第七回
えー。二人は、庄屋のうちを立ち出でまして、
▲似多「紛さん。一首浮かんだが、かうはどうぢやえ。これこれのわざ(業)かと問はれこれこれと狐ばくち(博奕)で双方さい難。
▲紛郎「いや。いつもながら面白い。さあ、行かう。
と、これから、みわ(三輪)をあと(後)に、たんばいち(丹波市)の方へ出まして、かれこれするうちに、日もずんぶりと暮れて仕舞ひました。両人は、ふところ(懐)に一文の銭もありませんから、どこかで宿をば求めたい。と、烏鷺烏鷺歩いて居りますうち、飛んでもない道へ入り込んで仕舞ひました。
▲似多「紛さん。今夜、どうするつもりじや。
▲紛郎「ゆうべのやうな都合に、どつかでまあ一つ、地蔵堂か何かあつたら、そこで今宵は夜を明かさうじやないか。さうしてまあ、奈良へ行きやあ、またどうにでもなるで。しかし、渡る世界に鬼はなし。とは、よく云つたものだ。まあかうやつて、一枚の物でも着せて貰うたよつて、これで、どうなりかうなり歩ける。と云ふものじや。
▲似多「しかし、妙な所へ出て来たな。さつぱり道が分からぬやうに、なつて来て仕舞つた。尋ねるにも、通る人はなし。困つた事じやな。
と、二人はぶらぶら歩いて居りますると、向かうの方から、頭に五徳のやうな物を載せまして、蝋燭に火をともし、胸に鏡を当て、白い着物を着た者がやつて来ました。これは所謂、丑の刻参り。と云ふのです。
▲似多「おい、紛さん。
▲紛郎「何じやえ。
▲似多「向かうの方から、妙な者が出て来たぜ。何だかゝう、頭にあかりが見えて居る。
▲紛郎「はゝあ。俺あまだ、丑の刻参りといふものは、聞いては居るけれども、ほんたうの丑の刻参りといふものは、見た事がない。一つ、どういふ事をしをるか、そつと見てやらうではないか。
▲似多「いや、面白い。
と、二人は樹の蔭へ来たりまして、身を潜めて窺つて居りますると、成程、両人の推量の通り、丑の刻参りですな。こなたにさくさくやつて参り、辺りを見廻し、ふところから何か、かう半紙にか(描)いたやうなものをば、かたへの榎へさしてからに、ぴたりと貼り付けまして、ふところから火打ち石と火打ち金をば出だして、袂から線香を取り出だし、火を移し、精出してこの紙に描いた画姿に、やいと(灸)を据ゑて居ますから、
▲似多「おい、紛さん。俺あ、丑の刻参りつてものは、見た事はないが、妙な事をするものじやな。おいらの聞いて居るのにやあ、藁人形をば拵へて、そいつへ我が恨む男のえと(干支)を書いて、それをば五寸釘で打ち付ける。といふ事は、聞きもし、又絵に描いたのも見た事があるが、妙な事をしをるのじやなあ。やいとを据ゑるとは、妙だ。
二人は、樹の蔭からその処へ出掛けて参りました。
▲似多「おい。丑の刻参り屋。
▲女「おや。あなた方お二人は、どつからお出でなすつた。わたくしは、びつくりしました。
▲似多「いや。びつくりしたのは、こつちがびつくりしたのだ。俺あ、樹の蔭で二人が身を潜めて、お前がする事をば見て居たが。なあ、丑の刻参り屋さん。
▲女「あなた方は、人を何ぞ、物を売りに来た者のやうに仰やいます。丑の刻参り屋さんなんて。
▲似多「まあ、そりやあどうでもいゝが、お前のするのを見て居ると、画姿へさして、何じや、やいとを据ゑて居なさるが、丑の刻参りといふものは、怨みのある男の姿をば、藁人形で拵へて、それへさして五寸釘を打つ。と云ふ事は、私も聞いて居るし、又絵に描いたのを見てもゐるが、どういふもので、そんなに精出して、やいとを据ゑてゐるのじや。
▲女「成程、そのお尋ねは御もつともです。わたくしの怨みのある男といふものは、しやうばい(家業)がぬかや(糠屋)でおますよつて。
▲似多「はゝあ、成程。それでは、釘は利かぬわい。
▲女「しかし、あなた方は、どちらのお方でござりますな。
▲似多「わしらあ二人は、大阪の者じやが、宿を取り失うて、困つて居るのじや。これから宿屋のあるやうな処へは、もそつと行かねばならぬか。
▲女「あなた、まあ。これからと云うて、丹波市の方へお出ましになりますのか。又は、奈良の方へでも。
▲似多「さあ。丹波市の方から、こつちへやつて来たのじや。
▲女「それじやあ、これから向かうへ四五丁お出なさると、札の辻がおますよつて、そこへお出でなさると、人家も沢山あります。
▲似多「はゝあ。どちらへ行つたらいゝのです。
▲女「お前さんが、今さう向いてお出でなする方を、右へ右へと取つてお出でなされば、札の辻の方へ出ますから。
▲似多「いや。大きにありがたう。なあ、紛さん。
▲紛郎「えゝつ。
▲似多「どうも、旅をして居ると、様々な事があるものじやなあ。おう。あすこに、ともし火がついて居るうちがある。もし、ちよいとお尋ね申します。もし、ちよつとお尋ね申します。
