柿山伏(かきやまぶし)(三番目)

▲シテ「《次第》{*1}貝をも持たぬ山伏が、貝をも持たぬ山伏が、道々うそを吹かうよ。
{山伏、名乗り、しかじか。山伏事、同じ意。変る事なし。}
今朝(けさ)、斎(とき)の儘なれば、咽(のど)が渇く。湯なりとも茶なりとも、呑みたいものぢやが、辺りに茶屋もなし。何としたものであらうぞ。あれに、見事な柿ができてある。あの柿を一つ喰うたらば、咽の渇きも已(や)まうか。やいやい、その辺りに柿主は居ぬか。あの柿が一つ、所望でおりある。人音もせぬ。まづ、礫(つぶて)を打つて見よう。
{礫を打つ仕方あり。}
中々、傍へも寄らぬ。この腰の物で、かち落として見よう。
{と云ひて、小さ刀を抜き、二度程刈つて見るなり。}
いかないかな、届く事ではない。いや、こゝに良い足掛かりがある。これを踏まへて、柿の木へ登らう。えいえい。
{と云ひて登る。しかじか云ひて、柿を喰ふ。色々あるべし。種を吹出す所、専一なり。}
▲アト「この辺りの耕作人でござる。今日(けふ)も、柿畠へ見舞はうと存ずる。百姓といふものは、年の始めより年の暮れまで、忙しうない事はござらぬ。さりながら、当年は日和続きも良く、雨も程良う降つたによつて、よう柿ができた。当年は、いつかどの価(あたひ)を取らう。と存じて、この様な悦ばしい事はござらぬ。何かと云ふ内に、畑ぢや。異な事の。大分、足跡がある。
{と云ふ内に、シテ、種を吹きかける。アトの頭へ当たる心なり。}
これはいかな事。山伏が柿の木へ上つて、柿を盗んで喰ひ居る。扨々、憎い事かな。やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「南無三宝、見付かつたさうな。まづ、この木の蔭へ隠れよう。
{シテ、隠れる心にて、蹲(つくば)ふ。右の袖にて顔隠す。アト、笑ふ。}
▲アト「あの大きな形(なり)で、柿の木の蔭へ隠れた。と云うて、見えまい事は。きやつは、愚かな山伏さうな。ちとなぶつてやらう。はあ、柿の木の蔭へ隠れたを人か。と思うたれば、人ではない。
▲シテ「やれやれ、嬉しや。まづ、人でない。と云ふわ。
▲アト「あれは、犬ぢや。
▲シテ「犬ぢや。と云ふわ。
▲アト「犬が、何として木の空へ上つた事ぢや。犬ならば、人音を聞いて、吼(お)どしさうなものぢやが。
▲シテ「吼(お)どさずばなるまい。
▲アト「吼(お)どさうぞよ。
{シテ、「びやう、びやう」と云ひて、鳴く真似する。}
びやう、びやう。
{と云ひて笑ふ。}
扨々、上手に真似をしをる。もそつと、なぶつてやらう。はあ、犬か。と思うたれば、犬ではない。
▲シテ「犬でない。と云ふ。
▲アト「猿ぢや。
▲シテ「猿ぢや。と云ふわ。
▲アト「山近くぢやによつて、猿は来る筈ぢや。
▲シテ「猿には見えまい事ぢや。
▲アト「猿ならば、身ぜゝりをして啼きさうなものぢやが。
▲シテ「これも、啼いて悦ばせう。
{と云ひて、啼く真似、身ぜゝりなどをするなり。}
▲アト「扨々、面白い事ぢや。もそつとなぶらう。はあ、今よう見れば、猿でもないわ。
▲シテ「又、猿でない。と云ふわ。
▲アト「あれは、鳶ぢや。
▲シテ「鳶ぢや。と云ふわ。
▲アト「鳶ならば、羽根を伸(の)して、啼きさうなものぢやが。
▲シテ「これも、啼かずばなるまい。
▲アト「啼かうぞよ。
{シテ、扇ひろげ、羽根を伸したる体をし、「ひいひよろ、ひいひよろ」と云ふ。}
さればこそ、啼いた。扨、羽根を伸しては飛ぶものぢや。飛ばうぞよ。
▲シテ「この高い所から、何と、飛ばるゝものぢや。
▲アト「飛ばずば、鉄砲を持つて来い。打ち殺してのけうぞ。
▲シテ「こりや、飛ばずばなるまい。
▲アト「あれあれ。飛ばう。といふ事やら、羽根づくろひをするわ。
▲シテ「これは、気味の悪い事ぢや。
▲アト「飛ばうぞよ。飛びさうな、飛びさうな。
{と云ひて、のりて囃す。拍子に合はす。拍子早まりてから、シテ、飛ぶ。}
