丼礑(どぶかちり)(二番目 三番目)

▲シテ「何勾当でござる。やうやう、涼みも近々(きんきん)になつてござるによつて、都へ上らうと存ずる。まづ菊市を呼び出し、申し付けうと存ずる。
{と云ひて、呼び出す。出るも常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。涼みも近々になつたによつて、都へ上らうと思ふが、何とあらう。
▲アト「御意もなくば、申し上げうと存じてござる。一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、竹筒(さゝえ)の用意をせい。
▲アト「畏つてござる。
{と云ひて、太鼓座へ行き、竹筒を腰につけて出る。}
竹筒の用意、致してござる。
▲シテ「行かう程に、さあさあ、来い来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「何と思ふ。この、涼みの積塔(しやくたふ)のといふは、国々より座頭どもが、夥(おびたゞ)しう上る事ぢやによつて、晴れがましい事ぢや。
▲アト「御意なさるゝ通り、晴れがましい事でござりまする。
▲シテ「扨そちも、この度は、官をしてとらせうぞ。
▲アト「それは、ありがたう存じまする。
▲シテ「それに就いて、いつぞや教へた平家は、覚えて居るか。
▲アト「いや、忘れました。
▲シテ「これはいかな事。一度習うた事を、忘るゝといふ事があるものか。
▲アト「随分と存じますれども、かれこれ致して、覚えかねまする。
▲シテ「いや。それは、不執心なによつてぢや。幸ひ、後先(あとさき)に人もなさゝうな。慰みがてら、又汝が稽古のため、一句語つて聞かせう程に、良う聞け。
▲アト「畏つてござる。
{シテの平家、「一の谷」。前に同断なり{*1}。}
よいや、よいや。扨も扨も、面白さうな事でござりまする。
▲シテ「惣じて、平家といふものは、この音(おん)が大事ぢや程に、良う覚えい。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ、来い来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「扨、最前から、何やらどうどうと鳴る音がする。あれは、何であらう。
▲アト「されば、何でござりませうぞ。
▲シテ「松風の音か。但しは、川の瀬か。
▲アト「何(いづ)れ、川の瀬のやうにござる。
{と云ふ内、二人ながら、水にて足濡れたる心。}
▲シテ「わあわあ。これは、川ぢや。
▲アト「誠に、川でござる。
▲シテ「その辺りに、橋はないか。
{アト、杖にて探りて、}
▲アト「いや、橋はござらぬ。
▲シテ「人通りがあらば、渡り瀬が尋ねたいものぢや。
▲アト「どうやら、いかう深さうにござる。
▲シテ「是非に及ばぬ。渡らずはなるまい。まづ、礫(つぶて)を打つて見よう。
{と云ひて、礫を打つ。}
どんぶり。これは、いかう深い。
▲アト「どうやら、深さうにござる。
▲シテ「もそつと、上(かみ)へ行かう。
▲アト「それが、良うござりませう。
▲シテ「又この辺りで、礫を打つて見よう。
▲アト「良うござりませう。
{又、礫を打つ。}
▲シテ「かつちり。《笑》浅いわ。
▲アト「誠に、浅うござる。
▲シテ「さあさあ、負ひ越せ。
▲アト「これは、迷惑でござる。私一人さへ、川を渡るは心元なうござるに、御前(おまへ)を、何として負ひ越さるゝものでござる。
▲シテ「いや、こゝな奴が。おのれを連るゝは、この様な時のためではないか。急いで負ひ越せ。
▲アト「これは、迷惑でござる。
▲シテ「何の、迷惑といふ事があるものか。早う負ひ越せ。
▲アト「是非に及ばぬ。さあさあ、負はれさつせあれ。
{川のしかじかの内、小アト出て、名乗る。}
▲小アト「急ぎの使ひに、川向かひへ参る。まづ、急いで参らう。これはいかな事。座頭が、川を渡る。これは、面白からう。いや、致し様がござる。
{と云ひて、小アト、負はれる。アト、しかじか云ひて、負ひ越す。小アト、隠れ笑ひする。シテ、呼ぶ。}