▲老爺「へい。どなたじやな。
▲似多「えー。私らは、大阪の者でございますが、宿を取り失うて、甚だ困つて居りますが、お庭の隅でも宜しうございます。お泊め下さるといふ訳にやあ、参りますまいか。
▲老爺「いや。お気の毒な事ですけれども、旅の衆を私の方へ泊めるといふ訳には、いけません。
▲似多「へえ。すると、何でございますか、泊めて戴く事は出来ますまいか。
▲老爺「お気の毒ぢやがな、断ります。
▲似多「札の辻までは、まだもつとございますか。
▲老爺「左様。これから一丁半ほど行きなさると、札の辻へ出ますぢや。
▲似多「それぢやあ、仕方がございません。おうちで泊めて戴けませんやうな事なら、これから札の辻へ参つて、高札をば叩き割つて、それでどんど(焚火)をた(焚)いて、今夜、夜明かしを致します。
▲老爺「これこれ。滅相な事を云ふ人ぢや。札の辻の札をば、叩き割るなんて。そんな乱暴な事をされて、たまるものか。
▲似多「それぢやあ、どうかお宅にお泊めなすつて下さいまし。
▲老爺「さあ。それは、泊めて上げる事が出来ぬのぢや。
▲似多「出来ぬやうな事なら、ふだば(札場)へ行つて、札あ叩き割つてからに、向かうで夜明かしを致します。
▲老爺「まあ、乱暴な事を云ふ人ぢや。それぢやあ、かうさつしやれ。私のうちに泊める事は出来ぬが、私に聞いたと云はず、これからもう四五丁行きなさると、寺があるよつて。道念寺といふ山寺ぢやが、それへ尋ねて行きなすつて、決して私に聞いたと云うてはならぬ。人を助けるが出家の任。我々は、追ひ剥ぎに出遇うて、宿を取り損なうて、大きに難渋いたしますから、どうぞ今宵は一泊をお願ひ申します。と、かう云うたら、そこは御出家ぢやによつて、必ず泊めて下さるに相違ない。さうさんせ。
▲似多「おい、紛さん。どうしやう。
▲紛郎「さう云ふことなら仕方がない。なあ、おい。そこへ行つて、今宵はともかく、お寺で一泊をさして貰はうか。
▲似多「そんならさうしよう。大きにありがたうございます。
と、二人は麓へ参りまして、見上げますると、上の方に、かう灯りがついてございますから、やうやうそれへやつて参りました。
▲紛郎「へえ。お頼申します。
とんとんとん。
▲和尚「あゝ。どなたぢやな。
▲紛郎「はい。私は、旅の者でございますがな。勝手を知らぬ山道へ踏み迷うてからに、誠に困つて居ります。どうか今宵は、お庭の隅でも宜しうございますので、一泊させて戴きたうございます。
▲和尚「はゝあ。左様かな。いや、待たつしやれ。只今、開けますよつて。ほゝう。お前方は、どちらから来んしたのぢや。
▲紛郎「へえ。あちらから参じましたので。
▲和尚「あちらからでは分からぬが。まあともかくも、わらじ(草鞋)を解いて、こちらへ上がらつしやれ。こゝは山寺の事であるから、蒲団も不用にはない。不自由ではあるけれども、柴でもた(焚)いて、ゆつくりと夜明かしをさんせ。どういふもので、かういふ処へさしてからに、お前方は来んしたのぢや。
▲紛郎「はい。私は、大阪の者でございますが、伊勢参宮から帰りがけ、この大和路をば見物致しませう。と思ひまして、あつちこつちと見物をして居りましたが、昨夜、はたごや(旅籠屋)でからに、泥棒のために、すつかり路銀をば取られて仕舞ひました。泊まるにも、ふところに銭はございませず。それゆゑどうか、一泊さして戴きたいので、お願ひに参りましてございます。
▲和尚「さうかの。それはまあ、気の毒なことぢや。まあ、かう云ふ山寺であるから、何も上げます物はないが、まあつまらぬ雑炊があるで、それなと温めて食はんせ。
▲紛郎「大きにありがたうございます。
二人は、雑炊をばよばれまして、囲炉裏に火を拵へて、柴をたきながら、夜明かしを致しました。夜が明けてから、立たうと思ひますと、折悪しく、雨がしきりに降つて居りますから、
▲似多「紛さん。困つたなあ。また雨ぢやぜ。こないだうちから、ようまあ、ちよこちよこ雨に降り込められて。今日も、立たうといふ訳にはいかぬが。どうしたものぢや。
と、二人は話をして居ります。ところへさして、この寺の和尚でございますな。
▲和尚「あゝ。二人の衆や。お目覚めかな。
▲似多「はい。昨夜は、色々御厄介になりまして。
▲和尚「どうぢや。このやうに雨が降つてるで。たうてら(当寺)にも、下駄傘は不用にないので、誠にお気の毒ぢやが。なんともお前方、せ(急)かぬ旅なら、まあゆつくりと、日和になるまで遊んで居たがよい。どうぢやな。
▲似多「ありがたう存じます。いやもう、我々は、別にせかぬ旅でございますから。まあ、いち日ふつ日が、はん月でもひと月でも、又は半季でも一年でも、置いてやらうとさへ仰やるなら、置いて戴きますので。
