祢宜山伏(ねぎやまぶし)(三番目 四番目)

▲アト「伊勢の御師でござる。毎年(まいねん)都へ旦那廻りを致す。当年も相変らず参らうと存ずる。誠に神明の御事をあだおろそかに存ぜう事ではござらぬ。大神宮の御蔭を以て、何方へ参つても各御崇敬なさるゝ事でござる。えい。茶屋殿、出させられたか。
▲小アト「これは又、お上りでござるか。
▲アト「又、上りまする。
▲小アト「やれやれ。それは、御苦労でござる。ちと休ませられい。
▲アト「何(いづ)れ、ちと休みませう。
▲小アト「どれどれ、茶を進じませう。
▲アト「いかさま、一つたべませう。
▲小アト「さあ、参れ。
▲アト「どれどれ。
{小アト、茶碗に汲んで出す。アト、呑んで、}
いつ食べても、こゝの茶は、良い茶でござる。
▲小アト「何と、も一つ参らぬか。
▲アト「もはや食べますまい。
▲小アト「それならば、仕舞ひませう。
▲シテ「《次第》{*1}大峯かけて葛城や、大峯かけて葛城や、我が本山に帰らん。
{地次第。後見取る。}
これは、出羽の羽黒山より出でたる山伏、この度、大峯・葛城を致し、只今が下向道でござる。まづ、そろりそろりと参らう。誠に、山伏といふものは、野に伏し山に伏し、或ひは岩木を枕とし、難行苦行・捨身の行ひをするによつて、その奇特には、今眼の前を飛ぶ鳥も、祈り落とす程の行力ぢや。いや。今朝、斎の儘なれば、いかう咽(のど)が渇く。湯なりとも茶なりとも、呑みたいものぢや。
{と云ひて、茶屋を見つけて、}
茶屋。
▲小アト「はあ。
▲シテ「茶をくれい。
▲小アト「心得ました。さあ、参れ。
{と云ひて、茶を汲んで出す。シテ、怒つて厳(いか)つに{*2}取り、呑んで驚く。}
▲シテ「こりあ、熱い。
▲小アト「熱くば、むめて進ぜう。さあ参れ。
{と云ひて、むめて出す。シテ、呑んでむせる。}
▲シテ「むゝ。ぬるやの、ぬるやの。おのれ、街道に茶屋もする程の奴が、茶のぬるい熱いを知り居らぬか。
▲アト「これこれ、茶屋殿。良い加減にして、進ぜさせられい。
▲小アト「心得ました。
{と云ふ時、山伏、祢宜を見て、「床几より下へ下りよ」と云ふ心にて、顔にて教へる。アト、真似する。}
▲シテ「おのれは憎い奴の。
{と云ひて、肩箱を下し、アトを床几より引き下し、その後へ腰かける。アト、驚き逃ぐるなり。}
▲アト「あゝ、茶屋殿、茶屋殿。
▲シテ「茶屋。茶くれい。
▲小アト「心得ました。さあ参れ。
{シテ、呑んで、}
▲シテ「も、いや。
▲小アト「も一つ、参らぬか。
▲シテ「も、いやと云ふに。
{と云ひて、床几を立ちて、肩箱かたげ、}
これで、咽の渇きが已(や)んだ。まづ、そろりそろりと参らう。
{この内にアト出て、又床机に腰をかけて、}
▲アト「扨々、世には、厳(いか)つな人があるものでござるなう。
▲小アト「いやも、街道に茶屋をして居ますれば、あの様な者は、再々の事でござる。
▲アト「私は、よい肝を潰しました。
▲小アト「さうでござらうとも。
▲シテ「扨々、憎い奴の。まだ身共がこゝを立ち去りもせぬ内に、はや高腰をかけ居る。その過怠に、この肩箱を晩の泊まりまで持たせて行くぞ。
{と云ひて、肩箱を抱へ込み、アトを捕らへて肩に置く。祢宜、驚く。茶屋、止めるなり。}
▲アト「あゝ、茶屋殿、茶屋殿。
▲小アト「あゝ。まづ待たせられい、待たせられい。これは、何事でござる。
▲シテ「まだ身共がこゝを立ち去りもせぬに、はや高腰をかけ居る。その過怠に、この肩箱を晩の泊まりまで持たせて行く。
▲小アト「まづ待たせられい、待たせられい。持たす作法ならば、身共が持たせませう。まづその肩箱を、身共に預けさせられい。
▲シテ「それならば、汝に預くる。早う持たせ。
▲小アト「心得ました。
{と云ひて、肩箱を取り、正面に直し置いて、}
