犬山伏(いぬやまぶし)(三番目 四番目)

▲アト「この辺りの庵主でござる。今朝、さる方へ斎(とき)に参つて、只今帰るさでござる。まづ、そろりそろりと参らう。誠に今朝(こんてう)は、どうやら雨が降りさうにござつたによつて、傘(からかさ)を用意致してござれば、上々の天気になつてござる。この様な悦ばしい事はござらぬ。庵室まで持つて帰らうより、いつもの茶屋へ預けて置かうと存ずる。えい、茶屋殿。出させられたか。
▲小アト「これは早うから、どれへ行かせられた。
▲アト「今朝は、さる方へ斎に参つて、只今帰る事でござる。
▲小アト「まづ、腰をかけて休ませられい。
▲アト「何(いづ)れ、ちと休んで行きませう。
▲小アト「どれどれ、茶を進じませう。
{と云ひて、茶を汲んで出す。アト、取つて呑む。}
▲アト「あゝ。いつたべても、こゝの茶は良い茶でござる。
▲小アト「も一つ参らぬか。
▲アト「いや、もうたべますまい。
▲小アト「それならば、仕舞ひませう。
{これより、シテ出る。次第、「大峯かけて」を謡ひ、扨名乗る。「出羽の羽黒山」を云ひ、しかじか云ふ。茶屋にて茶を呑む。肩箱持たす。これまでのせりふ、皆々「祢宜山伏」に少しも違はず。但し、祢宜と坊主との違ひのみなり。}
何と、今のを聞かせられたか。
▲アト「成程、承りました。扨々、無理な事を云ふ人でござる。愚僧ぢやと申して、上々様(うへうへさま)へ斎非時に参れば、貴人・高人の上座をも塞げまする。すれば、宗旨こそ違ひますれ、別に押しも押されもする事ではない。と云うて下され。
▲小アト「心得ました。押しも押されもする事ではない。と云はれまする。
▲シテ「いよいよ憎い事を云ふ。汝もよう聞け。山伏と云ふものは、野に伏し山に伏し、或ひは岩木を枕とし、難行苦行・捨身の行ひをするによつて、その奇特には、今目の前を飛ぶ鳥をも、祈り落とす程の行力ぢや。あのぬるい坊主も、その様な事がなるか。と云うて尋ねい。
▲小アト「心得ました。何と、今のを聞かせられたか。
▲アト「成程、承りました。空を飛ぶ鳥も祈り落とす。とやら云うて、恩に着せやりますれども、それは皆、山伏の役でござる。又、私ぢやと申して、仏前において経陀羅尼を読み、罪の深い亡者をも訪ひ浮かめ、又、色々の教化を致して、悪人をも善人に引き入れ、その外、奇瑞・奇特は様々ござれども、それを申せば威勢争ひの様になつて、悪うござる。私はどうぞ、裏道から往(い)なして下され。
▲小アト「これこれ。まづ、待たせられい。それでは埒があきませぬ。何ぞ、勝負にさせられい。
▲アト「して、勝負には何を致しまするぞ。
▲小アト「身共が所に、人喰ひの犬がござる。これを双方から祈らせまして、行力の達した方へは犬がなつきませう。そのなついた方を、勝ちに致しませう。
▲アト「いかないかな。犬と申すものは、只さへ衣の袖には、ざれ付いたがるものでござる。その上、私は犬が嫌ひでござる。殊に人喰ひの犬ならば、恐ろしうござる。これは、なりますまい。
▲小アト「いやいや、気遣ひさせられな。最前から、あの山伏の云ふは皆、無理でござる。どうぞ、こなたに勝たせたいものぢや。何と、御経の中に、虎といふ字はござらぬか。
▲アト「あゝ、虎といふ字は。まづ、待つて下され。
{と云ひて、口の内にて御経を云ふ内、虎。と云ふ。}
成程、虎といふ字がござる。
▲小アト「それならば、良うござる。その犬の名を、虎と申す。御経の中へ取り混ぜて、虎、虎。と云はせられたらば、定めてなつくでござらう。即ち、こなたが勝たせられたらば、その傘を、あの山伏に持たせませう。又、負けさせられたらば、不祥ながらあの肩箱を、晩の泊まりまで、持たせられずばなりますまい。
▲アト「それは、どうなりとも致しませう。とかく茶屋殿、良い様に頼みまする。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「何と、持たすか。
