腥物(なまぐさもの)(二番目 三番目)
▲アト「この辺りの者でござる。太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて呼び出す。出口も常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。何と昨日(きのふ)は、こゝもとの神事ではなかつたか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、昨日(きのふ)はこゝもとの御神事でござつた。
▲アト「又、明日(みやうにち)は、伯父者人の方(かた)の神事ぢや。それに就いて、あの方(かた)から太刀を借つて置いた。汝は大儀ながら、持つて行(い)てくれい。
▲シテ「畏つてはござれども、もはや今日は、日も晩じまする。これは、明日の事になされませ。
▲アト「成程、尤なれども、あの方(かた)にも、明日(みやうにち)早朝いるによつて、是非今日(こんにち)、返さねばならぬ。大儀ながら、持つて行け。
▲シテ「それならば、畏つてござる。
▲アト「暫くそれに待て。
▲シテ「心得ました。
{アト、作り物持ち出て、}
▲アト「やいやい。あの道は、不用心なによつて、この様に藁苞にして置いた。もし、道でいたづら者が出て、それを、何ぢや。と云うたらば、腥物ぢや。と云へ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「かまへて、金餝の太刀ぢや。などゝ云ふな。
▲シテ「その段は、そつともお気遣ひなされますな。
{常の如く、つめる、うける。同断。}
火急な事を、仰せ付けられた。まづ、急いで参らう。誠に、頼うだ御方は、分別者でござる。これは、誰が見たりとも、金餝(こがねづく)りの太刀ぢやと思ふ者は、あるまい。定めて、腥物ぢやと思うでござらう。
▲小アト「急ぎの使ひに、山一つあなたへ参る者でござる。主命と申すものは、浅ましいものでござる。夜とも昼ともなく、使ひに行かねばならぬ事でござる。がつきめ、やらぬぞ。
▲シテ「あゝ。お許されませ、お許されませ。
▲小アト「この広い街道を、よけては通らいで、人に行き当たる。定めておのれは、いたづら者であらう。
▲シテ「いかないかな、いたづら者ではござらぬ。命を助けて下され。
▲小アト「その、おのれが後ろへ隠した物は、何ぢや。
▲シテ「いや。何も隠しは致しませぬ。
▲小アト「いやいや。何やら隠した。
▲シテ「扨は、見さつせあれたが定(ぢやう)か。
▲小アト「おんでもない事。
▲シテ「扨々、目の早い人かな。これか。
▲小アト「それは、何ぢや。
▲シテ「これは、金餝りの太刀ではない。腥物ぢや。
▲小アト「それを、こちへおこせ。
▲シテ「いや、こゝな奴が。最前身共を、いたづら者ぢや。と云うたではないか。人の物を只、おこせ。と云ふは、おのれがいたづら者ぢや。
▲小アト「おのれ。おこさずば、たつたひと討ちにせう。
▲シテ「あゝ。やるわいやい、やるわいやい。
▲小アト「早うおこせ。
▲シテ「そりあ。
▲小アト「どりあ。扨、帰りにも、こゝを通る。うろたへて居たらば、ひと討ちにするぞ。
▲シテ「いかないかな。この様な所に、うろたへて居る事ではないぞ。
▲小アト「まだそこに居るか。
▲シテ「あゝ。許してくれい。
{と云ひて、太鼓座へ入るなり。}
▲小アト「一段の仕合(しあは)せぢや。まづ、急いで参らう。
{と云ひて、中入する。}
▲シテ「なうなう、恐ろしや、恐ろしや。天(あま)の命を拾うた。まづ、急いで帰らう。誠に、あの太刀をやつたればこそ、命を助かつた。あれをやらずば、今時分は、まつ二つになつて居るであらう。扨も扨も、恐ろしい事かな。何かと云ふ内に、戻つた。
{と云ひて、呼び出す。主出るも、常の如し。}
▲アト「えい。太郎冠者、戻つたか。
▲シテ「只今、帰りました。
▲アト「扨々、早かつた。
▲シテ「早い筈でござる。あちへは参りませなんだ。
▲アト「それは、どうした事ぢや。
▲シテ「この町続きも出離れまして、松林へ懸かりましたれば、いたづら者が出まして、氷を突き割つた様な刀を抜いて、切らうと致したによつて、逃げて帰りました。
▲アト「扨々、それは危ない事であつた。扨、太刀は何とした。
▲シテ「それをこちへおこせ。と申したによつて、やりました。
