縄綯(なはなひ)(二番目 三番目)
▲アト「この辺りに住居(すまひ)致す者でござる。某(それがし)、友達どもと寄り合うて、ふと手慰みを致してござれば、さんざん不仕合せで、金銀は申すに及ばず、ひとりある太郎冠者まで打ち込うでござる。約束でござるによつて、遣はさうと存ずる。さりながら、この事を申して遣はしたらば、定めてすねて参るまい。と存じて、かやうに状に認(したゝ)めてござる。まづ太郎冠者を呼び出し、申し付けうと存ずる。
{と云ひて呼び出す。出るも常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。そちは大儀ながら、この状を誰殿の方へ、持つて行(い)てくれい。
▲シテ「はあ、畏つてはござりますれど、これは又、いつもの様に、お寄り合ひなされて、お手慰みをなされうとある御状ではござりませぬか。
▲アト「いやいや、その様な事ではない。ちと外に用事を申して遣はす程に、持つて行け。
▲シテ「毎度申し上げまする事でござる。これをなされぬと申して、外にお慰みも多い事でござる。あられぬお手慰みをなさるゝとあつて、世間の取り沙汰も悪うござる。これは、慮外ながら、《笑》御無用になされたが良うござりませう。
▲アト「おのれが何を知つて。その事ではないと云ふに。早う持つて失せう。
{と云ひて詰める。シテ受ける。常の如くなり。}
▲シテ「扨も扨も、苦々しい事を云ひ付けられた、こりや又、十(とを)が十ながら、いつもの様に寄り合うて、博奕を打たうといふ状には極(きま)つてある。それを云へば、おのれが何を知つて。と云うて、歯を出さるゝ。是非に及ばぬ、行かずばなるまい。誠に世間の衆は、五度に三度はお勝ちあるといふ事もあるが、こちの頼うだ人に限つて、遂に勝たれたといふ事を聞いた事がない。負けても負けても、何が面白うて博奕が打ちたいぢやまで。下手の横好きといふは、頼うだ人の事ぢや。《笑》。何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。小アト出る。常の如くなり。}
▲小アト「えい、太郎冠者。今朝からそちを待つてゐたわいやい。
▲シテ「頼うだ者から状をおこしました。
▲小アト「むゝ。状には及ばぬに。
{と云ひて、状を披き読みてから、}
成程、合点ぢや。さあさあ、つゝとかう通れ。
▲シテ「いやも、御用もなくば、私はお暇申しませう。
▲小アト「そちは、何も様子を知らぬか。
▲シテ「いや、何も存じませぬ。
▲小アト「それならば、云うて聞かさう。そちの頼うだ者と寄り合うて、手慰みをしたれば、金銀は云ふに及ばず、汝までも打ち勝つた。向後(きやうこう)は、身共が所の者ぢや程に、さう心得い。
▲シテ「それは、合点の行かぬ事でござる。それならばそれと、頼うだ人の仰(お)せありさうなものでござるが。これへ参るまで、何の沙汰がござらぬ。
▲小アト「何しに身共が嘘を云ふものぢや。これへ寄つて、この状を見よ。
▲シテ「どれどれ、何々。鳥目の代りに、太郎冠者を遣はし申し候ふ。こりや、定(ぢやう)ぢや。
▲小アト「何と。
▲シテ「扨も扨も、気の毒な事かな。身共がまづかうあらうと思うて、色々と異見をすれども、お聞きあらぬによつて、この様に成り下つた事でござる。
▲小アト「成程、尤なれども、いづくに奉公するも、同じ事ぢや。随分奉公を大事にかけい。
▲シテ「おゝおゝ。おれあ、いづくに奉公をするも同じ事ぢやが、この様子ならば、一人ある内儀様(かみさま)を、打ち込まつせあれずば、良うござらうが。
▲小アト「まづ、かう通れ。
▲シテ「扨も扨も、笑止千万な事かな。
