鈍根草(どんごんさう)(二番目)
▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、正・五・九月には、鞍馬へ参る。今月は、九月なり。殊に今日(けふ)は、寅の日でござる。参詣致さうと存ずる。
{と云ひて、太郎冠者を呼び出す。出るも常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。某、正・五・九月には鞍馬へ参る。今月は九月なり。殊に寅の日ぢやによつて、鞍馬へ参らう。と思ふが、何とあらう。
▲シテ「御意もなくば、申し上げうと存じてござる。一段と良うござりませう。
▲アト「それならば、参らう。さあさあ、来い来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「何と思ふ。毎度相変らず参詣するは、めでたい事ではないか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、足手息災で御供を致す我ら如きまで、ひとへに多門天の御蔭と存じまする。
▲アト「何かと云ふ内に、鞍馬ぢや。まづ、御前(おまへ)へ向かはう。じやぐわんじやぐわん。
{と云ひて拝む。}
いつも宿坊へ寄る。さあさあ、行かう。汝も来い、来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「いつもの事ぢや程に、定めて待し兼ねて居られうぞ。
▲シテ「仰せの通り、定めてお待ち兼ねでござりませう。
▲アト「何かと云ふ内に、これぢや。某は、すぐに奥の座敷へ通る程に、汝は、某が来た通りを、勝手へ行(い)て申せ。
▲シテ「畏つてござる。
{と云ひて、アトは脇座に下に居る。小さ刀を抜き、左の方に置く。シテは楽屋の方を向きて、}
申し、申し。いつもの通り、頼うだ人が参詣致されまして、すぐに奥へ通られましてござる。はあ、はあ。畏つてござる。
{と云ひて、扇をひろげて、}
申し上げまする。御出の通りを申してござれば、ようこそお参りなされたれ。それへ参つて御目にかゝりたうござれども、内客を得ましてござる。これを肴になされて、御酒(ごしゆ)を一つ、上がりませ。との事でござる。
▲アト「それは、何ぢや。
▲シテ「寿司でござる。
▲アト「寺に寿司があるものか。
▲シテ「いや、名荷(めうが)の寿司でござる。
▲アト「それは、鈍根草と云うて、それを喰へば、うつけになる。あちへ返せ。
▲シテ「せつかく出ました物を、返されは致しますまい。
▲アト「それならば、そこへ捨てい。
▲シテ「捨つると申すも、いかゞでござる。こなた、上がりませずば、私ばかり、たべませう。
▲アト「おのれは只さへうつけぢやに、それを喰うたらば、いよいようつけにならうぞ。
{シテ喰ふ所、色々心持ちあり。}
▲シテ「扨も扨も、うまい事かな。ちと上がりませぬか。
▲アト「いかないかな。喰ふを見てさへ、心がうつかりとする。
▲シテ「皆たべました。
▲アト「あの向かうに青々と見ゆるは、何ぢや。
▲シテ「あれは、蓼(たで)でござる。
▲アト「あれは利根草と云うて、あれを喰へば、利根になる。早う取つて来い。
▲シテ「畏つてござる。
{と云ひて、正面へ出てむしる仕方あり。扇に載せて出す。}
しかも、見事な穂蓼(ほたで)でござる。
▲アト「誠に穂蓼ぢや。そちも喰はぬか。
▲シテ「いや。その様な辛(から)いものは、嫌でござる。
▲アト「これを喰へば、利根になるになあ。
{と云ひて喰ふ仕様、色々あり。口伝なり。}
なう、辛し、辛し。これは、皆は喰はれぬ。
{と云ひて捨てる。}
▲シテ「さうもござりますまい。
▲アト「扨、追つ付け下向せう。宜しう礼を云へ。
▲シテ「畏つてござる。頼うだ者、申されまする。いかい御馳走に預かりまして、忝うこそござれ。重ねて参り、御目にかゝつて御礼を申さう。と申されまする。礼を申してござる。
▲アト「さあさあ、下向せう。来い来い。
{と云ひて廻る。主、小さ刀を忘れる。シテ拾ひ、隠す。}
