菊の花(きくのはな)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。
{これよりしかじか廻る。作り声にて呼び出す。シテ、出る。しかじか、「文蔵」に同じ事。}
扨、都には、何も変つた事はなかつたか。
▲シテ「別に変つた事もござりませぬが、この度初めて上りましたによつて、こゝかしこ残らず見物致さう。と存じて、まづ北野の天神へ参詣致してござるが、森に大きな榎の木がござる。その枝に烏がとまつて居りました。又、片枝に雀がとまつて居りました。かの雀が烏の傍へ参つて、ちゝ、ちゝ。と申してござれば、烏が雀をきつと見まして、こかあ、こかあ。と申してござる。あれは疑ひもない、親子でござる。
▲アト「扨々、汝はむさとした事を云ふ。それは、銘々の囀(さへず)り様でこそあれ。自然、同じ木にとまつて啼き合(あは)せた。と云うて、それが返事であらう事は。その様な事ではない。何ぞ、珍しい事はなかつたか。といふ事ぢや。
▲シテ「いや。それから帰るさに、とある小家に見事な菊の花が咲いてござつたによつて、立ち寄つて見物致してござるが、余り見事にござつたによつて、ひと本(もと)所望致してござれば、心よい亭主でござつて、秘蔵なれども。と申して、中にも大輪なをひと本、切つてくれました。私もきつと一礼申して出ました。扨それから、祇園・清水へ参らう。と存じて、三條通りをそろりそろりと参つてござるが、かの花を手にさげまするも心ない事ぢや。と存じて、私の髻(たぶさ)にさいて、ゆらりゆらりと参つてござれば、後から内裏上臈と見えて、けしの花を飾り立てた様な、美しい女中が大勢御出なされて、私と後になり先になり参りましたれば、かの女中が、私が髻(たぶさ)にさいてある菊の花を御覧なされて、扨々見事な花ぢや。とあつて、その儘一首、お詠みなされてござる。
▲アト「それは、何とお詠みなされた。
▲シテ「都には所はなきか菊の花、ぼうぼう頭(かしら)に咲きや乱るゝ。となされました。
▲アト「さすが、内裏女郎ぢや。優しう詠ませられたなあ。
▲シテ「そこで、私の存じまするは、総じて、人に歌を詠みかけられて返歌をせねば、口ない虫に生まるゝ。と申すによつて、只今の返歌をその儘、鸚鵡返しに致しました。
▲アト「汝が鸚鵡返しは、合点行かぬものぢや。
▲シテ「まづ、お聞きなされませ。
▲アト「して、何とした。
▲シテ「都には所はあれど菊の花、思ふ頭に咲きぞ乱るゝ。と致してござる。
▲アト「これは汝に似合(にあは)ぬ。でかしたなあ。
▲シテ「そこで、かの女中も大きに肝をつぶさせられて、汝は田舎者さうなが、優しい者ぢや。こち衆は祇園へ参るが、来ぬか。と仰せられたによつて、はつ。と申して、後からそろりそろりと参りますると、程なう祇園へ着きました。さすが、都でござる。祇園の森は西も東も皆、幕ばかりぢや。と思し召せ。
▲アト「さうであらうとも。
▲シテ「かの女中達も、とある幕の内へ悉くお入りなされたによつて、大方私も呼び込まるゝであらうと存じて、待つて居りましたれども、何の沙汰がござらぬによつて、いやいや。田舎者ぢや、臆した。と云はれまい。と存じて、幕をくわつと上げまして内へ入り、座について居りましたれば、そこへ御端(おはした)が一人(いちにん)参りまして、汝はそこに居る者ではない。こちへ来い、こちへ来い。と仰(お)せありましたによつて、いや、私はどれに居りましても、同じ事でござる。やはりこれが良うござる。と申してござれども、はて、こちへ来い、こちへ来い。と云うて、無理に私が手を取つて、一の上座(しやうざ)へ直しました。
▲アト「汝を上座に直さう筈はないが。それならば、汝が傍に、銚子・土器(かはらけ)台の物などがあつたか。
▲シテ「いやいや、左様なものは、つゝと末にござつて、私の居りました辺りには、大太(おほぶと)の金剛が、いくらも脱ぎ捨てゝござりました。
▲アト「扨々、うつけた事を云ふ。それは沓ぬぎと云うて、一の下座(げざ)ぢやわいやい。
▲シテ「はあ。扨は、下座でござるか。
▲アト「そちは、その年になるまで、上座・下座を知らぬか。