▲小アト「扨、初めて来た所に、只居るは悪いものぢや。山一つあなたへ使ひに行け。
▲シテ「なりますまい。
▲小アト「なぜに。
▲シテ「持病に脚気があつて、山坂は一町もなりませぬ。
▲小アト「それならば、裏に垣を結ふ程に、縄をなへ。
▲シテ「何ぢや、縄をなへ。
▲小アト「中々。
▲シテ「これ、誰殿。
▲小アト「何ぢや。
▲シテ「おれも今まで、ずい分賤しい奉公もしましたれども、終に縄をなうた事はござらぬわいなう。
▲小アト「おのれは憎いやつの。つゝとまめな者ぢや。と仰(お)せあつたによつて、大分の鳥目の代りに取つた。おのれ、その様にすねて働かねば、鳥目できつと算用さするぞよ。
▲シテ「でも、ならぬ事はならぬ。と云はいでなりませうか。
▲小アト「まだぬかしをる。すつこうでゐよ。
▲シテ「いや。熱気にも冷へにも立たぬ事を。
▲小アト「扨も扨も、腹の立つ事でござる。つゝとまめな者ぢや。と仰(お)せあつたによつて、大分の鳥目の代りに取つた。あの様な者が、何の役に立つものぢや。この上は、鳥目できつと算用致させうと存ずる。何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内を乞ふ。アト出るも常の如し。}
身共でござる。
▲アト「えい、誰殿。只今、太郎冠者を遣はしましたが。
▲小アト「成程、太郎冠者は参りましたが、あれはつゝとまめな者ぢや。と仰せられたによつて、大分の鳥目の代りに取つたではござらぬか。
▲アト「成程、その通りでござる。
▲小アト「それに、山一つあなたへ使ひに行け。と申せば、持病に脚気があつて、山坂は一町もならぬ。と申す。それならば、裏に垣を結ふ程に、縄をなへ。と申せば、縄などをなうた事はないの、何のかのと申して、すねて働きませぬ。あの様な者は、何の役にも立たぬ者でござる。鳥目できつと算用させられい。
▲アト「それは、合点の参らぬ事でござる。きやつはつゝとまめな者で、殊に縄をなう事は得物(えもの)でござるが。あゝ、それは、この事を申して遣はさなんだによつて、定めてすねて働かぬものでかなござらう。どうぞ、騙してお帰しなされ。私が遣うて御目にかけませう程に、こなたも、後をしたうて御出でなされて、某が遣ふを見て、気に入つたらば遣はせられうず。又、気に入りませずば、鳥目できつと算用致しませうわ、扨。
▲小アト「成程、これは尤でござる。それならば、騙して帰しませう程に、遣うて見せさつせあれ。
▲アト「早う帰さつせあれ。
▲小アト「心得ました。又、誰殿の仰(お)せあるを聞けば、尤でござる。とかく、憎いは太郎冠者めでござる。どうぞ、騙して帰さうと存ずる。太郎冠者、太郎冠者、やい、太郎冠者。
▲シテ「やあ。
▲小アト「面目もない事があるわ。
▲シテ「何が面目なうござる。
▲小アト「さればの事ぢや。今又、汝が所へ行(い)て、例のひと勝負したれば、この度は、金銀は云ふに及ばず、汝まで打ち返された。大儀ながら、往(い)んでくれずばなるまい。
▲シテ「それはまづ、定(ぢやう)でござるか。
▲小アト「定とも、定とも。何しに偽りを云はう。
▲シテ「扨々、それは御笑止千万な事でござる。私は、いつがいつまでも、こなたに御奉公を致しませう。と存じましたに。扨々、それはお残り多い事でござる。
▲小アト「いやいや、勝負の習ひぢやによつて、そつとも苦しうない。早う往(い)んでくれい。
▲シテ「左様ならば、又あの辺をお通りなされたらば、ちとお寄りなされて、お茶でも上つて下さりませ。
▲小アト「成程、又あの辺を通つたらば、寄るであらう。
▲シテ「も、かう参りまする。
{と云ひて、暇乞ふ。常の如し。}
