千鳥(ちどり)(二番目 三番目)

▲小アト「この辺りの者でござる。明日(みやうにち)は、こゝ元の神事でござる。それに付き、太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。何と明日(みやうにち)は、こゝ元の神事ではないか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、明日はこゝ元の神事でござる。
▲小アト「それについて、汝は大儀ながら、酒屋へ行(い)て、酒を取つて来てくれい。
▲シテ「それは、どの酒屋へ参りませうぞ。
▲小アト「はて、いつも行く酒屋へ行け。
▲シテ「あの仰せらるゝ事は。いつも参る酒屋は、内々(ないない)の酒代の算用が済みませぬによつて、酒をおこす事ではござらぬ。
▲小アト「そちは、先度(せんど)もその様に云うたれども、酒を取つて来たではないか。
▲シテ「先日は、俄かにお客はござり、酒を出せ。とは仰せらるゝ。致さう様がござらず、酒屋へ参つて、色々の嘘を申して、やうやうと盗むようにして取つて参つてござる。
▲小アト「又今度も、その様にして取つて来い。
▲シテ「物を心安さうに仰せらるゝ。嘘も手暗(てくろ){*1}も、一度や二度は人も合点を致せども、もはや再々の事でござるによつて、酒屋がよう知つて、中々酒をおこす事ではござらぬ。
▲小アト「それならば、米をやらう。
▲シテ「それは、どの米を遣はされますぞ。
▲小アト「やがて蔵へ納むる米をやらうぞ。
▲シテ「あの僅かばかりのお米を遣はされましたらば、後(あと)からの御飯米に、お事を欠かれませう。
▲小アト「そちが様に、物の先(さき)を折る様に云うてはならぬ。思うても見よ。祭に酒がなうてはなるまいぞ。
▲シテ「何(いづ)れ、神事に禁酒でも済みますまい。
▲小アト「どうぞ、そちを頼む程に、良い様に云うて取つて来てくれい。
▲シテ「成らう成るまいは存じませぬが、まづ参つて見ませうまで。
▲小アト「暫くそれに待て。
▲シテ「心得ました。
▲小アト「やいやい、これを持つて行け。
{と云ひて、葛桶を持ちて出て、正面に置くなり。}
▲シテ「これは又、小さい樽なりともやらつせあれいで、大きな樽でござる。
▲小アト「客が大勢ぢやによつて、まだそれでも心元ない。扨、云ふまではないが、随分念を入れて、良い酒を取つて来い。
▲シテ「せめて、悪い酒なりとも、おこせば良うござるが。
▲小アト「急いで行(い)て、やがて戻れ。
{と云ひて、常の如く詰めるなり。}
▲シテ「これはいかな事。迷惑な事を云ひ付けられた。というても、行かずばなるまい。誠に、こちの頼うだ人の様な、みちれない{*2}上戸はござらぬ。酒の良し悪しにもかまはず、相手があつてもなうても、夜とも昼ともなく酒をお呑みあるによつて、今酒代が重なつて、この様に迷惑をせらるゝ事ぢや。あゝ、この中(ぢゆう)も、酒屋がいかう腹を立てゝ居たが。今日(けふ)は、どの様な嘘を云うて良からうやら。酒屋へ行かうと思へば、幾瀬の物案じをする事ぢや。いや、何かと云ふ内に、これぢや。まづ、この樽を見せてはなるまい。まづ案内を乞はう。
{と云ひて、案内乞ふ。アト出るも、常の如し。}
私でござる。
▲アト「えい、太郎冠者。何と思うて来た。
▲シテ「この間は、久しうお見舞ひも申しませぬが、御機嫌さうで、おめでたう存じまする。
▲アト「成程、身共も随分息災な。そちもまめで、一段でおりある。
▲シテ「扨、当年もこなたの御酒が、良う出来ましたとの。
▲アト「何(いづ)れ、当年も身共が所の酒が良う出来て、悦ぶ事でおりある。
▲シテ「いづれ、名誉な事でござる。つひに、こなたの御酒の悪う出来たと申す事を、聞いた事がござらぬ。総じて、御商売物の良う出来まするは、お家御繁昌の御瑞相ぢや。と申しまする。
▲アト「何(いづ)れもその様に仰せられて、身共も悦ぶ事でおりある。
▲シテ「扨、当年こゝ元の世の中は、何とでござる。
