胴乱の幸助
笑福亭福松口演
丸山平次郎速記
えー。一席、申し上げます。この春先と申すものは、工合のいいしゆん(旬)でござります。池の水も、ほんのりぬく(温)うなる。観音様さへ、襟の端をば、ぞろぞろうわうわ致さうと云ふ、暑うもなく寒うもなく、実にうち(宅)にじつとは、して居られません。皆、ぶらぶらとお出まし遊ばす。
▲源兵「喜八つあん。まあ、ちつとこつちへお入り。何と、いい日和やなあ。
▲喜八「さあ。皆ぶらぶらと出掛けるなあ。
▲源兵「出掛けいで。この頃、ぢつとして居られるものかいな。瓢箪弁当でぶらぶら、あゝやつて愉快ぢや。
▲喜八「源兵衛さん、何やなあ。人間も、あれでこそ、生まれた甲斐があるのやなあ。働く事は働いて置いて、たまに休んであゝやつて、瓢箪持つて遊びに行く人もあるし、またお前やわし(私)の様に、一生懸命に働いて居ても、たまに休んで一杯の酒も飲めぬ。として見ると、もう人間やめたうなるなあ。
▲源兵「ふゝゝ。人間やめる。そんな哀れな事を云ふな。何も、人の事をけな(羨)るがらいでもいゝ。この世は夢の浮世や。あの人らはいゝ夢見てはると、諦めたらよいのや。
▲喜八「さうや、さうや。あの人らは、いゝ夢見てはるね。お前やの、わしは、年中襲はれて居るのや。
▲源兵「襲はれて居る。そんなにほろなやしなはんな。人間ちうもんは、上見たら、はうづ(方図)の無いものや。
▲喜八「さうや、さうや。七八月頃になつて、橋の上へ行(い)て見い。下は遊山の船で大賑(にぎ)やか。お前やわしは、下見ても、はうづ(方図)がないわ。
▲源兵「そないに哀れに云ふなへ。お前がそないに云ふと、気の毒になつて来る。まあ一杯飲まうか。
▲喜八「やあ。もう、水なら堪忍して。
▲源兵「うだうだ云ふなへ。水は飲ましやせぬ、酒ぢや。と云つて、わしはよう飲まさんが、飲ましてくれる人があるか。
▲喜八「むー。飲ましてくれる人つて、何や。
▲源兵「あの向かうの下駄屋のかどに、くずをり(屑糸織)の丹前着て、大きい胴乱提げて居るおやぢ(老爺)さん知つてるか。
▲喜八「あれあ、お前、町内の割り木屋のおやぢさんやが。
▲源兵「さうや。あの人に飲まして貰はう。
▲喜八「むー。飲ましてくれるかへ。
▲源兵「さあ。それについて、ちよいと段取りがあるんだ。あのおやぢさんはな、途方もない、喧嘩が好きや。喧嘩と云つたら、どんな喧嘩でも、中へ入つて挨拶してな、仲直りに酒飲ます人や。さうやよつて、あのおやぢさんめど(目的)に、お前とわしと、あひたい(示談)喧嘩しよう。
▲喜八「あひたい喧嘩つて、どないするのや。
▲源兵「さあ。喧嘩の事ぢや。頭ぽかぽかつと、どつき合ひするのや。すると、あのおやぢさん出て来て、これ。貴様らあ、友達同士で喧嘩すな。まあまあ来い。と云うて、料理屋へ伴れて行つて、仲直りに酒飲ましてくれはる。で、あのおやぢさんめどに、どつき合ひして酒飲まうか。
▲喜八「むゝ。そんな頼りない事は、やめよう。挨拶してくれて、酒飲ましてくれなかつたら、何にもならんわ。阿房らしい。
▲源兵「いゝや。喧嘩したら大丈夫、酒飲ましてくれる。こないだも、犬がかぶり合ひして居つた。さうしたら、あのおやぢさん、脇へ行つてな、やいやい。しろ(白犬)もくろ(黒犬)も、俺に任して置け。と云うて、鯛の頭あ持つて、挨拶して居た。