▲小アト「これでは埒があきませぬ。何ぞ、勝負にさせられい。
▲シテ「あのぬるい坊主と勝負は、可笑しい。
▲小アト「それでは埒があきませぬ。
▲シテ「して、勝負には何をするぞ。
▲小アト「身共が処に、人喰ひの犬がござる。これを双方から祈らせられて、行力の達した方へは、犬がなつきませう。そのなついた方を、勝ちに致しませう。
▲シテ「いや、こゝな奴が。山伏といふものは、物の怪の魅いたをこそ祈れ。つひに、犬を祈つた事はない。
▲小アト「こなたは最前、空を飛ぶ鳥も祈り落とす。と云はせられたではないか。これを祈らせられねば、こなたが負けでござる。
▲シテ「何。祈らねば、身共が負けぢや。
▲小アト「中々。
▲シテ「それならば祈らうが、あのぬるい坊主も、祈らう。と云ふか。
▲小アト「成程、祈らう。と云はれまする。即ち、こなたが勝たせられたらば、肩箱をあの御出家に持たせませう。
▲シテ「そりあ、おんでもない事。
▲小アト「又、負けさせられたらば、あの傘を持つて、晩の泊まりまで行かせられい。
▲シテ「そりあ、その時の仕儀によらう。まづ、その犬を引きずり出せ。
▲小アト「心得ました。
{と云ひて、茶屋、楽屋へ入る。坊主は茶屋の後に付いて入らんとする。シテ、睨む・刀に手をかける仕方、「祢宜山伏」同断。}
来い、来い。
{犬出る仕方など、色々あり。}
▲アト「これは、大きな犬でござる。
▲シテ「大きな犬ぢや。
▲小アト「さあさあ、祈らせられい。
▲アト「それへ、お祈りなされませぬか。
▲シテ「まづ、祈り居れ。
▲小アト「祈らせられい。
▲アト「心得ました。
{と云ひて、坊主、御経を読む後へ、「虎や、虎や」と云ひて、珠数にてじやらかす。犬、じやれる。口伝。}
▲小アト「これは、奇特な事ぢや。こなたが勝ちぢや。その傘を持たさせられい。
▲アト「持たせませう。さあさあ。
▲二人「持たせられい、持たせられい。
▲シテ「何の、持たせ。まだ、身共が祈りもせぬに。
▲アト「御祈りなされませ。
▲小アト「早う祈らせられい。
▲シテ「それ、山伏といつぱ、山伏なり。
{と云ふ時、犬、うなり、噛み付く。シテ、驚くなり。}
やい。犬を、そちらへ連れて行け。
▲小アト「心得ました。
▲シテ「兜巾と云つぱ、布切れ一尺ばかり真つ黒に染め、むさとひだを取つて、頭にちよんと戴く故の兜巾なり。
{又、犬、噛み付く。シテ、珠数にて追ふなり。}
平形(いらたか)の珠数では無うて、むさとしたる木の切れをつなぎあつめ、平形の珠数と名付けつゝ、明王の索(さつく)にかけて祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろん、ぼろん。
{と云ひて、段々祈る。犬、うなりてシテに噛み付く。シテ、逃げる。又、珠数にて追ふなり。}
▲小アト「とかく、こなたが勝ちゞや。持たさしやあれ、持たさしやあれ。
▲アト「さあさあ、持たせられい、持たせられい。
▲シテ「何の、持たせ。茶屋めも、最前から、あのぬるい坊主の贔屓をし居る。この度は、相祈りにせう。
▲アト「いや、相祈りには及びますまい。
▲シテ「祈り居れ。
▲小アト「まづ、祈らせられい。
▲アト「心得ました。
{と云ひて、以前通り、「虎や、虎や」と云ひて祈る。シテ、印を結ぶなり。}
▲シテ「いかに悪心深き噛み犬なりとも、烏の印を結んで掛け、いろはにほへとん。と祈るならば、などか、ちりぬるをわかなれ。ぼろん、ぼろん。
{と云ひて祈る。犬、噛み付く。シテ、珠数にて追ふ。又、坊主に犬なつく。シテ、色々とするなり。口伝。}
▲小アト「とかく、こなたが勝ちゞや程に、持たさつしやれ、持たさつしやれ。
▲アト「さあさあ、持たつしやれ、持たつしやれ。
▲シテ「あゝ、許してくれい、許してくれい。
