しびり(しびり)(二番目)
▲アト「この辺りの者でござる。太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて、呼び出す。出るも常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。何とこの中(ぢゆう)、方々のお振舞ひは、夥(おびたゞ)しい事ではないか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、事長じた義でござる。
▲アト「扨、それについて、この方へも、各々を申し受くるが、知つたか。
▲シテ「成程、存じてござるによつて、路次の掃除なども致してござる。
▲アト「それは、出来(でか)した。扨、こゝ元の肴では馳走にならぬ。汝は大儀ながら、和泉の堺へ行(い)て、肴を求めて来い。
▲シテ「畏つてはござれども、私は御内証に御用もござらう程に、次郎冠者に仰せ付けられませ。
▲アト「いやいや、次郎冠者にも相応の用を申し付くる。是非とも汝行け。
▲シテ「それならば参りませうまで。
▲アト「急いで行(い)て、やがて戻れ。
{詰める。常の如し。}
▲シテ「これはいかな事。迷惑な事を云ひ付けられた。あそこへは太郎冠者、こゝへは太郎冠者と、この様に遣はれては、身も骨も続く事ではない。よし、今一度は参らうが、この様な事は、重ねての例になりたがる。何とぞして、参りとむないものぢやが。いや、致し様がござる。作病を起こして参るまい。と存ずる。あ痛、あ痛。
▲アト「これはいかな事。太郎冠者の声ぢやが。えい、太郎冠者。何とした。
▲シテ「しびりが切れました。
▲アト「これはいかな事。しびり程の事を、仰山に云ふ者ぢや。どれどれ、身共が治してやらう。それで良からうぞ。
▲シテ「これは、何でござる。
▲アト「しびりのまじなひに、額に塵を付ければ治ると云ふによつて、付けた。大方、それで良からうぞ。
▲シテ「いかないかな。私のしびりは、親の譲りのしびりでござるによつて、藁の一駄や二駄付けた分では、治りませぬ。
▲アト「さう云ふは、何ぞ仔細があるか。
▲シテ「成程、仔細がござる。まづ、私の親は、子を数多(あまた)持たれてござる。兄々には田・山・家財を譲られます。又、私は末子の事でござるによつて、何も譲らう物がないとあつて、このしびりを譲りに受けてござる。
▲アト「譲らう物も多からうに、変つた物を譲りに受けたなあ。
▲シテ「左様でござる。
▲アト「これはいかな事。太郎冠者が和泉の堺へ参るまいと思うて、作病を起こした。何とぞして遣りたいものぢやが。いや、致し様がござる。やあやあ、何と云ふ。伯父御の方に、酒肴を貰はせられて、お料理をなさるゝ。身共にも来い、太郎冠者も連れて来い。いや、身共は参らうが、太郎冠者はしびりが切れたによつて、え参るまい。と云へ。えい。
▲シテ「申し申し。それは、何を仰せられます。
▲アト「伯父御の方に、酒肴を貰はせられて、お料理をなさるゝ。身共も来い、汝も連れて来い。とある事なれども、そちはしびりが切れたによつて、え参るまい。と云うてやつた。
▲シテ「私も参りませうものを。
▲アト「その体で、何と行かるゝものぢや。
▲シテ「最前も申す通り、私のしびりは親の譲りのしびりでござるによつて、優しい所があつて、宣命を含めますれば、治ります。
▲アト「それは、一段の事ぢや。急いで治せ。
▲シテ「畏つてござる。やい、しびり。よう聞け。今日(けふ)は伯父御様の方にお振舞ひがあつて、お供に行かねばならぬ。いつは起こらうとも、今日(けふ)ばかりは治つてくれい。しびりよ、しびりよ。ほ。
▲アト「それは何ぢや。
▲シテ「しびりが、治らう。といふ返事でござる。
▲アト「扨々、こびた者が返事をしたなあ。
▲シテ「左様でござる。
▲アト「して、良いか。
▲シテ「大方、良さゝうにござる。
▲アト「ちと、立つて見よ。
▲シテ「慮外ながら、手を曳いて下され。
▲アト「心得た。静かに立て、立て。おゝ、これはいかう良さゝうな。
▲シテ「思ひの外、良うござる。
▲アト「ちと向かうへ出て見よ。
▲シテ「はあ。
▲アト「後(あと)へ戻つて見よ。
▲シテ「はあ。
▲アト「跳んで見よ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「その体ならば、何方(いづかた)へも行かれうぞ。
▲シテ「中々。いづくまでも参りませう。
