苞山伏(つとやまぶし)(三番目 四番目)
▲アト「この所の山人(やまびと)でござる。今日は奥山へ参り、薪(たきゞ)を拵(こしら)ようと存ずる。誠に、我ら如きの様な、浅ましい境涯はござらぬ。朝(あした)には霧を払うて罷り出で、夕べには星を戴いて罷り帰る。とかく、片時(へんし)も油断のならぬ事でござる。さりながら、今朝はあまり夜深に出たれば、殊の外、眠たい。暫く、この所でまどろまうと存ずる。
{と云ひて、脇座に寝る。小アト・山伏、次第にて出る。「大峯かけて」を謡ふ。名乗り、しかじか。この類、山伏事、何(いづ)れも同断。}
▲小アト「この中(ぢゆう)の長旅に、以ての外、草臥(くたび)れた。この所にまどらうで参らう。
{と云ひて、脇正面の目附柱の方へ寝る。}
▲シテ「この辺りの者でござる。山のあなたまで、用事あつて参る。誠に、今朝早々より拵へてござれども、何かと用が出来て、存じの外、遅うなつた。これはいかな事。山人さうなが、正体もなう寝て居る。こゝに、山伏も寝て居る。その上、山人の枕元に、{*1}つとがある。昼食(ちうじき)の用意と見えた。折節、徒然(とぜん)な。遥々(はるばる)の道を行かねばならぬ。これを、そと食べて参らう。
{と云ひて、舞台の真ん中の先へ出て、苞の中の飯を食ふ心なり。仕様、色々あるべし。その内に、山人、寝返りする。シテ、肝をつぶし、ちやつと寝る。山人、寝る心を付けて、シテ、又喰ひ、その内に山人起きかゝる時、苞を山伏の傍へ突きやつて、寝たる体して居る。色々、口伝なり。}
▲アト「やれやれ。久しう寝た事かな。これから昼食をして、早う薪をしに行かう。
{と云ひて、苞を尋ねる心なり。}
▲シテ「これはいかな事。今朝出(づ)る時、棒の先に苞と鎌とを結ひ付けて置いたが、鎌はあつて、苞がない。こゝに、何者やら寝て居る。
{と云ひて起こす。シテ、起きる。}
▲アト「お主は、身共が昼食を苞に入れてこゝに置いたが、もし、食ひは召されぬか。
▲シテ「扨々、聊爾な事を仰(お)せある。飯など盗んで喰ふ様な者では、おりあらぬ。
▲アト「でも、お主がこゝに寝てゐたからは、知らぬ。とは云はせぬ。その上、この山中に人通りはなし。とかく、お主が疑はしい。
▲シテ「扨々、片手打ちな事を云ふ。あそこに山伏も寝て居るが、あれでも、外に人通りはないか。
▲アト「誠に、山伏が寝て居る。さりながら、山伏などが人の物を盗んで喰ふ者ではない。
▲シテ「いやいや、疑ひもない、あの山伏であらう。何やら、苞が枕元にある。
▲アト「誠に、あの苞ぢや。即ち、喰うた後ぢや。扨々、憎い事かな。
▲シテ「起こして吟味を召され。
▲アト「やい、そこな者、そこな者。
{と云ひて起こし、}
▲アト「わごりよは、山伏に似合はぬ。人の昼食を盗んで喰うたの。
▲小アト「扨々、存じの外な事を云ふ。山伏といふ者が、人の昼食などを盗んで喰ふものではない。聊爾を云ふな。
▲シテ「扨々、しれじれしい顔をする。お喰(く)やつた証拠には、それ、枕元に苞がある。
▲小アト「おのれは、何者なれば、山伏に難題を云ふぞ。
▲シテ「身共は、用事あつてこの辺りを通つたが、殊の外草臥れたによつて、この所に寝て居たれば、こゝな山人が、昼食を失うた。と云うて起こした。起きて見たれば、そなたの傍にあの苞がある。この上は、遁れはない。ありやうに云はしませ。
▲アト「何と陳じたりとも、陳じさせまいぞ。
▲小アト「扨は、汝も寝て居たか。
▲アト「中々。
▲小アト「すれば、この疑ひは、三人にある。
▲アト「何と、三人にある。とは。
▲小アト「まづ、山人が自身に喰うて、人が喰うた。と云ふも知らず。又、汝が喰うたも知らず。某を疑ふも、尤ぢや。年月(としつき)の行法も、かやうの時のためぢや。ひと祈り祈つて、喰うた者を祈り出して見せう。
▲アト「何と、祈つたらば、飯喰うた者が知れますか。