▲シテ「いかさま、さう仰せらるゝに付いて、思ひ当たつた事がござる。何か、金銀のちりばめた膳を持つて参るによつて、はや御料理を下さるゝさうな。天晴れ、下されう。と存じて、待つて居りましたれば、私の鼻の先をすりこすつて、ついと奥へ持つて参りました。はて、合点の行かぬ事ぢや。と存じましたれば、又後から、銚子・土器台の物などを持つて参るによつて、最前の御膳は奥へ進ぜらるゝ。身共には御気がついて、御酒(ごしゆ)を下さるゝさうな。と存じて、衣紋などを繕ひまして、わざと見ぬふりを致して、待つて居りましたれば、これも私が方へ持つて参りさうで参らいで、鼻の先をすりこすつて、ついと奥へ持つて参りました。そこで私も、むつけりと腹が立ちましたによつて、いやいや、この様な所に長居はいらぬものぢや。と存じて、幕をくわつと上げまして、道四五町も参ると、後から四十余りな御端(おはした)が、とけた髪を分け分け、ほうい、ほうい。と申して呼びまする。これは身共が座を立ち破つて戻つたによつて、気の毒に思うて呼ばるゝさうな。いかないかな、帰るまい。と存じて、猶足ばやに参つてござるが、申し。世には、足の早い女がござる。程なう私に追ひ付きまして、物をも云はず、私の右の腕(かひな)を取つて、あ痛、あ痛、あ痛。捩(ね)ぢ上げます。これは何とする。と申してござれば、おのれ、出せ、出せ。と申しまする。これは理不尽千万な。身共は何も覚えはない。こゝを放せ、放せ。と申しましたれば、まだそのつれを云ふか。出さぬに於いては出させ様がある。と申して、又私が左の腕(かひな)を取つて、あ痛、あ痛、あ痛。捩ぢ上げまする。これは又、迷惑な事ぢや。さりながら、どうなりともせう程に、まづこゝを放しておくりあれ。と申して、やうやうと放させまして、その後をでかしました。
▲アト「何とした。
▲シテ「これか。と申して、懐(ふところ)から大太の金剛を出して、返してござる。
▲アト「あのやくたいもない。しさりをれ。
{と云ひて、常の如く、留めて入るなり。}

底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.

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菊の花(キクノハナ)(二番目)

▲アト「此辺りの者で御座る{是よりしかしか廻る作り声にて呼出すシテ出るしかしか文蔵に同事}{*1}扨都には何もかはつた事はなかつたか▲シテ「別にかはつた事も御座りませぬが、此度初めて上りましたに依つて、爰かしこ残らず見物致さうと存じて、先づ北野の天神へ参詣致して御座るが、森に大きな榎の木が御座る、其枝に烏がとまつて居りました、又片枝にすゞめがとまつて居りました、彼すゞめが烏のそばへ参つて、ちゝちゝと申して御座れば、烏がすゞめを屹度見まして、こかあこかあと申して御座る、あれはうたがひもない親子で御座る▲アト「扨々汝は無差とした事をいふ、夫は銘々のさへずり様でこそあれ、自然おなじ木にとまつて、啼き合せたといふて夫が返事で有らう事は、其様な事ではない、何ぞ珍しい事はなかつたかといふ事ぢや▲シテ「いや夫から帰るさに、とある小家に見事{*2}な菊の花が咲いて御座つたに依つて、立寄つて見物致して御座るが、余り見事{*3}に御座つたに依つて、一ト本所望致して御座れば、心よい亭主で御座つて、秘蔵なれ共と申して、中にも大輪なを一ト本伐つてくれました、私も屹度一礼申して出ました、扨夫から祇園清水へ参らうと存じて、三條通りをそろりそろりと参つて御座るが、彼花を手にさげまするも、心ない事ぢやと存じて、私のたぶさにさいて、ゆらりゆらりと参つて御座れば、跡から内裏上臈と見えて、けしの花をかざりたてた様な、美くしい女中が大勢お出でなされて、私と跡になり先になり参りましたれば、彼の女中が私がたぶさにさいてある菊の花を御覧なされて、扨々見事{*4}な花ぢやとあつて、其儘一首お詠みなされて御座る▲アト「夫は何とおよみなされた▲シテ「都には所はなきか菊の花ぼうぼう頭に咲や乱るゝ、となされました▲アト「さすが内裏女郎ぢや、やさしうよませられたなあ▲シテ「そこで私の存じまするは、総て人に歌をよみかけられて、返歌をせねば、口ない虫に生るゝと申すに依つて、只今の返歌を其儘鸚鵡返しに致しました▲アト「汝が鸚鵡返しは合点のゆかぬ事ぢや{*5}▲シテ「先おきゝ被成ませ▲アト「して何とした▲シテ「都には所はあれど菊の花思ふ頭に咲ぞ乱るゝ、と致して御座る▲アト「是は汝に似合はぬ、出来したなあ▲シテ「そこで彼の女中も大きに肝をつぶさせられて、汝は田舎者さうながやさしい者ぢや、こち衆は祇園へ参るがこぬか、と仰せられたに依つて、はつと申して跡からそろりそろりと参りますると、程なう祇園へ着きました、さすが都で御座る、祇園の森は西も東も皆まく計りぢやとおぼしめせ▲アト「さうで有らうとも▲シテ「彼の女中達も、とある幕の内へ悉くおはいり被成たに依つて、大方私も呼込まるるで有うと存じて、まつて居りましたれ共、何の沙汰が御座らぬに依つて、いやいや田舎者ぢや、おくしたと云はれまいと存じて、幕をくわつと上げまして、内へ這入り座について居りましたれば、そこへおはしたが一人参りまして、汝はそこに居る者ではない、こちへこいこちへこいとおせありましたに依つて、いや私はどれにおりましても同じ事で御座る、矢張り是がよう御座ると申して御座れ共、はてこちへこいこちへこいといふて、無理に私が手を取つて、一の上座へ直しました▲アト「汝を上座に直さう筈はないが、夫ならば汝がそばに、ちやうしかはらけ台の物などがあつたか▲シテ「いやいや左様な者はつツと末に御座つて、私の居りました辺りには、大ぶとの金剛がいくらもぬぎ捨てゝ{*6}御座りました▲アト「扨々うつけた事をいふ、夫は沓ぬぎといふて、一の下座ぢやわいやい▲シテ「はあ扨は下座で御座るか▲アト「そちは其年になる迄、上座下座を知らぬか▲シテ「いかさまさう仰せらるゝに付て、思ひあたつた事が御座る、何か金銀のちりばめた膳をもつて参るに依つて、はや御料理を下さるゝさうな、天晴れ下されうと存じて、まつて居りましたれば、私の鼻の先をすりこすつてついと奥へ持つて参りました、果合点のゆかぬ事ぢや{*7}と存じましたれば、又跡からちやうしかはらけ台の物などを持つて参るに依つて、最前の御膳は奥へ進ぜらるゝ、身共にはお気がついて、御酒を下さるゝさうなと存じて、ゑもんなどをつくろいまして、わざと見ぬふりを致してまつて居りましたれば、是も私が方へ持つて参りさうで参らいで、鼻の先をすりこすつて、ついと奥へ持つて参りました、そこで私もむつけりと腹が立ましたに依つて、いやいや此様な所に長居はいらぬ者ぢやと存じて、幕をくわつと上げまして、道四五町も参ると、跡から四拾あまりなおはしたが、とけた髪をわけわけ{*8}ほういほういと申して呼びまする、是は身共が座を立破つて戻つたに依つて、気の毒に思ふて呼ばるゝさうな、いかないかな帰るまいと存じて、猶足ばやに参つて御座るが、申世には足の早い女が御座る、程なう私に追付まして物をも云はず私の右のかいなを取つて、あいたあいたあいた、ねぢあげます、是は何とすると申して御座れば、おのれ出せ出せと申しまする、是は理不尽千万な、身共は何も覚えはない、爰をはなせはなせと申しましたれば、まだ其つれをいふか、ださぬに於ては出させ様が有ると申して、又私が左のかひなを取つて、あいたあいたあいた、ねぢあげまする、是は亦迷惑な事ぢや、去り乍ら、どうなり共せう程に、先爰をはなしておくりあれと申して、ようようとはなさせまして、其跡を出来しました▲アト「何とした▲シテ「之かと申してふところから、おゝぶとの金剛を出して帰して御座る▲アト「あのやくたいもない、しさりをれ{ト云て如常留て入る也}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 2~4:底本は、「美事(みごと)」。
 5:底本は、「合点ゆかぬ者ぢや」。
 6:底本は、「ぬき捨て」。
 7:底本は、「合点のゆかぬぢや」。
 8:底本は、「とけた髪をわげ(二字以上の繰り返し記号)」。