なうなう、うるさやうるさや。あの人に、いつまで遣はれうと思うて、幾瀬の物案じをした。まづ急いで帰つて、頼うだ人へこの存分を言はいでは置くまい。
{と云ひて、申し頼うだお方。文句の如く、変らず。}
▲アト「ゑい、太郎冠者。戻つたか。
▲シテ「戻つたか。あゝ、こなたはよう、おれを騙して遣らつせあれたの。
▲アト「何事も身共が悪かつた程に、了見をしてくれい。
▲シテ「いや、了見をするのせぬのではござらぬ。これこれの訳ぢやによつて、行(い)てくれい。と仰せらるゝに、私が何を否(いな)と云ふものでござる。主のために命を捨つるは、うちの者の役でござる。それに何ぞや、騙して遣るといふ様な、不得心な事があるものでござるか。いや、それはさうと、今度は不思議の勝たつせあれたげな、なう。
▲アト「成程、今度は不思議に勝つて、奥に乱(みだ)け銭が大分ある。大儀ながら、さし縄をなうてくれい。
▲シテ「おゝおゝ、縄をなう事は得物でござる。その藁を取つてござれ。
▲アト「心得た。
▲シテ「あゝ、又こなたの勝たつせある事も、あらうよなう。
{と云ひて、入れ違ふ。主、後見座より藁持ちて出る。}
▲アト「こりあこりあ、これか。
▲シテ「おゝ、これこれ。こりあ幸ひ、こゝになひかけてござる。これをなひませうぞ。
▲アト「早うなうてくれい。
▲シテ「心得ました。扨、云ふまではなけれども、これに懲りて、以来ふつふつ博奕は思ひ止まらつせあれや。
▲アト「いや、これに懲りぬ者はあるまいぞ。
▲シテ「いやも、博奕程、心のさもしうなるものはござらぬぞいなう。扨、何から話しませうぞ。かゝら申さうやら。惣じて世間の世話にも、人には添うて見よ、馬には乗つて知れ。といふ譬へがござるが、あの誰殿といふ人は、あの様にはない人かと存じましたれば、あゝ、見ると聞くとでござる。遂に人をお遣やつた事がないさうにござる。私があれへ参つて、まだろくろくに腰をかけるやかけぬに、遣はぬが損ぢや。とがな思やりましたやら、山一つあなたへ使ひに行け。よう参りませうにや。持病に脚気があつて、山坂は一町もならぬ。と云うたれば、又何やらに思案をして、裏に垣とやらを結ふ程に、縄をなへ。と仰(お)せあつた。そこで私も、むつけりと腹が立ちましたによつて、いやこれ、誰殿。おれも今まで随分賤しい奉公もしましたれども、遂に縄などなうた事はござらぬ。と云うたれば、《笑》いかう腹をお立ちありましての。
▲アト「さうであらうとも。
▲シテ「いや、おのれは憎いやつの。つゝとまめな者ぢやと仰(お)せあつたによつて、大分の鳥目の代りに取つた。おのれ、その様にすねて働かずば、鳥目できつと算用さする。とやら云うて、鳴り喚(わめ)いてお出ありましたが。気味の良い、こゝへ来て、皆お負けありましたかいなう。
▲アト「その通りぢや。
▲シテ「慮外ながら、こゝをちと持つて下され。
▲アト「心得た。
{と云ひて、主、立つて太郎冠者の後ろへ廻り、縄の先を持つと、小アト、橋掛りへ立つて、シテ柱より「シイ」と云ひて呼ぶ。アト、うなづき合ひ、それより行きて替はるなり。}
▲シテ「扨、私も誰殿の御門前までは、節々お使ひに参りましたれども、内へ通つたは今日が初めてゞござる。常に誰殿が見えて、内の者がどう云うての、女共がかう云うての。と仰(お)せあるによつて、さもとらしい{*1}お内儀かと存じてござれば、今日(けふ)といふ今日(けふ)は、誰殿のお内儀を初めて見ましたが、《笑》あれは、胆(きも)も興も醒め果てたお内儀でござる。それは、世間に悪女といふは多けれども、あれは、悪女の中の悪女でござる。まづ、色こそ黒けれ。墨で塗つた様な顔ぢや。