磁石(じしやく)(二番目 三番目)
▲アト「これは、遠江の国見附(みつけ)の国府(こふ)の者でござる。某(それがし)国元で、ふと留(と)め論{*1}を致して、在所の住居(すまひ)もなりにくうござるによつて、この度、上方へ上り、こゝかしこをも、ゆるゆる見物致し、似合(にあは)しい所もあらば、足をも留(とゞ)めうと存ずる。誠に、若い時旅を致さねば、老いての物語がない。と申すによつて、思ひ立つた事でござる。あれに、大きな宮立ちがある。あれは、どこぢや。何、尾張の国・熱田の明神ぢや。聞き及うだよりは、大社(たいしや)ぢや。この度、参詣が致したけれども、上方へ急ぐ。不参を致さう。あの、青々と見ゆるは、何ぢや。何、近江の湖ぢや。扨も扨も、夥(おびたゞ)しい事かな。別して、そこ元のどゞめくは、何ぢや。大津・松本の市ぢや。これは、立ち寄つて見物致さう。
▲シテ「人を売つて、渡世致す者でござる。今日は、大津・松本の市でござる。参つて、仕合(しあはせ)を致さうと存ずる。いや。あれに、田舎者と見えて、市を見物して居る。ちと彼奴(きやつ)にたづさはつて見ようと存ずる。
▲アト「あゝ。出したり、出したり。これは、何を求めうと、儘な事ぢや。
▲シテ「何(いづ)れ、何を求めうと、儘な事ぢや。
▲アト「これは、子供のもて遊びぢや。
▲シテ「誠に、子供のもて遊びぢや。雛張子(ひなはりこ)・土で造つた狗(ゑのこ)・起き上がり小法師・振り鼓。何を求めうと、儘な事ぢや。
{このしかじかの内、アトの云ふ通り、吟ずるなり。}
えい、何と。
▲アト「はて、気味の悪い奴ぢや。
▲シテ「目のさやのはずれた奴ぢや。
▲アト「店をかへて、見物致さう。
▲シテ「店をかへ居るさうな。
▲アト「これは、茶の湯の道具ぢや。
▲シテ「何(いづ)れ、茶の湯の道具ぢや。
▲アト「風呂釜・茶碗・茶入・水翻(みづこぼ)し。何を求めうと、儘な事ぢや。
▲シテ「えい、何と。
▲アト「わごりよは最前から、近附きのやうに仰(お)せあれども、かつて、身共は知らぬぞや。
▲シテ「知らぬと云ふ事があるものか。そなたは、物の人ぢや。
▲アト「物とは。
▲シテ「はて、それ。物いなう。
▲アト「身共は、岡崎の者でござる。
▲シテ「おゝおゝ、岡崎の人ぢや。
▲アト「岡崎の橋を。
▲シテ「橋を。
▲アト「渡らうとして。
▲シテ「して。
▲アト「渡りはしませぬ。
▲シテ「渡りはせぬ。
▲アト「はて、良う知つてござるなう。
▲シテ「良う知つて居るとも。
▲アト「それならば、真実申さう。私は、遠江の国・見附の国府の者でござる。
▲シテ「ありやうは、遠江の国・見附の国府の人ぢや。
▲アト「見附の町を。
▲シテ「町を。
▲アト「一町程、真つ直(すぐ)に行(い)て。
▲シテ「行(い)て。
▲アト「左へきりゝと廻つて。
▲シテ「廻つて。
▲アト「角から三軒目の。
▲シテ「めの。
▲アト「者でござる。
▲シテ「成程、三軒目の人ぢや。
▲アト「はて、良う知つてござるのう。
▲シテ「良う知つて居るとも。して、この度は、何としたれば物したぞ。
▲アト「さればの事でござる。国元で、ふと留め論を致してござれば、在所の住居もなりにくうござるによつて、この度、都へ上る事でござる。
▲シテ「扨は、さうでおりあるか。そなたの小さい時、親達の仰(お)せあるには、あれは、成人の後、人と喧嘩をせいで叶はぬ者ぢや。と仰(お)せあつたが。あゝ、違はぬものでおりある。して、そなたの物は、息災なか。
▲アト「物とは。
▲シテ「それ、物いなう。
▲アト「えゝ。伯母でござるか。
▲シテ「おゝ。伯母、伯母。
▲アト「随分、息災にござる。
▲シテ「身共はその伯母に、いかう世話になつた者でおりある。
▲アト「扨は、こなたの事でござるか。上方にも、心安うせいで叶はぬ人がある。と仰(お)せありました。
▲シテ「成程、それは、身共が事ぢや。こゝで逢うたこそ、幸ひなれ。奉公がしたくば、奉公もさせうず。又、商ひがしたくば、資本(もとで)をやつて、商ひをさせう程に、さう心得さしませ。
▲アト「それは、忝うござる。とかく、こなたを頼みまするぞ。
▲シテ「扨、そなたは、石山の観世音へ参つた事があるか。
▲アト「聞き及うだれども、遂に、参つた事はござらぬ。
▲シテ「それならば、御礼かたがた、連れて参らう程に、さあさあ、おりあれ。
▲アト「心得ました。
▲シテ「扨、あの石山の観世音は、霊験あらたな御仏ぢや。身の行く末をも、祈らしめ。
▲アト「成程、信を取つて、身の行く末を祈りませう。
▲シテ「幸ひ、路次に存じた茶屋がある。これへ連れて寄つて、休ませうぞ。
▲アト「それは、忝うござる。
▲シテ「何かと云ふ内に、これぢや。さあさあ、かう通らしめ。
▲アト「通つても、苦しうござらぬか。
▲シテ「苦しうない。つうと通らしめ。
▲アト「心得ました。扨、私はいかう草臥(くたび)れました。暫く、まどろみませう。
▲シテ「それならば、洗足(せんそく)をおしあれ。
▲アト「洗足には及びませぬ。暫く休みませう。
▲シテ「やいやい、若い者。洗足をせい。若い者、若い者。なうなう、御亭主ござるか。
▲小アト「これに居まする。
▲シテ「又、良い若い者を連れて来た程に、求めて置かしめ。
▲小アト「何を仰(お)せある。先度(せんど)もその様に仰(お)せあつたれども、取り逃げをして、損をした。
▲シテ「この度は、格別良い者ぢや程に、求めて置かしませ。
▲小アト「それならば、まづ、人柄を見よう。
▲シテ「お見やれ。あれでおりある。
▲小アト「あれは、どうやら良さゝうな者ぢや。求めうが、代物(だいもつ)は、何程でおりある。
▲シテ「五百疋でおりある。
▲小アト「それは、あまり高直(かうぢき)な。三百疋に負けておくれあれ。
▲シテ「いやいや、負けはない。嫌ならば、置かしませ。
▲小アト「先度のもので損をした。どうぞ、三百疋に負けておくれあれ。
▲シテ「先度のもので損をした。と仰(お)せある程に、三百疋に負けてやらうぞ。
▲小アト「それは過分な。
▲シテ「扨、代物は、明朝六つ、太鼓を打つ時、塀越しに受け取るであらう。
▲小アト「成程、塀越しに渡さう。
▲シテ「身共も、いかう草臥れた。暫くまどろまう。
▲小アト「一段と良からう。
{このしかじかの内、アト、そつと起きて、シテの後ろに立ち聞きする。又、そつと寝て居るなり。}
▲シテ「やいやい、若い者。洗足をせぬか、若い者。あゝ、洗足をせいでなあ。
{と云ひて、寝る。アト、そつと起きて、さし足して橋掛りへ行きて、}
▲アト「なうなう、恐ろしや、恐ろしや。彼奴(きやつ)は、近附きのやうに申したによつて、誠かと存じたれば、あれは、人売りぢや。はつちや、こはもの。急いですかさうか。いやいや。夕べ、身共を鳥目三百疋に売つた。致し様がござる。
{と云ひて、太鼓座の向かうにて、舞台二つ叩くなり。}
▲小アト「何者ぢや。
▲アト「約束の者。
▲小アト「心得た。
{大小の前より鳥目を持ち出し、塀越しに渡す心にて、両手を上げ、}
渡した。
▲アト「受け取つた。これさへ取れば、心安い。まづ、急いですかさう。
{と云ひて、笛座の上へくつろぐ。}
▲シテ「むゝ。寝た事かな、寝た事かな。これはいかな事。夜が、がんがりとあけた。扨も扨も、寝過ごした事かな。
{と云ひて、大小の前に行つて、舞台を二つ叩くなり。}
▲小アト「何者ぢや。
▲シテ「約束の者。
▲小アト「もはや、渡した。
▲シテ「いや、受け取らぬ。
▲小アト「いや、渡した。
▲シテ「はて、身共でおりある。
▲小アト「でも、渡した。
▲シテ「何ぢや。渡した。
▲小アト「中々。
▲シテ「合点の行かぬ事を仰(お)せある。南無三宝。又、してやられた。
▲小アト「それ、お見あれの。
▲シテ「扨々、憎い奴ぢや。どつちへ失せをつた事ぢや。