{と云ひて、逃げる。犬、追ひ込む。二人も同断。但し、小アトは肩箱持つて入るなり。}

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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犬山伏(イヌヤマブシ)(三番目 四番目)

▲アト「此辺りの庵主で御座る、今朝去る方へ斎に参つて、唯今帰るさで御座る、先づそろりそろりと参らう、誠に今朝はどうやら雨が降りさうに御座つたに依つて、傘を用意致して御座れば、上々の天気になつて御座る、此様な悦ばしい事は御座らぬ、庵室迄持つて帰らうより、毎もの茶屋へ預けて置かうと存ずる、えい茶屋殿、出させられたか▲小アト「是は早うからどれへゆかせられた▲アト「今朝は去る方へ斎に参つて、唯今帰る事で御座る▲小アト「先腰をかけて休ませられい▲アト「何れちと休んで行ませう▲小アト「どれどれ茶を進じませう{と云ひて茶を汲んで出すアト取つて呑む}▲アト「あゝいつたべても、是の茶はよい茶で御座る▲小アト「最一ツ参らぬか▲アト「いやもうたべますまい▲小アト「夫ならば仕舞ませう{是よりシテ出る次第大峰かけてを謡ひ扨名乗出羽の羽黒山を云しかしか云茶屋にて茶を呑肩箱{*1}もたす、是迄のせりふ皆々祢宜山伏に少しも違はず但し祢宜と坊主との違ひのみ也}{*2}何と今のを聞かせられたか▲アト「成程承りました、扨々無理な事を云ふ人で御座る、愚僧ぢやと申して、上々様へ斎ひじに参れば、貴人高人の上座をもふさげまする、すれば宗旨こそ違ひますれ、別におしもおされもする{*3}事ではないと云ふて下され▲小アト「心得ました、おしもおされもする事ではないといはれまする▲シテ「いよいよ憎い事を云ふ、汝もようきけ、山伏と云ふものは、野に伏し山に伏し、或は岩木を枕とし、難行苦行捨身の行ひをするに依つて、其奇特には、今目の前を飛ぶ鳥をも、祈り落す程の行力ぢや、あのぬるい坊主も、其様な事がなるかといふて尋ねい▲小アト「心得ました、何と今のを聞かせられたか▲アト「成程承りました、空を飛鳥も祈り落すとやらいふて、恩にきせやりますれ共、夫は皆山伏の役で御座る、又私ぢやと申して、仏前において、経陀羅尼を読み罪の深い亡者をもというかめ、又色々の教化を致して、悪人をも善人に引入れ、其外奇瑞奇特は、様々御座れ共、夫を申せば、威勢あらそひ{*4}の様に成て、悪う御座る、私はどうぞ裏道からいなして下され▲小アト「是々先づまたせられい、夫ではらちがあきませぬ、何んぞ勝負にさせられい▲アト「して勝負には何を致しまするぞ▲小アト「身共が所に人喰の犬が御座る、是を双方から祈らせまして、行力の達した方へは、犬がなつきませう、其なついた方を勝に致しませう▲アト「いかないかな犬と申すものは、唯さへ衣の袖にはざれ付いたがるもので御座る、其上、私は犬がきらいで御座る、殊に人喰の犬ならば恐ろしう御座る、是はなりますまい▲小アト「いやいや気遣ひ{*5}させられな、最前からあの山伏のいふは皆無理で御座る、どうぞこなたに勝たせたいものぢや、何と御経の中に虎と云ふ字は御座らぬか▲アト「あゝ、虎と云ふ字は先待つて下され{と云ひて口の内にて御経を云ふ内虎と云ふ}{*6}成程虎と云ふ字が御座る▲小アト「夫ならばよう御座る、其犬の名を虎と申す、御経の中へとりまぜて、虎々といはせられたらば、定めてなつくで御座らう、即ちこなたが勝たせられたらば、其からかさをあの山伏に持たせませう、又負けさせられたらば、不祥ながら、あの肩箱{*7}を晩の泊り迄、もたせられずば成りますまい▲アト「夫はどうなり共致ませう、兎角茶屋殿よい様に頼みまする▲小アト「心得ました▲シテ「何ともたすか▲小アト「是ではらちがあきませぬ、何ぞ勝負にさせられい▲シテ「あのぬるい坊主と勝負は可笑しい▲小アト「夫ではらちがあきませぬ▲シテ「して