川上(かはかみ)(二番目)
▲シテ「大和の国、この吉野の里に住居(すまひ)致す者でござる。某(それがし)、拾ケ年以前、ふと眼を患(わづら)うて、かやうの盲目(めくら)となつてござる。生まれつきの盲(めくら)ならば、左程にもござるまいに、黒白(こくびやく)を知つての俄盲人(にはかめくら)でござるによつて、不自由なと申さうか、この様な難儀な事はござらぬ。又、承れば、この山の奥、川上と申す所に、天から降らせられた貴い地蔵菩薩があつて、何事によらず、申す事が叶ふと申す。某も、参詣致さうと存ずる。なうなう、これの人、居さしますか。おりあるか。
▲アト「今めかしや、今めかしや。妾(わらは)を呼ばせらるゝは、何事でござる。
▲シテ「ちと相談したい事がある。まづ、かう通らしめ。
▲アト「心得ました。それは、心元ない。まづ、何事でござるぞ。
▲シテ「いやいや。別に、心元ない事ではない。身共がこの眼の見えぬも、もはや、十ケ年にもならうか。
▲アト「成程、妾がこれへ参つてからでござる程に、十ケ年にもなりませうぞ。
▲シテ「誠に、身共がこの眼に就いては、そなたも色々、介抱をしておくれある。又、某も色々と養生もしたれども、とかく、その甲斐もない。又、承れば、この山の奥、川上といふ所に、天から降らせられた、貴い地蔵菩薩があつて、この中(ぢゆう)も、座頭どもが大勢参つたれば、悉く眼をあけて下されたげな。生まれつきの盲人でさへ、その様に眼をあけて下さるゝ。まして某は、黒白を知つての俄盲人の事ぢやによつて、参詣したらば、御利生のないといふ事はあるまいによつて、参らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲アト「誠に、こなたの眼に就いては、妾も色々介抱をしましたれども、その験(しるし)もござらぬ。成程、その川上とやらへ参らせられたが、良うござらう。
▲シテ「思ひ立つ日が吉日ぢや。今から参らう程に、留守の事を頼むぞ。
▲アト「留守の事は、必ず心に掛けさせられな。
▲シテ「明日(あす)は、早々戻つて逢はうぞ。
▲アト「明日(みやうにち)早々、御目にかゝりませう。
▲二人「さらば、さらば。
▲シテ「まづ、急いで川上へ参らう。誠に、五体不具なと申すに、何一つ、取りえはござらぬ。春なればとて、花を詠(なが)むる事もならず、秋なればとて、月を見る事もならず、たゞ、明けても暮れても片隅へ寄つて、うぢうぢとばかりして居る事ぢや。あ痛、あ痛。扨も扨も、痛やの、痛やの。この、物に蹴躓(けつまづ)くには、ほうど困つた。扨も扨も、痛い事かな。今のは、何であつたぞ。
{と云ひて、杖にて辺りを探る。}
はあ。これは石壇ぢや。扨は、参り着いたか。思ひの外、早う着いた。まづ、石壇を上らう。えい、えい、えい。鰐口が、ありさうなものぢやが。こゝにあるわ。
{と云ひて、鰐口を鳴らす。拝むなり。常の如し。}
私、只今参詣致す事、余の儀ではござらぬ。十ケ年以前、はからず眼を患ひまして、かやうの盲人となつてござる。生まれつきの盲目ならば、左程にもござるまいに、黒白を知つての俄盲人でござるによつて、不自由なと申さうか、この様な難儀な事はござらぬ。あはれ、地蔵菩薩の御蔭を以て、再び開目なされて下され。南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩。今夜は、この所に通夜を致さう。扨も扨も、夥(おびたゞ)しい参詣と見えて、いかう賑(にぎ)やかな。えゝ。私が事でござりますか。私は、これに籠りまする者でござる。御前(おまへ)は、どれからの御参詣でござりますぞ。何、近江の国。これは、遠方からの御参詣でござる。定めて何ぞ、御願(ごぐわん)がござりませう。あの、御前がや。扨も扨も、御笑止千万な事でござります。さりながら、御信心をなされませ。あらたかな地蔵菩薩でござるによつて、御利生のないと申す事は、ござりますまい。成程、今宵は申し合(あは)せませう。忝う存じまする。これはいかな事。