▲シテ「菊市。身拵へが良くば、負ひ越せ。菊市、菊市。
▲アト「やあ。
▲シテ「おのれは、一人渡つたか。
▲アト「こなたは又、そちらへ戻らせられたか。
▲シテ「何をぬかし居る。最前から、こゝに待つて居る。
▲アト「最前、素直に負ひ越さぬと云ふ腹立ちであらうが、これは、余り胴欲な事ぢや。
▲シテ「何を吐かし居る。早う負ひ越せ。
▲アト「危ない程に、しつかりと負はれさつせあれ。
{と云ひて、負ひて川を渡るなり。}
▲小アト「笑止な。あれは、はまらうが。
▲アト「おゝ。これは、最前と違うて、いかう深い。
▲シテ「危ない。静かに渡れ。
▲アト「あゝ。これは、石が滑る、石が滑る。
▲シテ「これは、何とする。
{と云ふ内、二人とも転がるなり。小アト、可笑しがりて、笑ふ。}
耳へ水が入る。一絞りぢや。
▲アト「正真の濡れ鼠になつた。
▲シテ「最前、素直に負ひ越せば、この様な事はないに。
▲アト「何を云はせらるゝ。いらぬ事に、二度三度さつせあるによつて、この様な事ぢや。
▲シテ「扨も扨も、寒い事ぢや。菊市、最前の竹筒はあるか。
▲アト「いや。成程、竹筒はござる。
▲シテ「せめて、それなりとも呑まう。早う出せ。
▲アト「心得ました。
{と云ひて、腰の瓢箪を出し、酒をつぐ。シテ、扇を拡げ、受ける。}
▲小アト「いや。酒を呑むさうな。
{と云ひて、扇拡げ、アトのシテにつぐ酒を受けて、呑んで笑ふ。}
▲シテ「菊市。これは、無いぞよ。
▲アト「確かにつぎましたが。
▲シテ「脇の方(はう)へついださうな。篤(とく)とつげ。
{アト、つぐ。又、小アト、受けて呑んで悦ぶ。シテ、呑んで見て、}
これはいかな事。又、無い。
▲アト「何。又ない。
▲シテ「脇へこぼれはせぬか。
▲アト「いゝや。こぼれもしませぬ。
▲シテ「そちは、合点の行かぬ者ぢや。しつかりと持つて、つげ。
▲アト「こなたの無い無い。と云はせらるゝが、合点が行かぬ。さあ、良うござるか。
▲シテ「良い、良い。
▲アト「つぎまするぞや。
▲シテ「早うつげ。
▲アト「とぶとぶ、びしよびしよ。はあ、ないわ。
▲シテ「呑まぬ先から、皆になつた。
▲アト「身共も、一つ呑まうと思うたに。残り惜しい事ぢや。
{小アト、又受けて呑み、悦ぶ。同断なり。}
▲シテ「やい、菊市。
▲アト「やあ。
▲シテ「これは、又無い。
▲アト「何ぢや。又ない。
▲シテ「おのれは最前から、つぐつぐ。と云うて、皆おのれが呑むな。
▲アト「こなたは最前から、ないない。と云うて、呑み隠しをさせあるの。
▲シテ「いや、こゝな奴が。勾当とも云はう者が、呑み隠しをして良いものか。おのれが心に引き較べて、様々の事をぬかし居る。
{この間に小アト、しかじかあり。面白がり、笑ひて居る。それより、二人の鼻を弾(はじ)く。耳を引く。後に叩きなどして、大きに笑ふ。「井杭」に同断。}
あ痛、あ痛。これは、身共が鼻を弾くか。
▲アト「私は今、竹筒を仕舞うて居ます。あ痛、あ痛。こりや、某の鼻を弾かつせあるか。
▲シテ「おのれが鼻を弾いて、何にするものぢや。あ痛、あ痛、あ痛。これは、身共が耳を引くか。
▲アト「竹筒を仕舞うて居ますわいなう。あ痛、あ痛、あ痛。こりや、私の耳を引かつせあるか。
▲シテ「身共は、それへ指もさしはせぬ。あ痛、あ痛。こりや、身共を打擲するか。
▲アト「何を云はつせある。あ痛、あ痛。こりや、身共を打擲さつせあるか。
▲シテ「おのれ、推参な奴の。
▲アト「いかに勾当の御坊ぢやと云うて、もはや、堪忍がならぬ。
{と云ひて、二人、探り合つて、二人組み合ふ。小アト、橋掛りにて、大きに笑ふ。}
▲シテ「菊市。まづ、待て。いかう笑ふ声がする。目あきが居て、なぶるさうな。
▲アト「扨は、彼奴(きやつ)でござらう。
▲シテ「ぬかるな。
▲アト「心得ました。
▲シテ「どれに居るぞ。
▲小アト「やいやい。こゝに居る。
▲シテ「それそれ、そこに居る。
▲小アト「こゝぢや、こゝぢや。
▲シテ「それそれ、そちへ行(い)た。