▲和尚「さあ。かう云ふ寺の事ぢやよつて、置いてお上げ申さぬ事もないが。お前方は、何と、どうぢや。出家にでもならしやつたら、どんなものじや。釈迦のみ弟子になる気はないかな。
▲似多「へえー。釈迦のみ弟子とは。
▲和尚「いえ。あたま(頭)を円めて坊主になる気はないか。
▲似多「へえ。えー、何でございますか。坊主になると、釈迦のみ弟子ですか。
▲和尚「さうぢや。
▲似多「へえー。すると、蛸でもやはり、釈迦のみ弟子。つてなもので。
▲和尚「それは、何を云はしやるのぢや。
▲似多「それでも、頭の丸いものは、釈迦のみ弟子じや。と思ひましたので。
▲和尚「はゝゝゝゝ。どうじやな。出家にでもならしやるならとにかく、さうでなければ、雨が上がつたら、こゝを立つて行つて貰はねばならぬ。お前方を、三日も四日もお世話をする訳には、行かぬでな。
▲似多「紛さん、どうしよう。まあ、やけ(自棄)糞だ。なあ、おい。これから、この頃の日和癖の事じやよつて、いくか(幾日)雨が降るか、知れやあせぬ。銭はなし、立つ事は出来ず。坊主にならにやあ、置いてくれぬ。といへば、仕方がない。やけ糞じや。いつそ、坊主にならうか。
▲紛郎「それも、よからう。
▲似多「えー。左様なら、やけから坊主になりますので。
▲和尚「やけから坊主になる。これはどうも、やけから坊主になる。つてな、気に進まぬ事なら、仕方がない。置かしやれ。
▲似多「けれどもそこを、間に合はせ坊主に。
▲和尚「間に合はせ坊主。といふ事があるか。どうじや。なるならなるで、なる。と云はしやれ。
▲似多「えー。そんなら、なるならなる。と致しませう。
▲和尚「これ。まぜ返しては、困る。ならしやるか。
▲似多「えゝ。そこは、どがちやがで。
▲和尚「どがちやが。と云ふ事があるかな。まあ、一人出家すれば、九族天に生ずる。と云ふのぢや。
▲似多「へえ。
▲和尚「それぢやあ、もとゞり(髻)をば、私が取り落として進ぜよう。これ、智円や。
▲似多「へえ。何ぞ、知れませんのでございますか。
▲和尚「誰も、知れぬ。と云うてりやあ、せぬ。
▲似多「それでも何か、知れぬ。と仰やつて。
▲和尚「いゝえ。小僧の名が、智円。と云ふのぢや。
▲似多「はゝあ、成程。ほんに、ちゑんはずぢや。小さな坊さんぢや。
▲和尚「よう洒落云ふ人ぢやな。これ、かなだらひ(銅盥)に、なまぬるいお湯を持つてお出で。なまみだぶつ(南無阿弥陀仏)、南無阿弥陀仏。
この寺の住持は、立つて、剃刀をば引き出しから取り出して参り、
▲和尚「さあさあ。頭を濡らしなさい。このお湯で頭を濡らして置かしやれ。今、私が髻をば剃つて進ぜる。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。さあ、宜しいか。かう、ちやんとかたびん(片鬢)だけ剃りおろすのぢや。
▲似多「へえ。これは、かたびんけない。
▲和尚「何の事ぢやえ。
▲似多「いえ。こりやあ、忝い。と云うて居ますので。
▲和尚「よく、ちよこちよこにわか(俄)云ふ人じやな。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。片鬢は、かう剃り上げる。又片鬢は、かう剃り下げる。
▲似多「へえ。すると、後ろの毛は、ぶつぶつ引つこ抜きますので。
▲和尚「何の、そんな事をするものか。遂に、それ。両鬢が、ちやあんと取れました。
▲似多「はい。りやうびんや、ゆきひら(行平)と替へませう。
▲和尚「そりや、何の事じや。
▲似多「土瓶や行平と替へませう。何なりかなり、替へます。
▲和尚「これこれ。そんな洒落を、ちよいちよいと云ひなさるな。
▲似多「して、和尚様。これは、何でございますな。
▲和尚「こりやあ、そなたの結うて居た、まげ(髷)じや。
▲似多「へえ。えー、まだ初めまして、お目にかゝります。しよつちゆう頭に居りますのは、承知して居りますが、あなたにお目にかゝるは、初めてゞございます。返事がございませんな。和尚様。一枚、へぎ(剥板)はございますまいか。
▲和尚「はゝあ、へぎがあつたら、どうなさる。
▲似多「へぎへ、この髷をば引つ付けて、金毘羅様へ上げて置きますので。
▲和尚「はゝあ。何か、心願でもあるのじやな。
▲似多「いえ。心願も何もございませんけれども、絵馬堂の賑やかしに。
▲和尚「何を云ひなさるのじや。さあさあ。お前さんも、頭をしめ(湿)してあるかな。
▲紛郎「へえへえ。ちやんともう、最前からたご(担桶)へつけて置きました。
▲和尚「まるで、西瓜見たやうに云うてる人じや。さあさあ、ちやんと洗はしやれな。
▲紛郎「へえ。私は、まだ悪い事をした覚ゑはございません。
▲和尚「誰が、悪い事をした。と云うたのじや。