▲アト「まづ、たいていでおりある。
▲シテ「すれば、所にもよりますか。私の在所は、近年の世の中でござる。別して、頼うだ者の田は、畦(あぜ)を限つて穂に穂が咲いて、当年はざつと米持ちになられました。
▲アト「それは、めでたい事ぢや。又、身共も悦ぶは、内々の酒手の算用が済まうと思うて、この様な悦ばしい事はないわ。
▲シテ「先度も先度で申してゐられました。段々酒代は重なりまする。当暮には、すきと済ましませうず。又、来年とる酒代も、当年からやつて置かう。などゝ申されまする。いらぬ事ながら、お話を申しまする。
▲アト「それは、悪い事を聞く様になうて、悦ぶ事でおりある。
▲シテ「扨、今日(こんにち)は、頼うだ者のお使ひに参りました。
▲アト「それは、何と云うておこされた。
▲シテ「頼うだ者、申しまする。明日は、あの方の神事でござる。お子様方をお連れなされて、早朝からお出なされて下され。と申し越してござる。
▲アト「それは、行きたいものなれども、遂にそちの頼うだ者とは、近付きにならぬ。それは定めて、門違ひであらう。
▲シテ「いや、遂にお近付きにならぬによつて、この度を幸ひにとあつて、私をおこされてござる。
▲アト「その様な御念の入つた事ならば、行きたいものなれども、あすは叶はぬ暇入りがあるによつて、え行くまい。
▲シテ「それは、気の毒でござる。お前を申し入れうばかりに、作事なども致されてござる。少々の御用ならば、どうぞ御出なされて下されい。
▲アト「その様な事ならば、猶々残り多いが、どうも明日(あす)は、叶はぬ先約があるによつて、え行くまい。そち、良い様に断りを云うてくれい。
▲シテ「左様ならば、お子様方ばかりなりとも、遣はされませ。
▲アト「成程、子供が行かう。と云ふならば、やるであらう。
▲シテ「明日(あす)は、何やら面白い山が出(づ)る。と申しまする。私が、良い時分にお迎ひに参りませう。
▲アト「いやいや、迎ひには及ばぬ。行かう。とさへ云はゞ、この方から人を付けてやるであらう。
{と云ふ内に、シテ、葛桶を持ちて出、正面に置くなり。}
▲シテ「誰を遣はしましても、御如才はござりますまいが、明日は晴れがましい客を得まする。奥殿のつゝと宜しからうづるを、お詰めなされて下されい。
▲アト「何を。
▲シテ「酒を。
▲アト「何ぢや、酒を。
▲シテ「中々。
▲アト「いや、こゝな者が。先度も先度で云うてやるに、そちは帰つて云はぬか。内々の酒手の算用が済まぬによつて、酒をやる事はならぬ。と云ふに。あゝ、そちも聞こへぬ者ぢや。
▲シテ「成程、先日のお腹立ちの段を、帰つて頼うだ者に具(つぶさ)に申してござれば、御尤にこそござれ。当暮には、すきと済ましませうず。又、その内上げ{*3}に。とあつて、今朝(こんてう)、一駄の物が参りませうが。
▲アト「何が。
▲シテ「米が。
▲アト「いゝや、まだ来ぬぞよ。
▲シテ「あの、まだ来ませぬか。
▲アト「中々。
▲シテ「これはいかな事。何をして居る事ぢや知らぬ。はあ、牛に付けてやれ。と云はれたが、その牛が、まだ山から戻らぬものでかなござらう。
▲アト「やいやい、太郎冠者。扨は、米の来るは定(ぢやう)か。
▲シテ「定とも定とも。米も来ぬに、何と酒が取りに来らるゝものでござらう。
▲アト「米さへ来るならば、酒を詰めてやらいでならうか。詰めてやらう程に、暫くそれに待て。
▲シテ「早う詰めて下され。
▲アト「心得た。
▲シテ「まづ、これ程までには云うたが。
{アト、樋を持ちて入る。しかじかの過ぐる時、出る。}
▲アト「やいやい、太郎冠者。酒を詰めたぞ。
▲シテ「これは、御念が入つて、樽のお掃除までが出来ました。
▲アト「一つは酒のためぢやと思うて、掃除を云ひ付けた。
▲シテ「扨も扨も、奇麗になりました。
{と云ふ内、アト、正面を向く。シテ、うかゞひて、そつと樽を後ろへ置き、足にて押しやる。}
何と、明日はどうぞ、お出なされて下され。