身共ばかり迷惑するかと思へば、又、あの様に難儀をなさるゝ御方もあり、扨も扨も、お痛はしい事かな。はあ。私の事でござるか。成程、両眼ともに、見えませぬ。いや。もう、不自由なと申さうか、御推量なされて下され。扨、御前は、どれからの御参詣でござります。上方。これも、遠方の御参詣でござる。何の御願ひでござる。あの、願成就の御礼参り。扨も扨も、それはお羨ましい事でござる。私も、御前にあやかりまして、早う御礼参りが致したうござる。忝う存じまする。又、あの様な御礼参りをなさるゝ御方もあり、扨も扨も、羨ましい事ぢや。はあ、いかう夜が更けたと見えて、地蔵の法号を称へ、経陀羅尼の声ばかりぢや。さらば、身共もまどろまう。はあはあ。あら、ありがたや。暫く睡眠(すいめん)の内に、あらたかな御霊夢を蒙つた。扨も扨も、ありがたい事かな。南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩。御夢相の通り、今など眼があいたらば、嬉しい事ぢやが。これは、思ひなしか、どうやら眼がうじうじと痒(かゆ)い様な。扨も扨も、ありがたい事ぢや。やうやう、どうやら世間が薄々(うすうす)と見ゆる様な。南無地蔵菩薩、南無地蔵菩薩。扨も扨も、ありがたい事ぢや。あれあれ。いかう明(あか)うなつた。やあ。これは、眼があいた。《笑》扨も扨も、ありがたい事かな。久しぶりで天道を拝し、青々とした草木(さうもく)の色を詠(なが)める事ぢや。南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩。さりながら、今の御夢相の内に、ちと心掛かりな事もあるが、何としたものであらうぞ。いやいや。身共が眼には替へられぬ。それは又、帰つてからの思案に致さう。まづ、急いで帰らう。《笑》座頭の癖が失(う)せさらいで。この杖は、何ぢや。忌々しい、捨てゝ帰らう。誠に、神仏の事を、あだおろそかに存ぜう事ではござらぬ。この様な事を存じたらば、疾(と)う参らうものを。扨も扨も、悦ばしい事ぢや。
▲アト「これのは夜前、川上の地蔵へ参られてござる。迎ひに参らうと存ずる。えい、こちの人。戻らせられたか。
▲シテ「そなたは、女どもか。
▲アト「こなたは、眼があきましたか。
▲シテ「おゝ。眼があいた。
▲アト「扨も扨も、嬉しい事でござるなう。
▲シテ「まづ、これへ寄つて、眼の様子を見てたもれ。
▲アト「どれどれ。今までは、白いどんみりとした眼でござつたが、黒い涼しい眼になりました。
▲シテ「何ぢや。黒い涼しい眼になつたか。
▲アト「中々。
▲シテ「何と、ありがたい事ではないか。
▲アト「まづ、何と云はせられたらば、その様に眼をあけて下されたぞいの。
▲シテ「いや。地蔵菩薩も、只はあけて下されぬ。段々、様子のある事ぢや。
▲アト「さうでござらうとも。早う様子を云はせられい。
▲シテ「この様子は、そなたの前では、ちと云ひにくい事ぢや。
▲アト「これはいかな事。夫婦の中で、何の云ひにくい事がござらう。早う云はせられい。
▲シテ「どうで、云はねばならぬ事ぢや。云うて聞かさう。必ず聞いて、腹をお立てあるな。
▲アト「心元ない。早う仰せられい。
▲シテ「まづ、夜前あれへ行(い)て、籠つて居たれば、夜半ばかりの頃、忝くも、地蔵菩薩の御戸帳(みとちやう)を開き、ゆるぎ出でさせられ、錫杖を以て、某が額を三度まで撫でさせられて、やれやれ不憫の者や。そちは、今まで迷惑させるものではなかつたれども、こちへも云はなんだによつて、久々難儀をさせた。その仔細と云ふは、今汝が連れ添ふ女房は、大悪縁。
▲アト「やあ。
▲シテ「そなたと身共は、悪縁ぢやといなう。
▲アト「これはいかな事。
▲シテ「早う帰つて離別せい。今こそあけてとらする。とあつて、この様に眼をあけて下されたが、何と、ありがたい事ではないか。
▲アト「何ぢや。ありがたい。
▲シテ「中々。
▲アト「えゝ、腹立ちや、腹立ちや。神仏(かみほとけ)といふは、夫婦の仲の悪いを良うするこそ、神仏の役なれ。どこにか、仲良う連れ添うて居るものを、去れ。と云ふ事があるものかいやい、あるものかいやい。して、その返事は何とした。
▲シテ「何とするものぢや。忝うこそござれ。早々帰つて、離別致しませう。と云うたれば、御顔の様な美しい御声で、善哉(ぜんざい)、善哉。尤、尤。と仰せられた。
▲アト「何の、尤といふ事があるものか。あの川上の、焼け地蔵の腐り地蔵奴(め)が、ぬかし居つた事わいやい。
▲シテ「あゝ、これこれ。そなたと身共とは、悪縁ぢやによつて、連れ添へば、眼が潰るゝ。その上、折角あけて下されたものを潰させうより、そなたも又、外へ行(い)て、良い男を持つたが良い。
▲アト「扨は、妾に暇をくれて、後(あと)で良い女房を持たうでな。
▲シテ「それは又、持たいでは。
▲アト「えゝ、腹立ちや、腹立ちや。永々病気の間は、妾に介抱をさせ居つて、今、又眼があいたればとて、その様な片手打ちな事があるものか。妾はなんぼでも、往(い)ぬる事はならぬわいやい、ならぬわいやい。
▲シテ「扨も扨も、そなたは悪い了簡ぢや。わごりよと身共は悪縁ぢやによつて、連れ添へば、又眼が潰るゝといなう。
▲アト「はて、潰れたらば、大事か。今までぢや。と思ひ居つたが良い。
▲シテ「扨は、潰れても大事ないか。
▲アト「おゝ扨。大事ない。
▲シテ「是非に及ばぬ。今までぢや。と思ふまでよ。
▲アト「扨は、今までの通り、連れ添うて下さるゝか。
▲シテ「はて、せう事がない。
▲アト「なうなう、嬉しや、嬉しや。それならば、まづ戻らせられい。又、神仏は御慈悲が深いによつて、一旦あけて下された眼を、今更潰しもなされまいぞいの。
▲シテ「いやいや。堅々(かたがた)の御約束であつたによつて、心元ない事ぢや。
▲アト「その様な心弱い事を云はずとも、さあさあ、早う戻らせられい。
▲シテ「女ども、女ども。
▲アト「やあ。
▲シテ「どれに居るぞ。
▲アト「これに居まする。
▲シテ「そこにか。
▲アト「中々。
▲シテ「これはどうやら、眼がうぢうぢ痛いやうな。
▲アト「それは、こなたの思ひなしでござる。
▲シテ「いや、待て待て。これは中々、思ひなしではないわい。やい。女どもは、どれに居る。
▲アト「これに居ますわいなう。
▲シテ「あ痛、あ痛。これは眼が、しきりに痛い、しきりに痛い。
▲アト「まづ、眼をあかせられい、あかせられい。
▲シテ「どうも、あかれぬわいやい。
▲アト「どれどれ。妾が開けて進ぜう。
▲シテ「あ痛、あ痛。その様にすれば、痛い、痛い。
▲アト「何としませう。
▲シテ「まづ、眼の様子を見てたもれ。
▲アト「心得ました。南無三宝。
▲シテ「何とした。
▲アト「今までは、黒い涼しい眼でござつたが、又、白いどんみりとした眼になりました。
▲シテ「何ぢや。白いどんみりとした眼になつた。
▲アト「中々。
{と云ひて、二人とも、座りて泣く。}
▲シテ「身共がまづ、かうあらうと思うて、色々と云へどもお聞きあらぬによつて、この様に、又眼が潰れた。
▲アト「何しに、こなたを悪う思うて云ひませう。皆、大切さのあまりでござる。了簡をして下されい。
{と云うて、泣く。}
▲シテ「《カゝル》{*1}これは夢かや、浅ましや。夢か幻か、寝てか覚めてか、あら定めなや。中々に報ひありける浮世かな。今までは黒眼にてありつるが、又真白になりたる事の浅ましさよ。
▲アト「よしよし。それも前世の事と思ひ、さのみ、な嘆き給ひそとよ。
▲シテ「これかや、事のたとへにも。
▲二人「これかや、事のたとへにも、しゆくぢうにの眼潰るゝ{*2}とは、今、身の上に知られたり。今、身の上に知られたり。
{シテばかり泣く。}
▲シテ「この様な事と知つたらば、最前の杖は、捨てまいものを。
▲アト「なう、愛しい人。こちへござれ。
▲シテ「手を引いてたもれ。
▲アト「心得ました。
{と云ひて、女、シテの手を引いて入るなり。}
校訂者注
1:底本、ここから「今身の上に知られたり」まで、傍点がある。
2:「しゆくぢうにの眼潰るゝとは」は、不詳。
底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.)