▲シテ「飛ばれうか知らぬまで。あゝ、気味の悪い事ぢや。思ひ切つて飛んで見よう。あ痛、あ痛。
▲アト「そりや、飛んだわ、飛んだわ。
{と云ひて、笑ふなり。}
▲シテ「やいやいやい、そこなやつ。
▲アト「何事ぢや。
▲シテ「扨々、おのれは憎いやつぢや。最前から、この尊い山伏を、鳥類・畜類にたとへ居る。あまつさへ、鳶ぢや。とぬかし居る。惣じて、山伏の劫を経たは、鳶にもなる。と聞いたによつて、飛んで見たれば、まだ産毛も生へぬものを、あの高い所から飛ばせ居つて。したゝか、腰の骨を打ち居つた。おのれが所へ連れて行(い)て、看病をせい。
▲アト「まだそのつれをぬかし居る。柿を盗んで喰う様な山伏を、何のやうに看病せうぞ。
▲シテ「看病せずば、目に物を見するぞよ。
▲アト「そりあ、誰が。
▲シテ「身共が。
▲アト「汝が目に物を見する。と云うて、深しい事はあるまいぞ。
▲シテ「かまへて悔やむなよ。
▲アト「何のやうに、悔やまうぞ。
▲シテ「悔やむな、男。
{*2}台嶺(たいれい)の雲を凌ぎ、台嶺の雲を凌ぎ、年行の功を積む事、一食(いちゞき)・断食、立ち行・居行。かほど貴(たつと)き山伏に、などか奇特のなかるべき。ほろをん、ほろをん。
{と云ひて祈る。常の如く、アト、シテの前にこけるなり。}
▲アト「あれは、何をぬかし居る。あの様な者には、構はぬが良い。急いで帰らう。
{と云ひて橋掛りへ行き、偽りてひよろひよろとして、一ノ松より戻り、シテの前へこけるなり。}
▲シテ「貴い山伏は、この様なものぢや。連れて行(い)て、看病せい。
▲アト「何ぢや。看病せい。
▲シテ「中々。
▲アト「おのれ、誠ぢや。と思ひ居るか。憎い奴の。
▲シテ「あゝ、許してくれい、許してくれい。
{と云ひて、逃げて入る。アト、追ひ込み入るなり。}

校訂者注
 1:底本、ここから「道々うそを吹かうよ」まで、傍点がある。
 2:底本、ここ「たいれいの雲のしのぎ」から「」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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柿山伏(カキヤマブシ)(三番目)

▲シテ「《次第》貝をも持たぬ山伏が貝をも持たぬ山伏が、道々うそを吹かうよ{山伏名乗りしかしか{*1}山伏事同意変る事なし}{*2}けさ斎の儘なれば咽が乾く、湯なりとも茶なりとも呑たい物ぢやが、辺りに茶屋もなし、何とした物で有らうぞ、あれに見事な柿が出来てある、あの柿を一つ喰うたらば、咽のかはきもやまうか、やいやい其辺りに柿主は居ぬか、あの柿が一つ所望でおりある、人音もせぬ、先づ礫を打つて見よう{礫を打つ仕方有}{*3}中々そばへもよらぬ、此腰の物でかち落て見よう{と云ひて小さ刀{*4}をぬき二度程かつて見るなり}{*5}いかないかなとゞく事ではない、いや爰によい足掛りがある、是をふまへて柿の木へ登らう、えいえい{と云ひて登るしかしか云ひて柿を喰ふ色々可有種を吹出す所専一なり}▲アト「此辺りの耕作人で御座る、けふも柿畠へ見舞うと存ずる、百姓といふ者は、年の始より年の暮までいそがしうない事は御座らぬ、去りながら当年は日和つゞきもよく、雨も程よう降つたに依つて、よう柿が出来た、当年はいつかどの価を取らうと存じて、此様な悦ばしい事は御座らぬ、何彼と云ふ内に畑ぢや、異な事の、大分足跡がある、{と云ふ内にシテ種を吹かけるアトのあたまへあたる心なり}{*6}是はいかな事、山伏が柿の木へ上つて柿を盗んで喰ひ居る、扨扨憎い事かな、やいやいやいそこなやつ▲シテ「南無三宝見付つたさうな、先づ此木の蔭へ隠れよう、{シテかくれる心にてつくばう右の袖にて顔かくすアト笑ふ}▲アト「あの大きななりで、柿の木の蔭へ隠れたといふて見えまい事わ、きやつはおろかな山伏さうな、ちとなぶつてやらう、はあ柿の木の蔭へ隠れたを、人かと思ふたれば人ではない▲シテ「やれやれ嬉しや、先づ人でないといふわ▲アト「あれは犬ぢや▲シテ「犬ぢやといふわ▲アト「犬がなんとして木の空へ上つた事ぢや、犬ならば人音を聞いて、吼どしさうな者ぢやが▲シテ「吼どさずばなるまい▲アト「おどさうぞよ{シテびやうびやうと云ひて鳴くまねする}{*7}びやうびやう{と云ひて笑ふ}{*8}扨々上手に真似をしをる、最そつとなぶつてやらう、はあ犬かと思ふたれば、犬ではない▲シテ「犬でないと云ふ▲アト「猿ぢや▲シテ「猿ぢやといふわ▲アト「山近くぢやに依つて、猿は来る筈ぢや▲シテ「猿には見えまい事ぢや▲アト「猿ならば身ぜゝりをして啼さうな者ぢやが▲シテ「是も泣て悦ばせう{と云ひて啼真似身ぜゝりなどをするなり}▲アト「扨々面白い事ぢや、最そつとなぶらう、はあ今よう見れば猿でもないわ▲シテ「又猿でないといふわ▲アト「あれは鳶ぢや▲シテ「鳶ぢやといふわ▲アト「鳶ならば羽根をのして啼さうな者ぢやが▲シテ「是も泣かずば成るまい▲アト「啼かうぞよ{シテ扇ひろげ羽根をのしたる体をし{*9}ひいひよろひいひよろと云ふ}{*10}さればこそ泣いた、扨、羽根をのしては飛ぶ者ぢや、飛ばうぞよ▲シテ「此高い所から何と飛ばるゝ者ぢや▲アト「飛ばずば{*11}鉄砲を持つてこい、打殺してのけうぞ▲シテ「こりや飛ばずばなるまい▲アト「あれあれ飛ばうといふ事やら、羽根づくろいをするわ▲シテ「是は気味のわるい事ぢや▲アト「飛ばうぞよ、飛びさうな飛びさうな{と云ひてのりて囃す拍子に合はす拍子はやまりてからシテ飛ぶ}▲シテ「飛ばれうかしらぬまで、あゝ気味の悪い事ぢや、思ひ切つて飛んで見う、あいたあいた▲アト「そりや飛んだわ飛んだわ{と云ひて笑ふなり}▲シテ「やいやい、やいそこなやつ▲アト「何事ぢや▲シテ「扨々おのれは憎いやつぢや、最前から此尊い山伏を鳥類、畜類にたとへ居る、あまつさへ、鳶ぢやとぬかし居る、惣じて山伏の劫を経たは{*12}鳶にもなると聞いたに依つて、飛んで見たれば、まだうぶけもはへぬ者を、あの高い所から飛ばせ居つて、したゝか腰の骨を打ち居つた、おのれが所へ連れていて、看病をせい▲アト「まだそのつれをぬかし居る、柿を盗んで喰う様な山伏を、何のやうに看病せうぞ▲シテ「看病せずば目に物を見するぞよ▲アト「そりあ誰が▲シテ「身共が▲アト「汝が目に物を見するといふて、深しい事は有るまいぞ▲シテ「かまへて悔むなよ▲アト「何のやうに悔まうぞ▲シテ「悔むな男、たいれいの雲をしのぎ{*13}たいれいの雲をしのぎ年行の功をつむ事いちぢきだんじき立行居行斯程貴き山伏になどか奇特のなかるべきほろをんほろをん{と云ひて祈る如常アト、シテの前にこけるなり}▲アト「あれは何をぬかし居る、あの様な者にはかまはぬがよい、急いで帰らう{と云ひて橋掛へ行き偽りてひよろひよろとして一ノ松より戻りシテの前へこけるなり}▲シテ「貴い山伏は此様なものぢや、連れていて看病せい▲アト「何ぢや看病せい▲シテ「中々▲アト「おのれ誠ぢやと思ひ居るか、憎い奴の▲シテ「あゝゆるしてくれいゆるしてくれい{と云ひて逃げて{*14}入るアト追込み入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「しかく」。
 2・3・5:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 4:底本は、「少さ刀」。
 6~8・10:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 9:底本は、「羽根をのしたる体を」。
 11:底本は、「飛ばずは」。
 12:底本は、「功をへたは」。
 13:底本は、「たいれいの雲のしのぎ」。
 14:底本は、「逃でて」。