蟹山伏(かにやまぶし)(三番目)
{シテ、アト二人、次第にて出る。「大峯かけて」を謡ふ。アト、地を取る。シテ、名乗りし間、アト、下に居る。シテ、名乗る。山伏の事、何(いづ)れも同じ事。扨、強力(がうりき)を呼び出す。アト、立つ。常の如し。}
▲シテ「この度は難行であつたに、別義なう下向するは、めでたい事ではないか。
▲アト「御意なさるゝ通り、この度は、難行の道を首尾良うお勤めなされて、この様なおめでたい事はござりませぬ。
▲シテ「追つ付け下向せう。さあさあ、来い来い。
▲アト「はあ。
▲シテ「扨、何と思ふ。山伏と云ふものは、野に伏し山に伏し、或ひは岩木を枕とし、難行苦行、捨身の行ひをもするによつて、その奇特には、今、眼の前を飛ぶ鳥をも、祈り落とす程の行力(ぎやうりき)になつた。
▲アト「御意の通り、御法力の達した事、言葉にはも、叙べらるゝ事ではござりませぬ。
▲シテ「扨、某(それがし)を世間で何と云ふぞ。
▲アト「御前(おまへ)を世間で、生き不動ぢや。と申しまする。
▲シテ「これは、憎からぬ事ぢや。そちが知る通り、行力に於いては、誰に劣らうとも思はぬによつて、生き不動と云ふも、尤ぢや。某が生き不動ならば、そちは脇立ちゞやによつて、矜羯羅(こんがら)か、制多迦(せいたか){*1}でもあらうぞ。
▲アト「御蔭と存じまして、ありがたう存じまする。
▲シテ「扨、国元を出る時分、そちに逢ひに来たは、誰であつた。
▲アト「どれが事でござりまする。
▲シテ「それ。女が逢ひに来たぞよ。
▲アト「それは、私の伯母でござる。
▲シテ「扨々、そちと違うて、見ざまの良い女ぢや。国元へ下つたらば、折節ちと見舞へ。と云へ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「これは、いかう山が深うなつた。
▲アト「誠に、物凄うなりました。
▲シテ「その上、最前から、何やらどうどうと鳴る音がする。何であらうと思ふ。
▲アト「されば、何でござりませうぞ。
▲シテ「松風の音か、川の瀬か。
▲アト「雷ではござらぬか。
▲シテ「これは、しきりに近う聞こゆる。
▲アト「真つ黒になりました。
▲シテ「只事ではあるまい。
{と云ひて廻る内、鏡の間を踏み鳴らし、小アト、走り出る。山伏に行き当たる。}
そりあ。何やら出たわ。
▲アト「何やら、恐ろしいものでござる。
▲シテ「汝行(い)て、見て来い。
▲アト「私は、恐ろしうござる。御前、御出なされませ。
▲シテ「いや、こゝな奴が。おのれを連るゝは、かやうの時のためではないか。早う行(い)て、見て来い。
{と云ひて、突きやる。アト、恐がりて、}
▲アト「これは、御意とも覚えませぬ。かやうの時、御出なさるゝが、先達の御役でござる。これは、是非とも御出なされませ。
{と云ひて、突きやる。シテ、太刀そり打ち、}
▲シテ「やい、そこな奴。この貴い先達の通るに、道へ出て障碍(しやうげ)をなすは、何者ぢや。
▲小アト「両眼(りやうがん)、天にあり。一つ甲(かふ)、地に着かず。大足(たいそく)、二足。小足(せうそく)、八足。右行左行(うぎやうさぎやう)して、世を渡る者の精ぢや。
▲シテ「強力、強力。何者ぞと思うたれば、彼奴(きやつ)は蟹の精ぢや。
▲アト「それは、どうした事でござる。
▲アト「今云うたを聞かぬか。まづ、両眼天に在り。とは、彼奴が眼(まなこ)が、ひよいと出てある。
▲アト「誠に、ひよいと出てござる。
▲シテ「一つ甲地につかず。とは、彼奴が甲は、中(ちゆう)に浮いてある。
▲アト「はあん。
▲シテ「大足二足。とは、両の鋏みの事。小足八足。とは、後ろにうざうざした足が、八本あるわ。
▲アト「どれどれ。何(いづ)れ、八本ござる。