▲喜八「あゝ。ゑらい面白い人やなあ。犬の喧嘩に鯛の頭で挨拶とは、ゑらいよう出来てる。しかし俺あ、あひたい喧嘩つて、した事がないよつて、教へてんか。
▲源兵「よし。お前な、家なら十四五軒向ふから、ちよいと拳骨拵へて、肩の処へ突つ張つて、のつけ(最初)にわしへ、どーんと行き当たり。
▲喜八「むゝ。さうすると、どうなるね。
▲源兵「すると、俺がな、こう、気をつけやあがれ、べらんめえ。なぜ突き当りやあがるんだへ、頓痴気野郎めー。と、かう云ふわ。
▲喜八「ふんふん。江戸つ子やぜ、お前。お前、大阪者やないか。
▲源兵「さあ、大阪者ぢやわいな。けど、大阪言葉で喧嘩するのは、気が利かんよつて。
▲喜八「むゝ、成程。すると、わしあ、何と云ふのや。
▲源兵「さうすると、お前なあ。そないにぽんぽんお云ひな。喧嘩どすか。と、かう云ふのぢや。
▲喜八「ほー。わし、さいきやう(西京)やな。
▲源兵「さうや。京と江戸とで喧嘩するのや。人に突き当つて置きやあがつて、お云ひなもねへもんだへ。こいつを食らやあがれ。と、いきなりお前の横面、ぽかーりと張るわ。
▲喜八「だゞ、誰の横面を。
▲源兵「誰れのつて、お前のやが。
▲喜八「むー。酒の飲める事ぢや。一つや二つ、いかれてもかまはん。しかし、右はいかんと置いてや。こないにくさ(瘡)が出来て居るよつて、くさから血が出ると、はゝぢやびと(母者人)が心配するから。いゝか。
▲源兵「まあ、よいわいな。
▲喜八「さうすると、わし、どうしよう。
▲源兵「そこで、わしの胸倉、そーつとつかまへ。そーつと、いいか。で、痛うすかな、どうえ。
▲喜八「そんな、ちやらちやらした。お前、横面張られて、どうえ。なんて、ゑらい間の抜けた事や。物の云ひやうだけ、変へてんか。
▲源兵「まあ、よいわいな。そーつと胸倉つかまへて居りやあ。さうすると、わしがな、胸倉つかまへて、どうしやあがるんだ。生意気な事をしやあがるなへ。と、腕首をつかまへて、俺あ、負ひ投げにお前をぶつゝけるわ。お前は、痛あーい。と、へたばるやらう。と、俺あ、横つ腹ぽーんと蹴るわ。すると、お前、横つ倒しにころりとひつくり返るだらう。そこで、頭へ小便たご(桶)ぶつちやけるわ。
▲喜八「俺あ、もうやめるわ。なんぼ酒が飲みたいからつて、命が危うい。横つ腹蹴られたり、頭から小便たごぶつちやけられたりして、堪るものか。
▲源兵「へゝゝ、嘘や嘘や。まあ、そない思うて居い。
▲喜八「いやいな。そんな事を思ふのは。
▲源兵「まあ何でもよいわ。掴み合ひの喧嘩さへしたらな、あのおやぢさん、出て来るわい。さうしたら、もうお任せ申して置きます、置きます。と云つて、任せて置いたら、酒飲ましてくれる。
▲喜八「まあ、一つやらう。けど、前に云うとくぜ。横面張るのやつたら、左べりいつて。も、返す返すも云うとくよつて。右べり、くさが出来て居るよつて。
▲源兵「まあ、そんな事は、よいわいな。さあ、お出で。尻からげしい、尻からげを。や、ゑらいわ。丁度、おやぢがこちら向いてる処ぢや。さあ、突き当たりい。
▲喜八「むゝ。突き当たらうか。
▲源兵「早う突き当たりんかいな。
▲喜八「こりやあーい。
▲源兵「あーつ。勢ひのよい突き当たり様やな。こう、気をつけろい、べらんめえ。何で突き当たりやあがるんだ。おい、何となと云ひんかいな。げらげら笑はんと。勘弁しい。とか何とか。
▲喜八「つゝゝゝ。なに、だんない。