▲アト「最前も云ふ通り、叶はぬ先約ぢやによつて、え行かぬ。そち、良い様に断りを云うてくれい。
▲シテ「左様ならば、お子様方ばかりなりとも、遣はされませ。
▲アト「成程、子供が行かう。と云うたらば、やるであらう。
▲シテ「私が良い時分に、迎ひに参りませう。
▲アト「いやいや、迎ひには及ばぬ。行かう。とさへ云はゞ、この方から人を付けてやるであらう。
{このしかじかの内、シテ、さし足して、そろそろ樽を持ち行く。アト、見付け、}
やい、そこな者。
▲シテ「やあ。
▲アト「それは、何とする。
▲シテ「往(い)にます。
▲アト「いや、こゝな者が。米も来ぬに、往(い)にます。と云ふ事があるものか。
▲シテ「こなたは、最前云うたを何と聞かせられた。米は、追つ付けこゝへ来ますわいなう。
{と云ひて、又取りに行く。アトは、樽をおさへてしかじか云ふ。}
▲アト「いやいや、何ぼでも米を見ねば、酒をやる事はならぬ。
▲シテ「扨は、米を見さつせあらねば、酒をおこさつせある事は、なりませぬか。
▲アト「思ひもよらぬ事ぢや。
▲シテ「それならば、米の来るまで、何をして居ませう。
▲アト「待つてゐよ。
▲シテ「明日(あす)は祭で、忙しうござる。
▲アト「忙しくば、往(い)んで来い。
▲シテ「この遠い所を、ふた帰りみ帰り、何となるものでござる。
▲アト「やい、太郎冠者。
▲シテ「やあ。
▲アト「そちは、常に来てさへ咄をする。米の来るまで、咄をして待つてゐよ。
▲シテ「何(いづ)れ、常に来てさへ、咄を致しまする。それならば、何ぞ咄をして待つて居ませう。
▲アト「さあさあ、何なりとも咄して聞かせ。
▲シテ「それならば、何が良うござらうぞ。
▲アト「されば、何が良からうなあ。
▲シテ「こなたは、尾張の津島祭を見さつせあつた事がござるか。
▲アト「聞き及うだれども、終に見た事はない。
▲シテ「私は当年、初めて見ましたが、これを咄して聞かしましたらば、来年は万事打捨てゝ見物に行かう。とかな、仰せらるゝでござらう。
▲アト「それは、面白さうな事ぢや。それを咄して聞かせ。
▲シテ「まづ、祭より前に、浜辺を通りますれば、子供が大勢、千鳥を伏せまする。これが、面白い事でござる。
▲アト「それは、面白からう。それをちと、して見せぬか。
▲シテ「これには、相手がいりまする。
▲アト「して、それは難しい事か。
▲シテ「別に難しい事ではござらぬ。こなたが、浜千鳥の友呼ぶ声は。と仰せらるれば、私が、ちりちりや、ちりちり。と云うて、千鳥を伏せる事でござる。
▲アト「それは、心安い事ぢや。身共が相手にならう程に、早うして見せい。
▲シテ「まだ、網がいります。
▲アト「網はないが。
▲シテ「あながち網でなうても大事ござらぬ。何ぞ、網になりさうな物があるか、見て下され。
▲アト「心得た。何ぞ、網になる物があれば良いが。身共が内に、何も網になる物はないか。あゝ、網になる物は何であらうぞ。
{と云ひて探す内に、シテ、さし足して、そつと樽を持ちて行くを見付けて、}
やい、そこな者。
▲シテ「やあ。
▲アト「それは、何とする。
▲シテ「これが、網にならうかぢやまで。
▲アト「むゝ、それが網になるか。
▲シテ「あながち、網になるではなけれども、こなたさへ、網ぢや。と思はつせあれば良いによつて、網に用ゐようか。といふ事でござる。
▲アト「成程、身共は網ぢやと思ふ程に、早うして見せい。
▲シテ「それならば、さあさあ、囃させられい。
▲アト「心得た。はんま千鳥の友呼ぶ声は。
▲シテ「ちりちりや、ちりちり。ちりちりや、ちりちり。ちりちりや、ちりちりと。ちりとんたり。
{これよりアト、「浜千鳥」を云ひ、シテ、「ちりちりや」を云ふ事、三度あり。仕方、色々あるなり。仕様、口伝なり。}
▲アト「やいやいやい、そこな者。
▲シテ「やあ。
▲アト「それは、何とする。
▲シテ「これが、千鳥を伏せた所でござる。
▲アト「あゝ、これは、あまり面白うないわいやい。
▲シテ「もそつと面白い筈ぢやが。おゝ、それそれ。網に手がなさぢや。
