腰祈(こしいのり)(二番目 三番目)

▲アト「《次第》{*1}大峯掛けて葛城や、大峯掛けて葛城や、我(わ)が本山に帰らん。
出羽の羽黒山より出でたる山伏、この度、大峯・葛城を致し、只今が下向道でござる。まづ、そろりそろりと参らう。
{山伏、しかじか、「飛ぶ鳥」を云ふまで、山伏物、同断。}
いや、何かと云ふ内に、本国へ戻つた。則ち、この家に祖父御(おほぢご)がござる。まづ、案内を乞はう。
{常の如し。}
某(それがし)ぢや。
▲小アト「えい。今日(けふ)の殿さま、良う御出なされました。
▲アト「身共も、大峯山上、事故(ことゆゑ)無う仕舞うて、只今、下向道ぢや。
▲小アト「扨々、それは、おめでたい事でござる。
▲アト「祖父御様は、御息災なか。
▲小アト「成程、相変らず、御息災にござる。御出の通り、申し上げませう。まづ、かうお通りなされませ。
▲アト「心得た。
▲小アト「申し申し。祖父御様、ござりますか。今日の殿の御出でござる。
▲シテ「えいえい。何ぢや。今日は、とゝをくれう。なうなう、嬉しや、嬉しや。とゝをくるゝとも、魚頭・中落ちは、そなた衆喰うて、身所ばかリ、くれさしめ。
▲小アト「いや。今日(けふ)は、今日の殿の御出でござる。
▲シテ「何ぢや。今日の殿が来た。と云ふか。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「やれやれ、珍しや、珍しや。早う行(い)て、逢はうぞ。えいえい。
▲小アト「祖父御の、これへ御出でござる。
▲シテ「どれどれ、今日の殿は。
▲アト「これに居ります。
▲シテ「やれやれ、良う来たなあ。
▲アト「久しう御目にかゝりませぬ。これは、御機嫌が良うて、大慶に存じまする。
▲シテ「祖父は、随分息災なか。今日の殿も、まめさうで、嬉しい事ぢや。はて、良う来たなあ。何ぞ、今日の殿に遣りたいが。おゝ、それそれ。思ひ出した。やいやい、太郎冠者。この中(ぢゆう)見れば、犬が子を生んだ。今日の殿は、ゑのころが好きぢや。中にも、毛並の良い美しいを、一つおましてくれい。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「《笑》これはいかな事。身共を未だ、子供のやうに思し召すさうな。
▲シテ「いや。なう、今日の殿。祖父は、殊の外年が寄つて、歯は抜ける、目は悪し。別して、腰が屈(かゞ)うで、不自由におりある。
▲アト「御尤でござる。やいやい、太郎冠者。いかさま、祖父御様は、殊の外御不自由にあらう。別して、御腰が屈(かゞ)うで、お痛はしい事ぢや。
▲小アト「朝夕(あさゆふ)、殊の外御不自由で、御難儀をなされまする。
▲アト「身共が思ふは、年月(としつき)の行法は、かやうの時のためぢや。ひと加持して、あの御腰の屈うだを、祈り延ばして上げうと思ふが、何とあらう。
▲小アト「それは、お悦びなさるゝでござりませう。
▲アト「その通り、伺うて見よ。
▲小アト「畏つてござる。申し上げまする。今日の殿の仰せらるゝは、祖父御様には、御腰が屈みまして、殊の外御不自由にござらう程に、ひと加持なされて、その御腰を延ばして進ぜられう。と仰せられます。
▲シテ「なうなう、孝行な今日の殿や。何とぞ、早う祈つて、腰を伸べてたもれ。と云うてくれい。
▲小アト「畏つてござる。殊の外、お悦びなされまする。
▲アト「それならば、追つ付け、加持をせう。それ、山伏と云つぱ、山伏なり。何と、聞こえた事か。
▲小アト「聞こえた事でござる。
▲アト「兜巾(ときん)と云つぱ、布切れ一尺ばかり真つ黒に染め、むさと襞を取つて、頭にちよんと頂く故の、兜巾なり。何と、殊勝な事か。
▲小アト「何(いづ)れ、御殊勝な事でござる。
▲アト「平形(いらたか)の珠数ではなうて、むさとしたる木の切れを繋ぎ集め、いらたかの珠数と名附けつゝ、明王の索(さつく)にかけて祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろん、ぼろん。
{腰伸びる。仕様、色々あるべし。}