▲紛郎「いえ。今、頭をかうやつて洗つてますと、頭が二つになりました。
▲和尚「なんの、頭が二つになるものか。
▲紛郎「けれども、かなだらひの中に、頭が二つ、映つて居ります。
▲和尚「いえ。一つは私の頭で。
▲紛郎「あゝ。づくにふ(坊主)のつら(面)か。
▲和尚「これ。づくにふ。といふ事があるものか。何を云はしやるのじや。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。さあ、これで剃れた。しかし、お前方のお名前は、何といふお名前じやな。
▲紛郎「えー。私は、紛郎兵衛と申します。
▲和尚「はゝあ。妙な名前ぢやな。して、お前さんは。
▲似多「私は、似多八と申します。
▲和尚「むゝう。しかし、出家になつてから、紛郎兵衛、似多八といふやうな名前では、大きにきまり(体裁)が悪いから、かうしませう。お前さんの名を、だういう(道遊)。又、お前さんの名を、そういう(宗遊)。と付けませう。道遊は、みち(道)遊ぶ。宗遊は、むね(宗)遊ぶ。と、二人が旅をしてからに、こゝへござつたによつて、道遊、宗遊といふ名がよからう。
▲似多「へえ。ちよいと待つておくんなさいまし。なあ、紛さん。
▲紛郎「何ぢやえ。
▲似多「お前の名は、どういふ。
▲紛郎「私の名は、さういふ。
▲似多「ちよつと待つた。なんと、やゝこしいなあ。お前の名は、どういふ。
▲紛郎「わしの名は、さういふ。
▲似多「いえ。宗遊は、わしの名ぢやが、お前の名は、どういふ名ぢや。
▲紛郎「わしが道遊、お前の名が宗遊ぢやが。
▲似多「ちよいと待つて。もし、和尚さん。どうも、こりやあ誠に困りますので、何とか変へて戴きませんと、お前の名はどういふ。と尋ねますれば、さういふ。宗遊と道遊と、ちつとも訳が分かりません。何とかもう少し、分かる名を変へて頂きませんと、誠に困りますが。
▲和尚「さうかな。ぢやあ、お前さんの名前をば、こーつと、何としたものであらうなあ。いや、さうぢや。お前さんの名を、六方と付けませう。して、お前さんのを、八方といふ名にしませう。
▲似多「へえ。八方より、燭台の方が宜うございますな。
▲和尚「これ。燭台なんて、そんな名前は、ありやしません。
▲似多「八方は、うちゞう(宅中)明るうて宜しいけれども、かはらけ(土器)がひつくり返つたりしたら、着物に油がかゝる。つて事になりますよつて。
▲和尚「はゝあ。それじやあ、どうしたものだらう。どうも、他にはよい名がないが。
▲似多「へえ。いや、どうも仕方がないよつて、それじやあ、六方八方にき(極)めて戴きませう。
▲和尚「それじやあ、さういふ事にして、お前は六方。お前は八方。と極めて置きます。しかし、お二人の衆。かうやつてからに、出家になると、またそれぞれ用事があるよつて、それだけの事は、して貰はにやならぬ。まづ、夜が明けたらば、お前方あ、本堂から位牌所、あの辺りを掃除して貰はにやなりません。よいかな。掃除が済んでしまうたら、こなたは又、鐘楼堂へ上がつて、鐘を撞いて貰はにやならぬ。お前さんはまた、釜の下をもやして、湯を沸かして貰はにやならぬ。それが済んでしまうたら、又、庭からあの辺を、ちりあくた(塵芥)のないやうに、掃いて貰はにやならぬ。お前は又、お米をか(糟)してからに、めし(飯)を炊いて貰はにやならぬ。またお前は、野菜廻りの所をば、気を付けて貰はにやならぬ。それが済んでしまひましたら、また二人とも、経文の稽古をせねばならぬ。それが済んでしまうたなら、私の肩をば叩いて貰はにやならぬ。お前さんは、腰を揉んで貰はにやならぬ。ひる(午刻)になつたら、鐘楼堂へ上がつて鐘を撞き、日の暮れになつたら、又一人はそこらに水をう(撤)つたりしても貰はにやならぬし、一人は又、暮れの鐘をば撞いて貰はにやならぬ。夜分は、経文の稽古。
▲似多「もし。まあちよつと、待つておくんなさいまし。それでは一日、休む間はありやしません。
▲和尚「さあ。それだけは、どうも。出家となれば、修行ぢやから。
▲似多「置かうかえ。糞面白くもない。
▲和尚「はゝあ。置かしやるか。
▲似多「えゝ。置きませう。坊主にはなつたわ。夜が明けたら、鐘は撞かにやあならず。本堂から位牌所の掃除をして、飯を炊き、按摩あするわ。御経の稽古をせにやあならぬ。日に三度鐘を撞かにやあならぬ。糞面白くもない。ぢやあ、御免蒙ります。
▲和尚「さうか。それぢやあ仕方がない。無理になれ。とは云ひません。
▲似多「けれども、あんまり用事が多過ぎて、やりきれません。まあ、よしませう。
▲紛郎「おい、似多。ちよつと待て。やめよう。と云つたからつて、かうやつて、二人ながら坊主になつてしまうてから、どうする。