▲源兵「頼りない云ひ様ぢやな。早く、何ぢやとか、かぢやとか。人に突き当たりやあがつて。てめへ、どこだへ。
▲喜八「ふむふむ。一軒おいて、隣やが。
▲源兵「そんな事を云ふなへ。さあ、何が意趣があつて、突き当たりやあがつたんだ。
▲喜八「酒が飲みたうおますよつてに。
▲源兵「どうもならん。そんな事を云うて居たら。えー、こんなん食らつとけえ。
と、ぽかーりつ、張り倒す。喜八は、痛さに耐へかね、
▲喜八「痛あーい。さあ、応対が違ふぞ。わい、もう置くわ。さうやよつて、のつけからくさが出来てると云うてるのに。こんなに酷く。
▲源兵「そんな事を云うたら、喧嘩が出来んわ。えーつ。今一つ食らつとけえ。
▲喜八「痛あーい、一つでも痛くて堪らんのに、二つもくさの所をいきあがつて。こりやー。
▲源兵「ちよいと待ちんかいな。顔つかんで、どないするのぢや。
▲喜八「あまり馬鹿にするなへ。をとなしうして居ると思つて。見い、血が出たわい。
▲源兵「それでは本当の喧嘩になるがな。ちよいと待ちいて事。
▲喜八「糞お食らヘつ。
片つ方は偏屈を起こして、七分ほど本当の喧嘩になりました。さあ、下駄屋のかどに立つてた割り木屋のおやぢ、幸助です。喧嘩と聞いたら、ようほつときません。すぐさま、駈け付けて参りまして、
▲老爺「まあ、待てえー。
▲源兵「いや、お出でた。
▲老爺「何が、お出でたんや。見ろへ。貴様あ、友達同士して、大道の真ん中で、何て事をするのぢや。まあ待てえ。俺の顔、知つてるやらう。
▲源兵「ヘえ。あんたをめどに。
▲老爺「何つ。
▲源兵「いや。何も云つてりやあ、しません。
▲老爺「まあ待てえ。やい。このかひな(腕)、下ろせ。
▲源兵「私や、かひな下ろすつもりやけども、あんたがこじ上げて居なさるよつて、下ろす事もどうする事もできません。
▲老爺「そないに弱い癖に、喧嘩するなへ。一体、どうしたのぢやえ。
▲源兵「いや。他のお方なら、苦情も申しますけれども、相手がおやぢさんでございます。もう、かれこれは申しません。すつぱりと、お任せ申します。どうぞ、宜しう。
▲老爺「むゝう。貴様、云つてくれる事が、嬉しいな。他の仲裁なら、苦情も云うけれども、相手が俺ぢやよつて、年寄りに免じて、もう苦情は云はず、任す。か。
▲源兵「ヘえ。すつぱりと、お任せ申します。
▲老爺「やあ。よう云うてくれた。それでこそ、俺の顔が立つた。貴様、どうしたんだ、一体。頬べたから、血を出しやあがつて。
▲喜八「まあ、おやぢさん。聞いとくんなさい。私や、のつけから、くさが出来てると云うてるのに、それにびしやーりと、二つもいきをるよつて、こないに血が出ますのや。
▲老爺「そりやあ、なんか(何吐)すね。どつちやみち、喧嘩の時に、くさぐらゐ厭うて居られやあ、せんわい。で、貴様らあ、見りやあ友達同士で、大道の真ん中で掴み合ひするとは、最初の悶着は、どう云ふ事からぢや。
▲源兵「ヘえーつ。
▲老爺「いや。最初は、どうしたと云ふのぢや。
▲喜八「その、最初はな、人間ちうものは、上見たら、はうづがないと云つて。
▲老爺「そりや、何ぢやい、一体。わいら(汝ら)ぬかす事は、分からん。まあまあ、よいわい。俺が入つたら、悪うはせぬ。まあ、出て来い。
▲喜八「ヘえ。大きに、御馳走さんでござります。
▲老爺「はゝゝ。ゑらいわれ(汝)あ、気が早いな。何も、馳走するとも何とも、云うてりやせぬが。