{と云ひて、寝たる跡を撫でゝ、}
まだ、遠うへは行くまい。寝た後が、如来肌な。追つかけう程に、その太刀を貸しておくれあれ。
▲小アト「心得た。これは、身共が重代ぢや。損(そこ)なはぬ様にしておくれあれ。
▲シテ「心得た。扨々、腹の立つ事ぢや。
{と云ひて、シテ、柱先にて肩を脱ぐなり。この内に、アトも立つなり。}
おのれ、今の間(ま)に、思ひ知らせうぞ。
▲アト「なうなう、嬉しや、嬉しや。まづ、急いですかさう。
▲シテ「がつきめ、やらぬぞ。
▲アト「呑まう。
▲シテ「何の、呑まう。
▲アト「あゝ。
▲シテ「あら、不思議や。身共が抜いた太刀を見て、呑まうの、あゝのと云ふ。おのれは何者ぢや。
▲アト「身共を知らぬか。
▲シテ「いゝや、知らぬ。
▲アト「唐土(もろこし)日本の潮境(しほざかひ)に、磁石山(じしやくせん)といふ山がある。その山に住む、磁石の精ぢや。
▲シテ「何ぢや。磁石の精ぢや。
▲アト「中々。
▲シテ「して、何と。
▲アト「昔は、渡海の船が、釘・鎹(かすがひ)附けであつたによつて、吸ひ寄せてはずつと呑み、引き寄せてはずつと呑みしたれども、今は人間が賢うなつて、藤がらみ・漆喰詰めにするによつて、磁石山の飢饉、以ての外ぢや。さるによつて、この度日本に渡り、鉄を呑まうと思ふ所に、夕べ、身共を鳥目三百疋に売つた。
▲シテ「いゝや、売らぬ。
▲アト「いや、売つた。
▲シテ「して、何と。
▲アト「それを呑うだれば、唐金(からかね)であつたによつて、咽(のど)に詰まつて心地が悪い。今又、汝が抜いた太刀は、あつぱれ、一銘かゝへた物と見受けた。切つ先から鎺元(はゞきもと)まで、たつたひと口に呑まう。
▲シテ「何の、呑まう。
▲アト「あゝ。
▲シテ「これはいかな事。磁石の精ぢや。と申す。どうやら、思ひなしか、太刀がどんみりとしたやうな。
▲アト「あまりの難義さに、磁石の精と申したれば、誠と存ずるさうな。いよいよ、謀(たばか)らうと存ずる。
▲シテ「致しやうがござる。やいやい、磁石。
▲アト「何ぢや。
▲シテ「この太刀を見すれば、何とある。
▲アト「心がせいせいとするわ。
▲シテ「隠せば。
▲アト「まくまくする。
▲シテ「鞘に収むれば。
▲アト「あゝ。収めてくれな、命がない。
▲シテ「何ぢや。命がない。
▲アト「中々。
▲シテ「やれやれ、嬉しや。汝をこれまで追つ駈けたも、命を取らうためばかりぢや。さらば、鞘に収むるぞ。
▲アト「あゝ、収めてくれな。
▲シテ「そりあ、収むるわ。そりあそりあそりあ、収めたわ。やい、磁石。又、騙しはせぬか。こりあ、磁石、磁石。ほ。こりあ、死んだが定(ぢやう)さうな。あゝ、安大事(やすだいじ)をした。天下治まりめでたい御代(みよ)に、若い者が二人、追つゝ捲(まく)つゝした。一人(いちにん)は死する。今一人は。とお尋ねの時、身共が迷惑をする。何としたものであらう。いや。彼奴(きやつ)は、この太刀故に命を失うた者ぢや。この太刀を彼奴(きやつ)に手向け、再び蘇生を祈らうと存ずる。いかに磁石、確かに聞け。汝が好む太刀の、鎺元二三寸抜きくつろげ、磁石が枕元にとうど置き、くわつくわつの文(もん)を唱へ、磁石が上を、あなたへはひらり、こなたへはひらり、ひらりひらりと。いかに磁石よ、いかに磁石よ。
▲アト「《上》{*2}誰(た)そや、辺りに音するは。
▲シテ「古(いにしへ)の、たらたらよ。
▲アト「声をも聞かじ、怨めしや。
▲シテ「《下》怨むるも、道理なり。げに怨むるも、道理なり。
▲アト「がつきめ、やらぬぞ。
▲シテ「又、騙したか。
▲アト「たつたひと討ちにせうぞ。
{と云ひて、追ひ込み入るなり。}
校訂者注
1:「留め論」は、不詳。
2:底本、ここから「実にうらむるも道理なり」まで、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.)