▲小アト「なうなう、祢宜殿。こなたは、あの様な山伏に出合はせらるれば、肩箱を持つ作法でござるか。
▲アト「いかないかな。強力連の肩箱を持つ作法ではない。と云うて下され。
▲小アト「心得ました。強力連の肩箱を持つ作法ではない。と申されます。
▲シテ「持つ作法の、持たぬ作法のと云ふ事はない。汝も、よう聞け。山伏と云ふものは、大峯山に分け入つて、天下の御祈祷をもするによつて、いかなる貴人・高人も、下馬をなさるゝ。それに、何ぞや。あのぬるい祢宜めが、身共が前とも憚らず、高腰をかけ居るによつての事ぢや。所詮、おのれではなるまい。身共が持たす。
▲小アト「あゝ、まづ待たせられい、待たせられい。その通りを申しませうぞ。
▲シテ「早う持たせ。
▲小アト「心得ました。なうなう、今のを聞かせられたか。
▲アト「成程、承りました。扨々、無理な事を云ふ人でござる。大峯山に分け入つて、天下の御祈祷をする。とやら仰(お)せありますが、私も、神前に於いて天下の御祈祷を致すによつて、いかなる貴人・高人の上座(じやうざ)をも塞げまする。すれば別に、押しも押されもする事ではない。と云うて下され。
▲小アト「心得ました。押しも押されもする事ではない。と仰(お)せありまする。
▲シテ「愈々、憎い奴ぢや。山伏といふものは、野に伏し山に伏し、或ひは岩木を枕とし、難行苦行・捨身の行ひをするによつて、その奇特には、今眼の前を飛ぶ鳥も祈り落とす程の行力ぢや。あのぬるい祢宜めも、その様な事がなるか。と云うて尋ねい。
▲小アト「心得ました。なうなう、今のを聞かせられたか。
▲アト「成程、承りました。空を飛ぶ鳥も祈り落とす。とやら云うて、恩に被(き)せありますれども、それは皆、山伏の役でござる。私も神前に於いては、色々の奇瑞・奇特もござれども、それを申せば、互に威勢争ひになつて、悪うござる。どうぞ、私は裏道から往(い)なして下されい。
▲小アト「あゝ、これこれ。こなたを往(い)なしては、身共が迷惑を致す。これでは埒があかぬ。何ぞ、勝負にさせられい。
▲アト「して、勝負には何を致しませうぞ。
▲小アト「身共が所に、銘作の大黒天がござる。これを双方から祈らせまして、行力の達した方へは、御影向(やうがう)なされう。その御影向なされた方を、勝ちに致しませう。
▲アト「いかないかな。あの衆は不断、祈り・祈祷にかゝつて居られますが。これは、なりますまい。
▲小アト「いやいや。神は正直の頭(かうべ)に宿る。と申す。最前から皆、山伏の云ふは、無理でござる。祈らせられたら、こなたが勝ちになりませう。
▲アト「それならば、祈つても見ませうか。
▲小アト「則ち、こなたが勝たせられたらば、その御幣をあの山伏に持たせませう。又、負けさせたらば太儀ながら、あの肩箱を晩の泊まりまで、持つて行かせられずばなりますまい。
▲アト「それは、どうなりとも致しませう。とかく茶屋殿、よい様に頼みまする。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「何と、持たすか。
▲小アト「これでは埒があきませぬ。何ぞ、勝負にさせられい。
▲シテ「あのぬるい祢宜めと勝負は、可笑しい。
▲小アト「それでは埒があきませぬ。
▲シテ「して、勝負には何をする。
▲小アト「身共が所に、銘作の大黒天がござる。これを双方へ祈らせまして、行力の達した方へは、御影向なされう。その御影向なされた方を、勝ちに致しませう。
▲シテ「いや、こゝな奴が。山伏と云ふものは、物の怪の付いたをこそ祈れ。遂に大黒を祈つた事はない。
▲小アト「こなたは最前、空を飛ぶ鳥も祈り落とす。と云はせられたではないか。これを祈らせられねば、こなたが負けでござる。
▲シテ「何ぢや。身共が負けぢや。
▲小アト「中々。