▲シテ「なうなう、貴(たふと)や、貴や。久しう天道をも拝せず、日月(じつげつ)を見る事もなかつたに、今日の殿の蔭で、腰が伸びた。やれやれ、嬉しや、嬉しや。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
▲小アト「殊の外、お悦びなされまする。
▲シテ「扨、これは、いつまでこの様にして居る事ぞ。
▲アト「いや。一期(いちご)、その通りでござる。
▲シテ「なうなう、窮屈や、窮屈や。これは又辛労で、どうもならぬ。どうぞ、もそつと屈めておくれあれ。と云うてくれい。
▲アト「何(いづ)れ、これは少し、祈り過ぎた。もひと祈り、祈つて緩めて上げませう。
▲小アト「一段と良うござりませう。
▲アト「《イロ》重ねて、三つの御山(おやま)に頼みをかけ、いろはにほへとんと祈るならば、などか、ちりぬるをわかなれ。ほろん、ほろん。
{と云うて、祈る。腰、そろそろ屈み、終に下へ倒れ、腹這ひになる。仕様、あるべし。}
▲シテ「なう、腹立ちや、腹立ちや。孝行な今日の殿かと思うたれば、この年寄つた者を、なぶりに来たさうな。元のやうにして、返せ、返せ。
▲アト「どうでも、身共が行力(ぎやうりき)が強過ぎるさうな。もひと祈り祈つて、この度は、この方から良い時分に声を掛けう。そちは、抜からぬ様に突つ張りをかへ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「いかに、祈り過ぎたる腰なりとも、烏の印を結んで掛け、今ひと祈り祈るならば、などか奇特の無かるべき。ほろん、ほろん。太郎冠者、突つ張りかへ、突つ張りかへ。
{と云うて、祈る。又、腰伸びる。山伏・太郎冠者・祖父、何(いづ)れも心持ちあるべし。良き時分、山伏、「突つ張りをかへ、突つ張りをかへ」と云ふ。太郎冠者、杖を抱へる。祈り止まると、祖父、「杖をおこせ」と云うて、杖を取り、振り上げ、よろよろして山伏を追ひ込む。山伏、痛はり痛はり、逃げ込むなり。何(いづ)れも、心持ちあるべし。}
▲シテ「太郎冠者、杖をおこせ。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「今日の殿は、どれに居る。
▲アト「これに居ります。
▲シテ「孝行な者かと思うたれば、年寄つた者を、なぶりに来たな。おのれ、打ち殺して退(の)けう。
▲アト「危なうござる。

校訂者注
 1:底本、ここから「我本山に帰らん」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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腰祈(コシイノリ)(二番目 三番目)

▲アト「《次第》大峯掛けて葛城や大峯掛けて葛城や、我本山に帰らん、出羽の羽黒山より出でたる山伏、此度大峯葛城を致し、唯今が下向道で御座る、先づそろりそろりと参らう{山伏然か然か飛鳥を言ふ迄山伏物同断}{*1}いや何彼と言ふ内に本国へ戻つた、則ち此家に祖父御が御座る、まず案内を乞ふ{如常}{*2}某ぢや▲小アト「えい、今日の殿さま、ようお出でなされました▲アト「身共も大峯山上、事故無う仕舞うて唯今下向道ぢや▲小アト「扨々夫はお目出度い事で御座る▲アト「祖父御様は御息災なか▲小アト「成程相変らず御息災に御座る、お出の通り申上げませう、先づかうお通りなされませ▲アト「心得た▲小アト「申々祖父御様御座りますか、今日の殿の御出で御座る▲シテ「えいえい、何ぢや、今日はとゝを呉れう、喃々嬉しや嬉しや、とゝをくるゝとも魚 