▲アト「手があれば、面白いか。
▲シテ「手があれば、格別面白い。手を付けて、して見せう程に、さあさあ、囃させられい。
▲アト「心得た。
{と云ひて、又「浜千鳥」を云ふ内に、シテ、網を持ち出るなり。樽へ付くる。アト、囃す。シテも「ちりちり」と云ひて浮く。拍子云ふ。}
やいやいやい、そこな者。
▲シテ「やあ。
▲アト「それは、何とする。
▲シテ「これが、千鳥を伏せた所でござる。
▲アト「あゝ、又しても又しても、樽に手をかくるによつて、面白い事も可笑しい事もない。もう、置け、置け。
▲シテ「この後が面白けれども、こなたが気が短かうて、見さつせあれねば、しよう事がござらぬ。
▲アト「その面白い所をして見せい。
▲シテ「それならば、流鏑馬の体(てい)をして見せませうか。
▲アト「それは、どの様な事ぢや。
▲シテ「まづ、一町に三所の的を立て、児が花笠を着て、馬に乗つて、かの的を、はつしはつしと射て通る。これが、面白い事でござる。
▲アト「それは、面白からう。それをして見せい。
▲シテ「これも、この方から、お馬が参る、お馬が参る。と申せば、こなたは、所の侍衆になつて、馬場のけ、馬場のけ。と云うて、馬場先の人を払はつせある事でござる。
▲アト「それは猶、心安い。身共が相手にならう。早うして見せい。
▲シテ「それならば、さあ、お馬が参る、お馬が参る。
▲アト「馬場のけ、馬場のけ。
{と云ひて、仕形あり。シテも「お馬が参る」を云ひて、舞台を一遍廻るなり。口伝。}
何とする。
▲シテ「これは、道にあつて邪魔でござる。脇へのけて置きませう。
{と云ふ前に、樽を取つて逃げんとする時、アト、このしかじか云ふ。シテも、しかじか云ひて、葛桶を目付柱の方へ置きて、又「お馬が参る」を云ふ。同断。口伝あり。}
▲アト「どうなりともせい。
▲シテ「さあ、お馬が参る、お馬が参る。
▲アト「馬場のけ、馬場のけ。
{前に同断。又、葛桶に手をかける。}
何とする。
▲シテ「こりあ、よう詰まつてござるか。
▲アト「よう詰つてある。
▲シテ「どうやら、どぶどぶする様な。
▲アト「はて扨、よう詰まつてあると云ふに。
{と云ひて、樽を取りて、元の所に置くなり。}
▲シテ「あゝ、どうやら流鏑馬が、いかうしにくいが。おゝ、それそれ。的がなさぢや。
▲アト「はあ、的がいるか。
▲シテ「流鏑馬に的がなうて、何となるものぢや。
▲アト「的はないぞよ。
▲シテ「これこれ、これを的にせう。
{と云ひて、アトの扇をひろげ、貌(かほ)を覆ひ、又廻る。同断。}
▲アト「これが的になるか。
▲シテ「これをかうして、こちらを見ずに、馬場先をうつかりと見て居さつせあれ。
▲アト「心得た。
{これより廻る。同断。}
▲アト「何とする。
{と云ふ時、弓を射る真似をするなり。}
▲シテ「あゝ、危なやの、危なやの。今の時、矢を放せば、こなたの目を、ほつしりと射抜きます。扨々、危ない事であつた。
▲アト「でも、面白さうにあつたによつて見た。
▲シテ「そちが面白うても、こちが面白うござらぬ。こなた、なるまい。置かつせあれ、置かつせあれ。
▲アト「あゝ、こりあこりあ。その様に気短かう云はずとも、その後を、もそつとして見せい。
▲シテ「でも、こちらを見さつせあれては、どうも流鏑馬がなりませぬ。
▲アト「ぢやと云うて、面白い時に見ねば、堪忍がならぬわ。
▲シテ「それならば、面白い時は、当たり。と云うて、左右(さう){*4}をしませう程に、それまではこちらを見ずに、馬場末をうつかりと見てゐさつせあれ。
{と云ひて、扇をかざすなり。}
▲アト「やい、太郎冠者。
▲シテ「やあ。
▲アト「何と、この米は遅い事ぢやなあ。
▲シテ「それそれ、その米の所へ気が付くによつて、咄が面白うない。米は追つ付け、牛に付けてこゝへ来るわいなう。
{と云ひて、無理に扇をかざすなり。}
▲アト「来るかよ。
▲シテ「お馬が参る、お馬が参る。
▲アト「馬場のけ、馬場のけ。