磁石(ジシヤク)(二番目 三番目)
▲アト「是は遠江の国見附の国府の者で御座る、某国許で不図留め論を致して、在所の住居もなり憎う御座るに依つて、此度上方へ上り此処彼処をもゆるゆる見物致し、似合しい所もあらば足をもとゞめうと存ずる、誠に若い時、旅を致さねば、老いての物語がないと申すに依つて、思ひ立つた事で御座る、{*1}あれに大きな宮立がある、あれはどこぢや何尾張の国熱田の明神ぢや、聞及うだよりは大社ぢや、此度参詣が致したけれ共上方へ急ぐ不参を致さう、あの青々と見ゆるは何ぢや、何近江の湖ぢや、扨も扨もおびたゞしひ事哉、別して其所許のどゞめくは何ぢや、大津松本の市ぢや、是は立寄て見物致さう▲シテ「人を売つて渡世致す者で御座る、今日は大津松本の市で御座る、参つて仕合を致さうと存ずる、いやあれに田舎者と見えて市を見物して居る、ちと彼奴にたづさはつて見うと存ずる▲アト「あゝ出したり出したり是は何を求めうと儘な事ぢや▲シテ「何れ何を求めうと儘な事ぢや▲アト「是は子供のもて遊びぢや▲シテ「誠に子供のもて遊びぢや、雛張子土で造つた狗{*2}起上小法師、振り鼓何を求めうと儘な事ぢや{此しかしかの内、アト{*3}の言ふ通り吟ずるなり}{*4}えい何と▲アト「はて気味の悪い奴ぢや▲シテ「目のさやのはずれた奴ぢや▲アト「店を変えて見物致さう▲シテ「店をかえ居るさうな▲アト「是は茶の湯の道具ぢや▲シテ「何れ茶の湯の道具ぢや▲アト「風呂釜茶碗、茶入、水翻何を求めうと儘な事ぢや▲シテ「えい何と▲アト「わごりよは最前から近附{*5}のやうにおせあれども、曽て身共は知らぬぞや▲シテ「知らぬと言ふ事があるものか、そなたは物の人ぢや▲アト「物とは▲シテ「はてそれ物いのふ▲アト「身共は岡崎の者で御座る▲シテ「おゝおゝ岡崎の人ぢや▲アト「岡崎の橋を▲シテ「橋を▲アト「渡らうとして▲シテ「して▲アト「渡りはしませぬ▲シテ「渡りはせぬ▲アト「はてよう知つて御座るのふ▲シテ「よう知つて居るとも▲アト「夫ならば真実申さう、私は遠江の国見附の国府の者で御座る▲シテ「ありようは遠江の国見附の国府の人ぢや▲アト「見附の町を▲シテ「町を▲アト「一町程真直に行て▲シテ「いて▲アト「左へきりゝと廻つて▲シテ「廻つて▲アト「角から三軒目の▲シテ「めの▲アト「者で御座る▲シテ「成程三軒目の人ぢや▲アト「はてよう知つて御座るのう▲シテ「よう知つて居るとも、して此度は何としたれば物したぞ▲アト「去ればの事で御座る、国許で不図とめ論を致して御座れば、在所の住居もなりにくう御座るに依つて、此度都へ上る事で御座る▲シテ「扨はさうでおりあるか、そなたの小さい時、親達のおせあるには、あれは成人の後、人と喧嘩をせいで叶はぬ者ぢやとおせあつたが、あゝ違はぬ物でおりある、してそなたの物は息災なか▲アト「者とは▲シテ「それ物いのう▲アト「えゝ伯母で御座るか▲シテ「おゝ伯母伯母▲アト「随分息災に御座る▲シテ「身共はその伯母にいかう世話になつたものでおりある▲アト「扨はこなたの事で御座るか、上方にも心易うせいで叶はぬ人があるとおせありました▲シテ「成程それは身共が事ぢや、爰で逢ふたこそ幸ひなれ、奉公がしたくば奉公もさせうず、又商ひがしたくば資本をやつて商ひをさせう程に、さう心得さしませ▲アト「それは忝う御座る、兎角こなたを頼みまするぞ▲シテ「扨そなたは石山の観世音へ参つた事があるか▲アト「聞き及ふだれども、遂に参つた事は御座らぬ▲シテ「夫ならばお礼かたがた{*6}連れて参らう程に、さあさあおりあれ▲アト「心得ました▲シテ「扨、あの石山の観世音は霊験あらたな御仏ぢや、身の行末をも祈らしめ▲アト「成程信を取つて身の行末を祈りませう▲シテ「幸ひ路次に存じた茶屋がある、是へ連れて寄つて休ませうぞ▲アト「それは忝ふ御座る▲シテ「何彼といふ内に是ぢや、さあさあ斯う通らしめ▲アト「通つても苦敷う御座らぬか▲シテ「苦しうない、つうと通らしめ▲アト「心得ました{*7}扨私はいかう草臥れました。