川上(カハカミ)(二番目)
▲シテ「大和の国此吉野の里に住居致す者で御座る、某拾ケ年以前不図眼を病うて、斯様の盲目となつて御座る、生れつきの盲ならば左程にも御座るまいに、黒白を知つての俄盲人で御座るに依つて、不自由なと申さうか、此様な難儀な事は御座らぬ、又承はれば、此山の奥、川上と申す所に天から降らせられた、貴い地蔵菩薩が有つて、何事によらず申す事が叶ふと申す、某も参詣致さうと存ずる、喃々是の人居さしますかおりあるか▲アト「今めかしや今めかしや、わらはを呼ばせらるゝは何事で御座る▲シテ「ちと相談したい事がある、先づかう通らしめ▲アト「心得ました、夫は心許ない先づ何事で御座るぞ▲シテ「いやいや別に心許ない事ではない、身共が此眼の見えぬも最早や十ケ年にもならうか▲アト「成程妾{*1}が是へ参つてからで御座る程に、十ケ年にもなりませうぞ▲シテ「誠に身共が此眼に就ては、そなたも色々{*2}介抱をしておくれある、又某も色々{*3}と養生もしたれども、兎角其甲斐もない、又承はれば、此山の奥、川上といふ所に、天から降らせられた貴い地蔵菩薩が有つて、此中も座頭共が大勢参つたれば、悉く眼をあけて下されたげな、生れつきの盲人でさへ其様に眼をあけて下さるゝ況して某は黒白をしつての俄盲人の事ぢやに依つて、参詣したらば御利生のないと言ふ事はあるまいに依つて、参らうと思ふが何とあらうぞ▲アト「誠にこなたの眼に就ては、妾{*4}も色々{*5}介抱をしましたれども其験も御座らぬ、成程其川上とやらへ参らせられたがよう御座らう▲シテ「思ひ立つ日が吉日ぢや今から参らう程に留守の事を頼むぞ▲アト「留守の事は必ず心に掛けさせられな▲シテ「あすは早々戻つて逢ふぞ▲アト「明日早々お目にかゝりませう▲二人「さらばさらば▲シテ「先づ急いで川上へ参らう、誠に五体不具なと申すに、何に一つ取得は御座らぬ、春なればとて花を詠る事もならず、秋なれば迚、月を見る事もならず、たゞあけても暮れても片隅{*6}へ寄つて、うぢうぢと計りして居る事ぢや、あいたあいた、扨も扨も痛たやの痛たやの、此物に蹴躓く{*7}にはほうど困まつた、扨も扨も痛い事かな、今のは何であつたぞ{と云ひて杖にてあたりを探る}{*8}はあ、是は石壇ぢや、扨は参り着いたか、思ひの外早う着いた、先づ石壇を上らう、えいえいえい鰐口がありさうなものぢやが、爰にあるは{と云ひて鰐口をならす拝むなり、如常}{*9}私唯今参詣致す事余の儀では御座らぬ、十ケ年以前計らず眼を病ひまして斯様の盲人となつて御座る、生れつきの盲目ならば左程にも御座るまいに、黒白をしつての俄盲人で御座るに依つて不自由なと申さうか、此様な難儀な事は御座らぬあはれ地蔵菩薩のお蔭を以て、再び開目なされて下され、南無地蔵大菩薩々々、今夜は此所に通夜を致さう、扨も扨も夥多しい参詣と見えていかう賑やかな、えゝ私が事で御座りますか、私は是に籠りまする者で御座る、お前はどれからの御参詣で御座りますぞ、何近江の国、是は遠方からの御参詣で御座る、定めて何ぞ御願が御座りませう、あのお前がや、扨も扨もお笑止千万な事で御座ります、去りながら御信心をなされませ、あらたかな地蔵菩薩で御座るに依つて、御利生のないと申す事は御座りますまい、成程今宵は申合せませう、忝ふ存じまする、是は如何な事、身共計り迷惑するかと思へば、又あの様に難儀をなさるゝお方もあり、扨も扨もお痛はしい事かな、ハア私の事で御座るか、成程両眼共に見へませぬ、いやもう不自由{*10}なと申さうか御推量なされて下され、扨お前はどれからの御参詣で御座ります、上方、是も遠方の御参詣で御座る、何のお願で御座る、あの願成就のお礼参り、扨も扨も夫はお羨しい事で御座る、私もお前にあやかりまして、早うお礼