▲似多「おや。こりやあ、困つたなあ。髷を切らぬ先に云つてくれゝばよいものを。切つてしまうて、今更どうする事も出来やあしない。
▲紛郎「さあ。どうも仕方がないから、いつそ、坊主にならうか。
▲似多「さうよなあ。えー、それぢやあ、仕方がございませんから、和尚様。二人とも、坊主になります。
▲和尚「ならしやるか。そんなら、今も云うたゞけは、して下さるであらうな。
▲似多「どうも、仕方がございません。やりませう。
▲和尚「いや。さのみ、厭がる程の事でもないから、それでなつた限りにやあ、それだけの事をばしなされや。これも皆、修行ぢやでな。
▲似多「どうも、致し方がございません。
と、二人は度胸を据ゑて、この寺に居る事になりました。
▲和尚「しかし、これ、お前方。縞の着物を着て居ては、甚だふうつり(不体裁)ぢやな。
▲似多「けれども、これより何にも、着る物はございません。
▲和尚「あゝ。宜しい、宜しい。これ、智円や。
▲智円「へえ。
▲和尚「ちよいと来い。私の居間の押入にある、鼠木綿の着物。それをばこゝへ。帯もあらう。皆、持つてお出で。
▲智円「へえ。
▲和尚「さあさあ、六方、八方。二人とも、この着物を着なされ。その縞の着物は、脱いで仕舞はしやれ。
▲似多「おい、紛さん。ぢやあない、六方。なあ、この着物を着て見い。ねずみ(鼠色)の着物ぢやぜ。おいおい、襦袢も鼠なら、ころも(法衣)も鼠、帯も鼠だ。
と、ぼやきながら、着てゐる着物を脱ぎまして、二人は鼠の着物と着替へ、この寺に居る事になりましたが、夜が明けると、鐘を撞き、おまんま(御飯)の拵へをしたり、経文の稽古をして、仕方なしに暮らし居りました。
▲和尚「なんと、六方に、八方や。
▲六方「へえ。お呼びなさいまして。
▲和尚「あー。私はな、至急に本山から御書面が参つたで、それにさして行かねばならぬが。どうで、とをか(十日)と半月は戻つて来まい程に、もしや、私の留守中に葬式でも取れたやうなことなら、お前方は、まだ勝手をば知るまいから、私の方のあひでら(組寺)のぢやうだうじ(浄道寺)へさして、さう云うて行きなさると、向かうから、ちやあんと代理に立つて下さるから。よいかの。さうして、お布施が来た時には、二つにわ(分)つて、一ぶん(分)は、向かうに納めるやうな事にすれば、それでよいのぢやによつて。しかと、頼みましたぞや。
▲六方「畏りましてございます。
和尚は、衣服をちやんと改めまして、二人の者に留守を頼んで置いて、本山へと出掛けました。後に両人は、
▲八方「おい、六方。
▲六方「何だ、八方。
▲八方「まあまあ、仕方がないから、今のうちに、出来るだけの伸びをしようかえ。
▲六方「どうも、実に恐れ入つて仕舞つたなあ。
▲八方「ほんたうに退屈ぢや。しかし、こんな所に、いつまでも居ると云ふ訳には行かないが、そのうちに何ぞ、都合のよい事があつたら、帰るとしようか。
▲六方「むゝ。さうしよう。
何しろ、小遣ひは一文もなし。仕方がございませんゆゑ、二人の者も、留守をする事になりましたが、
▲六方「なあ、八方。
▲八方「むゝつ。
▲六方「お寺へ来てから、生臭い物は食つた事はなし。明けても暮れても、あおい物ばかり。まるで、小鳥のやうだ。てうず(便所)に行きやあ、青い糞ばかり垂れている。どうか一つ、にくじき(肉食)がしたいなあ。
▲八方「いや。それなら幸ひ、いゝ事があるわい。
▲六方「何ぢやえ。
▲八方「あのお庄屋さんの所に、鶏がぎやうさん飼うてあるよつて、向かうへ行つて、鶏をば一つ、借りて来ようぢやあないか。
▲六方「借りて来る。つて、どうする。何と云つて、借りて来るのじや。
▲八方「さあ。そこは、俺に任して置け。他じやあございませんが、和尚さんがこないだ(此間)うちから、本山の方へさしてお出でになりましたお留守でございます。ところが勝手を存じませんので、掛け時計が狂ひまして、なほす事も出来ませんので、とき(時刻)が分かりません。で、鐘を撞くことが出来ませんから、どうぞ、鶏をば時計の代はりに、暫く時計がなほつて参りますまで、お貸しなすつて下さいまし。と、かう云つて借りて来ようと思ふ。
▲六方「成程。
▲八方「さうして、それを借りて、みち(途中)で絞め殺して来る。本堂のどら(銅鑼)を取つて来て、あれで、すき焼きつてやつで、やらうか。
▲六方「いや。そいつあ、洒落てゐる。いゝ所へ気が付いた。八方、それじや、貴様行つて、借りて来てくれるか。
▲八方「むゝ。俺が借りに行つて来る。
▲六方「それじやあ、料理は俺がするよつて、大丈夫だ。万事いゝかな。
▲八方「よし。ちやんと支度をして置き。行つて来るぜ。今から火を大層拵へて置いて。
八方は、寺を飛び出しました。やつて来たは、庄屋のたく(宅)。
▲八方「へえ。御免下さいまし。
