茸(くさびら)(三番目 四番目)
▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)が屋敷に、当年始めて、何とも知れぬ茸(くさびら)が生えた。ひたもの取つて捨つれども、夜の間(ま)には生え生え、幾度(いくたび)取つても、又元の如くに生ゆる。かやうな不思議な事はござらぬ。何とやら心掛かりな。こゝに、法力の強い御山伏がござる。これを頼うで、祈祷をして貰はうと存ずる。誠に、茸と申すものは、大木などの朽ちた所、或ひは山中に出来るは、珍しからぬ事でござる。人の居る屋敷に、あの様に出(づ)ると申すは、何とも心得ぬ事でござる。法印へお尋ね申して、心を晴らしたうござる。何かと申す内に、これぢや。物も、案内もう。
▲シテ「{*1}九識の窓の前、十乗の床のほとりに、瑜伽の法水を湛へ。
《詞》三密の月を澄ます所に、案内申さん。とは誰(た)そ。
▲アト「私でござる。
▲シテ「足元から鳥の立つやうに、わごりよならば、案内無しに通りはせいで。
▲アト「もし御客でもござらうと存じ、差し控へて案内を乞ひました。
▲シテ「それは、念の入つた事ぢや。扨、何と思うて御出あつた。
▲アト「只今参る事、別の義でござらぬ。私が屋敷に、何とも知れぬ大きな茸が生えましたによつて、私も随分、取つて棄つれども、夜の間(ま)には生え生え、取り尽くされませぬ。かやうな不思議な事はござらぬ。何とぞ、御出なされて、様子を御覧なされて、ひと加持なされて下されうならば、忝うござる。
▲シテ「この間は別行(べちぎやう)の仔細あつて、いづ方へも罷り出でねども、そなたの事ぢや。行(い)てやらうぞ。
▲アト「それは、ありがたう存じまする。いざ、御出なされませ。
▲シテ「案内者のため、先へ行かしめ。
▲アト「それならば、御先へ参りませうか。
▲シテ「一段と良からう。
▲アト「私も随分、堪(こら)へましてござれども、中々、取り尽くされませぬによつて、心元なう存じまする。
▲シテ「何と、その茸は大きいか、小さいか。
▲アト「いや。余程、大きな物でござる。
▲シテ「とかく、見ねば知れぬ。扨、いつぞや祈祷をしてやつた病人は、何とした。
▲アト「されば、奇特な事でござる。次第次第に心良うござつて、今少しでござる。
▲シテ「成程、急に直し様もあれども、それは悪い。その様に、そろりそろりと快気するが、誠の本復ぢや。
▲アト「御尤でござる。とかく、かれこれに就いて、只御前(おまへ)の行法を、いよいよ信仰仕(つかまつ)ります。
▲シテ「それは、外聞かたがた、身共も悦ばしう存ずる。
▲アト「いや、何かと申す内に、これでござる。まづ、かうお通りなされませ。
▲シテ「心得た。扨、かの茸は、どこにある。
▲アト「この事でござる。
{しかじかの内、茸一人、切戸より出で、脇座に居る。}
▲シテ「これはいかな事。何程の茸も見たが、これは全く、人体の様な。あれあれ。思ひなしか、軸に目鼻手足の様な物が見ゆる。
▲アト「されば、次第次第に成長仕ります。
▲シテ「尤、小さい茸が生ゆる事は、あるものぢやが、この様に恐ろしい、凄まじいは、見た事がない。
▲アト「これはどうでも、不吉であらうと存じまする。
▲シテ「いやいや、気遣ひ召さるな。ひと加持して、退(の)くやうにしてやらうぞ。
▲アト「それは、ありがたう存じます。
▲シテ「それ、山伏と云つぱ、山伏なり。何と、聞こえた事か。
▲アト「聞こえた事でござる。
▲「兜巾(ときん)と云つぱ、布切一尺ばかり、真つ黒に染め、むさと襞(ひだ)を取つて、頭にちよんと戴く故の、兜巾なり。何と、殊勝な事か。
▲アト「御殊勝な事でござる。
▲シテ「平形(いらたか)の珠数ではなうて、むさとしたる木の切れを繋ぎ集め、いら高の珠数と名附けつゝ、明王の索(さつく)に掛けて祈るならば、などが験(しるし)のなかるらん。ほろん、ほろん、ほろん。
{と云ひて祈る内、又二人程、出る。}
▲アト「申し申し。又、此処へも出ました。
▲シテ「誠に出た。
▲アト「これは結句、前(ぜん)よりは多うなりました。
