了簡をすれば済む事ぢや何と了簡もないか▲アト「身共も余り死にとうはない、ならうことなら了簡して呉れい▲シテ「夫ならば中を直さう▲アト「何ぢやなかを直さう▲シテ「中々▲アト「やれやれ嬉しや嬉しや、あだの命を拾うた▲シテ「此様な時はいざどつと和歌も上げていなう{*14}▲アト「一段とよからう▲シテ「わごりよも謡へ▲アト「心得た▲シテ「《上》思へば無用の死なりと▲二人「思へば無用の死なりと。二人の者は中直り、さるにても賢かう過ちしつらん{*15}と、手に手をとりて我宿へ、犬死せでぞ帰りける、犬死せでぞ帰りける▲シテ{*16}「そなたと▲アト「そなたと▲シテ「五百八十年▲アト「七廻り▲シテ「それこそ目出度けれ、ちやつと渡しめ▲アト「心得た心得た{ト云ひて留て入るなり}

校訂者注
 1・8:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 2:底本は、「申通(まをしつう)ぜんそ」。打消の「ぬ」を「ん」と書く例は、後の「茶壺」にもある。
 3~5:底本は、「申通(まをしつう)ぜん」。
 6・7:底本は、「密(そ)つと」。
 7:底本は、「背後(うしろ)」。
 9:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 10:底本は、「寛く」。
 11:底本は、「一筆示(ふでしめ)し」。
 12:底本は、「反(は)ねるは」。
 13:底本、ここに「」」がある(略す)。
 14:底本は、「帰(い)なう」。
 15:底本は、「過ちしつらう」。同じ文末表現「つらう」が、前の「花盗人」にもある。
 16:底本は、「▲アト「そなたと」。