▲シテ「当たり。とな。
{と云ひて、アトを打ちこかす時、}
▲アト「こりあ、何とする。
▲シテ「お馬が参る、お馬が参る。
{と云ひて、樽を取りて逃げる。}
▲アト「やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「やあ。
▲アト「そりや、何とする。
▲シテ「これか。
▲アト「おんでもない事。
▲シテ「お馬が参る、お馬が参る。
▲アト「南無三宝。又、してやられた。
{と云ひて、追ひ込み入るなり。}

校訂者注
 1:「手暗(てくろ)」は、人の目をくらまし、ごまかすこと。
 2:「みちれなし」は、「さもしい」の意。
 3:「内上(うちあ)げ」は、「代金や借金などの一部分を支払うこと」。
 4:「左右(さう)」は、「合図」の意。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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千鳥(チドリ)(二番目 三番目)

▲小アト「此辺りの者で御座る、明日は爰元の神事で御座る、夫に付き太郎冠者を呼出し申し付くる事が御座る{ト云て呼出す出るも如常}{*1}汝呼出す別の事でない、何と明日は爰元の神事ではないか▲シテ「御意被成るゝ通り明日は爰元の神事で御座る▲小アト「夫に就て汝は大儀ながら、酒屋へいて酒を取つて来てくれい▲シテ「夫はどの酒屋へ参りませうぞ▲小アト「果いつも行く酒屋へ行け▲シテ「あの仰せらるゝ事は毎も参る酒屋は内々の酒代の算用が済ませぬに依つて、酒をおこす事では御座らぬ▲小アト「そちはせんども其様にいふたれども、酒を取つて来たではないか▲シテ「先日は俄かにお客は御座り、酒を出せとは仰せらるゝ、致さう様が御座らず、酒屋へ参つて種々のうそを申して、漸々と盗むようにして取つて参つて御座る▲小アト「又今度も其様にして取つて来い▲シテ「物を心易さうに仰せらるゝ、うそもてくろも一度や二度は人も合点を致せども、最早再々の事で御座るに依つて、酒屋がよう知つて中々酒を、おこす事では御座らぬ▲小アト「夫ならば米をやらう▲シテ「夫はどの米を遣はされますぞ▲小アト「頓て蔵へ納むる米をやらうぞ▲シテ「あの僅かばかりのお米を遣はされましたらば、跡からの御飯米におことを欠れませう▲小アト「そちが様に物の先を折る様にいふてはならぬ、思ふても見よ、祭に酒がなうてはなるまいぞ▲シテ「何れ神事に禁酒でも済みますまい▲小アト「どうぞそちを頼む程に、よい様にいふて取つて来てくれい▲シテ「成らう成るまいは存じませぬが、先づ参つて見ませう迄▲小アト「暫く夫に待て▲シテ「心得ました▲小アト「やひやひ、之を持つて行け{ト云て葛桶を持て出て正面に置なり}▲シテ「是は亦小さい樽なりともやらつせあれいで、大きな樽で御座る▲小アト「客が大勢ぢやに依つてまだ夫でも心元ない、扨いふ迄はないが、随分念を入れてよい酒を取つて来い▲シテ「せめてわるひ酒なりともおこせばよう御座るが▲小アト「急いでいて頓て戻れ{ト云て如常つめるなり}▲シテ「是はいかな事、迷惑な事をいひつけられた、といふても行かずば{*2}成るまい、誠に、こちの頼うだ人のようなみちれない上戸は御座らぬ、酒のよしあしにもかまわず、相手が有つてもなうても、夜共昼共なく酒をお飲みあるに依つて、今酒代が重つて此様に迷惑をせらるゝ事ぢや、あゝ此中も酒屋がいかう腹を立て居たが、けふはどの様なうそをいふてよからうやら、酒屋へ行かうと思へば、幾瀬の物案をする事ぢや、いや何かといふ内に是ぢや、先づ此樽を見せてはなるまい、先案内を乞う{ト云て案内乞ふアト出るも如常}{*3}私で御座る▲アト「えい太郎冠者、何と思ふて来た▲シテ「此間は久敷うお見舞も申しませぬが、御機嫌さうで{*4}御目出たう存じまする▲アト「成程身共も随分息災な、そちもまめで一段でおりある▲シテ「扨当年もこなたの御酒がよう出来ましたとの▲アト「何れ当年も身共が所の酒がよう出来て悦ぶ事でおりある▲シテ「いづれ名誉な事で御座る、つひにこなたの御酒のわるう出来たと申す事を、きいた事が御座らぬ、総じて御商売物のよう出来まするは、お家御繁昌の御瑞相ぢやと申しまする▲アト「何れも其様に仰られて、身共も悦ぶ事でおりある▲シテ「扨当年爰元の世の中は何とで御座る▲アト「先たいていでおりある▲シテ「すれば所にもよりますか、私の在所は近年の世の中で御座る、別して頼うだ者の田は、あぜを限つて穂に穂が咲いて、当年はざつと米持になられました▲アト「夫は目出たい事ぢや、又身共も悦ぶは、内々の酒手の算用が済まうと思ふて、此様な悦ばしい事はないわ▲シテ「先ん度も先ん度で申してゐられました、段々酒代は重りまする、当暮にはすきと済しませうず、又来年とる酒代も、当年からやつて置かう抔{*5}と申されまする、いらぬ事ながらお話を申しまする▲アト「夫はわるい事を聞く様になうて悦ぶ事でおりある▲シテ「扨今日は頼うだ者のお使に参りました▲アト「夫は何といふておこされた▲シテ「頼うだ者申しまする、明日はあの方の神事で御座る、お子様方をおつれなされて、早朝からお出被成て下されと申し越して御座る▲アト「夫は行きたい物なれ共、遂にそちの頼うだ者とは近付にならぬ、夫は定めて門違ひで有らう▲シテ「いや遂にお近付にならぬに依つて、此度を幸ひにと有つて、私をおこされて御座る▲アト「其様な御念の入つた事ならば行きたい者なれ共、あすは叶はぬ暇入が有るに依つて得ゆくまい▲シテ「夫は気の毒で御座る、お前を申し入れう計りに作事抔{*6}も致されて御座る、少々の御用ならばどうぞ御出被成て被下い▲アト「其様な事ならば猶々残りおゝいが、どうもあすは叶はぬ先約があるに依つて得ゆくまい、そちよい様に断をいふてくれい▲シテ「左様ならばお子様方計りなりとも遣はされませ▲アト「成程子供が行かうといふならばやるであらう▲シテ「明日は何やら面白い山が出ると申しまする、私がよい時分にお迎ひに参りませう▲アト「いやいやむかひには及ばぬ行かうとさへいはゞ、此方から人をつけてやるで有らう{ト云ふ内にシテ葛桶を持て出正面に置なり}▲シテ「誰を遣はしましても、御如才は御座りますまいが、明日は晴がましい客を得まする、奥殿のつゝとよろしからうづるを、おつめ被成て下されイ▲アト「何を▲シテ「酒を▲アト「何ぢや酒を▲シテ「中々▲アト「いや爰な者が、先度もせんどでいふてやるに、そちは帰つていはぬか、内々の酒手の算用が済ぬに依つて、酒をやる事はならぬといふに、あゝそちもきこへぬ者ぢや▲シテ「成程先日のお腹立の段を帰つて、頼うだ者に具に申して御座れば、御尤もにこそ御座れ、当くれにはすきとすましませうず、又其内上げにと有つて、今朝一駄の物が参りませうが▲アト「何が▲シテ「米が▲アト「いゝやまだこぬぞよ▲シテ「あのまだ来ませぬか▲アト「中々▲シテ「是はいかな事、何をして居る事ぢやしらぬ、はあ牛に付けてやれといはれたが、其牛がまだ山から、戻らぬものでかな御座らう▲アト「やいやい太郎冠者、扨は米のくるは定{*7}か▲シテ「定{*8}とも定とも、米もこぬに何と酒が取りに来らるゝもので御座らう▲アト「米さへ来るならば酒をつめてやらひでならうか、つめてやらう程に暫らく夫に待て▲シテ「早うつめて下され▲アト「心得た▲シテ「先是程迄にはいふたが{アト樋を持て入るシカシカの過るとき出る}▲アト「やいやい太郎冠者、酒をつめたぞ▲シテ「是は御念が入つて、樽のお掃除までが出来ました▲アト「一つは酒の為ぢやと思ふて掃除をいひ付けた▲シテ「扨も扨も奇麗に成りました{ト云内アト正面をむくシテうかゞいてソツと樽をうしろへ置足にてをしやる}{*9}何と明日はどうぞお出被成て下され▲アト「最前も云ふ通り、叶はぬ先約ぢやに依つて、得ゆかぬ、そちよい様に断をいふてくれい▲シテ「左様ならばお子様方計りなり共、遣はされませ▲アト「成程子供が行かうといふたらばやるで有らう▲シテ「私がよい時分に迎にまゐりませう▲アト「いやいや迎ひには及ばぬ、行かうとさへいはゞ、此方から人を付けてやるで有らう{此しかしかの内シテさし足して{*10}ソロソロ樽を持行アト見付け}{*11}やいそこな者▲シテ「やあ▲アト「夫は何とする▲シテ「いにます▲シテ「いや爰な者が米もこぬにいにますといふ事が有物か▲シテ「こなたは最前云ふたを何ときかせられた、米は追付爰へ来ますわいのふ{ト云て亦取に行アトは樽をおさへてしかしか云}▲アト「いやいや何ぼでも、米を見ねば酒をやる事はならぬ▲シテ「扨は米を見さつせあらねば、酒をおこさつせある事は成ませぬか▲アト「思ひもよらぬ事ぢや▲シテ「夫ならば米のくる迄何をして居ませう▲アト「待つてゐよ▲シテ「あすは祭でいそがしう御座る▲アト「いそがしくばいんでこい▲シテ「此遠い所を二タ帰り三帰り何と成るもので御座る▲アト「やい太郎冠者▲シテ「やあ▲アト「そちは常に来てさへ咄をする、米のくる迄咄をして待つてゐよ▲シテ「何れ常に来てさへ咄を致しまする夫ならば何ぞ咄しをして待つて居ませう▲アト「さあさあ何なりとも咄してきかせ▲シテ「夫ならば何がよう御座らうぞ▲アト「されば何がよからうなあ▲シテ「こなたは尾張の津島まつりを見さつせあつた事が御座るか▲アト「聞及うだれども、終に見た事はない▲シテ「私は当年初めて見ましたが、是を咄して聞かしましたらば、来年は万事打捨て見物に行かうとかな仰せらるゝで御座らう▲アト「夫は面白さうな事ぢや、夫を咄して聞かせ▲シテ「先祭より前に浜辺を通りますれば、子供が大勢千鳥をふせまする、是が面白い事で御座る▲アト「夫は面白からう、夫をちとして見せぬか▲シテ「是には相手が入りまする▲アト「して夫は六ツケ敷い事か▲シテ「別に六ツケ敷い事では御座らぬ、こなたが浜千鳥の友呼ぶ声はと仰らるれば、私がちりちりやちりちりといふて、千鳥をふせる事で御座る▲アト「夫は心易い事ぢや、身共が相手にならう程に早うして見せい▲シテ「まだ網がいります▲アト「あみはないが▲シテ「あながち網でなうても大事御座らぬ、何ぞあみになりさうな物があるか見て下され▲アト「心得た、なんぞあみになる物があればよいが、身共が内に何もあみになる物はないか、あゝあみに成る物は何んで有らうぞ{ト云てさがす内にシテさし足して{*12}そつと樽を持て行くを見つけて}{*13}やひそこな者▲シテ「やあ▲アト「それは何とする▲シテ「是があみに成らうかぢやまで▲アト「むゝ夫があみに成るか▲シテ「あながちあみに成るではなけれ共、こなたさへあみぢやと思はつせあればよいに依つて、あみに用ゐようかといふ事で御座る▲アト「成程身共はあみぢやと思ふ程に、早うして見せい▲シテ「夫ならばさあさあはやさせられい▲アト「心得た、はんま千鳥の友よぶ声は▲シテ「ちりちりやちりちり。ちりちりやちりちりちりちりやちりちりと。ちりとんたり{是よりアト浜千鳥を云シテチリチリやを云事三度あり仕方色々有なり{*14}仕様口伝なり}▲アト「やいやいやいそこな者▲シテ「やあ▲アト「夫は何とする▲シテ「是が千鳥をふせた所で御座る▲アト「あゝ是はあまり面白うないわいやい▲シテ「もそつと{*15}面白い筈ぢやが、おゝそれそれ、あみに手がなさぢや▲アト「手があれば面白いか▲シテ「手があれば格別面白い、手をつけてして見せう程に、さあさあはやさせられい▲アト「心得た{ト云て亦浜千鳥を云内にシテ網を持出るなり樽へ付るアトはやすシテもチリチリと云てうく拍子云}{*16}やいやいやいそこな者▲シテ「やあ▲アト「夫は何とする▲シテ「是が千鳥をふせた所で御座る▲アト「あゝ又しても又しても樽に手をかくるに依つて、面白い事もおかしい事もない、もうおけおけ▲シテ「此後が面白けれ共、こなたが気が短かうて見さつせあれねば、しよう事が御座らぬ▲アト「その面白い所をして見せい▲シテ「夫ならばやぶさめの体をして見せませうか▲アト「夫はどの様な事ぢや▲シテ「先一町に三所の的をたて、児が花笠をきて、馬に乗つてかの的をはつしはつしと射て通る、是が面白い事で御座る▲アト「夫は面白からう、夫をして見せい▲シテ「是も此方からお馬が参るお馬が参ると申せば、こなたは所の侍衆になつて、馬場のけ馬場のけといふて、馬場先きの人を払はつせある事で御座る▲アト「夫は猶心易い、身共が相手にならう、早うして見せい▲シテ「夫ならばさあお馬が参るお馬が参る▲アト「馬場のけ馬場のけ{ト云て仕形ありシテもお馬が参るを云て舞台を一篇{*17}廻るなり口伝}{*18}何とする▲シテ「是は道に有つて邪魔で御座る、脇へのけて置きませう{ト云前に樽を取つて逃んとする時アト此しかしか云シテもしかしか云て葛桶{*19}を目付柱の方へ置て亦お馬が参るを云ふ{*20}同断口伝あり}▲アト「どう成共せい▲シテ「さあお馬が参るお馬が参る▲アト「馬場のけ馬場のけ{前に同断亦葛桶に手をかける}{*21}何とする▲シテ「こりあようつまつて御座るか▲アト「よう詰つてある▲シテ「どうやらどぶどぶする様な▲アト「果扨ようつまつてあるといふに{ト云て樽を取て元の所に置なり}▲シテ「あゝどうやらやぶさめが、いかうしにくいが、おゝ夫々的がなさぢや▲アト「はあ的がいるか▲シテ「やぶさめに的がなうて何と成る物ぢや▲アト「的はないぞよ▲シテ「是々、是を的にせう{ト云てアトの扇をひろげ貌をおゝい又廻る同断}▲アト「是が的に成るか▲シテ「是をかうしてこちらを見ずに、馬場先をうつかりと見て居さつせあれ▲アト「心得た{是より廻る同断}▲アト「何とする{ト云とき弓を射る真似をするなり}▲シテ「あゝあぶなやのあぶなやの、今の時矢をはなせば、こなたの目をほつしりと射ぬきます、扨々あぶない事で有つた▲アト「でも面白さうに有つたに依つて見た▲シテ「そちが面白うても、こちが面白う御座らぬ、こなた成るまいおかつせあれおかつせあれ▲アト「あゝこりあこりあ、其様に気短かういはず共、其後をもそつと{*22}して見せい▲シテ「でもこちらを見さつせあれては、どうもやぶさめがなりませぬ▲アト「ぢやと云ふて面白い時に見ねば堪忍がならぬは▲シテ「夫ならば面白い時は、当りといふて左右をしませう程に、夫まではこちらを見ずに、馬場末をうつかりと見ていさつせあれ{ト云て扇をかざす{*23}なり}▲アト「やい太郎冠者▲シテ「やあ▲アト「何と此米はおそい事ぢやなあ▲シテ「夫々、其米の所へ気が付に依つて、咄が面白うない、米は追付け牛につけて爰へくるわいのふ{ト云てむりに扇をかざすなり}▲アト「くるかよ▲シテ「お馬が参るお馬が参る▲アト「馬場のけ馬場のけ▲シテ「当りとな{ト云てアトを打こかすとき}▲アト「こりあ何とする▲シテ「お馬が参るお馬が参る{ト云て樽をとりて逃る}▲アト「やいやいやいそこなやつ▲シテ「やあ▲アト「そりや何とする▲シテ「之か▲アト「おんでもない事▲シテ「お馬が参るお馬が参る▲アト「なむさんぼう又してやられた{ト云て追込み入るなり}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲小アト「」がある(略す)。
 2:底本は、「行かすば」。
 3・9:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 4:底本は、「御機嫌さうて」。
 5・6:底本は、「杯(など)」。
 7・8:底本は、「誠(ぜう)」。
 10・12:底本は、「シテさし足シテ」。
 11・13・16・18・21:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 14:底本は、「仕方色々舞なり」。
 15・22:底本は、「最些(もそ)ツ度(と)」。
 17:底本は、「一辺」。
 19:底本、「葛」の字カスレ、判読困難。
 20:底本は、「お馬が参るを云を同断」。
 23:底本は、「かさす」。