▲シテ「一段の物がある。まづ、拾はう。
▲アト「扨、いつもとは云ひながら、大参りであつた。
▲シテ「御意の通り、大参りでござつた。扨、やうやう暮れに及びました。御腰の辺りへ御気を付けられませ。
▲アト「成程、心得た。これはいかな事。身共が刀がない。いや、宿坊の床の脇に抜いて置いた。取つて来い。
▲シテ「大参りでござつた程に、参つたりとも、ござるまい。
▲アト「こゝな者が云ふ事は。主(ぬし)のある物を、誰が取るものぢや。早う行(い)て取つて来い。
▲シテ「それに就いて、こなたには最前、利根草・鈍根草の事を仰せられたが、仔細をご存じござらぬさうな。語つて聞かせませう。
▲アト「いやいや。その様な事は聞きたうない。早う刀を取つて来い。
▲シテ「いや。まづ、お聞きなされませ。《語》昔、釈迦仏の御弟子に、{*1}シユリ槃特(はんどく)と申して、愚知・無知にして、いかにも鈍なる御方の候ひしが、我が名をさへ覚え給はず、札に書き付け竹の先に結ひ付け、これを担(かた)げて歩(あり)き、御名は。と問へば、かの札を差し出し見せ給ふ。かほど鈍なる御方にて候ふ。かの名荷は、槃特の廟所より生へ出たる草なるによつて、鈍根草と名づく。名荷とは、名を荷ふ。と書きたるも、この謂(いは)れなり。また、{*2}アナンと申す御弟子は、釈迦四十余年の御説法を、一字も残さず覚え給ふ程の、利根第一なる御方なりしが、かの蓼は、阿難の塚より生じたる草なるによつて、利根草とこれを名づく。かほど利根第一なる阿難も悟道し給ふ。又、鈍なる槃特も、猶以て悟道・発明召さるゝ。何(いづ)れも皆、至る所は同じ事なり。こなたは、利根草を聞こし召したれども、刀を忘れさせらるゝ。私は、鈍根草をたべましたれども、何も落としは致さぬ。これも、到る所は同じ事ではござるまいか。
▲アト「云はれぬ事をぬかしをる。早う行(い)て、取つて来い。
▲シテ「私は、物を拾ひました。
▲アト「何を拾うた。
▲シテ「これを拾ひました。
{と云ひて、刀を見せて、}
▲アト「それは、身共がのぢや。
▲シテ「拾ひました、拾ひました。
{と云ひて、逃げて入る。主、追ひ込み入るなり。}
校訂者注
1:底本、「シユリ」に傍点がある。
2:底本、「アナン」に傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第三巻』(山脇和泉著 1918年刊 国会図書館D.C.)
鈍根草(ドンゴンサウ)(二番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、某正五九月には鞍馬へ参る、今月は九月なり、殊に今日は寅の日で御座る、参詣致さうと存ずる{と云ひて太郎冠者を呼出す出るも如常}{*1}汝呼出す別の事でない、某正五九月には鞍馬へ参る、今月は九月なり殊に寅の日ぢやに依つて、鞍馬へ参らうと思ふが何と有う▲シテ「御意もなくば申し上げうと存じて御座る、一段とよう御座りませう▲アト「夫ならば参らう、さあさあこいこい▲シテ「畏つて御座る▲アト「何と思ふ、毎度相変らず参詣するは、目出たい事ではないか▲シテ「御意被成るゝ通り、足手息才でお供を致す我等ごとき迄、偏へに多門天のお陰と存じまする▲アト「何かといふ内に鞍馬ぢや、先お前へ向はう、じやぐわんじやぐわん{と云ひてをがむ}{*2}いつも宿坊へよる、さあさあ行う、汝もこいこい▲シテ「畏つて御座る▲アト「いつもの事ぢや程に、定めて待兼てゐられうぞ▲シテ「仰せの通り、定てお待兼で御座りませう▲アト「何かといふ内に是ぢや、某はすぐに奥の座敷へ通る程に、汝は某が来た通りを勝手へいて申せ▲シテ「畏つて御座る{と云ひてアトは脇座に下に居る小さ刀をぬき左の方におくシテは楽屋の方をむきて}{*3}申し申しいつもの通り、頼うだ人が参詣致されまして、すぐに奥へ通られまして御座る、はあはあ、畏つて御座る{と云ひて扇をひろげて}申上げまする、お出の通りを申して御座れば、ようこそお参り被成たれ、夫へ参つて御目にかゝりたう御座れども、内客を得まして御座る、是を肴に被成て、御酒を一つあがりませとの事で御座る▲アト「夫は何ぢや▲シテ「すしで御座る▲アト「寺にすしが有る物か▲シテ「いや名荷のすしで御座る▲アト「夫は鈍根草といふて、夫をくへばうつけになるあちへかへせ▲シテ「せつかく出ました物をかへされは致しますまい▲アト「夫ならばそこへ捨てい▲シテ「捨ると申すもいかゞ{*4}で御座る、こなたあがりませずば私ばかりたべませう▲アト「おのれは唯さへうつけぢやに、夫をくうたらば、いよいようつけに成らうぞ{シテ喰ふ所色々心持あり}▲シテ「扨も扨もうまい事かな、ちとあがりませぬか▲アト「いかないかな喰うを見てさへ心がうつかりとする▲シテ「皆たべました▲アト「あの向うに青々と見ゆるは何ぢや▲シテ「あれは蓼で御座る▲アト「あれは利根草といふて、あれをくへば利根になる、早う取つて来い▲シテ「畏つて御座る{と云ひて正面へ出てむしる{*5}仕形あり扇にのせて出す}{*6}しかも見事{*7}な穂蓼で御座る▲アト「誠に穂蓼ぢや、そちもくはぬか▲シテ「いや其様なからい物はいやで御座る▲アト「是をくへば利根になるになあ{と云ひて喰ふ仕様色々有り口伝也}{*8}のうからしからし、是は皆はくはれぬ{と云ひて捨てる}▲シテ「さうも御座りますまい▲アト「扨追付下向せう、宜敷う礼をいへ▲シテ「畏つて御座る、頼ふだ者申されまする、いかい御ちさうに預りまして{*9}、忝ふこそ御座れ、重ねて参りお目にかゝつて、御礼を申さうと申されまする、礼を申して御座る、▲アト{*10}「さあさあ下向せうこいこい{と云ひて廻る主小さ刀をわすれるシテ拾いかくす}▲シテ「一段の物がある、先づひらはう▲アト「扨いつもとは云ひながら、大参りであつた▲シテ「御意の通り大参りで御座つた、扨ようようくれに及びました、お腰の辺りへお気を付けられませ▲アト「成程心得た、是はいかな事、身共が刀がない、いや宿坊の床の脇にぬいて置いた取つてこい▲シテ「大参りで御座つた程に、参つたり共御座るまい▲アト「爰な者が云ふ事わ、主のある物を誰がとるものぢや、早ういて取つてこい▲シテ「夫に就いてこなたには、最前利根草鈍根草の事を仰せられたが、仔細をご存じ御座らぬさうな、語つてきかせませう▲アト「いやいや其様な事はきゝたうない、早う刀を取つて来い▲シテ「いや先おきゝ被成ませ《語》昔釈迦仏の御弟子に、シユリ槃特と申して愚知無知にして、いかにも鈍なる御方の候ひしが、我が名をさへ覚え給はず、札に書き付け竹の先に結ひ付け、是をかたげてありき、御名はととへば彼札を差出し見せ給ふ、かほど鈍なる御方にて候、彼の名荷ははんどくの廟所より生へ出たる草なるに依つて、鈍根草と名づく、名荷とは名を荷うと書きたるも此謂なり、またアナンと申す御弟子は、釈迦四十余年の御説法を、一字も残さず覚え給ふ程の、利根第一なる御方なりしが、彼の蓼は阿難の塚より生じたる草なるに依つて、利根草と是を名づく、かほど利根第一なる阿なんも悟道し給ふ、また鈍なるはんどくも、猶以て悟道はつめい召さるゝ、何れも皆至る所はおなじ事なり、こなたは利根草をきこしめしたれども、刀を忘れさせらるゝ、私は鈍根草をたべましたれども、何もおとしは致さぬ、是も到る所はおなじ事では御座るまいか▲アト「いはれぬ事をぬかしをる、早ういて取つて来い▲シテ「私は物をひろひました▲アト「何を拾ふた▲シテ「是を拾ひました{と云ひて刀を見せて}▲アト「夫は身共がのぢや▲シテ「ひらひましたひらひました{と云ひて逃て入る主追ひ込み入るなり}
校訂者注
1・2・8:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
3・6:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
4:底本は、「如何(いかゞ)」。
5:底本は、「むしろ」。
7:底本は、「美事(みごと)」。
9:底本は、「預り して」。
10:底本、ここに「▲アト「」はない。
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