▲小アト「恐らく、ひと祈り祈つたらば、喰うた者の五胎をすくめて、立ち居のならぬやうにして見せうぞ。
▲シテ「《笑》山伏といふ者は、物怪のついたをこそ祈れ。飯喰うた者を祈るとは、珍しい事ぢや。
▲小アト「いかに云ふとも、祈らうぞ。{*2}我、年月の行徳も、かゝる奇特を見せんため、不動明王の索(さつく)にかけ、平形(いらたか)珠数のつめ緒{*3}に入つたるを、さらりさらりと押し揉んで、ひと祈りこそ祈つたれ。ぼろん、ぼろん。
{と云ひて、山人を祈る。扨、シテを祈る。又山人を祈る内、シテ、「あの様な者にはかまはずと参らう」と云ひて、橋掛りへ行く。山伏、追ひ駈け祈る。シテ、そろそろ震い出し、苦しむ。外にも仕様、色々あり。口伝。}
▲アト「扨も扨も、知れました。
▲小アト「行力の達した山伏は、まづ、この如くぢや。
{と云ひて、祈り伏せるなり。}
▲アト「扨々、尊(たつと)い御山伏を疑ひました。まづ、私の方へ御出なされて下され。一飯(いつぱん)を申さう。
▲小アト「過分におりある。追つ付け参つて、休息せう。
▲シテ「申し申し。扨々、面目もござらぬ。もはや、手足がすくんで動きませぬ。この様な事ならば、飯を盗んで食ふまいものを。
{と云ひて、泣く。}
▲アト「まだ、そのつれを云ふ。何と、思ひ知つたか。
▲シテ「もはや、ものを云ふも、苦しうござる。どうぞ、命を助けて下され。
▲小アト「何(いづ)れ、盗人が知れた上は、人を助けるも出家の役ぢや。仇を恩にて報ずるぢや。ひと祈り祈つて、蘇生させうぞ。
▲アト「あゝ。まづ、お待ちなされい。それは、いらぬ事でござる。あのやうな奴は、重ねての懲戒(みせしめ)に、この棒で打ち殺してのけませう。
▲小アト「それは、短気な。まづ、待て。
▲シテ「お許されて下され。
▲小アト「早う逃げい。
▲シテ「どうも、立たれませぬ。
{と云ひて、苦しむ。山伏、アトを突きのけて祈る。アト、山伏を止めて、「退(の)け」と云うて、棒にて打たんとするを、山伏、突きやりて祈る。シテ、立たんとしてはこけ、ひよろひよろする。シテ、逃げて入る。追ひ込みにて追ひ込みに非ず。工夫あるべし。口伝なり。}
校訂者注
1:底本、ここ「つと」に、傍点がある。
2:底本、ここから「ぼろんぼろん」まで、傍点がある。
3:「つめ緒」は、不詳。
底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.)
苞山伏(ツトヤマブシ)(三番目 四番目)
▲アト「此所の山人で御座る、今日は奥山へ参り薪を拵ようと存ずる、誠に我等ごときの様な浅間しい境界は御座らぬ、あしたには霧を払うて罷り出で、夕べには星をいたゞいて罷帰る、兎角片時も油断のならぬ事で御座る、さりながら今朝はあまり夜深に出たれば、殊の外ねむたい、暫く此所でまどろもうと存ずる{ト云ひて脇座に寝る小アト山伏次第にて出る大峯かけてを謡ふ名乗しかしか此類山伏事何れも同断}▲小アト「此中の長旅に以ての外草臥れた、此所にまどらうで参らう{ト云ひて脇正面の目附柱の方へ寝る}▲シテ「此辺りの者で御座る、山のあなた迄用事有ツて参る、誠に今朝早々より拵て御座れ共、何かと{*1}用が出来て、存の外遅うなつた、是はいかな事、山人さうなが、正体もなう寝て居る、爰に山伏も寝て居る、其上山人の枕元につとがある、中喰の用意と見えた、折節徒然な、はるはるの道をゆかねばならぬ、是をそと食べて参らう{と云ひて舞台の真中の先へ出て苞の中の飯を食ふ心也仕様色々あるべし其中に山人寝かへりするシテ肝をつぶしちやつと寝る山人寝る心を付けてシテ又喰い其内に{*2}山人起きかゝる時苞を山伏のそばへつきやつて寝たる体して居る、色々口伝なり}▲アト「やれやれ久敷寝た事かな、是から中喰をして、早う薪をしに行かう{と云ひて苞を尋ねる心なり}▲シテ「是はいかな事、けさ出る時、棒の先に苞と鎌とを結ひ付けて置いたが、鎌は有