{と云ひて、二人、杖にて「ゑい、たう、ゑい、たう」と云ひ、追ひ廻す。アトも追ふ。小アト、笑つて入るなり。アト、シテを叩きて追ふ。シテ、驚き、杖にて無理に叩く。シテ、逃げて入る。}
こりや、身共ぢや。
▲アト「何をぬかし居る。憎い奴の。
{と云ひて、無理に追ひ込み、入るなり。}

校訂者注
 1:「前に同断」とあるが、ここまでの巻にはなく、次の「鞠座頭」にある。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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丼礑(ドブカチリ)(二番目 三番目)

▲シテ「何勾当で御座る、漸、涼も近々になつて御座るに依つて、都へ上らうと存ずる、先づ菊市を呼出し申付うと存ずる{と云ひて呼出す出るも如常}{*1}汝呼出す別の事でない、涼も近々になつたに依つて、都へ上らうと思ふが何とあらう▲アト「御意もなくば申上うと存じて御座る、一段とよう御座りませう▲シテ「夫ならばさゝえの用意をせい▲アト「畏つて御座る{と云ひて太鼓座へ行きサゝエを腰につけて出る}{*2}竹筒の用意致して御座る▲シテ「行う程にさあさあ来い来い▲アト「畏つて御座る▲シテ「何と思ふ、此涼のしやくとうのと言ふは、国々より座頭共が夥多しう上る事ぢやに依つて晴がましい事ぢや▲アト「御意なさるゝ通り、晴がましい事で御座りまする▲シテ「扨そちも此度は官をしてとらせうぞ▲アト「それは有難う存じまする▲シテ「夫に就て、何時ぞや教へた平家は覚えて居るか▲アト「いや忘れました▲シテ「是は如何な事、一度習うた事を忘るゝといふ事があるものか▲アト「随分と存じますれども彼是致して覚え兼ねまする▲シテ「いや夫は不執心なに依てぢや、幸ひ後先に人もなささうな、慰みがてら又汝が稽古のため、一つ句語つて聞かせう程によう聞け▲アト「畏つて御座る{シテの平家、一の谷前に同断なり}{*3}よいやよいや、扨も扨も面白さうな事で御座りまする▲シテ「惣じて平家と言ふ者は、此をんが大事ぢや程によう覚えい▲アト「畏つて御座る▲シテ「さあさあ来い来い▲アト「畏つて御座る▲シテ「扨、最前から何やらどうどうと鳴音がする、あれは何であらう▲アト「されば何で御座りませうぞ▲シテ「松風の音か、但しは川の瀬か▲アト「何れ川の瀬のように御座る{といふ内二人ながら水にて足ぬれたる心}▲シテ「わあわあ、是は川ぢや▲アト「誠に川で御座る▲シテ「其辺りに橋はないか{アト杖にて探りて}▲アト「いや橋は御座らぬ▲シテ「人通りがあらば渡り瀬が尋ねたいものぢや▲アト「どうやらいかう深さうに御座る▲シテ「是非に及ばぬ渡らずはなるまい、先づ礫を打つて見よう{と云ひて礫を打つ}{*4}どんぶり、是はいかう深い▲アト「どうやら深さうに御座る▲シテ「最そつと上へ行かう▲アト「夫がよう御座りませう▲シテ「又此辺りで礫を打つて見よう▲アト「よう御座りませう{亦礫を打つ}▲シテ「かつちり《笑》{*5}浅いわ▲アト「誠に浅う御座る▲シテ「さあさあ負ひこせ▲アト「是は迷惑で御座る、私一人さへ川を渡るは心許なう御座るに、お前を何として負ひこさるゝ物で御座る▲シテ「いや爰な奴が、おのれを連るゝは此様な時の為ではないか急ひで負ひ越せ▲アト「是は迷惑で御座る▲シテ「何の迷惑と言ふ事があるものか、早う負ひ越せ▲アト「是非に及ばぬさあさあ負はれさつせあれ{川のシカシカの内小アト出て名乗る}▲小アト「急ぎの使に川向いへ参る、先づ急ひで参らう、是は如何な事、座頭が川を渡る、是は面白からう、いや致し様が御座る{と云ひて小アトおわれる、アトしかしか云ひて負ひ越す小アト隠笑ひする、シテ呼ぶ}▲シテ「菊市身拵がよくば負ひ越せ、菊市々々▲アト「やあ▲シテ「おのれは独り渡つたか▲アト「こなたは又そちらへ戻らせられたか▲シテ「何をぬかし居る、最前から爰に待つて居る▲アト「最前素直{*6}に負ひ越さぬと言ふ腹立であらうが、是は余り胴欲な事ぢや▲シテ「何を吐かし居る早う負ひ越せ▲アト「危い程にしつかりと{*7}負はれさつせあれ{と云ひて負ひて川を渡るなり}▲小アト「笑止なあれははまらうが▲アト「おゝ、是は最前と違うていかう深い▲シテ「危ない、静に渡れ▲アト「あゝ是は石が滑る石が滑る▲シテ「是は何とする{と云ふ内二人とも転るなり小アト可笑がりて笑ふ}{*8}耳へ水が這入る、一絞りぢや▲アト「正真{*9}の濡れ鼠になつた▲シテ「最前素直{*10}に負ひ越せば此様な事はないに▲アト「何を言はせらるゝ、いらぬ事に二度三度さつせあるに依つて此様な事ぢや▲シテ「扨も扨も寒い事ぢや菊市、最前の竹筒はあるか▲アト「いや成程竹筒は御座る▲シテ「せめて夫なりとも呑まう、早う出せ▲アト「心得ました{と云ひて腰の瓢箪を出し酒をつぐシテ{*11}扇を拡げうける}▲小アト「いや酒を呑むさうな{と云ひて扇拡げアトのシテに注ぐ酒をうけて呑んで笑ふ}▲シテ「菊市、是は無いぞよ▲アト「慥に注ぎましたが▲シテ「脇の方へ注いだそうな、篤と注げ{アト注ぐ亦小アト請けて呑んで悦ぶ、シテ呑で見て}{*12}是はいかな事、又無い▲アト「何に又ない▲シテ「脇へこぼれはせぬか▲アト「いゝやこぼれもしませぬ▲シテ「そちは合点のゆかぬ者ぢや、しつかり{*13}ともつてつげ▲アト「こなたの無い無いと言はせらるゝが合点が行かぬ、さあよう御座るか▲シテ「よいよい▲アト「注ぎまするぞや▲シテ「早う注げ▲アト「とぶとぶ、びしよびしよ、ハアないわ▲シテ「呑まぬ先からみなになつた▲アト「身共も一つ呑まうと思ふたに、残り惜い事ぢや{小アト亦請けて呑み悦ぶ、同断也}▲シテ「やい菊市▲アト「やあ▲シテ「是は又無い▲アト「何ぢや又ない▲シテ「おのれは最前から注ぐ注ぐと言ふて皆おのれが呑むな▲アト「こなたは最前からないないと言ふて呑み隠くしをさせあるの▲シテ「いや爰な奴が、勾当共言はう者{*14}が呑み隠くしをしてよいものか、おのれが心に引較らべて様々の事を吐かし居る{此間に小アトしかしかあり面白がり笑て居る夫より二人の鼻を弾く、耳を引く後に叩きなどして大きに笑ふ、井杭に同断}{*15}あいたあいた、是は身共が鼻を弾くか▲アト「私は今竹筒を仕舞ふて居ます、あひたあひた、こりや某の鼻を弾かつせあるか▲シテ「おのれが鼻を弾いて何にするものぢや、あいたあいたあいた、是は身共が耳を引くか▲アト「竹筒を仕舞ふて居ますわいのう、あいたあいたあいた、こりや私の耳を引かつせあるか▲シテ「身共はそれへ指もさしはせぬ、あいたあいた、こりや身共を打擲するか▲アト「何を言はつせあるあいたあいた、こりや身共を打擲さつせあるか▲シテ「おのれ推参な奴の▲アト「如何に勾当の御坊ぢやと言ふて、最早や堪忍がならぬ{と云ひて二人探り合つて二人組合ふ小アト橋掛にて大きに笑ふ}▲シテ「菊市先づ待て、いかう笑う声がする、目あきが居て嬲るさうな▲アト「扨は彼奴で御座らう▲シテ「ぬかるな▲アト「心得ました▲シテ「どれに居るぞ▲小アト「やいやい爰に居る▲シテ{*16}「夫々そこに居る▲小アト「爰ぢや爰ぢや▲シテ「夫々そちへ行た{*17}{と云ひて二人杖にてヱイタウヱイタウと云ひ追廻す{*18}、アトも追ふ、小アト笑つて入る也、アト、シテを叩きて追ふ、シテ驚き杖にて無理に叩く、シテ逃げて入る。}{*19}こりや身共ぢや▲アト「何をぬかし居る、憎い奴の{と云ひて無理に追込み入るなり}

校訂者注
 1・4・8・12・15・19:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 2・3:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 5:底本の「笑ふ」は、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
 6・10:底本は、「柔順(すなほ)」。
 7・13:底本は、「確(しつ)かりと」。
 9:底本は、「正身(せうしん)」。
 11:底本は、「酒をつくして」。
 14:底本は、「勾頭(かうとう)共言はゝ者」。
 16:底本は、「▲てシ「」。
 17:底本は、「そちへ居(ゐ)た」。
 18:底本は、「追返す」。