額はひよいと出てあり、目はどんぐり目なり。両の頬は、握り拳を突き出した様に、ぶうと脹(ふく)れてあり、それに、因果と鼻が低(ひき)いによつて、あるやら無いやら知れてこそ《笑》。それにまだ何ぞ、気の上(のぼ)る病(やまひ)でもあるかして、頭のぐるりが禿げて、頭頂に霜枯れの薄(すゝき)を見る様な髪が、しよぎしよぎと十筋ばかり生えてあるに、油をとろりと付けて、笄髷(かうがいわげ){*2}ぢや《笑》。物腰と云へば、塔の鳩の呻(うめ)く様な物腰なり。あれは何やらによう似たが。おゝ、それそれ。絵にかいた夜叉に、その儘ぢや《笑》。蓼喰ふ虫も好き好きとはいへども、ようもあの様なお内儀に連れ添うておゐある事でござる。その癖、仲が良いやら、大勢の子供でござる。およそ、十二、三を頭として、七、八人。いやいや、十人もござらうか。どうでもあれは、毎年お産みあるさうな《笑》。それが又、せめて父(てゝ)親の誰殿になりとも似れば、さもとらしいに、見るも見るもお内儀の夜叉殿に似て、頭が禿げてどんぐり目ぢや《笑》。何が、お内儀の育て様があいたてない{*3}によつて、ひとりが湯を飲まう。と云へば、おれも飲まう、こゝへも汲んでおこせ。喧(かしま)しさに、汲んで飲ますれば、素直にも飲みをる事か、今のは温(ぬる)うてむせたの、熱うて舌を焼いたのと、様々の小言をぬかしをる。腹の立つや先へ、まだ三つばかりでもござらう、乳まさり{*4}が、馴染もない私が鼻の先へちよろちよろと来て、太郎冠者、抱かれう、抱かれう。と申しまする。私はうるさうてなりませねども、かの夜叉殿が、ぢつと見ておゐあるによつて、さながら嫌とも申されず、おほ、いたいけのお子や、ちやつとござれ、ちやつとござれ。と云うたれば、実(まこと)かと思うて膝の上へ上る。上るといなや、悪い事をせまいものか。まづ、耳の穴へ指をねぢ込む。髪をむしる。さまざまの悪さをし居る。余り腹が立ちましたによつて、裏の人遠い所へ連れて行(い)て、かの伜が太股を、ふつつりと抓(つめ)つたれば、《笑》泣くまい事か。突きぬく様な声をして、あ痛、あ痛、あ痛《笑》。ほゆると思し召せ。どこで聞かれたやら、かの夜叉殿が、ばたばたと走つて来て、やいそこなやつ。私はびつくり致しました。なぜに秘蔵の伜をほやいた。と云うて、お睨みあつた顔を見ましたれば、《笑》角が生えさうにござりました。私も申し様はござらず、只今まで随分御機嫌も良うござりましたが、何としてやら、おむつかりまする。と云うたれば、泣かせぬ様に守りをしをれ。と云うて、つひとお入りあつた。後ろ姿を見たれば、沙汰はない事、ふご尻{*5}ぢや《笑》。あひるの歩(あり)く様に、ゑたらゑたらゑたらゑたら《笑》。扨、今度はとつくりと入らせ済まして置いて、握り拳を以つて、かの小伜が頭をくわん。
{と云ひて、握り拳を振り上げ、思はず後ろを向き、驚く。このしかじかの内、小アト肩をぬぎ、扇を振り上ぐるなり。}
▲小アト「やい、そこなやつ。
▲シテ「はあ。
▲小アト「何ぢや、身共が女共が夜叉ぢや。
▲シテ「いや、それは、隣のお内儀の事でござる。
▲小アト「その上、秘蔵の伜を、よう打擲しをつたな。
▲シテ「それは、人違(たが)ひでござる。
▲小アト「まだそのつれをぬかしをる。
▲シテ「ご許されませ、ご許されませ。
▲小アト「やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云ひて、追ひ込み入る。常の如し。}
校訂者注
1:「さもとらし」は、「ちゃんとした様子である。しかるべき様子である」。
2:「笄髷(かうがいわげ)」は、婦人の髪の結い方の一つ。かうがいまげ。