▲アト「これはいかな事。それをやつて良いものか。定めて汝が、金錺りの太刀ぢや。と云うたものであらう。
▲シテ「いかないかな。左様には申しませなんだれども、何にもせよ、こちへおこせ。と申したによつて、やりました。
▲アト「扨々、うつけた奴ぢや。あれは、伯父者人の重代ぢやによつて、そちが命にも替はる事ではない。
▲シテ「これは、御意とも覚えませぬ。あの太刀をやつたればこそ、私の命も助かりましたれ。あれをやらずば、今時分はまつ二つになつて居るでござらう。すれば御前には、太郎冠者一人、お拾いなされたと申すものでござる。
▲アト「まだそのつれをぬかし居る。何とぞして、その太刀をこつちへ取り返したいものぢやが。
▲シテ「中々。いたづら者が申しましたは、又、戻りにもこゝを通る。うろたへて居たらば、たつたひと討ちにする。と申しました。定めて今時分は、帰るでござらう。御前(おまへ)と私とあれへ参つて、いたづら者を捕らへませうか。
▲アト「せめて、さうなりともせずばなるまい。扨汝は、いたづら者の面(つら)を見知つて居るか。
▲シテ「なるほど、見知つて居ります。憎らしい面でござつた。
▲アト「それならば行かう程に、さあさあ、来い来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「扨、云うても云うても、汝が、金餝りの太刀ぢや。と云うたものであらう。
▲シテ「いかないかな。左様には申さねども、おこさねば斬らう。と申したによつて、やりました。
▲アト「何と、この辺りか。
▲シテ「成程、こゝでござる。
▲アト「それならば、左右へ目を配つて、油断をすな。
▲シテ「畏つてござる。
▲小アト「なうなう、嬉しや、嬉しや。今良う見れば、これは、金餝りの太刀ぢや。まづ、急いで帰らうと存ずる。
▲シテ「申し。あれへ参りまする。
▲アト「ちやつと捕らへ。
▲シテ「私は、恐ろしうござる。
▲アト「早う捕らへ。
▲シテ「御前、捕らへさつせあれ。
▲アト「捕つたぞ。
▲小アト「これは、何とする。
▲アト「何とゝは。己は憎い奴の。
▲シテ「あゝ。捕らへさつせあれたか、捕らへさつせあれたか。
▲アト「やいやい。その太刀を取れ。
▲シテ「その太刀を、こつちへおこせ。
▲アト「ひつたくれいやい、ひつたくれいやい。
▲シテ「心得ました。おのれ、その太刀をこつちへおこしおれ。じつと捕らへてござれ。おのれは憎い奴の。最前身共の太刀を、ようもようも、取りをつたな。それが良いか、これが良いか。
{と云ひて、鼻しつぺいをはじき、又、握り拳にて打つなどするなり。}
▲アト「やいやい。それは、何をする。
▲シテ「今、打擲を致しまする。
▲アト「その様な事をせずとも、縄を取つて来い。
▲シテ「縄か、縄か。じつと捕らへてござれ。今、縄を綯(な)ひまするぞ。
{小アト、足で撥(は)ねやる。}
扨も扨も、臑(すね)のまめな奴かな。
▲小アト「こゝを放して下され。
▲アト「おのれ、放いて良いものか。
{小アト、又、シテを足で撥ねやる。}
▲シテ「扨々、臑のまめな奴ぢや。じつと捕らへてござれと云ふに。
▲アト「何をして居るぞいやい。
▲シテ「今、縄を綯うて居りまする。
▲アト「今縄を綯ふ奴があるものか。
▲シテ「追つ付け、綯へまする。さあ、綯へました。こゝへ足を入れ居れ。
▲小アト「それヘ足を入れて良いものか。
▲シテ「ゑゝ。こゝへ足を入れ。と云ふに。
▲アト「それは、何をし居るぞ。
▲シテ「今、こゝへ足を入れさせまして、罠にして、引きしめまする。
▲アト「その様な事をせずと、後ろから掛けいやい。
▲シテ「扨は、後ろからかけまする。
▲アト「早う懸けいやい。
▲シテ「さあ、かけました。
▲アト「良いか。
▲シテ「良うござる。
▲アト「それならば、放すぞや。
▲シテ「放さつせあれ。
▲アト「それあ。放いた。
▲シテ「憎い奴かな。
▲アト「身共ぢやわいやい、身共ぢやわいやい。
▲シテ「わあ。頼うだ御方でござるか。
▲アト「いたづら者は、どれへ行(い)た。
▲シテ「あれへ参りまする。
▲アト「ちやつと捕らへ。
▲シテ「早う捕らへさつせあれ。
▲アト「あの横着者。やるまいぞ、やるまいぞ。
底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.)