参りが致とう御座る、忝う存じまする、又あの様なお礼参りをなさるゝお方もあり、扨も扨も羨しい事ぢや、ハアいかう夜が更けたと見えて地蔵の法号を称へ、経陀羅尼の声ばかりぢや、さらば身共もまどろもう、はあはあ、あら有難や暫くすゐめんの内に、あらたかな御霊夢を蒙つた、扨も扨も有難い事かな、南無地蔵菩薩々々、御夢相の通り今など眼があいたらば嬉しい事ぢやが、是は思ひなしか{*11}どうやら眼がうじうじと掻ゆい様な、扨も扨も有難い事ぢや、漸々どうやら世間がうすうすと見ゆる様な南無地蔵菩薩南無地蔵菩薩、扨も々々有難い事ぢや、あれあれいかうあかうなつた、やあ是は眼があいた《笑》{*12}扨も扨も有難い事かな、久しぶりで天道を拝し青々とした、草木の色を詠る事ぢや、南無地蔵大菩薩々々、去りながら今の御夢相の内にちと心掛りな事もあるが何としたものであらうぞ、いやいや身共が眼には変へられぬ、夫は又帰つてからの思案に致さう、まづ急ひで帰らう《笑》{*13}座頭のくせがうせさらいで{*14}此杖は何ぢや、忌々しい捨てゝ帰らう誠に、神仏の事をあだおろそかに存ぜう事では御座らぬ、此様な事を存じたらばとう参らう物を、扨も扨も悦ばしい事ぢや▲アト「是のは夜前川上の地蔵へ参られて御座る、迎ひに参らうと存ずる、えいこちの人戻らせられたか▲シテ「そなたは女共か▲アト「こなたは眼があきましたか▲シテ「おゝ、眼があいた▲アト「扨も扨も嬉しい事で御座るのう▲シテ「先づ是へ寄つて眼の様子を見てたもれ▲アト「どれどれ、今迄は白いどんみりとした眼で御座つたが黒い涼しい{*15}眼になりました▲シテ「何ぢや黒い涼しい{*16}眼になつたか▲アト「中々▲シテ「何と有難い事ではないか▲アト「先づ何と言はせられたらば其様に眼をあけて下されたぞいの▲シテ「いや地蔵菩薩も唯はあけて下されぬ、段々様子のある{*17}事ぢや▲アト「さうで御座らうとも、早う様子を言はせられい▲シテ「此様子はそなたの前ではちと言ひ憎い事ぢや▲アト「是はいかな事、夫婦の中で何の言ひ憎い事が御座らう早う言はせられい▲シテ「どうで言はねばならぬ事ぢや、言ふて聞かさう、必ず聞いて腹をお立てあるな▲アト「心許ない早う仰せられい▲シテ「先づ夜前あれへいて籠つて居たれば、夜半許りの頃、忝くも地蔵菩薩の御戸帳を開き、ゆるぎ出させられ、錫杖を以つて某が額を三度迄撫でさせられて、やれやれ不憫{*18}の者や、そちは今迄迷惑させる者ではなかつたれども、こちへも言はなんだに依つて久々難儀をさせた、其仔細と言ふは、今汝が連添ふ女房は大悪縁▲アト「やあ▲シテ「そなたと身共は悪縁ぢやといのう▲アト「是はいかな事▲シテ「早う帰つて離別せい、今こそあけてとらすると有つて、此様に眼をあけて下されたが、何と有難い事ではないか▲アト「何ぢや有難い▲シテ「中々▲アト「えゝ、腹立や腹立や、神仏と言ふは夫婦の中の悪いを善うするこそ神仏の役なれ、何処にか仲善う連添ふて居るものを、去れと言ふ事があるものかいやいあるものかいやい、して其返事は何とした▲シテ「何とするものぢや、忝ふこそ御座れ、早々帰つて離別致しませうと言ふたれば、お顔の様な美くしいお声でぜんざいぜんざい尤々と仰せられた▲アト「何の尤もと言ふ事があるものか、あの川上の焼ケ地蔵のくさり地蔵奴がぬかし居つた事わいやい▲シテ「あゝ、是々、そなたと身共とは悪縁ぢやに依つて連添へば眼が潰るゝ、其上折角あけて下されたものを潰させうより、其方も又外へ行てよい男を持つたがよい▲アト「扨は妾{*19}に暇をくれて後でよい女房を持たうでな▲シテ「夫はまたもたいでは{*20}▲アト「えゝ、腹立ちや腹立ちや、永々病気の間は妾{*21}に介抱をさせ居つて、今又眼があいたればとて、其様な片手打な事があるものか、妾{*22}はなんぼでも往ぬる{*23}事はならぬはいやいならぬはいやい▲シテ「扨も扨もそなたは悪い了簡ぢや、わごりよと身共は悪縁ぢやに依つて、連添えば又眼が潰るゝといのう▲アト「はて潰れたらば大事か、今迄ぢやと思ひ居つたがよい▲シテ「扨は潰れても大事ないか▲アト「おゝ扨、大事ない▲シテ「是非に及ばぬ今迄ぢやと思ふ迄よ▲アト「扨は今迄の通り連添ふて下さるゝか▲シテ「果てせう事がない▲アト「喃々、嬉しや嬉しや、夫ならば先づ戻らせられい{*24}、又神仏はお慈悲が深いに依つて、一旦あけて下された眼を今更潰しもなされまいぞいの▲シテ「いやいや堅々のお約束で有つたに依つて心許ない事ぢや▲アト「其様な心弱い事を言はずともさあさあ早う戻らせられい▲シテ「女共々々▲アト「やあ▲シテ「どれに居るぞ▲アト「是に居まする▲シテ「そこにか▲アト「中々▲シテ「是はどうやら眼がうぢうぢ痛いやうな▲アト「夫はこなたの思ひなしで御座る▲シテ「いや待て待て、是は中々思ひなしではないわい、やい女共はどれに居る{*25}▲アト「是に居ますわいのう▲シテ「あいたあいた是は眼が頻りに痛い痛い▲アト「先づ眼をあかせられいあかせられい▲シテ「どうもあかれぬわいやい▲アト「どれどれ妾{*26}が開けて進ぜう{*27}▲シテ「あいたあいた其様にすれば痛い痛い▲アト「何としませう▲シテ「先づ眼の様子を見てたもれ▲アト「心得ました、南無三宝▲シテ「何とした▲アト「今迄は黒い涼しい眼で御座つたが、又白いどんみりとした眼になりました▲シテ「何ぢや、白いどんみりとした眼になつた▲アト「中々{と云ひて二人共すはりて泣く}▲シテ「身共がまづ{*28}かうあらうと思ふて、色々{*29}と言へどもお聞きあらぬに依つて此様に又眼が潰れた▲アト「何しにこなたを悪う思ふて言ひませう、皆大切さのあまりで御座る、了簡をして下されい{と云ふて泣く}▲シテ「《カゝル》是は夢かや浅間敷や、夢か幻か、寝てか覚めてか、あら定めなや、中々にむくひありける浮世かな、今迄は黒眼にてありつるが又真白{*30}になりたる事の浅間敷さよ▲アト「よしよし夫も前世の事と思ひ、さのみな嘆き給ひそとよ▲シテ「是かや事のたとへにも▲二人「是かや事のたとへにも、しゆくぢうにの眼潰るゝとは今身の上に知られたり、今身の上に知られたり{シテばかり泣く}▲シテ「此様な事と知つたらば最前の杖は捨てまいものを▲アト「喃、いとしい人、こちへ御座れ▲シテ「手を引いてたもれ▲アト「心得ました{と云ひて女シテの手を引いて入るなり}
校訂者注
1・4・19・21・22・26:底本は、「童(わらは)」。
2・3・5・29:底本は、「種々(いろいろ)」。
6:底本は、「片偶(かたずみ)」。
7:底本は、「跪(けつまづ)く」。
8・9:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
10:底本は、「いやもう自由な」。
11:底本は、「思ひなしが」。
12・13:底本の「笑ふ」は、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
14:底本は、「うさいらで」。
15・16:底本は、「冷(すゞ)しい」。
17:底本は、「様子のあのる」。
18:底本は、「不便」。
20:底本は、「もたいで」。
23:底本は、「居(ゐ)ぬる」。
24:底本は、「戻らせらい」。
25:底本は、「女共、は何(ど)れに居る」。
27:底本は、「進せう」。
28:底本は、「まつ」。
30:底本は、「真何」。
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