▲シテ「それならば、祈らうが。あのぬるい祢宜めも、祈らう。と云ふか。
▲小アト「成程、祈らう。と仰(お)せありまする。則ち、こなたが勝たせられたらば、肩箱を祢宜殿に持たせませう。
▲シテ「そりあ、おんでもない事。
▲小アト「又、負けさせられたらば、あの御幣を晩の泊まりまで、持つて行かせられい。
▲シテ「そりや、その時の仕儀によらう。まづ、大黒を連れて来い。
▲小アト「心得ました。
{茶屋、楽屋へ入ると、祢宜も行かんとする時、シテ、きめる事、二度あり。刀の柄に手などをかける仕方あり。口伝。色々あるなり。その内に茶屋、大黒を連れて出て、腰かけさす。}
さあさあ、大黒天をもりました程に{*3}、祈らせられい。
▲アト「何と、それへお祈りなされませぬか。
▲シテ「祈りをらう。
▲小アト「まづ、祈らせられい。
▲アト「心得ました。謹上参迎(さんぐ)、再拝再拝。敬つて白(まう)す。それ、天照太神(あまてるおほんがみ)と申し奉るは、我が朝の宗廟として、諸神、これを敬ひ給ふ。只今の大黒天も、神明の加護疑ひなくば、我等が方へ影向ならせ給へ。と、丹誠無二(たんせいむに)に祈るものなり。謹上参迎、再拝再拝、再拝再拝、再拝再拝。
{と云ひて祈る。大黒、写る。色々あり。}
▲小アト「これは、奇特な事ぢや。なうなう。これは、こなたが勝ちでござる。
▲アト「私が勝ちでござる。持たせませう。
▲小アト「持たさせられい。
▲アト「さあさあ、持たつしやれ、持たつしやれ。
▲シテ「何の、持たせ。まだ身共が祈りもせぬに。
▲アト「お祈りなされませ。
▲小アト「祈らせられい。
▲シテ「それ、山伏といつぱ、山伏なり。何と、聞こえた事か。
▲小アト「聞こえた事さうにござる。
▲シテ「兜巾といつぱ、布切れ一尺ばかり真つ黒に染め、むさとひだを取つて、頭にちよんと戴く故の兜巾なり。何と、殊勝な事か。
▲小アト「殊勝な事さうにござる。
▲シテ「平形(いらたか)の珠数では無うて、むさとしたる木の切れを継ぎ集め、平形の珠数と名附けつゝ、明王の索(さつく)にかけて祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろん、ぼろん、ぼろん。
{と云ひて祈る時、大黒、脇の方を向き、シテ、大黒の袖を引く。大黒、槌にて打つ。シテ、逃ぐるなり。}
▲小アト「これは、不思議な事ぢや。これはとかく、こなたの勝ちゞや。その御幣を持たさせられい。
▲アト「持たせませう。
▲小アト「持たつしやれ、持たつしやれ。
▲シテ「何の、持たせ。茶屋めも、最前からあのぬるい祢宜めの贔屓をし居る。今度は相祈りにせう。
▲アト「いや、相祈りには及びますまい。
▲シテ「祈り居らう。
▲小アト「祈らせられい。
▲アト「心得ました。愈々、我等が方へ影向ならせ給へ。と、丹誠無二に祈るものなり。謹上参迎、再拝再拝、再拝再拝、再拝再拝。
{と云ひて祈る内、シテ、印を結びて、}
▲シテ「いかに悪心深き大黒天なりとも、烏の印を結んで掛け、いろはにほへとん。と祈るならば、などか、ちりぬるをわかなれ。ぼろん、ぼろん。
{と云ひて祈る。大黒は、祢宜の方へうつる。山伏、大黒の袖を引く。大黒、槌にて山伏を打つと、逃げては祈り、又袖を引くと、槌にて追ふ内に、段々と廻るなり。祢宜も、うきて廻る。茶屋、肩箱その内取り持ちて、入るなり。}
▲小アト「これは、奇特な事ぢや。とかく、こなたの勝ちゞや程に、御幣を持たさせられい、持たさせられい。
{と云ひて廻る内、大黒、山伏を適当の場に追ひ込み、入るなり。}
▲シテ「あゝ、許してくれい、許してくれい。
▲アト「やいやい。この御幣を晩の泊まりまで持つて行け。あの横着者。
▲小アト「早う持たつしやれ、持たつしやれ。
{と云ひて、入るなり。}

校訂者注