▲庄屋「いえ。これは、どなたかと思うたら、八方さん。何ぞ、御用事かな。
▲八方「えー。和尚さんは、一両日あと(前)に、本山へさしてからに、火急の御用事が出来た。と云ふので、お出でになりました。
▲庄屋「あゝ、むゝ。和尚さんが、本山へ。それはそれは。ぢき、お帰りかな。
▲八方「まあ、十日と十五日は、お帰りがない様子でございます。
▲庄屋「さうかな。お留守の所は、お前さんと六方さんの二人なら、確かであらう。まあ、あゝいふお小僧ばかりぢやよつて。万事、頼みますぞや。
▲八方「畏りました。えー、こんにち(今日)出ましたのは、ほかの事でもございませんが。
▲庄屋「はい。何ぢやな。
▲八方「掛け時計が止まつて仕舞ひましたので、ちよいと掛けようと思つたら、勝手が知れませんから、時計が狂つて仕舞ひました。なほしにはやりましたけれども、その時計がございませんと、朝昼晩、鐘楼堂へ上がつて鐘を撞く事が出来ません。時計が出来て参りますまでのうち、どうか一つ、おうちの鶏を、かうやつて沢山飼うてお出でなさるよつて、一や(夜)だけ、ちよいとお借り申したいので、参りましたが。
▲庄屋「あゝ、さうかな。それは、何より易い事ぢや。さあさあ、持つて行かしやれ。
▲八方「左様なら、どうぞ一つ。
▲庄屋「あゝ、これこれ。八方さん、ちよいとお待ち。そりやあ、めんどり(雌鶏)ぢや。をん(雄)の方を、持つてお帰り。
▲八方「いや。それは、あぢない。
▲庄屋「いや。何と云はしやる。
▲八方「いえ。これでも時を作ります。
▲庄屋「これこれ。そんな無茶な。あゝいふ、そゝつかしい。めんどり(雌鶏)を持つて行つて。何の、時を作るものかえ。
▲八方「おい。行つて来たぜ。
▲六方「あゝ。どうぢやつた。
▲八方「心易い事ぢや。と云つて、早速の承知。俺がめんどりをつかまへると、めんどりは時を作らぬから、をんどりを持つて行け。と云うたが、いえ、大事ございません。と、一羽ひつさげて、途中で絞め殺して来た。
▲六方「いや。大きいのじやなあ。
▲八方「むゝ。あぶら(脂)あ乗つて居る。旨いぜ。して、酒はどうした。
▲六方「酒は、さう云つてやつたから、今に持つて来をるだらうから。
▲八方「ところで、酒を飲むに、すめ(素面)で飲んで居ても、面白くない。ちよいと、をなご(婦人)を一枚入れたいが、誰ぞ、三味線を弾く者はあるまいか。
▲六方「あるが、花屋のお松坊を呼んで来たらよいがな。
▲八方「違ひない。さうして、村の奴を呼んで来て、わつと陽気に騒がうじやあないか。
と云つてる所へ、
▲酒屋「へえ。御免下さいまし。
▲六方「おう。酒屋か。
▲酒屋「只今は、大きに。えー、五升持つて参りました。
▲六方「あゝ、よしよし。そこに置いといておくれ。
▲八方「葱や何かはいゝかな。
▲六方「よしよし。皆、あんじよう(味好)してあるよつて。
そこで、八方は、村の若い奴を呼びに参りました。花屋のお松坊は、そくかうし(即功紙)を貼つた三味線を持つて、やつて来ました。
▲お松「えー。六方さん、八方さん。
▲六方「いや、御苦労。こつちへお上がり。
と云つてる所へ、
▲〇「へえ。六方さん、八方さん。
▲△「へえ。こんにちは、六方さん。
▲◎「へえ。八方さん。
▲六方「おう。作さんに徳兵衛さん、安兵衛さんですか。さあ、どうぞ、こちらへ。
▲〇「へえ。ありがたうございます。
▲六方「ちよいと、和尚さんの留守事に、旨い物を食つた事がないので、今日は、かしは(鶏)を絞めました。
▲〇「それは、結構ですな。こゝの和尚さんは、中々お固いので、お出でだと、そんな事は出来ませぬが。どうも、酒飲むには、かしはか魚類に限りますな。いや、どうも御馳走さま。
そのうちに、かしはの料理がちやんと出来ましたから、台所火鉢にかんかんと火を拵へ、その上へ、本堂から銅鑼を持つて来て、すき焼きの代はりに致しまして、すき焼きといふので、わいわいと云つて、飲み始めました。本堂にあつた、じや(蛇)のか(描)いた太鼓を取つて来る。妙鉢をなぐるやら、花屋のお松坊は、調子も合はぬ三味線を、ペこしやんしやんと弾き始める。六方に八方は、素つ裸になつて踊つて居ようといふ、大層な騒ぎ。所へさして、一にん(人)の男でございます。
▲「へえ。お頼申します、お頼申します。
どうも、奥は調子を外して、どしどし踊つて居りますから、幾ら、お頼申します。と云つても、耳に入るどころではございません。
▲男「へえ。お頼申します、お頼申します。
▲六方「あゝ。ちよいと待ち、ちよいと待ち。おい、ちよいとお松坊。三味線やめて。太鼓、ちよいと待ち。誰か表で、お頼申します。つて、案内の声がするぜ。
▲男「へえ。お頼申します。
六方も八方も、どろどろに酔つて居りますから、