▲喜八「はあ。おやぢさん、すき焼きは、もういけませんぜ。
▲老爺「ほつとけい、そんな事は。
▲喜八「鯛のつくり(刺身)で、あつさりと。
▲老爺「そりやあ、なんか(何吐)すのぢや。まあ、来い。
おやぢさん、先に立つて、じき、かたへ(片傍)の料理屋へ伴れて参りました。
▲老爺「あね(姐)はん、御免なされや。
▲主婦「はい。親方、お出でやす。
▲老爺「また若い奴ら、喧嘩さらしてな。ちよつと、物を云うて遣りました。何でもだんない。一杯、▲拵へて遣つておくれ。
▲主婦「はい、親方。毎度有難う。どうぞ、二階へお上がりやす。
▲老爺「はい、御免なされ。さあ、上がれ。ふたりとも。
▲喜八「いよー。はゝゝゝ、どうも。
▲源兵「笑ふなへ、げらげらと。
▲喜八「源兵衛さん。ゑらい、すつくりと行つたな。
▲源兵「そんな事を云ふなへ。
ふたりは、つらつ(伴立)て二階へ上がり、座に着きますと、ちよいと三つ鉢に、はやまく(即席)に拵へて持つて参りました。
▲老爺「さあ、仲直りの作法の盃もあるけれども、貴様らあ友達同士で、そんな難しい事は要らんわ。源兵衛。貴様あ、年がい(長)つてるな。一杯飲んで、若い方へやれえ。
▲源兵「大きに。いつとても、御厄介になりまして、御馳走様でござります。あー、いゝ酒だ。で、この盃、どう致しませう。
▲老爺「若い奴に遣れ。
▲源兵「まあ、喜八。おやぢさん、あないに云うてくれてやよてに、今まで通りに仲ようするわ。これ、げらげら笑ひないな。盃取つて、おやぢさんに礼云はんかへ。
▲喜八「や。大きに、御馳走さんでござります。たんと注いでくれ。その肴も、のけといてや。いにしなに俺、持つて行くよつて。
▲源兵「そんな事を云ひないな。
▲喜八「云はしてんかいな。くさから血が出て居るがな。
▲源兵「あゝ、あればつかり、云つてけつかる。
▲老爺「まあまあ、ゆつくり飲め。これで仲直りも出来て、俺の顔も立つたわい。よい加減に飲んで置けよ。又、酒の上で喧嘩さらすと、面倒多いぜ。しかし、あねはん。今日のつけは、明日、わしとこへ持つて来ておくれ。
▲主婦「大きに。親方、毎度有難う。
▲老爺「酒え飲んでる処に、おやぢが居たら、うるさからう。俺、もういぬぞ。まあ、仲よう飲め。
▲喜八「大きに、御馳走さんです。しかしおやぢさん。明日今時分に、あんたどこに居なさる。
▲老爺「そんな事を尋ねいでも、いいわな。
▲喜八「だつて、尋ねて置かにやあ。酒飲みたうなつたら、又どづき合ひ、せにやならんわ。
▲源兵「そんな事を云ふなへ。大きに、御馳走さんで。
▲老爺「やあ、ゆつくり飲め。大きに、お邪魔さん。
ぶーいと、おやぢは出て行きました。こゝで、割り木屋のおやぢは、余程慢気がさして参り、
▲老爺「なあ。俺は、よつぽどいゝ顔役になつてるわい。町内の血気盛りの若い奴が、大道の真ん中で掴み合ひの喧嘩してるのに、俺が顔を出したら、苦情云はず、あゝやつて仲ようしてくれるわい。むー。こりやあ、俺はよつぽどいゝ顔やわい。もう、少しぐらゐの喧嘩の挨拶は、面白うない。一番、切つた張つたつてえな、どゑらい喧嘩の挨拶がして見たいものだ。
おやぢ、けつたい(化体)な気になつて、これより、日々に喧嘩を探して歩いて居をる。うろうろしながら、辻に大勢、人がたかつてる。ゑらいわ、喧嘩か知らん。と思つて、おやぢ、がわ(側)へ行きをると、案外相違。犬のさかつてるのを、仰山な見物です。