暫く熟睡ろみませう▲シテ「それならば洗足をおしあれ▲アト「洗足には及びませぬ、暫らく休みませう▲シテ「やいやい若い者洗足をせい、若い者若い者、なうなう御亭主御座るか▲小アト「是に居まする▲シテ「又よい若い者を連れて来た程に求めておかしめ▲小アト「何をおせある、先度も其様におせあつたれども取り逃をして損をした▲シテ「此度は格別よい者ぢや程に求めておかしませ▲小アト「それならば先づ人柄{*8}を見よう▲シテ「お見やれ、あれで{*9}おりある▲小アト「あれはどうやらよささうな者ぢや、求めうが代物は何程でおりある▲シテ「五百疋でおりある▲小アト「それはあまり高直な三百疋に負けておくれあれ▲シテ「いやいや負けはない、嫌ならばおかしませ▲アト「せんどのもので損をした、どうぞ三百疋に負けておくれあれ▲シテ「先度のもので損をしたとおせある程に三百疋に負けてやらうぞ▲小アト「それは過分な▲シテ「扨、代物は明朝六つ太鼓を打つ時、塀越に受取であらう▲小アト「成程塀越に渡さう▲シテ「身共もいかう草臥れた、暫くまどろまう▲小アト「一段とよからう{此しかしかの内、アトそつと起きてシテの後に立聞する、亦そつと寝て居る也}▲シテ「やいやい若い者、洗足をせぬか、若い者、あゝ洗足をせいでなあ{と云ひて寝る、アトそつと起きて差足して橋掛へ行きて}▲アト「なうなう恐ろしや恐ろしや、彼奴は近附のやうに申したに依つて、誠かと存じたれば、あれは人売ぢや、はつちやこはもの急いですかそうか、いやいや夕辺身共を鳥目三百疋に売つた、致し様が御座る{と云ひて太鼓座の向うにて舞台二つ叩くなり}▲小アト「何ものぢや▲アト「約束の者▲小アト「心得た{大小の前より鳥目を持ち出し塀越に渡す心にて両手をあげ}{*10}渡した▲アト「請取つた、是さへ取れば心易い、先づ急いですかさう{と云ひて笛座の上へくつろぐ}▲シテ「むゝ寝た事かな寝た事かな。是は如何な事、夜ががんがりとあけた、扨も扨も寝過した事かな{と云ひて大小の前に行つて舞台を二つ叩く也}▲小アト「何者ぢや▲シテ「約束の者▲小アト「最早や渡した▲シテ「いや請取らぬ▲小アト「いや渡した▲シテ「果て身共でおりある▲小アト「でも渡した▲シテ「何ぢや渡した▲小アト「中々▲シテ「合点の行かぬ事をおせある、南無三宝又してやられた▲小アト「それお見あれの▲シテ「扨々憎い奴ぢや、どつちへ失せおつた事ぢや{と云ひて寝たる跡を撫でゝ{*11}}{*12}まだ遠うへは行くまい、寝た跡が如来肌な追かけう程にその太刀を貸しておくれあれ▲小アト「心得た、是は身共が重代ぢや、そこなはぬ様にしておくれあれ▲シテ「心得た、扨々腹の立つ事ぢや{と云ひてシテ柱先にて肩を脱ぐなり、此内にアトも立也。