 1:底本、ここから「我が本山に帰らん」まで、傍点がある。
 2:「いか(厳)つ」は、荒々しいさま。
 3:「もる」は、不詳。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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祢宜山伏(ネギヤマブシ)(三番目 四番目)

▲アト「伊勢の御師で御座る、毎年都へ旦那廻りを致す、当年も相変らず参らうと存ずる、誠に神明のお事をあだおろそかに{*1}存ぜう事では御座らぬ、大神宮のお蔭を持つて、何方へ参つても各御崇敬なさるゝ事で御座る、えい茶屋殿出させられたか▲小アト「是は又お上りで御座るか▲アト「又上りまする▲小アト「やれやれ夫は御苦労で御座る、ちと休ませられい▲アト「何れ、ちと休みませう▲小アト「どれどれ茶を進じませう▲アト「如何様一つ{*2}たべませう▲小アト「さあ参れ▲アト「どれどれ{小アト茶碗{*3}に汲んで出す、アト呑んで}{*4}何時食べても是の茶はよい茶で御座る▲小アト「何と最一つ{*5}参らぬか▲アト「最早や食べますまい▲小アト「夫ならば仕舞ませう▲シテ「《次第》大峯かけて葛城や{*6}、大峯かけて葛城や。我が本山に帰らん{地次第後見取る}是は出羽の羽黒山より出でたる山伏、此度大峯葛城を致し、唯今が下向道で御座る、先づそろりそろりと参らう、誠に山伏と言ふ者は、野に伏し山に伏し、或は岩木を枕とし、難行苦行捨身の行ひをするに依つて、其奇特には今眼の前を飛鳥も祈り落す程の行力ぢや、いやけさときの儘なればいかう咽が乾く、湯なりとも茶なりとも呑みたいものぢや{と云ひて茶屋を見つけて}{*7}茶屋{*8}▲小アト「はあ▲シテ「茶を呉れい▲小アト「心得ました、さあ参れ{と云ひて茶を汲んで出す、シテ怒つていかつに取り呑で驚く}▲シテ「こりあ熱い▲小アト「熱くばむめて進ぜう、さあ参れ{と云ひてむめて出すシテ呑んでむせる}▲シテ「むゝぬるやのぬるやの、おのれ街道{*9}に茶屋もする程の奴が、茶のぬるい熱いを知り居らぬか▲アト「是々茶屋殿、よい加減にして進ぜさせられい▲小アト「心得ました{と云ふ時、山伏祢宜を見て床几より下へ下りよと云ふ心にて顔にて教へる、アト真似する}▲シテ「おのれは憎い奴の{と云ひて肩箱を下し、アトを床几より引下し其後へ腰かける、アト驚き逃るなり}▲アト「あゝ茶屋殿茶屋殿▲シテ「茶屋、茶呉れい▲小アト「心得ました、さあ参れ{シテ呑んで}▲シテ「もいや▲小アト「最、一つ参らぬか▲シテ「もいやといふに{と云ひて床几を立て肩箱{*10}かたげ{*11}}{*12}是で咽の乾はきが止んだ、先づそろりそろりと参らう{此内にアト出て又床机に腰をかけて}▲アト「扨々、世にはいかつな人があるもので御座るのう▲小アト「いやも、街道{*13}に茶屋をして居ますれば、あの様な者は再々の事で御座る▲アト「私はよい肝を潰しました▲小アト「さうで御座らうとも▲シテ「扨々憎い奴の、まだ身共が爰を立去りもせぬ内にはや高腰をかけ居る、其過怠に此肩箱{*14}を、晩の泊りまで持たせて行くぞ{と云ひて肩箱{*15}を抱へ込み{*16}アトを捕へて肩に置く、祢宜驚く、茶屋止めるなり}▲アト「あゝ茶屋殿茶屋殿▲小アト「あゝ先づ待たせられい待たせられい{*17}、是は何事で御座る▲シテ「まだ身共が爰を立ち去りもせぬに、早や高腰をかけ居る其過怠に此肩箱{*18}を晩の泊りまで持たせて行く▲小アト「先づ待たせられい待たせられい、持たす作法ならば身共が持たせませう、先づ其肩箱{*19}を身共に預けさせられい▲シテ「夫ならば汝に預くる早う持たせ▲小アト「心得ました{と云ひて肩箱{*20}を取り正面に直し置いて}▲小アト「喃々