▲老爺「はゝあ。大坂つて所は、物見高い所だ。犬のさかつてるのを、感心して見て居る。やい。そんな物を見る手間で、喧嘩せい。
▲甲「おい、みんな。こつちへ寄つて居い。あのおやぢさん、喧嘩せへ。て云つてるぜ。何ぢやいな。
▲老爺「一つ、どづき合ひせい。
▲甲「何ぢやいな、あのおやぢさん。
と、皆々、胆を潰して居る。おやぢは平気で、なほもうろうろ、探し歩いて居ります。するとこゝに、二間半間口ぐらゐな、意気いなつくりのひと構へ。浄瑠璃のお師匠さんのうちと見えまして、連中が二三人寄つて、稽古して居ります。
▲師匠「くわぼく(花木)さん、きせい(喜清)さん、だくぼく(凹凸)さん。
まるで、お医者さんの百味箪笥みた様な名です。
▲師匠「一つ、さら(温習)ひませうか。
▲花木「ヘえ。長い事、休んで居ましたので。それに、風邪をひいて、少しおんせい(音声)を痛めて居ります。さらはして貰ひませう。
▲師匠「あんた、何でしたいな。
▲花木「えー。私は、お半長です。
▲師匠「あー。帯屋のうちですか。左様なら、こゝに本がごわす。
▲花木「ヘえ、大きに。
▲師匠「いと(弦)、かけませうか。
▲花木「いえ。声、傷めて居ります。はくぢやう(節調)だけ。
▲師匠「さあ。やつてお見や。
▲花木「どなたも御連中、お先へ。えヘんえヘん。かつ、ぷ。
▲師匠「もし。庭へつばを吐いたら、いけませんぜ。
▲花木「ヘえ。いえ、痰でやす。
▲師匠「ぢやあ、なほきたな(穢)い。さあ、やりませう。
▲花木「柳のばゞ、おしこめた。
▲師匠「そりやあ、何云うてなさる。柳のばゞ、おしこめた。そんな浄瑠璃が、ごわすかいな。柳のばんば(馬場)、おしこうぢ(押小路)です。
▲花木「あー。さうや、さうや。あなず(侮)つて居りますのやよつてに。
▲師匠「あなずつて居るちうたかて、柳のばゞおしこめて。なんてなそんな無茶、云ひなさんな。本見てゝ、すかたん云うて居なさる。
▲花木「やあ。宜しうおます。柳のばゞ、おしこうぢ。軒をならべし呉服店。げんぎんあきなひ(現金商)かけ硯、ふわい。虎石ちやう(町)のう西側でい、あるじ(主)はう帯屋のう長右衛門。
▲師匠「ちよつと待ちなされ、まるで、からくりや(覗目鏡屋)ぢや。もつときつぱり、上手にやりなされ。
▲花木「井筒に帯のゝうれん(暖簾)にも、かけねじよさい(掛値如才)も内儀のお絹、気の取り苦しい姑に、目を貰はじとたすき(襷)がけ。洗濯物の敷きのしを。
▲師匠「まるで、つんぼごゑ(聾声)やがな。
▲花木「そない、ごてごて云うておくれなさるな。皺は寄つても、頑丈造り、母のおとせは勝手を出で、あさめし(朝飯)の。
▲師匠「ちよつと、待ちなされ。まるで、相撲取りみた様なが。
▲花木「けど、お師匠さん。このばゞ(婆)、悪い奴ですよつてに。
▲師匠「悪い奴つて。まるで、豚やが。もつとばゞ(婆)らしう、やつて見なされ。それでは、情が乗りませぬが。
▲花木「はゝあ。成程、ばゞ(婆)らしうやりますので。母のおとせは勝手を出で。
▲師匠「うまい、うまい。
▲花木「あさめし(朝飯)の箸下に置くと、駈け出した長右衛門、ぶさーぞるぶさーぞるぶさーぞる。
▲師匠「そりや、何ぢやへ。
▲花木「こつちあ、腹ですが、年寄りと云ふものは、尻に締まりのないもので。