}{*13}おのれ今の間に思ひ知らせうぞ▲アト「なうなう嬉しや嬉しや、先づ急いですかせう▲シテ「がつきめやらぬぞ▲アト「呑まう▲シテ「何んの呑まう▲アト「あゝ▲シテ「あら不思議や身共が抜いた太刀を見て呑まうの、あゝのといふ、おのれは何者ぢや▲アト「身共を知らぬか▲シテ「いゝや知らぬ▲アト「唐土日本の汐境に磁石山といふ山がある、その山に住む磁石の精ぢや▲シテ「何ぢや磁石の精{*14}ぢや▲アト「中々▲シテ「して何と▲アト「昔は渡海の船が釘鎹{*15}附であつたに依つて、吸寄せてはずつと呑み、引寄せてはずつと呑みしたれども、今は人間が賢かうなつて、藤がらみ漆喰{*16}詰めにするに依つて、磁石山のきゝん以の外ぢや、去るに依つて此度日本に渡り鉄を呑まうと思ふ所に夕辺身共を鳥目三百疋に売つた▲シテ「いゝや売らぬ▲アト「いや売つた▲シテ「して何と▲アト「それを呑うだればからかねであつたに依つて、咽に詰まつて心地が悪い、今又汝が抜いた太刀は、天晴れ一銘かゝへた物と見うけた、切つ先から鎺元までたつた一口に呑まう▲シテ「何の呑まう▲アト「あゝ▲シテ「是は如何な事、磁石の精ぢやと申すどうやら思ひなしか太刀がどんみりとしたやうな▲アト「あまりの難義さに、磁石の精と申したれば誠と存ずるさうな、愈々たばからうと存ずる▲シテ「致しやうが御座る、やいやい磁石▲アト「何ぢや▲シテ「此太刀を見すれば何とある▲アト「心がせいせいとするわ▲シテ「隠くせば▲アト「まくまくする▲シテ「鞘に収むれば▲アト「あゝ納めてくれな命がない▲シテ「何ぢや命がない▲アト「中々▲シテ「やれやれ嬉や、汝を是迄追駈けたも命を取らう為め計ぢや、さらば鞘に納むるぞ▲アト「あゝ納めてくれな▲シテ「そりあ納むるわ、そりあそりあそりあ納めたわ、やい磁石又だましはせぬか、こりあ磁石、々々、ほ、こりあ死んだが定{*17}さうな、あゝやす大事をした、天下納り目出度い御代に、若い者が二人追つつまくつゝした{*18}、一人は死する、今一人はとお尋ねの時、身共が迷惑をする、何とした物で有らう、いや彼奴は此太刀故に命を失うた者ぢや、此太刀を彼奴に手向、二度蘇生を祈らうと存ずる、如何に磁石慥に聞け、汝が好む太刀の鎺元二三寸抜きくつろげ、磁石が枕元にとうど置、くわつくわつのもんを唱へ、磁石が上を、あなたへはひらり、こなたへはひらり、ひらりひらりと、如何に磁石よ如何に磁石よ▲アト「《上》たそやあたりに音するわ▲シテ「古しへのたらたらよ▲アト「声をも聞かじ、怨めしや▲シテ「《下》うらむるも道理なり、実にうらむるも道理なり▲アト「がつきめやらぬぞ▲シテ「又だましたか▲アト「たつた一と討にせうぞ{と云ひて追込み入るなり}
校訂者注
1:底本、ここに「似合しい所もあらば足をも留めうと存ずる、」がある。
2:底本の漢字は[獣偏に禺](ゑのこ)。テキストになく、「狗」で代用した。
3:底本は、「あと」。
4・12・13:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
5:底本は、「金時(ちかづき)」。
6:底本は、「旁(かた(二字以上の繰り返し記号))」。
7:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
8:底本は、「人族(ひとがら)」。
9:底本は、「あれておりある」。
10:底本、ここに「▲小アト「」がある(略す)。
11:底本は、「撫てゝ」。
14:底本は、「情(せい)」。
15:底本は、「鎚(かすがい)」。
16:底本は、「膝喰(しつくひ)」。
17:底本は、「誠(じやう)」。
18:底本は、「追つつまくつした」。
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