頭中落はそなた衆喰うて、身所斗リ呉れさしめ▲小アト「いや今日は今日の殿のお出で御座る▲シテ「何ぢや今日の殿が来たと言ふか▲小アト「左様で御座る▲シテ「やれやれ珍らしや珍らしや、早ういて逢ふぞ、えいえい▲小アト「祖父御の是へお出でゞ{*3}御座る▲シテ「どれどれ今日の殿は▲アト「是に居ります▲シテ「やれやれよう来たなあ▲アト「久しうお目にかゝりませぬ、是は御機嫌がようて大慶に存じまする▲シテ「祖父は随分息災なか、今日の殿もまめさうで嬉しい事ぢや、はてよう来たなあ、何ぞ今日の殿に遣りたいが、おゝ夫々思ひ出た、やいやい太郎冠者、此中見れば犬が子を生んだ、今日の殿はゑのころが{*4}、好きぢや、中にも毛並のよい美しいを一つおまして呉れイ▲小アト「畏つて御座る▲アト「《笑》是は如何な事、身共を未だ子供のやうに思召すさうな▲シテ「いやなう今日の殿、祖父は殊の外年が寄つて歯は抜ける、目は悪し別して腰がかがうで不自由におりある▲アト「御尤で御座る、やいやい太郎冠者、如何様祖父御様は殊の外御不自由にあらう、別してお腰がかがうでお痛はしい事ぢや▲小アト「朝夕殊の外御不自由で御難儀をなされまする▲アト「身共が思ふは、年月の行法は斯様の時の為ぢや、一と加持してあのお腰の屈うだを、祈り延して上うと思ふが何とあらう▲小アト「夫はお悦びなさるゝで御座りませう▲アト「其通り伺うて見よ▲小アト「畏つて御座る、申上げまする、今日の殿の仰せらるゝは、祖父御様にはお腰が屈みまして、殊の外御不自由に御座らう程に、一と加持なされて其御腰を延ばして進ぜられうと仰せられます▲シテ「喃々孝行な今日の殿や、何卒早う祈つて腰を伸べてたもれと云ふて呉れい▲小アト「畏つて御座る、殊の外お悦びなされまする▲アト「夫ならば追付け加持をせう、夫山伏といつぱ山伏也、何と聞えた事か▲小アト「聞えた事で御座る▲アト「兜巾といつぱ布切{*5}一尺ばかり真黒に染め、むさと襞を取つて頭にちよんと、頂く故の兜巾なり、何と殊勝な事か▲小アト「何れ御殊勝な事で御座る▲シテ「平形の珠数ではなうて無差としたる木の切を継なぎ集め、いらたかの珠数と名附けつゝ、明王のさつくにかけて祈るならば、などか奇特のなかるべき、ぼろんぼろん{腰伸る仕様色々{*6}あるべし}▲シテ「喃々貴や貴や、久しう天道をも拝せず、日月を見る事もなかつたに、今日の殿の蔭で腰が伸びた、やれやれ嬉しや嬉しや、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏▲小アト「殊の外お悦びなされまする▲シテ「扨是は、何時迄此様にして居る事ぞ▲アト「いや一期其通りで御座る▲シテ「喃々窮屈や窮屈や、是は又辛労でどうもならぬ、どうぞもそつと屈めておくれあれと云ふて呉れい{*7}▲アト「何れ是は少し祈り過ぎた、も一と祈、祈つてゆるめて上げませう▲小アト「一段とよう御座りませう▲アト「《イロ》重ねて三つのお山に頼みをかけ、いろはにほへとんと祈るならば、などかちりぬるをわか{*8}なれ、ほろんほろん{と云ふて祈る腰そろそろ屈み終に下へ倒れ腹這ひになる仕様可有}▲シテ「なう腹立や腹立や、孝行な今日の殿かと思ふたれば、此年寄つた者を嬲りに来たさうな元のやうにして返せ返せ▲アト「どうでも身共が行力が強過ぎるさうな、最、一と祈、祈つて此度は此方からよい時分に声を掛けう、そちは抜からぬ様につゝぱりをかへ▲小アト「畏つて御座る▲アト「如何に祈り過ぎたる腰なりとも、烏の印を結んで掛け、今一と祈り祈るならば{*9}などか奇特の無かるべき、ほろんほろん、太郎冠者突張りかへ突張りかへ{と云ふて祈る又腰伸る山伏太郎冠者祖父何れも心持有るべし能き時分山伏突張りをかへ突張りをかへと云ふ太郎冠者杖をかゝへる祈止ると祖父杖をおこせと云ふて杖を取振上げよろよろして山伏を追込む山伏痛はり痛はり逃込なり何れも心持可有}▲シテ「太郎冠者杖をおこせ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「けふの殿は、どれに居る▲アト「是におります▲シテ「孝行な者かと思ふたれば、年寄つたものを嬲りに来たな、おのれ打ち殺してのけう▲アト「危なう御座る。

校訂者注
 1・2:底本、ここに「▲シテ「」とある(「▲アト「」の誤り。略す)。
 3:底本は、「お出でゝ」。
 4:底本は、「ゑのころか」。
 5:底本は、「布裂(ぬのきれ)」。
 6:底本は、「仕様種々あるべし」。
 7:底本は、「云ひて呉れい」。
 8:底本は、「ちりぬるおわか」。
 9:底本は、「祈るならは」。