▲師匠「そんな、ちやらちやらした。浄瑠璃に屁をこいたら、どうもならん。あんたら、てんごう(悪戯)半分で稽古しなさるよつてに、いけません。もつと、奥へ飛びなされ。親ぢやわやい。と云ふ、いまじめのとこ(所)、しつかり遣つて見て置きなされ。
▲花木「ヘえヘえ。親ぢやわやい。
▲師匠「うまい、うまい。
▲花木「えーつ。胴慾ぢやわいなあ。えーつ。親ぢやわやい、胴慾ぢやわいなあ。
うちら(宅裡)は、一生懸命に稽古をして居ります。すると、格子の間の外で、七八人、立つて聴いて居なさる。
▲甲「いゝ浄瑠璃でかすな、もし。この帯屋は、大体が、ばゞ(婆)が悪い奴です。それゆゑ、養子息子も嫁も、たいていぢやあ、おまへんわい。
▲乙「左様、左様。帯屋のばゞ(婆)か、八百屋のばゞ(婆)か。と云ふくらゐです。もともと、ばゞ(婆)が悪いのです。
と、口々に話しをして、ばゞ(婆)が悪い、ばゞ(婆)が悪い。と云うて居る。うちら(宅裡)では、親ぢやわやい。えーえ、胴慾ぢやわいなあ。と、やつて居る。そこへ丁度通り掛かつたのは、例の割り木屋のおやぢです。
▲老爺「おい、何ぢやへ。はゝあ、親子喧嘩やな。どれ、挨拶して遣らう。
と、勢ひこんで、おやぢめ、その儘、座敷へ飛んで上がりました。
▲老爺「一体、わいわいと、どうしたんぢやへ。やまが(山家)の一軒家ぢや、あるまいし。近所となりのあるのに、わいわいと。今も聴いて居りやあ、ばゞ(婆)が悪い、ばゞ(婆)が悪い。と云うてたが、どのみち(途)、年寄りちうものは、愚痴な事を云ふものぢや。それを又、若い者が寄つて、あんばいして遣らにやあ、いかんぢやないか。が、俺が来たからには、悪うはせん。さあ。ばゞ(婆)さんに会はう。
▲師匠「ヘえー。連中さん、逃げいでも宜しい。気違いかも知れん。もし、大事おまへんけれど、うちの中へ、下駄ばきで上がつて貰うては、どうもなりません。そこら土だらけです。別に私どもら、喧嘩も何も、して居りやあしません。
▲老爺「何云ふね。俺あ、今聴いてた。親ぢやわやい、胴慾ぢやわいなあ。ちうて、泣いて居た。姉はん、どこに居るへ。
▲師匠「うだうだ云ひなさんな。これはあんた、喧嘩でも何でもありやあしません。これは、お半長ですね。
▲老爺「お半長つて、何ぢやへ。
▲師匠「あー、けつたい(化体)な人やなあ。いゝ年して居て、お半長右衛門、分かりませんか。こりやあ別に、私とこの事ぢやあ、おまへんね。京都は、柳のばゞ(馬場)おしこうぢ(押小路)、虎石ちやうの西側で、あるじは帯屋長右衛門。その帯屋のもめた話をして居ますね。
▲老爺「あゝ、左様か。うちかた(内方)ぢやあ、ないのか。
▲師匠「ヘえ。私とこぢやあ、おまへんね。
▲老爺「さうかへ。しかし、その、京都の帯屋たら云ふうちは、ゑらうもめるのか。
▲師匠「あゝ、けつたい(化体)な人ぢやなあ。ヘえ、もめますのです。
▲老爺「むー。そのもめのひと通り、話をして。俺あ、悪くはせぬよつて、一体どう云ふもめやい。
▲師匠「あゝ。まだあんな事云うて居る。けつたい(化体)やな。
▲花木「なあ、申し、お師匠さん。あんじやう、わけの分かる様に、云うて上げなされ。相手が気違いです。しまひには、ばゞ(糞)垂れしますぜ。
▲師匠「いや。そないな事して貰うては、騒動ぢや。
▲花木「さうやよつて、分かる様に、云うて上げなはれ。