勝負には何をするぞ▲小アト「身共が処に人喰の犬が御座る、これを双方から祈らせられて、行力の達した方へは犬がなつきませう、其なついた方を勝に致しませう▲シテ「いや爰な奴が、山伏といふものは、もののけの魅いたをこそ祈れ、つひに犬を祈つた事はない▲小アト「こなたは最前空を飛ぶ鳥も祈り落すといはせられたではないか、是を祈らせられねば、こなたがまけで御座る▲シテ「何祈らねば身共が負ぢや▲小アト「中々▲シテ「夫ならば祈らうが、あのぬるい坊主も祈らうと云ふか▲小アト「成程祈らうと云はれまする、即ち此方が勝たせられたらば、肩箱{*8}をあの御出家に持せませう▲シテ「そりあおんでもない事▲小アト「又負させられたらば、あの傘を持て晩の泊迄ゆかせられい▲シテ「そりあ其時のしぎによらう{*9}、先づ其犬を引ずり出せ▲小アト「心得ました{と云ひて茶屋楽屋へ入る坊主は茶屋のあとに付て入らんとするシテにらむ刀に手をかける仕形祢宜山伏同断}{*10}こいこい{犬出る仕方抔{*11}色々有}▲アト「是は大きな犬で御座る▲シテ「大きな犬ぢや▲小アト「さあさあ祈らせられい▲アト「夫へお祈りなされませぬか▲シテ「先づ祈り居れ▲小アト「祈らせられい▲アト「心得ました{と云ひて坊主お経を読むあとへ虎や虎やと云ひて珠数にてじやらかす犬じやれる口伝}▲小アト「是は奇特な事ぢや、こなたが勝ぢや、其からかさをもたさせられい▲アト「もたせませう、さあさあ▲二人「もたせられいもたせられい▲シテ「何のもたせ、まだ身共が祈りもせぬに▲アト「御祈りなされませ▲小アト「早う祈らせられい▲シテ「夫山伏といつぱ山伏なり{と云ふ時犬うなりかみつくシテをどろく也}{*12}やい犬をそちらへつれてゆけ、▲小アト「心得ました▲シテ「兜巾といつぱ、布裂れ一尺斗り真黒に染め、むさとひだを取つてあたまにちよんといただく故のときんなり{亦犬かみつくシテ珠数にて追ふなり}{*13}平形の珠数では無うて、むさとしたる木の切れをつなぎあつめ、平形の珠数と名付つゝ、明王のさつくにかけて祈るならば、などか{*14}奇特のなかるべき、ぼろんぼろん{と云ひて段々祈る犬うなりてシテにかみつくシテ逃る又珠数にて追ふなり}▲小アト「兎角こなたが勝ぢや、持たさしやあれ持たさしやあれ▲アト「さあさあもたせられいもたせられい▲シテ「何のもたせ茶屋めも、最前からあのぬるい坊主のひいきをしをる、此度は相祈りにせう▲アト「いや相祈には及びますまい▲シテ「祈居れ▲小アト「先づ祈らせられい▲アト「心得ました{と云ひて以前通り虎や虎やと云ひて祈るシテ印をむすぶなり}▲シテ「いかに悪心深きかみ犬なり共、烏の印をむすんでかけ、いろはにほへとんと祈るならば、などかちりぬるをわかなれ、ぼろんぼろん{と云ひて祈る犬かみつくシテ珠数にて追ふ亦坊主に犬なつく{*15}シテ色々とする也口伝}▲小アト「兎角こなたが勝ぢや程に、もたさつしやれもたさつしやれ▲アト「さあさあもたつしやれもたつしやれ▲シテ「あゝゆるしてくれいゆるしてくれい{と云ひて逃げる犬追ひ込む二人も同断但し小アトは肩箱{*16}持つて入るなり}

校訂者注
 1・7・8・16:底本は、「形箱」。
 2・10:底本、全て「▲小アト「」がある(全て略)。
 3:底本は、「おしもをされもする」。
 4:底本は、「威勢あらそい」。
 5:底本は、「気遣い」。
 6:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 9:底本は、「よろう」。
 11:底本は、「仕方杯」。
 12:底本は、「▲アト「」。正しくは「▲シテ「」(略す)。
 13:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
 14:底本は、「などが」。
 15:底本は、「坊主犬になつく」。