3:「あいたてない」は、むやみやたらとかわいがるさま。
4:「乳まさり」は、不詳。
5:「畚(ふご)」は、農作物や魚などを入れるための、竹等で編んだ円型の平たい籠。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
縄綯(ナワナイ)(二番目 三番目)
▲アト「此辺りに住居致す者で御座る、某友達共と寄り合うて、不図手慰みを致して御座れば、さんざん不仕合せで、金銀は申すに及ばず、独り有る太郎冠者迄打込うで御座る、約束で御座るに依つて、遣はさうと存ずる、去り乍ら此事を申して遣はしたらば、定めてすねて参るまいと存じて、斯様に状に認めて御座る、先太郎冠者を呼出し申し付うと存ずる{ト云て呼出す出るも如常}{*1}汝呼出す別の事でない、そちは大儀ながら此状を誰殿の方へ、持つていてくれい▲シテ「はあ、畏つては御座りますれど、是は又いつもの様に、お寄合なされて、お手慰みを被成れうとある御状では御座りませぬか▲アト「いやいや其様な事ではない、ちと{*2}外に用事を申して遣はす程に持つてゆけ▲シテ「毎度申し上げまする事で御座る、是を被成ぬと申して、外にお慰みもおゝい事で御座る、あられぬお手慰みを被成るゝとあつて、世間の取沙汰もわるう御座る、是は慮外ながら《笑》{*3}、御無用に被成たがよう御座りませう▲アト「おのれが何を知つて、其事ではないといふに、早う持つて失う{ト云てつめるシテ請る如常なり}▲シテ「扨も扨も苦々しい事を云ひ付けられた、こりや又十ヲが十ヲながら、いつもの様に寄り合うて、博奕を打うといふ状には極つてある、夫をいへば、おのれが何を知つて、といふて歯を出さるゝ、是非に及ばぬゆかずば{*4}成るまい、誠に、世間の衆は、五度に三度はお勝あるといふ事もあるが、此方の頼うだ人に限つて、遂にかたれたといふ事をきいた事がない、まけてもまけても、何が面白うて博奕が打ちたいぢやまで、下手の横好きといふは頼うだ人の事ぢや、《笑》{*5}、何かと云ふ内に是ぢや{ト云て案内乞ふ小アト{*6}出る如常也}▲小アト「えい太郎冠者、今朝からそちを待ツてゐたわいやい▲シテ「頼うだ者から状をおこしました▲小アト「むゝ状には及ばぬに{ト云て状を披きよみてから}{*7}成程合点ぢやさあさあつゝとかう通れ▲シテ「いやも御用もなくば、私はお暇申しませう▲小アト「そちは何も様子を知らぬか▲シテ「いや何も存じませぬ▲小アト「夫ならばいふてきかさう、そちの頼うだ者と寄合うて、手慰みをしたれば、金銀は云ふに及ばず、汝までも打ち勝つた、けふこうは身共が所の者ぢや程にさう心得い▲シテ「夫は合点のゆかぬ事で御座る、夫ならば夫と、頼うだ人のおせありさうなもので御座るが、是へ参るまで何の沙汰が御座らぬ▲小アト「何しに身共が嘘をいふ者ぢや、是へ寄つて{*8}此状を見よ▲シテ「どれどれ、何々鳥目の代り{*9}に、太郎冠者を遣はし申し候、こりや定{*10}ぢや▲小アト「何と▲シテ「扨も扨も気の毒な事かな、身共がまツかう有らうと思ふて、種々と異見をすれ共、おきゝあらぬに依つて、此様に成り下つた事で御座る▲小アト「成程尤もなれ共、いづくに奉公するも同じ事ぢや、随分奉公を大事にかけい▲シテ「おゝおゝ、おれあいづくに奉公をするも同じ事ぢやが、此様子ならば一人ある内儀様を、打ち込まツせあれずばよう御座らうが▲小アト「先づかう通れ▲シテ「扨も扨も、笑止千万な事かな▲小アト「扨初めて来た所に、唯居るはわるい物ぢや、山一つあなたへ使にゆけ▲シテ「成りますまい▲小アト「なぜに▲シテ「持病に脚気があつて、山坂は一町もなりませぬ▲小アト「夫ならば、裏に垣を結ふ程に縄をなへ▲シテ「何ぢや縄をなへ▲小アト「中々▲シテ「是誰殿▲小アト「何ぢや▲シテ「おれも今迄、ずい分いやしひ奉公もしましたれ共、終に縄をなうた事は御座らぬわいのう▲小アト「おのれは憎ひやつの、つゝとまめな者ぢやとおせあつたに依つて、大分の鳥目の代り{*11}に取つた、おのれ其様にすねて、はたらかねば、鳥目で屹度算用さするぞよ▲シテ「でもならぬ事はならぬといはいでなりませうか▲小アト「まだぬかしをる、すつこうでゐよ▲シテ「いや、熱気にも冷にもたゝぬ事を▲小アト「扨も扨も腹の立つ事で御座る、つゝとまめな者ぢやとおせあつたに依つて、大分の鳥目の代り{*12}に取つた、あの様な者が何の役に立つ者ぢや、此上は鳥目で屹度算用致させうと存ずる、何かといふ内に是ぢや{ト云て案内を乞アト出るも如常}{*13}身共で御座る▲アト「えい誰殿、唯今太郎冠者を遣はしましたが▲小アト「成程太郎冠者は参りましたが、あれはつツとまめな者ぢやと仰せられたに依つて、大分の鳥目のかはりに取つたでは御座らぬか▲アト「成程其通りで御座る▲小アト「夫に山一つあなたへ使にゆけと申せば、持病に脚気があつて、山阪は一町もならぬと申す、夫ならば裏に垣をゆふ程に、縄をなへと申せば、縄などをなうた事はないの、なんのかのと申して、すねてはたらきませぬ、あの様な者は何の役にも立たぬ者で御座る、鳥目で屹度算用させられい▲アト「夫は合点の参らぬ事で御座る、彼奴はつゝとまめな者で、殊に縄をなう事は得物で御座るが、あゝ夫は此事を申して遣はさなんだに依つて、定めてすねてはたらかぬ者でかな御座らう、どうぞだましてお帰し被成、私が遣うてお目にかけませう程に、こなたも跡をしたうて御出で被成て、某が遣うを見て、気に入つたらば遣はせられうず、又気に入ませずば、鳥目で屹度算用致しませうは扨▲小アト「成程是は尤で御座る、夫ならばだまして帰しませう程に、遣うて見せさつせあれ▲アト「早う帰さつせあれ▲小アト「心得ました、又誰殿のおせあるをきけば尤で御座る、兎角憎いは太郎冠者奴で御座る、どうぞだまして帰さうと存ずる、太郎冠者太郎冠者、やい太郎冠者▲シテ「やあ▲小アト「面目もない事があるは▲シテ「何が面目なう御座る▲小アト「さればの事ぢや、今又汝が所へいて、例の一ト勝負したれば、此度は金銀は云ふに及ばず、汝迄打かへされた、大儀ながらいんでくれずば成るまい▲シテ「それは先づ定{*14}で御座るか▲小アト「定{*15}共定{*16}共、何しに偽りをいわふ▲シテ「扨々夫は御笑止千万な事で御座る、私はいつがいつ迄も、こなたに御奉公を致しませうと存じましたに、扨々夫はお残り多い事で御座る▲小アト「いやいや勝負のならひぢやに依つて、卒ツ都も苦しうない、早ういんでくれい▲シテ「左様ならば、又あの辺をお通り被成たらば、ちと{*17}お寄り被成て、お茶でも上つて下さりませ▲小アト「成程またあの辺を通つたらば寄るで有らう▲シテ「もかう参りまする{ト云て暇乞如常}{*18}のふのふうるさやうるさや、あの人にいつまで遣はれうと思ふて、幾瀬の物案じをした、先づ急いで帰つて頼うだ人へ、此存分を言はいでは置まい{と云て申頼うだお方文句の如く変らず}▲アト「ゑい太郎冠者戻つたか▲シテ「戻つたか、あゝこなたはようおれをだましてやらつせあれたの▲アト「何事も身共がわるかつた程に、了見をしてくれい▲シテ「いや了見をするのせぬのでは御座らぬ、是々の訳ぢやに依つて、いてくれいと仰せらるゝに、私が何をいなといふ者で御座る、主のために命をすつるは従の者の役で御座る、夫に何ぞや、だましてやるといふ様な