▲師匠「その、なあ、おやぢさん。あんたが今、尋ねて居なさるばゞしう(婆州)は、こりあ元、飯炊きして居ましたへ。帯屋のうちで。その時分は、お竹と云うたが、後妻に直つて、おとせと名前替へたんです。これに、つれ子が一人おますね。義兵衛ちうてな。帯屋のうちには、長右衛門と云ふ養子息子を貰うて、その女房をおきぬというて、仲ようして居ますね。で、婆さんは、我がつれ子に、世が取らしたい。養子を放り出して仕舞うて義兵衛に。と云ふので、うちがもめますのです。
▲老爺「むー。そんな事で。また婆さん、いかん事ぢやなあ。
▲師匠「あゝ、左様か。その隣に、信濃屋てうち(宅)がおますね。そこの娘に、お半ちう別嬪があつて、伊勢参りのみち(途)で、長右衛門が一緒になつたさうで、で、お半が到頭、はらぼてになりました。それでなほ、帯屋のうちがもめますのです。
▲老爺「はゝあ。ゑらい又、長右衛門さんも浮気な人ぢやな。
▲師匠「あゝ、左様か。
▲老爺「むゝ。こりやあ、ほつとけん。
▲師匠「えゝーつ。
▲老爺「俺あ一つ、京都へい(行)て、丸う治めて来よう。
▲花木「お師匠さん、い(行)て貰ひなされ。いゝ、行つて貰ひなされ。
▲師匠「一つ行つて、おやぢさん。よい様にして来ておくんなされ。
▲老爺「よし。しかし、ところを聞かしておくれ。
▲師匠「こゝに、硯も紙もおます。私、云ひますよつて、あんた、書きなされ。
▲老爺「貸しておくれ。どこやへ。
▲師匠「京都は、柳のばゞ(馬場)おしこうぢ(押小路)、虎石ちやうの西側で、あるじは帯屋長右衛門。
▲老爺「よし。こりや、養子息子やな。
▲師匠「左様ですね。
▲老爺「で、この長右衛門てえなあ、いくつぐらゐやへ。
▲師匠「ヘえ。くわぼく(花木)さん。長右衛門、いくつぐらゐでせうな。
▲花木「左様です。四十に近い身をもつて。と云うで、たいてい、三十九ぐらゐでせう。
▲師匠「むーむー。おやぢさん、三十九です。
▲老爺「男盛りやなあ、三十九ぐらゐなら。で、女房は。
▲師匠「女房は、おきぬと云ふんで。
▲老爺「よし、おきぬ。これは、何才ぢや。
▲師匠「まるで、戸籍調べぢや。まあ、三十ぐらゐですやらう。
▲老爺「三十かへ。よいめうと(夫婦)ぢやがな。仲ようしたがよいことに、浮気をして。で、隣の娘は何と云ふへ。
▲師匠「お半です。
▲老爺「よし、お半。で、婆さんは。
▲師匠「おとせです。
▲老爺「よし。つれ子は。
▲師匠「義兵衛です。
▲老爺「よし。しかし、この婆さんは、つれあひはないのかへ。
▲師匠「いえ。そりや、半斎と云ふのがおます。
▲老爺「むー。なに、こんだけくらゐなごてごて(悶着)なら、訳あない。同じうちに居るよつて、かれこれともめるのぢや。かずさへ減つたら、さう揉める訳なものでない。俺あ、誰なとつれて戻つて来て、こつちで割り木屋さす。
▲師匠「あゝ、左様か。それは大きにお世話さんで。
▲老爺「いや。大きにお邪魔さん。
と、そのまゝ、表のかたへ出て行きました。あとに、皆々は
▲「何ぢやいな。世には、気楽なおやぢもあるものぢやなあ。あはゝゝゝ。
と、稽古屋のうちは、大笑ひです。お話替つて、割り木屋のおやぢは、うちへ帰りまして、握り飯の弁当を拵へて支度をいたし、三十石に乗りました。夢のまに、はや伏見へちやんと着きました。おやぢ、船から上がるをり、あちらこちらで尋ねて居ります。
▲老爺「おい、ちよつとお尋ね申します。