▲アト「それならば、伯父御のお振舞ひは嘘。汝は和泉の堺へ行(い)て、肴を求めて来い。
▲シテ「和泉の堺へと仰せらるれば、又しびりが。あ痛、あ痛。
▲アト「あのやくたいもない。しさりをれ。
{と云ひて、常の如く、留めて入るなり。}
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
しびり(シビリ)(二番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、太郎冠者を呼出し申し付くる事が御座る{ト云て{*1}呼出す出るも如常}{*2}汝呼出す別の事でない、何と此中方々のお振舞はおびたゞしい事ではないか▲シテ「御意被成るゝ通り、事長じた義で御座る▲アト「扨夫に就て此方へも各々を申し請くるが知つたか▲シテ「成程存じて御座るに依つて、路次の掃除なども致して御座る▲アト「夫は出来した、扨爰元の肴では馳走にならぬ、汝は大儀ながら、和泉の堺へいて肴を求めて来い▲シテ「畏つては御座れ共、私は御内証に御用も御座らう程に、次郎冠者に仰せ付けられませ▲アト「いやいや次郎冠者にも相応の用を申し付くる、是非共汝ゆけ▲シテ「夫ならば参りませう迄▲アト「急いでいて頓て戻れ{つめる如常}▲シテ「是はいかな事、迷惑な事をいひ付けられた、あそこへは太郎冠者爰へは太郎冠者と、此様に遣はれては、身も骨もつゞく事ではない、よし今一度は参らうが、此様な事は重ねての例になりたがる、何卒して参りとむないものじやが、いや致し様が御座る、作病をおこして参るまいと存ずる、あいたあいた▲アト「是はいかな事、太郎冠者の声じやが、えい太郎冠者何とした▲シテ「しびりが切れました▲アト「是はいかな事、しびり程の事をぎやうさんにいふ者じや、どれどれ身共が直してやらう、夫でよからうぞ▲シテ「是は何で御座る▲アト「しびりのまじないに、ひたいにちりをつければなほるといふに依つて付けた、大方夫でよからうぞ▲シテ「いかないかな、私のしびりは親の譲りのしびりで御座るに依つて、藁の一駄や二駄付けた分では直りませぬ▲アト「さう云ふは何ぞ仔細があるか▲シテ「成程仔細が御座る、先づ私の親は子をあまたもたれて御座る、兄兄には田山家財を譲られます、又私は末子の事で御座るに依つて、何も譲らう物がないと有つて、このしびりを譲りに請けて御座る▲アト「譲らう物も多からうに、変つた物を譲りに請けたなあ▲シテ「左様で御座る▲アト「是はいかな事、太郎冠者が和泉の堺へ参るまいと思ふて作病をおこした、何卒してやりたいものじやが、いや致し様が御座る、やあやあ何といふ、伯父御の方に酒肴を貰はせられて、お料理を被成るゝ、身共にもこい太郎冠者もつれてこい、いや身共は参らうが太郎冠者はしびりが切れたに依つて得参るまいといへ、えい▲シテ「申し申し夫は何を仰せられます▲アト「伯父御の方に酒肴を貰はせられて、お料理を被成るゝ、身共もこい汝もつれてこいと有る事なれども、そちはしびりが切れたに依つて、得参るまいといふてやつた▲シテ「私も参りませうものを▲アト「其体で何と行かるゝものじや▲シテ「最前も申す通り私のしびりは、親の譲りのしびりで御座るに依つて、優しい所があつて、宣命をふくめますれば直ります▲アト「夫は一段の事じや、急いで直せ▲シテ「畏つて御座る、やいしびりよう聞け、けふは伯父御様の方にお振舞が有つてお供にゆかねばならぬ、いつはおこらうとも、けふ計は直つてくれい、しびりよしびりよ、ホ▲アト「夫は何じや▲シテ「しびりが直らうといふ返事で御座る▲アト「扨々こびた者が返事をしたなあ▲シテ「左様で御座る▲アト「してよいか▲シテ「大方よさそうに御座る▲アト「ちと立つて見よ▲シテ「慮外ながら手を曳ひて下され▲アト「心得た、静かにたてたて、おゝ是はいかうよさそうな▲シテ「思ひの外よう御座る▲アト「ちと向うへ出て見よ▲シテ「はあ▲アト「跡へ戻つて見よ▲シテ「はあ▲アト「とんで見よ▲シテ「畏つて御座る▲アト「其体ならば何方へもゆかれうぞ▲シテ「中々いづくまでも参りませう▲アト「夫ならば伯父御のお振舞はうそ、汝は和泉の堺へいて肴を求めてこい▲シテ「和泉の堺へと仰せらるれば又しびりが、あいたあいた▲アト「あのやくたいもない、しさりおれ{ト云て如常留て入るなり}
校訂者注
1:底本は、「ト云を」。
2:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
コメント