つて苞がない、爰に何者やら寝て居る{と云ひて起こすシテ起きる}▲アト「お主は身共が中食を苞に入れて爰に置いたが、もし食いは召されぬか▲シテ「扨々聊爾な事をおせある、飯抔盗んで喰う様な者ではおりあらぬ▲アト「でもおぬしが爰に寝てゐたからはしらぬとは言はせぬ、其上此山中に人通りはなし、兎角お主がうたがはしい▲シテ「扨々片手打な事を云ふ、あそこに山伏も寝て居るが、あれでも外に人通りはないか▲アト「誠に山伏が寝て居る、去乍山伏抔が人の物を盗んで喰ふ者ではない▲シテ「いやいやうたがいもない、あの山伏で有らう、何やら苞が枕元にある▲アト「誠にあの苞ぢや、即ち喰うた後ぢや、扨々憎い事かな▲シテ「起して吟味を召され▲アト「やいそこな者、そこな者{と云ひて起こし}▲アト「わごりよは山伏に似合ぬ、人の中喰を盗んで喰うたの▲小アト「扨々存じの外な事を云ふ、山伏と云ふ者が、人の昼食抔を盗んで喰うものではない、聊爾を云ふな▲シテ「扨々しれじれしい顔をする、おくやつた証拠には夫れ枕元に苞がある▲小アト「おのれは何者なれば、山伏に難題をいふぞ▲シテ「身共は用事有つて、此辺りを通つたが、殊の外草臥れたに依つて、此所に寝て居たれば、爰な山人が中喰を失うたと云ふて起した、起て見たれば、そなたのそばにあのつとがある、此上は遁れはない、有り様に言はしませ▲アト「何と陳じたり共、陳じさせまいぞ▲小アト「扨は汝も寝て居たか▲アト「中々▲小アト「すれば此うたがいは三人にある▲アト「何と三人に有るとは▲小アト「先づ山人が自身に喰うて、人が喰うたといふもしらず、又汝が喰うたもしらず、某をうたがうも尤ぢや、年月の行法も斯様の時の為ぢや、一ト祈り祈つて喰うた者を祈り出して見せう▲アト「何と祈つたらば、飯喰うた者が知れますか▲小アト「おそらく一と祈り祈つたらば、喰うた者の五胎をすくめて立居のならぬやうにして見せうぞ▲シテ「《笑》山伏といふ者は物怪のついたをこそ祈れ、飯喰うた者を祈るとは、珍しい事ぢや▲小アト「いかにいふ共、祈らうぞ、我年月の行徳も、かゝる奇特を見せん為不動明王のさつくにかけ、平形珠数のつめをに入つたるを、さらりさらりとをしもんで、一と祈こそ祈つたれ、ぼろんぼろん{と云ひて山人を祈る扨シテを祈る亦山人を祈る内シテあの様な者にはかまはずと参らうと云ひて橋掛へ行く山伏追駈祈るシテそろそろふるい出し苦しむ外にも仕様色々有口伝}▲アト「扨も扨もしれました▲小アト「行力の達した山伏はまツ此如くぢや{と云ひて祈り伏せる也}▲アト「扨々、尊い御山伏を疑いました、先づ私の方へお出なされて下され、一飯を申さう▲小アト「過分におりある、追付け参つて休息せう{*3}▲シテ「申々、扨々面目も御座らぬ、最早手足がすくんで動きませぬ、此様な事ならば、飯を盗んで食うまい物を{と云ひて泣く}▲アト「まだ其つれを云ふ、何と思ひ知つたか▲シテ「最早物をいふも苦しう御座る、どうぞ命を助けて下され▲小アト「何れ盗人が知れた上は、人を助けるも出家の役ぢや、仇を恩にて報ずるぢや、一と祈り祈つて蘇生させうぞ▲アト「あゝ先おまちなされい、夫れはいらぬ事で御座る、あのやうな奴は重ねての懲戒に、此棒で打ち殺してのけませう▲小アト「夫れは短気な、先づ待て▲シテ「御許されて下され▲小アト「早う逃げい▲シテ「どうもたゝれませぬ{と云ひて苦しむ山伏アトを突のけて祈るアト山伏を止めてのけと云ふて棒にて打たんとするを山伏突きやりて祈るシテ立んとしてはこけひよろひよろするシテ逃て入る。追込にて追込に非ず工夫あるべし口伝なり}
校訂者注
1:底本は、「何角(なにかど)」。不詳。或いは「何かと」の当て字か。
2:底本は、「シテ又喰い其内二」。
3:底本は、「押付(おつゝ)け参つて休憩(きうそく)せう」。
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