▲〇「ヘえ。何でやすへ。
▲老爺「京都は、柳のばゞ(馬場)おしこうぢ(押小路)、虎石ちやうの西側で、あるじは帯屋長右衛門。と云ふのは、どこやへ。
▲〇「ヘえつ。もし、佐助さん。ちよつと一遍、来ておくんなさらんか。ゑらい所を尋ねて居ますね。おつさん。あんた尋ねて居なさるなあ、まるで、お半長ですなあ。
▲老爺「なに、お半長。ゑらいお前、よう知つてるなあ。
▲〇「阿房らしい。そんな事は、子供でも知つて居ますぜ。
▲老爺「ほゝー。やつ、よつぽどえらいもめと見えるなあ。子供までが知つてるのに、俺あ、知らぬが。どこやへ。
▲〇「はゝゝゝ。こりやあんた、伏見です。まだ、三里かみへ行かにやあ、なりません。三里かみへい(行)てから、お尋ねなされ。
▲老爺「いや。大きにお邪魔さん。
▲〇「何だへ、あの人は。馬鹿気た事を、尋ねをるな。
笑はれても、お気がつかれず、割り木屋のおやぢ、さくさく京都へ出て参りました。あちらで尋ね、こちらで聞き、到頭、虎石ちやうの西側へ遣つて来ました。たゞ今でも、おぼぢや(帯地屋)がのこつて居ます。
▲老爺「はゝあ、こゝやな。ヘえ、御免なされ。
▲若者「ヘえ。こりや、お出でやす。こども(丁稚)、お座蒲団出しい。煙草盆に火を入れて。毎度有難う様で。さあ、どうぞこちらへお掛け。
▲老爺「はい、御免なされ。えー。早速やが、わし(私)あ、大阪の者ぢやが。
▲若者「でおますか。毎度、御贔屓様に有難う。このせつは、余程替りました帯地が出来てごわす。えー。一応、お見本お目に懸けませうか。
▲老爺「いや。別に、帯買ひに来たのぢや、ごわせん。早速ですが、あんた、こゝのあるじさんか。
▲若者「いえ。わたくしは、若いものでござります。
▲老爺「むゝう、左様か。お若い衆か。何ぢや聞けば、ごたごた、もめるさうだな。
▲若者「ヘえつ。何と仰しやります。
▲老爺「いや。どこのうちでも、年寄りちうものは、うるさいものでなあ。まあ、婆さんに、一応説諭する積りぢや。おとせさん、うちに居やはるかへ。
▲若者「ヘえー、おとせさん。ヘえ。私どもにおとせさんてな人は、ござりませぬが。
▲老爺「ヘゝゝ。そんな事、隠すなへ。お前は御主人に忠義で、うちのごたごたをば、他へ聞かせまいと思うて居らうが。別に、わしに隠さいでもよい。お前とこの治まりのつく様に、わしあ、わざわざ来て居るによつて。そんなら、つれ子の儀兵衛さんに、会はう。
▲若者「ヘつ。儀兵衛さん。そんな人は、居りませぬが。
▲老爺「あゝ。けつたい(化体)な若い衆ぢやな。何でそんなに、隠すのぢや。そんならもう、はやまく(早幕)ぢや。あるじの長右衛門に会はう。
▲若者「えゝつ、長右衛門。
▲老爺「それで分からにやあ、隣の信濃屋のお半を呼べ。
▲若者「そりや、何云ひなさるね。おつさん、あんたの尋ねて居なさるのは、お半長右衛門ぢやあ、ござりませぬか。
▲老爺「むゝ。さうぢや。お半長右衛門ぢや。
▲若者「はゝゝゝ。阿房らしい、何云うてなさる。今時に、お半長右衛門、尋ねに来たりして。お半も長右衛門も、桂川で心中しましたぜ。
▲老爺「えゝーつ。ぢやあ、お半も長右衛門も、桂川で心中したか。
▲若者「えー。もうとうに、心中しました。
▲老爺「しもたあ。汽車で来たらよかつたに。
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