▲八方「だゞ、誰じや。どいつじや。
▲男「えー。私は、したむら(下村)の万屋金兵衛から参りました。
▲八方「な、何だ。万屋金兵衛。いや、和尚の留守中を幸ひ、村の若い奴を寄せて酒飲んで居るよつて、苦情でも云ひに来をつたな。云ひ草があるなら、こつちへ上がれよーう。
▲男「いえ、どう致しまして。さういふ訳じやあございません。
▲八方「じやあ、なゝ、何しに来た。
▲男「えー。金兵衛が、死去致しました。
▲八方「なゝ、何だ。趣向したつて。何の。
▲男「いえ。趣向じやあございません。死去致しましたので。
▲八方「死去とは何じやえ。
▲男「えー。金兵衛、昨夜、落ち入りましたので。
▲八方「どこへ落ちたのじや。
▲男「いえ。死にましたので。
▲八方「あゝ。ごね(死)たのか。くたばりをつたか。おい、六方。
▲六方「むゝん。
▲八方「万屋の金兵衛がごねた。と云うてな、若い奴が知らせに来よつた。
▲六方「これ。そんな、鉢巻きをした儘、ものを云ふ奴があるものか。肩を入れぬかえ。尻からげなんぞして。いや、俺が行く、俺が行く。俺が行つて、挨拶をしよう。
六方は、ちやんと、ころもを着けまして、殊勝らしく、それへさして衣紋を繕ひ、出て参りました。
▲六方「はい、はい。お前さんは。
▲男「へえ。えー、私は、したむらの万屋金兵衛かた(方)から、参りましてございますが。
▲六方「はい。
▲男「金兵衛が昨夜、死去致しましたので。
▲六方「はい、はい。金兵衛殿が、終には、ようなかつたので。それは、それは。
▲男「えー。こんにち(今日)しやうこゝのつどき(正午刻時)に、葬式を出だしたうございますので。どうか、御苦労さまながら、葬式にお立ちを願ひたうございます。
▲六方「はい、はい、はい。左様か、むゝ。金兵衛殿が、御死去なすつたので。今日、正午刻に、お葬式を。はい、はい。あゝ、早速立ちまするから。承知した。と、宜しくお伝へ下され。はい、はい。
▲男「どうぞ、宜しうお願ひ申します。
▲八方「帰つたら、精進物は、どうもならぬで。仕上げは魚類で、なるだけ御馳走して置け。と云うてくれ。俺あ、住職の代理に立つてやるから、誰だと思ふ。俺あ、かう見えても、京都本山から来て居る、むらさきの(紫野)大徳寺、一休の弟で、半休といふ者じや。
▲男「へえへえ。ありがたう存じまする。いや、左様に伝へまする。
▲八方「早うゐ(帰)ね、早うゐね。おい、ちよいと乙にやつたな。すると、何やな、六方。
▲六方「何が。
▲八方「あひでら(相寺)の浄道寺へ、誰か知らしにやらにやあ、ならんな。
▲六方「馬鹿云ふなえ。知らしにやつてからに、向かうかられいもつ(礼物)が来た時に、半分出さにやあならぬ。そんな馬鹿な事があるものか。お前と俺と、二人で行かう。
▲八方「しかし、みんな酒飲んでる人を、どうするえ。
▲六方「ひとまづ、帰すことにしようじやあないかえ。急に葬式が取れたよつて、そこにあるだけみんな、飲んだり食つたりしたら、ひとまづみんな、引き取つて下さい。と云つて、帰しいな。
こゝで、このよし(由)を皆に申しますると、みんなは酒を飲んで、そこらをばそこそこに取り片付け、帰つて仕舞ひました。
▲六方「さあ、八方。これから、お前と二人で体を拵へてからに、葬式に立たう。
▲八方「立つのはいゝが、何かえ、六方。葬式に立つて、御経を上げる事を知つてるか。
▲六方「そりやあ、いゝがな。向かうへ行つたら、どがちやが経で。
▲八方「どがちやが経つて、どんな事を云ふのじや。
▲六方「何なとごまかして置いたら、それでいゝのだ。俺が住持になつて行くよつて、お前は番僧になれ。
▲八方「そりや、どうもいかんなあ。おんな(同)じやうに、かうやつてこの寺へ奉公に住み込んで、お前が住持で俺が番僧なんて、どうも割が悪いじやあないか。くじ引きでもしようか。
▲六方「俺がじやうばうず(上坊主)で、お前がゝすばうず(下坊主)になつて居ても、礼物は二つにわつたら、ごてごてあるまい。
▲八方「いや。それなら結構。
▲六方「ころもを出せ。
▲八方「どのころもを。
▲六方「あの緋のころもを。
▲八方「じやあ、お前。緋のころもを着るのか。
▲六方「むゝ。さうじや。
▲八方「緋のころもは、わしが着て行くとしよう。
▲六方「阿呆云へ。とも(供)が緋のころもを着る奴があるものか。坊主つてものは、緋のころもを着ると、何となしに位が見える。坊主と炭団は、赤うなつたら手がさ(触)へられぬ。といふ位なものじや。お前は、墨染のころもを着て行け。
▲八方「さうしてどうする。
▲六方「さうして、お前は曲録をかた(担)げて、さうして傘を持つて行くのじや。
▲八方「そんなに持たれやあせぬぜ。
▲六方「まあ、そこをどうなとして、持つて行きんかえ。