▲シテ「右行左行。と云ふは、総じて蟹は、右へか左へか、横にならではえ歩(あり)かぬによつて、右行左行。すれば、疑ひもない。蟹に極(きはま)まつた。
▲アト「扨は、蟹に極りましたか。
▲シテ「おんでもない事。
▲アト「扨も扨も、憎い奴かな。蟹の分として、慮外千万な。致しやうがござる。
▲シテ「やいやい、何をするぞ。
▲アト「私に委(まか)して置かせられい。
▲シテ「聊爾をするな。
▲アト「やい。おのれは憎い奴の。蟹の分として、貴い御先達のお通りなさるゝに、道へ出て妨げをなす。おのれ、その過怠に、この金剛杖で、甲を微塵に打ち割つて退(の)けう。
{蟹、強力の耳を挟むなり。}
あ痛、あ痛。
▲シテ「何とした。
▲アト「挟みました。
▲シテ「それ見よ。置け。と云ふに、聞かぬによつて、その様な事ぢや。どれどれ、離してやらう。
▲アト「あ痛、あ痛。その様になさるゝと、なほ締めます。
▲シテ「扨々、気の毒な事ぢや。いや。年月(としつき)の行法は、かやうの時のためぢや。ひと加持して、離させてやらう。
▲アト「それは、ありがたう存じまする。
{シテ、「それ山伏と云つぱ」を云ふ。アト、応答常の如し。祈る。この類、山伏の事、何(いづ)れも同断。}
申し申し、御先達様。その祈りを已(や)めて下され。
▲シテ「どうした事ぢや。
▲アト「珠数の音で、なほ締めまする。
▲シテ「締むるは、追つ付け離さう。と云ふ事であらう。烏の印を結んで、離させて遣らう。
{と云ひて、印を結ぶ。又祈る。「橋の下の菖蒲」を云ひて、祈る。山伏の事、何(いづ)れも同じ事。小アト、シテ挟みに寄る。シテ、下の座の方へ退(の)きて祈る。左の耳を挟むと、しやぎり吹き出し、笛の留めに、二人を突き倒し、蟹は走りて入る。出入とも、蟹は横に行くなり。二人、起き上がりて、後(あと)より追ひ込み入るなり。但し、当世、しやぎりなしに突き倒し、蟹は入る。二人、追ひ込み入るなり。口伝。}
校訂者注
1:「こんがらかせいたか」は、「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」「制多迦童子(せいたかどうじ)」を指す。
底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.)
蟹山伏(かにやまぶし)(三番目)
{シテ、アト二人、次第にて出る、大峯かけてを謡ふアト地を取る、シテ名乗りし間、アト下に居る、シテ名乗{*1}山伏事、何れも同事、扨、強力を呼出すアト立つ、如常}▲シテ「此度は難行であつたに別義なう下向するは目出度い事ではないか▲アト「御意なさるゝ通り、此度は難行の道を首尾ようお勤めなされて、此様なお目出度い事は御座りませぬ▲シテ「追付け下向せう、さあさあ来い来い▲アト「はあ▲シテ「扨何と思ふ、山伏と言ふ者は野に伏し山に伏し或は岩木を枕とし、難行苦行捨身の行ひをもするに依つて、其奇特には今、眼の前を飛鳥をも祈り落す程の行力になつた▲アト「御意の通り、御法力の達した事{*2}、言葉にはも叙べらるゝ事では御座りませぬ▲シテ「扨、某を世間で何と言ふぞ▲アト「お前を世間で生不動ぢやと申しまする▲シテ「是は憎からぬ事ぢや、そちが知る通り行力に於ては、誰に劣らうとも思はぬに依つて、生不動と言ふも尤ぢや、某が生不動ならばそちは脇だちぢやに依つて、こんがらかせいたかでもあらうぞ▲アト「お蔭と存じまして有難う存じまする▲シテ「扨、国元を出る時分そちに逢ひに来たは誰であつた▲アト「どれが事で御座りまする▲シテ「夫女が逢ひに来たぞよ▲アト「夫は私の伯母で御座る▲シテ「扨々、そちと違うて見ざまのよい女ぢや、国許へ下つたらば折節ちと見舞と