▲シテ「いや。それは、出る筈ぢや。わごりよが今まで取り退(の)けても、後(あと)から出ると云ふではないか。身共が行力(ぎやうりき)が達した故に、地の底にある分は、皆出るのぢや。最前出たは、松茸・椎茸ぢや。もはや、余り多くは出まい。さりながら、ある分は皆祈り出して、後(あと)にないやうにする程に、そなたも信心を召され。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「《イロ》いよいよ、我頼む三つの御山(おやま)に勧請申し、肝胆を砕き祈るものなり。ほろん、ほろん。
{と云ひて祈る。又、茸出る。}
▲アト「申し申し。又、方々へ大分出ました。
▲シテ「これは、夥(おびたゞ)しい事ぢや。姫茸・いくち・しめじ。惣じて、物の滅する時は、この様に増すものぢや。この様な時は、茄子の印と云うて、秘法がある。この印を結んで、今ひと加持せう。《イロ》役の行者の後(あと)を継ぎ、行法様々ありと申せども、中にも妙なる茄子の印を結んで掛け、ほろん、ほろん。
{と云うて祈る内に、茸各、シテの側より取り付き、シテ、迷惑がる。}
▲アト「申し申し。まづ、お待ちなされませ。最前から、お祈りなさるゝ程、結句多うなりました。どうぞ、鎮まる様になされて下され。
▲シテ「いかさま、毒々しい茸ぢや。何とぞ、退転するやうにせう。そなたも心中に祈誓召され。
▲アト「これは、気味の悪い事ぢや。
▲シテ「いかに悪心深き茸なりとも、秘宝の加持を執行(しつぎやう)して、いろはにほへとゝ祈るならば、などか、散りぬるをわかなれ。ほろん、ほろん。
{と祈る内に、茸、橋掛り二の松へ、傘半開きにて、顔を隠して這ひ出る。シテ、見附け、驚き、}
▲シテ「わあ。あれへ、毒々しい半開きの茸が出た。あれが開いたらば、さぞ夥しい事であらう。これは、何としたものであらう。
▲アト「あゝ。御前は只今まで、生不動(いきふどう)の様に存じてゐたれば、扨々、案の外な事でござる。これは、屋敷中が茸になりました。殊に、あれあれ、皆、仇を致しまする。御前を頼みませずば、この様にはなりますまいものを。これは、何とした事でござる。
▲シテ「身共も、年月(としつき)の行法、残らず執行して色々と祈れども、この様に夥しう拡がつては、中々祈祷が行き渡る事ではない。
▲アト「その様に、心弱うなつてはならぬ。心をはつたりとして、もそつと祈らせられい。
▲シテ「よもや、これ程にはあらうとは思はなんだ。
▲アト「と云うて、これが、何となるものでござる。
▲シテ「しからば、もひと祈り、致さう。《イロ》悪事災難打ち払ひ、祈願、如意満足。ほろん、ほろん。
{と云うて祈る内、傘開いて、「とつて噛まう、とつて噛まう」と云うて、シテを追ひ込み、残りの茸、皆々アトに取り付き、二人を追ひ込み入るなり。}
校訂者注
1:底本、「九識の窓の前、十乗の床のほとりにゆかの法水を湛へ」に、傍点がある。但し底本、《詞》中の「案内申さん」にも傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.)
茸(クサビラ)(三番目 四番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、某が屋敷に当年始めて何とも知れぬくさびらが生えた、ひた物とつて捨つれども、夜の間には生え生え、幾度取つても又本の如くに生ゆる、か様な不思議な事は御座らぬ、何とやら心掛りな、爰に法力の強いお山伏が御座る、是を頼うで祈祷をして貰はうと存ずる、誠に茸と申すものは、大木などの朽ちた所、或は山中に出来るは珍らしからぬ事で御座る、人の居る屋敷にあの様に出ると申すは、何とも心得ぬ事で御座る、法印へお尋申して心を晴らしたう御座る、何かと申す内に是ぢや、物もあんないもう▲シテ「九識の窓の前、十乗の床のほとりにゆかの法水を湛へ{*1}《詞》三密の月を澄ます所に、案内申さんとは誰そ▲アト「私で御座る▲シテ「足元から鳥の立つやうに、わごりよならば案内無しに通りはせいで▲アト「若しお客でも御座らうと存じ差控へて案内を乞ひました▲シテ「夫は念の入つた事ぢや、扨、何と思ふてお出あつた▲アト「唯今参る事別の義で御座らぬ、私が屋敷に何とも知れぬ大きな茸が生えましたに依つて、私も随分取つて棄つれども、夜の間には生え生え、取り尽くされませぬ、斯様な不思議な事は御座らぬ、何卒御出でなされて様子を御覧なされて一と加持なされて下されうならば忝う御座る、▲シテ「此間は別行の仔細あつて、何方へも罷り出ねども、そなたの事ぢや行てやらうぞ▲アト「夫は有難う存じまする、いざお出なされませ▲シテ「案内者の為め先へ行かしめ▲アト「夫ならばお先へ参りませうか▲シテ「一段とよからう▲アト「私も随分耐へまして御座れども、中々取尽されませぬに依て心許なう存じまする▲シテ「何と其茸{*2}は大きいか、小さいか▲アト「いや余程大きな物で御座る▲シテ「兎角見ねば知れぬ、扨、いつぞや祈祷をしてやつた病人は何とした▲アト「されば奇特な事で御座る、次第々々に心能う御座つて今少しで御座る▲シテ「成程急に直し様もあれども夫は悪い、其様にそろりそろりと快気するが誠の本復ぢや▲アト「御尤で御座る、兎角彼是に就いて唯お前の行法を弥信仰仕ります▲シテ「夫は外聞旁身共も悦しう存ずる▲アト「いや何かと申す内に是で御座る、先づかうお通りなされませ▲シテ「心得た、扨かの茸は何処にある▲アト「此事で御座る{シカシカの内茸一人切戸より出で脇座に居る}▲シテ「是は如何な事、何程の茸{*3}もみたが、是は全く人体の様な、あれあれ思ひなしか軸に目鼻手足の様な物が見ゆる▲アト「されば次第々々に成長仕ります▲シテ「尤も小さい茸{*4}が生ゆる事はある物ぢやが、此様に恐ろしい、すさまじいは見た事がない▲アト「是はどうでも不吉であらうと存じまする▲シテ「いやいや気遣ひ召さるな、一と加持して退くやうにしてやらうぞ▲アト「夫は有難う存じます▲シテ「夫山伏といつぱ山伏なり、何と聞えた事か▲アト「聞へた事で御座る▲「兜巾といつぱ、布切一尺計真つ黒に染、無差とひだを取つて、頭にちよんと戴く故の兜巾なり、何と殊勝な事か▲アト「御殊勝な事でござる▲シテ「平形の珠数ではなうて、むさとしたる木の切れを継なぎ集め、いら高の珠数と名附けつゝ、明王のさつくに掛けて祈るならば、などが験のなかるらんほろんほろんほろん{ト云ひて祈る内又二人程出る}▲アト「申々、又此処へも出ました▲シテ「誠に出た▲アト「是は結句前よりは多うなりました▲シテ「いや夫は出る筈ぢや、わごりよが今迄取退けてもあとから出ると言ふではないか、身共が行力が達した故に、地の底にある分は皆出るのぢや、最前出たは松茸、椎茸ぢや、最早や余り多くは出まい、去りながらある分は皆祈出して、あとにないやうにする程に、そなたも信心を召され▲アト「畏て御座る▲シテ「《イロ》愈々我頼む三の御山に勧請申し肝胆を砕き祈るものなり、ほろんほろん{と云ひて祈る亦茸出る}▲アト「申々、又方々へ大分出ました▲シテ「これは夥多しい事ぢや、姫茸、いくち、しめじ、惣じて物の滅する時は此様に増すものぢや、此様な時は茄子の印と言ふて秘法がある、此印を結んで今一と加持せう《イロ》役の行者のあとをつぎ、行法様々ありと申せども、中にも妙なる茄子の印を結んでかけ、ほろんほろん{と云ふて祈る内に茸各シテの側より取付シテ迷惑がる}▲アト「申々先づお待ちなされませ、最前からお祈りなさるゝ程結句多うなりました、どうぞ鎮まる様になされて下され▲シテ「如何様毒々しい茸{*5}ぢや何卒退転するやうにせう、そなたも心中に祈誓召され▲アト「是は気味の悪い事ぢや▲シテ「如何に悪心深き茸{*6}なりとも、秘宝の加持を執行して、いろはにほへとと祈るならばなどか散りぬるをわかなれ、ほろんほろん{と祈る内に茸橋掛り二の松へ傘半開にて顔を隠して這出るシテ見附驚き}▲シテ「わあ、あれゑ毒々しい半びらきの茸{*7}が出た、あれがひらいたらば嘸夥多しい事であらう、是は何としたものであらう▲アト「あゝお前は唯今迄生不動の様に存じてゐたれば、扨々案の外な事で御座る、是は屋敷中が茸{*8}になりました、殊にあれあれ皆仇を致しまする、お前を頼みませずば此様にはなりますまいものを、是は何とした事で御座る▲シテ「身共も年月の行法残らず執行して、色々と祈れども此様に夥多しう拡がつては、中々祈祷が行き渡る事ではない▲アト「其様に心弱はうなつてはならぬ、心をはつたりとして最そつと祈らせられい▲シテ「よもや是程にはあらうとは思わなんだ▲アト「と云ふて是が何となるもので御座る▲シテ「然らばも一と祈り致さう《イロ》悪事災難打ち払ひ祈願如意満足ほろんほろん{と云ふて祈る内傘ひらいてとつてかまうとつてかまうと云ふてシテを追ひ込み残りの茸皆々アトにとり付二人を追ひ込み入るなり}
校訂者注
1:底本は、「法水を漂へ」。
2~8:底本は、「菌(くさびら)」。
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