、不得心な事が有るもので御座るか、いやそれはさうと、こんどは不思議の勝たつせあれたげなのふ▲アト「成程こんどは不思議に勝つて、奥にみだけ銭が大分ある、大儀ながらさし縄をなうてくれい▲シテ「おゝ々々縄をなう事は得物で御座る、其わらを取つて御座れ▲アト「心得た▲シテ「あゝ又こなたの勝たツせある事も有らうよなふ{ト云て入違ふ主後見座よりワラ持て出る}▲アト「こりあこりあ是か▲シテ「おゝ是々、こりあ幸ひ爰になひかけて御座る、之をないませうぞ▲アト「早うなうてくれい▲シテ「心得ました、扨いふ迄はなけれども、是にこりて以来ふつふつ博奕は思ひとまらつせあれや▲アト「いや是にこりぬ者はあるまいぞ▲シテ「いやも博奕程心のさもしう成るものは御座らぬぞいのふ、扨何から噺しませうぞかゝら申さうやら、惣じて世間の世話にも、人にはそうて見よ、馬には乗つて知れといふ例へが御座るが、あの誰殿といふ人は、あの様にはない人かと存じましたれば、あゝ見ると聞くとで御座る、遂に人をおつかいやつた事がないさうに御座る、私があれへ参つて、まだろくろく{*19}に腰をかけるやかけぬに、遣はぬが損ぢやとがなおもやりましたやら、山一ツあなたへ使にゆけ、よう参りませうにや、持病にかつけがあつて、山阪は一町もならぬといふたれば、又何やらに思案をして、裏に垣とやらをいふ程に縄をなへとおせあつた、そこで私もむつけりと腹が立ちましたに依つて、いや是誰殿、おれも今迄ずゐ分いやしひ奉公もしましたれども、遂に縄などなうた事は御座らぬと云ふたれば、《笑》{*20}、いかう腹をお立ちありましての▲アト「さうで有らう共▲シテ「いやおのれは憎いやつの、つツとまめな者ぢやとおせあつたに依つて、大分の鳥目のかはりに取ツた、おのれ其様にすねてはたらかずば、鳥目で屹度算用さするとやらいふて、鳴りわめひて{*21}お出ありましたが、気味のよい爰へ来て、皆お負けありましたかいなふ▲アト「其通りぢや▲シテ「慮外ながら爰をちと持つて下され▲アト「心得た{ト云て主立つて太郎冠者の後ろへ廻り縄の先をもつと小アト橋掛りへ立つてシテ柱よりシイと云て呼アトうなづき合夫より行てかはるなり}▲シテ「扨私も誰殿の御門前までは、節々お使に参りましたれ共、内へ通つたは今日が初めてゞ御座る、常に誰殿が見へて、内の者がどう云ふての、女共がかういふてのとおせあるに依つて、さもとらしいお内儀かと存じて御座れば、けふといふけふは誰殿のお内儀を初めて見ましたが、《笑》{*22}、あれは胆も興もさめはてたお内儀で御座る、夫は世間に悪女といふは多けれども、あれは悪女の中の悪女で御座る、先づ色こそ黒けれ墨でぬつた様な顔ぢや、額はひよいと出てあり、目はどんぐり目なり、両の頬は握拳を突き出した様にぶうとふくれてあり、夫にいんぐわと鼻がひきいに依つて、有るやら無いやらしれてこそ、《笑》{*23}、夫にまだ何ぞ気ののぼるやまひでもあるかして、あたまのぐるりがはげて頭頂に霜がれのすゝきを見る様な髪が、しよぎしよぎと十筋ばかりはへてあるに、油をとろりとつけて、かうがいわけぢや、《笑》{*24}、物ごしと云へば塔の鳩のうめく様な物ごしなり、あれは何やらによう似たが、おゝ夫々絵にかいた夜叉{*25}に其儘ぢや、《笑》{*26}、蓼喰う虫もすきずきとはいへ共、ようもあの様なお内儀につれそうておゐある事で御座る、其くせ中がよいやら大勢の子供で御座る、凡十二三を頭として七八人、いやいや十人も御座らうか、どうでもあれは毎年お生あるさうな、《笑》{*27}、夫が又せめててゝ親の誰殿に成共似ればさもとらしひに、見るも見るもお内儀の夜叉{*28}殿に似て、あたまがはげてどんぐり目ぢや、《笑》{*29}、何がお内儀のそだて様があいたてないに依つて、独りが湯を呑まうといへば、おれも呑まう爰へも汲んでおこせ、かしましさに汲んでのますれば、すなほにものみおる事か、今のは温うてむせたの、熱うて舌を焼いたのと、様々の小言をぬかしをる、腹の立つや先へまだ三ツ計りでも御座らう乳まさりが、なじみもない私が鼻の先へちよろちよろときて、太郎冠者だかれうだかれうと申しまする、私はうるさうてなりませね共、かの夜叉{*30}殿がぢツと見ておゐあるに依つて、さながら嫌とも申されず、おほいたいけ{*31}のお子や、ちやつと御座れ、ちやつと御座れといふたれば、実かと思ふて膝の上へ上る、上るといなやわるい事をせまいものか、先づ耳の穴へ指をねぢ込む、髪をむしる、さまざまのわるさをし居る、余り腹が立ちましたに依つて、裏の人遠い所へつれていて、かの忰が太股をふツつりとつめツたれば、《笑》{*32}、泣くまい事か突きぬく様な声をして、あいたあいたあいた、《笑》{*33}、ほゆると思召せ、どこで{*34}聞かれたやら、かの夜叉{*35}殿がばたばたと走ツて来て、やいそこなやつ、私はびつくり致しました、なぜに秘蔵の忰をほやいたといふて、おにらみあつた顔を見ましたれば、《笑》{*36}、角がはへさうに御座りました、私も申し様は御座らず、唯今迄ずゐ分御機嫌もよう御座りましたが、何としてやらおむつかりますると云ふたれば、なかせぬ様に守をしおれといふて、つひとおはいりあつた、後ろ姿を見たれば沙汰はない事ふご尻ぢや、《笑》{*37}、あひる{*38}のありく様に、ゑたらゑたらゑたらゑたら、《笑》{*39}、扨こんどはとツくりとはいらせ済して置いて、握こぶしを以つて{*40}かの小忰が頭をくわん{ト云てにぎり小ぶしをふり上げをもはず後ろをむきおどろく此しかじか{*41}の内小アト肩をぬぎ扇をふり上るなり}▲小アト「やいそこなやつ▲シテ「はあ▲小アト「何ぢや身共が女共が夜叉{*42}ぢや▲シテ「いや夫は隣のお内儀の事で御座る▲小アト「其上秘蔵の忰をよう打擲しおつたな▲シテ「夫は人たがひで御座る▲小アト「まだ其つれをぬかしおる▲シテ「ごゆるされませごゆるされませ▲小アト「やるまひぞやるまひぞ{ト云て追込入る如常}
校訂者注
1:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
2・17:底本は、「些(ち)と」。
3・5・20・22~24・26・27・29・32・33・36・37・39:底本は「笑フ」。但し、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
4:底本は、「ゆかずは」。
6:底本は、「アト」。
7・13:底本、全て「▲小アト「」がある(全て略)。
8:底本は、「是へ依つて」。
9・11・12:底本は、「変(かは)り」。
10・14~16:底本は、「誠(ぜう)」。
18:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
19:底本は、「ろく々」。
21:底本は、「叫(わめ)ひて」。但し、「叫」は「口偏に斗」。
25・28・30・35・42:底本は、「夜刄(やしや)」。
31:底本は、「幼気(いたいけ)」。
34:底本は、「どこて」。
38:底本は、「鵞(あひる)」。
40:底本は、「持ツて」。
41:底本は、「おとろく此しがく」。
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