腥物(ナマグサモノ)(二番目 三番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、太郎冠者を呼出し申付くる事が御座る{ト云ひて呼出す出口も如常{*1}}{*2}汝呼出す、別の事でない、何ときのふは爰許の神事ではなかつたか▲シテ「御意なさるゝ通りきのふは爰許の御神事で御座つた▲アト「又明日は伯父者人の方の神事ぢや、それに就てあの方から太刀をかつて置いた、汝は大儀ながら持つていてくれい▲シテ「畏つては御座れども最早や今日は日も晩じまする、是は明日の事になされませ▲アト「成程尤なれどもあの方にも明日早朝入るに依つて是非今日返さねばならぬ、大儀ながら持つて行け▲シテ「それならば畏つて御座る▲アト「暫くそれに待て▲シテ「心得ました{アト作物持出て}▲アト「やいやい、あの道は不用心なに依つて此様に藁苞にして置いた、若し道で徒ら者が出てそれを何ぢやと言ふたらば、腥物ぢやと言へ▲シテ「畏つて御座る▲アト「かまへて金餝の太刀ぢやなどと言ふな▲シテ「その段はそつともお気遣なされますな{如常つめるうける同断}{*3}火急な事を仰付けられた、先づ急いで参らう、誠に頼うだお方は分別者で御座る、是は誰が見たりとも金餝の太刀ぢやと思ふ者はあるまい、定めて腥物ぢやと思ふで御座らう▲小アト「急ぎの使に山一つあなたへ参る者で御座る、主命と申すものは浅間敷いもので御座る、夜とも昼ともなく使に行かねばならぬ事でござる、がつきめやらぬぞ▲シテ「あゝ御寛るされませ御寛るされませ▲小アト「此広い街道{*4}をよけては通らいで人に行当る、定めておのれは徒ら者であらう▲シテ「いかないかな、徒ら者では御座らぬ命を助けて下され▲小アト「そのおのれがうしろへ隠した物は何ぢや▲シテ「いや何も隠しは致しませぬ▲小アト「いやいや何やら隠した▲シテ「扨は見さつせあれたが定{*5}か▲小アト「をんでもない事▲シテ「扨々目の早い人かな、是か▲小アト「それは何んぢや▲シテ「是は金餝りの太刀ではない、腥物ぢや▲小アト「それをこちへおこせ▲シテ「いや爰な奴が、最前身共を徒ら者ぢやと言ふたではないか、人の物を唯おこせと言ふは、おのれが徒ら者ぢや▲小アト「おのれお越さずばたつた一と討にせう▲シテ「あゝやるわいやいやるわいやい▲小アト「早うおこせ▲シテ「そりあ▲小アト「どりあ、扨帰りにも此処を通る、狼狽へていたらば一と討にするぞ▲シテ「いかないかな、此様な所にうろたへて居る事ではないぞ▲小アト「まだそこに居るか▲シテ「あゝ寛るしてくれい{と云ひて太鼓座へ入るなり}▲小アト「一段の仕合はせぢや、先づ急いで参らう{と云ひて中入する}▲シテ「なうなう恐ろしや恐ろしや、あまの命を拾ふた、先づ急いで帰らう、誠にあの太刀をやつたればこそ命を助つた、あれをやらずば今時分は真つ二つ{*6}になつて居るであらう、扨も扨も恐ろしい事かな、何彼と言ふ内に戻つた{と云ひて呼出す、主出るも如常}▲アト「えい、太郎冠者戻つたか▲シテ「唯今帰りました▲アト「扨々早かつた▲シテ「早い筈で御座る、あちへは参りませなんだ▲アト「それはどうした事ぢや▲シテ「此町続きも出離れまして松林へ懸りましたれば徒ら者が出まして、氷を突割た様な刀を抜て{*7}、切らうと致したに依つて、逃て帰りました▲アト「扨々夫は危い事であつた扨太刀は何とした▲シテ「それをこちへおこせと申したに依つてやりました▲アト「是は如何な事、それをやつてよいものか、定めて汝が金錺りの太刀ぢやと言ふたものであらう▲シテ「いかないかな左様には申しませなんだれども、何にもせよ、こちへおこせと申したに依つてやりました▲アト「扨々うつけた奴ぢや、あれは伯父者人{*8}の重代ぢやに依つてそちが命にも替る事ではない▲シテ「是は御意とも覚えませぬ、あの太刀をやつたればこそ、私の命も助りましたれ、あれをやらずば今時分はまつ二つになつて居るで御座らう、すればお前には太郎冠者一人お拾いなされたと申す者で御座る▲アト「まだその連れをぬかし居る、何卒してその太刀を此方へ取返したい物ぢやが▲シテ「中々、徒ら者が申しましたは又戻りにも此所を通る、狼狽たえて居たらば、たつた一と討にすると申しました、定めて今時分は帰るで御座らう、お前と私とあれへ参つて徒ら者を捕へませうか▲アト「せめてさうなりともせずばなるまい、扨、汝は徒ら者の面を見知つて居るか▲シテ「なるほど見知つて居ります憎らしいつらで御座つた▲アト「それならば行かう程にさあさあこいこい▲シテ「畏つて御座る▲アト「扨、言ふても言ふても汝が金餝りの太刀ぢやと言ふたものであらう▲シテ「如何な如何な左様には申さねども、おこさねば斬らうと申したに依つてやりました▲アト「何と此辺りか▲シテ「成程爰で御座る▲アト「それならば左右へ目を配つて油断をすな▲シテ「畏つて御座る▲小アト「なうなう嬉しや嬉しや、今よう見れば是は金餝りの太刀ぢや先づ急いで帰らうと存ずる▲シテ「申あれへ参りまする▲アト「ちやつと捕へ▲シテ「私は恐ろしう御座る▲アト「早う捕らへ▲シテ「お前捕へさつせあれ▲アト「捕たぞ▲小アト「是は何とする▲アト「何ととは己{*9}は憎い奴の▲シテ「あゝ捕へさつせあれたか捕へさつせあれたか▲アト「やいやい其太刀を取れ▲シテ「其太刀を此方へおこせ▲アト「ひつたくれいやいひつたくれいやい▲シテ「心得ました、おのれ其太刀を、此方へおこしおれ、じつと捕へて御座れ、おのれは憎い奴の、最前身共の太刀をようもようも取おつたな、それがよいかこれがよいか{と云て鼻しつぺいをはじき又握拳にて打つなどするなり}▲アト「やいやい夫は何をする▲シテ「今打擲を致しまする▲アト「其様な事をせずとも、縄を取つてこい▲シテ「縄か縄か、じつと捕へて御座れ、今縄をなひまするぞ{小アト足ではねやる}{*10}扨も扨もすねのまめな奴かな▲小アト「爰をはなして下され▲アト「おのれはないてよい者か{小アト又シテを足ではねやる}▲シテ「扨々すねのまめな奴ぢや、じつと捕へて御座れと云ふに▲アト「何を仕て居るぞいやい▲シテ「今縄をなうて居りまする▲アト「今縄を綯う奴が有る者か▲シテ「追付なへまする、さあなへました、爰へ足を入れ居れ▲小アト「夫ヘ足を入れてよい者か▲シテ「ヱゝ是へ足を入れと云ふに▲アト「夫は何を仕居るぞ▲シテ「今是へ足を入れさせまして、罠にして引しめまする▲アト「其様な事をせずと後ろから掛いやい▲シテ「扨は後からかけまする▲アト「早う懸けいやい▲シテ「さあかけました▲アト「よいか▲シテ「よう御座る▲アト「夫ならば離すぞや▲シテ「はなさつせあれ▲アト「それあはないた▲シテ「憎い奴かな▲アト「身共ぢやわいやい身共ぢやわいやい▲シテ「わあ頼うだお方で御座るか▲アト「徒者はどれへいた▲シテ「あれへ参りまする▲アト「ちやつと捕へ▲シテ「早う捕へさつせあれ▲アト「あの横着者やるまゐぞやるまゐぞ
校訂者注
1:「出口も如常」は、底本のまま。同じ表現が次の「成上り」にもある。「不聞座頭」には「小アト楽屋口より出る事、如常」とある。
2:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
3・10:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
4:底本は、「海道(かいだう)」。
5:底本は、「誠(じやう)」。
6:底本は、「真(ま)づ二つ」。
7:底本は、「抜で」。
8:底本は、「伯父や人」。
9:底本は、「已(おのれ)」。
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