▲八方「して、お前は。
▲六方「俺あ、手ぶらで行くわ。
▲八方「叶はぬなあ、どうも。
▲六方「まあ、ぼやくなえ。むゝ。それでいゝ、それでいゝ。
▲八方「これでいゝか。
と、差し掛け傘のえ(柄)の所へ曲録を通して、そいつをかたげた八方。六方は、緋のころもを、ばちやと着けまして、
▲「さあ、行かう。
と、二人は寺を出てやつて参りましたが、したむらの万屋金兵衛のおもてへ来ますと、いみふだ(忌札)が貼つてあります。
▲八方「おい。万屋はどこじや。おい、万屋金兵衛はどこじやえ。おう、こゝだ。おい、坊主が着いてるぜ。坊主が。
▲六方「これ、そんな事を云ふなえ。
万屋のうちでは、葬礼の支度を致して居りましたが、皆はこのてい(体)を見て、
▲「おやおや。手荒い坊さんが来よつたぜ。
▲六方「あゝ、万屋金兵衛殿方は。
▲●「へえ。私の方でございます。
▲六方「あゝ、左様かな。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
▲●「これ。お寺さんがお見えなすつたぞ。御苦労さまで。どうぞ、こちらへ。
▲六方「はい。南無阿弥陀仏。万屋金兵衛殿も、終にようなかつて。さぞかし、お力落とし。南無阿弥陀仏。
▲八方「そこで、こちらが銭儲け。
▲六方「そんな事を云ふな。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。お仏壇は、きつうお供へ物が、お立派に出来ましたな。
▲●「いえ。それは、戸棚でございます。
▲六方「はゝあ。南無阿弥陀仏。
▲八方「成程。芋にごんばう(牛蒡)に高野豆腐。
▲六方「そんな事を云ふなえ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
▲●「さあ。どうか、お経をば一つ、上げて戴きたうございます。
▲六方「畏りました。
▲●「これ。お茶を持つて来い。お茶を。
▲六方「いえ。お構ひ下さるな。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
六方は、お仏壇の前にちやんと坐りまして、鉦をちんと打ち鳴らし、
▲六方「どがちやが経。ちんりん猫にやんちう。金魚に放し亀、牛もうもう。こまいぬ(倭狗)には鈴がらり。蛙は三つで三ひよこひよこ。鳩くうくう。立石に石灯籠。天神さんに西行さん。お多福天狗に般若の面。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
▲●「へえ。ありがたう存じます。どうぞ、戒名を一つ、お願ひ申します。
▲六方「はゝあ。戒名を。戒名は、又、一両日のうちにしたゝ(認)めて、持たして寄越します。
▲●「へえ、一両日。どうか、只今。
▲六方「はゝあ。今かな。戒名は又、今度どなたか死んでやつた時に一緒に、そのつひでに付けませう。
▲●「そんな冗談な事を仰やつては、困ります。只今、願ひます。
▲八方「おい、六方。戒名、書かんかいな。
▲六方「あゝ、痛、痛たゝゝ。あゝ痛。
▲●「おや、和尚さん。どうなすつたので。
▲六方「あゝ、痛あー。私の持病のはらいた(腹痛)が起こりましたので。
▲●「それは、どうも。和尚さん、お気の毒さんで。これこれ。そこに、万金丹があつたらう。その万金丹を、お上がり遊ばして。
▲六方「これは。ありがたう。忝うございます。
▲●「どうでございます。まだ、おはら(腹)のお痛みは、とまりませんか。
▲六方「いやいや。お蔭さまで、はらいたはすつかりと、とまりました。
▲●「とまりましたら、戒名をどうか。
▲六方「こりやあ、驚いたなあ。いや、宜しい。あゝ。それでは、これが戒名でござるじや。
▲●「へえー。これが、戒名で。こりやあ、あなた。万金丹のかんぶくろ(紙袋)ですがな。これが、どういふもので、戒名でございます。
▲六方「さうじや。万屋の金兵衛さんは、たん(痰)で死なれた。それで、よろづきんたん、万金丹。
▲●「けつたいな戒名です。
▲●「いや。戒名は、それに致しまして、伊勢あさま(朝熊)と致してございますな。
▲六方「それは、金兵衛さんは、威勢のよかつたお方であつたが、死なれたので、浅ましうなつたよつて、そこで、伊勢朝熊。
▲ ●「へえー。すると、この側に、さゆ(白湯)にて用ゐべし。と書いてあるのは、こりや、どういふ訳でございます。
▲六方「それか。それはな、ちやたう(茶湯)には及ばぬ。と云ふことぢや。
底本『滑稽大和めぐり』(1898年刊 国立国会図書館デジタルコレクション)
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