言へ▲アト「畏つて御座る▲シテ「是はいかう山が深うなつた▲アト「誠に物凄うなりました▲シテ「其上最前から何やらどうどうと鳴音がする、何であらうと思ふ▲アト「されば何で御座りませうぞ▲シテ「松風の音か川の瀬か▲アト「雷では御座らぬか▲シテ「是は頻りに近う聞こゆる▲アト「真黒になりました▲シテ「たゞことではあるまい{と云ひて廻る内鏡の間を踏鳴し小アト走り出る山伏に行き当る}そりあ何やら出たわ▲アト「何やら恐ろしいもので御座る、▲シテ「汝行て見て来い▲アト「私は恐ろしう御座る、お前お出でなされませ▲シテ「いや爰な奴が、おのれを連るゝは斯様の時の為めではないか、早う行て見て来い{と云ひて突きやる、アト恐がりて}▲アト「是は御意とも覚えませぬ、斯様の時、お出でなさるゝが先達のお役で御座る、是は是非共お出なされませ{と云ひて突やるシテ太刀そり打}▲シテ「やいそこな奴、此貴い先達の通るに道へ出て障碍をなすは何者ぢや▲小アト「両眼天にあり、一つ甲地に着かず{*3}、大足二足、小足八足、右行左行して世を渡る者の精ぢや▲シテ「強力強力、何者ぞと思ふたれば彼奴は蟹の精ぢや▲アト「夫はどうした事で御座る▲アト「今言ふたを聞かぬか、先づ両眼天に在りとは彼奴が眼がひよいと出てある▲アト「誠にひよいと出て御座る▲シテ「一つ甲地につかずとは彼奴が甲は中宇に浮てある▲アト「はあん▲シテ「大足二足とは両の鋏みの事、小足八足とは後ろにうざうざした足が八本あるわ▲アト「どれどれ何れ八本御座る▲シテ「右行左行と言ふは、総じて蟹は右へか左へか横にならでは得ありかぬに依つて右行左行。すれば疑ひもない蟹に極まつた▲アト「扨は蟹に極りましたか▲シテ「おんでもない事▲アト「扨も扨も憎い奴かな、蟹の分として慮外千万な致しやうが御座る▲シテ「やいやい何をするぞ▲アト「私に委しておかせられい▲シテ「聊爾{*4}をするな▲アト「やい、おのれは憎い奴の、蟹の分として貴いお先達のお通りなさるゝに道へ出て妨をなす、おのれ其過怠に此金剛杖で甲を微塵に、打割つて退けう{蟹強力の耳を挟むなり}あ痛あ痛{*5}▲シテ「何とした▲アト「挟みました▲シテ「夫見よ、おけと言ふに聞かぬに依つて其様な事ぢや、どれどれ離してやらう▲アト「あいたあいた其様になさるゝと猶締めます▲シテ「扨々気毒な事ぢや、いや年月の行法は斯様の時の為ぢや、一と加持して離させてやらう▲アト「夫は有難う存じまする{シテ、夫山伏といつぱ{*6}、を言ふ、アト応答如常、祈る、此類山伏事、何れも同断}{*7}申々お先達様其祈りをやめて下され▲シテ「どうした事ぢや▲アト「珠数の音でなをしめまする▲シテ「しむるは追付け離さうと言ふ事であらう、烏の印を結んで離させて遣らう{と云ひて印を結ぶ、又祈る橋の下の菖蒲を云ひて祈る、山伏事、何れも同事、小アト、シテ挟みに寄る、シテ下の座の方へ退て祈る、左の耳を挟むとしやぎり{*8}吹出し笛の留に二人を突倒し蟹は走りて入る、出入{*9}とも蟹は横に行くなり、二人起き上りてあとより追込み入るなり、但し当世しやぎりなしに突倒し蟹は入る、二人追込み入るなり、口伝。}
校訂者注
1:底本は、「シテ名乗へ」。
2:底本は、「達し事た」。
3:底本は、「地に着かす」。
4:底本は、「聊示(れうじ)」。
5:底本は、「痛(あ)いた(二字以上の繰り返し記号)」。
6:底本は、「山伏といつは」。
7:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
8:底本は、「しやきり」。
9:底本は、「出人」。
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