、祢宜殿、こなたはあの様な山伏に出合はせらるれば、肩箱{*21}を持つ作法で御座るか▲アト「如何な如何な、強力連の肩箱{*22}を持つ作法ではないと言ふて下され▲小アト「心得ました、強力連の肩箱{*23}を持つ作法ではないと申されます▲シテ「持つ作法の持たぬ作法のと言ふ事はない、汝もよう聞け、山伏と言ふものは大峯山に分入つて、天下の御祈祷をもするに依つて、如何なる貴人高人も下馬をなさるゝ、夫に何ぞや、あのぬるい祢宜奴が、身共が前とも憚らず高腰をかけ居るに依つての事ぢや、所詮おのれではなるまい、身共が持たす▲小アト「あゝ先づ待たせられい待たせられい、其通りを申しませうぞ▲シテ「早う持たせ▲小アト「心得ました、喃々今のを聞かせられたか▲アト「なるほど承りました、扨々、無理な事を言ふ人で御座る、大峯山に分け入つて、天下の御祈祷をするとやらおせありますが、私も神前に於て天下の御祈祷を致すに依つて、如何なる貴人高人の上座をも塞げまする、すれば別におしもおされもする事ではないと言ふて下され▲小アト「心得ました、おしもおされもする事ではないと仰せありまする▲シテ「愈々憎い奴ぢや、山伏といふ者は、野に伏し山に伏し、或は岩木を枕とし、難行苦行捨身の行ひをするに依つて、其奇特には今眼の前を飛鳥も祈り落す程の行力ぢや、あのぬるい祢宜奴も其様な事がなるかと言ふて尋ねい▲小アト「心得ました、喃々今のを聞かせられたか▲アト「成程承りました、空を飛ぶ鳥も祈り落すとやら言ふて恩に被せありますれども、夫は皆山伏の役で御座る、私も神前に於ては色々の奇瑞奇特も御座れども、夫を申せば互に威勢争ひになつて悪う御座る、どうぞ私は裏道からいなして下されい▲小アト「あゝ是々、こなたをいなしては身共が迷惑を致す是では埒があかぬ、何ぞ勝負にさせられい▲アト「して勝負には何を致しませうぞ▲小アト「身共が所に銘作の大黒天が御座る、是を双方から祈らせまして、行力の達した方へは御影向なされう、其御影向なされた方を勝に致しませう▲アト「如何な如何な、あの衆は不断祈り祈祷にかゝつて居られますが是はなりますまい▲小アト「いやいや神は正直の頭に宿ると申す、最前から皆山伏の言ふは無理で御座る、祈らせられたらこなたが勝に成りませう▲アト「夫ならば祈つても見ませうか▲小アト「則ち此方が勝たせられたらば、其御幣をあの山伏に持たせませう、又負けさせたらば太儀ながら、あの肩箱{*24}を晩の泊り迄持つて行かせられずばなりますまい▲アト「夫はどうなりとも致しませう、兎角{*25}茶屋殿よい様に頼みまする▲小アト「心得ました▲シテ「何と持たすか▲小アト「是では埒が明きませぬ何ぞ勝負にさせられい▲シテ「あのぬるい祢宜奴と勝負は可笑しい▲小アト「夫では埒があきませぬ、▲シテ「して勝負には何をする▲小アト「身共が所に銘作の大黒天が御座る、是を双方へ祈らせまして、行力の達した方へは御影向なされう、其御影向なされた方を勝に致しませう▲シテ「いや爰な奴が、山伏と言ふ者は、物の怪の付いたをこそ祈れ、遂に大黒を祈つた事はない▲小アト「こなたは最前、空を飛ぶ鳥も祈り落すと言はせられたではないか、是を祈らせられねばこなたがまけで御座る▲シテ「何ぢや身共が負けぢや▲小アト「中々▲シテ「夫ならば祈らうが、あのぬるい祢宜奴も祈らうといふか▲小アト「成程祈らうとおせありまする、則こなたが勝たせられたらば、肩箱{*26}を祢宜殿に持たせませう▲シテ「そりあおんでもない事▲小アト「又負けさせられたらば、あの御幣を晩の泊り迄持つて行かせられい▲シテ「そりやその時の仕儀に寄らう、先づ大黒を連れて来い▲小アト「心得ました{茶屋楽屋へ入ると祢宜も行かんとする時、シテきめる事二度あり、刀の柄に手抔をかける仕形あり、口伝。色々あるなり、其内に茶屋大黒を連れて出て腰かけさす}{*27}さあさあ大黒天をもりました程に祈らせられい▲アト「何と夫へお祈りなされませぬか▲シテ「祈りおらう▲小アト「先づ祈らせられい▲アト「心得ました、謹上参迎再拝再拝、敬白夫、天照太神と申し奉るは、我が朝の宗廟として、諸神是を敬ひ給ふ、唯今の大黒天も、神明の加護疑ひなくば、我等が方へ影向ならせ給へと、たんせいむにゝ祈るものなり、謹上さんぐ、再拝再拝、再拝再拝再拝再拝{と云ひて祈る大黒うつる色々あり}▲小アト「是は奇特な事ぢや、喃々是はこなたが勝ちで御座る▲アト「私が勝で御座る、持たせませう▲小アト「持たさせられい▲アト「さあさあ持たつしやれ持たつしやれ▲シテ「なんの持たせ、まだ身共が祈りもせぬに▲アト「お祈りなされませ▲小アト「祈らせられい▲シテ「夫、山伏といつぱ山伏なり、何と聞えた事か▲小アト「きこえた事さうに御座る▲シテ「兜巾といつぱ、布切れ一尺斗り真黒に染め、むさとひだを取つて頭にちよんと戴く故の兜巾{*28}なり、何と殊勝な事か▲小アト「殊勝な事さうに御座る▲シテ「平形の珠数、では無うて無佐としたる木の切れを継ぎあつめ、平形の珠数と名附けつゝ、明王のさつくにかけて祈るならば、などか奇特のなかるべき{*29}、ぼろんぼろんぼろん{と云ひて祈る時、大黒脇の方を向き、シテ大黒の袖を引く、大黒槌にて打つ。シテ逃るなり}▲小アト「是は不思議な事ぢや、是は兎角此方の勝ぢや、其御幣を持たさせられい▲アト「持たせませう▲小アト{*30}「持たつしやれ持たつしやれ▲シテ「何の持たせ、茶屋めも最前から、あのぬるい祢宜奴の贔屓{*31}をし居る、今度はあい祈にせう▲アト「いやあい祈りには及びますまい▲シテ「祈り居らう▲小アト「祈らせられい▲アト「心得ました{*32}愈々我等が方へ影向ならせ給へと、丹誠無二に祈るものなり、謹上さんぐ再拝再拝、再拝再拝再拝再拝{と云ひて祈る内、シテ印を結びて}▲シテ「如何に悪心深き大黒天なりとも、烏の印を結んで掛け、いろはにほへとんと祈るならば、などかちりぬるをわかなれ、ぼろんぼろん{と云ひて祈る、大黒は祢宜の方へ写る、山伏大黒の袖を引く、大黒槌にて山伏を打つと逃げては祈り又袖を引くと槌にて追ふ内に段々と廻るなり、祢宜もうきて廻る茶屋肩箱其内取持ちてイル也}▲小アト「是は奇特な事ぢや、兎角こなたの勝ぢや程に、御幣を持たさせられい持たさせられい{と云ひて廻る内、大黒山伏を適当の場に追ひ込み入るなり}▲シテ「あゝ宥るしてくれい宥るしてくれい▲アト「やいやい、此御幣を晩の泊りまで持つて行け、あの横着者▲小アト「早う持たつしやれ持たつしやれ{と云ひて入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「徒(あだ)、愚(おろ)そかに」。
 2・5:底本は、「一酌(ひとつ)」。
 3:底本は、「茶腕」。
 4・32:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 6:底本は、「大峯かけて葛城屋」。
 7・12:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 8:底本は、「茶や」。
 9・13:底本は、「海道」。
 10・14・15・18~24・26:底本は、「形箱」。
 11:底本は、「傾け」。
 16:底本は、「抱い込み」。
 17:底本は、「先づ持(も)たせられい(二字以上の繰り返し記号)」。
 25:底本は、「兎角(せつかく)」。
 27:底本、ここに「▲小アト「」がある(略す)。
 28:底本は、「頭巾」。
 29:底本は、「ながるべき」。
 30:底本は、「▲山伏「」。
 31:底本は、「贔負(ひいき)」。