空腕(そらうで)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、一人召し使ふ下人が、臆病者のくせに、空腕だてを申す。今日(こんにち)は、きつと思案を致してござるによつて、今から淀へ使ひに遣はし、様子を見ようと存ずる。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。俄かに客を得る程に、汝は大儀ながら、今から淀へ行(い)て、鯉なりとも鱸なりとも、新しからうずる肴を求めて来い。
▲シテ「畏つてはござれども、もはや今日(こんにち)は、日が暮れまする。これは、明日(みやうにち)の事になされませ。
▲アト「日が暮るれば、淀へ人を通さぬか。
▲シテ「いや、左様ではござらねども、あの道は、つゝと不用心にござつて、その上、打ち剥ぎ追ひ剥ぎなどが出まして、中々ひとりなど通らるゝ道ではござらぬ。
▲アト「汝は日頃、御馬の前で討死をも致さう。などゝ云ふが、扨は皆、空腕だてぢやな。
▲シテ「いや、それとは訳の違うた事でござる。
▲アト「まだぬかしをる。今から淀へ行かぬやつが、何の役に立つものぢや。行かうか行くまいか、まつすぐに云へ。
▲シテ「まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と待てとは。
▲シテ「畏つてござる。
{詰める。常の如し。}
▲アト「さうなうては叶はぬ事ぢや。急いで行け。
▲シテ「畏つてござれども、いかにしても丸腰では心元なうござる。何ぞ、切れ物をお貸しなされて下され。
▲アト「これは尤ぢや。貸してやらう。暫くそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「やいやい。これは、身共が重代ぢや。随分損なはぬ様にして、持つて行け。
▲シテ「心得ました。
▲アト「片時も急いで、夜通しに戻れ。
{受ける。詰める。常の如し。}
▲シテ「これはいかな事。迷惑な事を云ひ付けられた。と云うても、行かずばなるまい。誠に、こちの頼うだ人は、終にこの様な事を云ひ付けられた事はないが、今日(けふ)は何事を思ひ出して、人に迷惑をさせらるゝ事ぢや知らぬまで。いや、こゝはどこぢや。東寺か。はあ、これはもはや日が暮るゝか知らぬ。いかう暗うなつて来た。やあやあ、こりや、しきりに暗うなるわ。ほうほう。南無三宝、日がずんぶりと暮れた。さあさあ、これからが怖物(こはもの)ぢや。とかく、安穏で淀へ行き着かうとは思はれぬ。その上、怖い怖いと思へば、胴は震(ふる)ふ、足手に力はなし、ちりけ元から、ぞうぞうとつかみ立つる様な。あゝ、ご許されませ、ご許されませ。
{と云ひて、驚き逃げて下に居、}
私は、用事あつて淀へ使ひに参る者でござる。どうぞ、そこをお通しなされて下され。申し、通りませうか。ご許されますか。なぜに物を仰せられませぬ。ご許されますか。通りませうか。申し申し、こなた、誰ぢや。これはいかな事。人か人かと思うたれば、ありや、茨叢(いばらぐろ)ぢや。あゝ、世間に臆病な者も多からうが、身共が様な臆病な者は、もうひとりとはあるまい。怖い怖いと思うたれば、茨叢が人に見えた。この様な事で、中々淀へは行かれまい。これは、何としたものであらうぞ。惣じてこの、怖い怖いと思ふは何から出(づ)るぞ。と思へば、皆、心からぢや。その心は。と云へば、この目で物の色品を見て、命を惜しむによつてぢや。こりや、目を塞いで行かう。まづ、目をきつと塞いで。これこれ、かうして行けば、何も見えぬによつて、怖い事も恐ろしい事も何にもない。
{と云ひて、目を塞ぎ、正面へそろそろ出、松の木に行き留まりたる心にて、後ろへこけるなり。}
何ぢや。松の木か。あゝ、又目を塞いで行けば、物に行き当たつてひと足も歩かれぬ。これはまづ、何としたものであらうぞ。あゝ、愚かや愚か。命を捨つるからは、眼(まなこ)をきつと見開いて行く筈ぢや。さうぢや、身共は命を捨てたぞ。これこれ、この思案が最前から出(づ)れば、今まで道にはかゝらぬものを。命を捨つるからは、たとへ天魔鬼神が出たりとも、怖い事も恐しい事も何にもない。
{と云ひて、しかじか云ひて廻り、脇座の方まで行き向かうて、見て驚き、逃げ戻る。}
やあ、又向かうから、まつ黒になつて来るは、人ではないかの。さあさあ、こりや又、思案が違うた。殊になるまいは、大勢と見えて、まつ黒になつて来る。さりながら、最前も茨叢が人に見えたによつて、今度はとつくりと見定めて行かう。あれは人かの。人かと思へば人の様にもあり、又、そでない様にもあるが。人か、人でないか。よう動くぞよ。ありやありや、こちへ来るわ。あゝ、ご許されませ、ご許されませ。
{と云ひて、逃げて戻り下に居ると、主、一の松へ立ち、}
▲アト「太郎冠者を淀へ使ひへ遣はしてござる。臆病者でござるによつて、後(あと)をしたうて参り、様子を見ようと存ずる。
▲シテ「私は何も取りめのある者ではござりませぬ。用事あつて淀へ使ひに参る者でござる。どうぞ、命をお助けなされて下されい。
▲アト「さればこそ、あれに相手もないに、命を助けて下されい。とぬかしてゐ居る。
▲シテ「申し申し、なぜに物を仰せられませぬ。こゝを通りませうか。左様ならば、こゝに金飾(こがねづく)りの太刀がござる。これを上げませう程に、どうぞ命を助けて下されい。
▲アト「これはいかな事。太刀を進ぜう。などゝとぬかしてゐ居る。人にとられてはなるまい。致し様がござる。がつきめ。
{と云ひて、太刀を取つてシテの背中を叩く。シテ、「あゝ」と云ひて目を廻し、こける時に、}
まづ、帰つて様子を見ようと存ずる。
{と云ひて、主、座に付く。}
▲シテ「斬つたり斬つたり。大袈裟に斬つた。総じて、切れ物で斬つたは痛まぬものぢや。と云ふが、こりや、しびりの切れた様にもない。扨は、身共は死んだぢやまで。扨も扨も、非業の死をした事かな。総じて、冥途には六道というて、六つの途がある。これでは必ず迷ふ。と聞いた、某は、どうぞ迷はぬ様に、とくと見定めて参らう。はあ、あの向かうに見ゆる在所は、どこやらによう似た在所ぢやが。おゝ、それそれ。娑婆で見た、鳥羽によう似た在所ぢや。はて、知らぬ事の。冥途にも、鳥羽といふ在所があるかぢやまで。あれは、その儘の鳥羽ぢや。あれが又、誠の鳥羽ならば、秋の山がありさうなものぢやが。
{と云ひて、見付て驚き、立つて、}
やあ、あれに秋の山があるぞよ、すれば、身共は切られはせぬか。
{と云ひて、肩より背中をなでゝ見る。}
なうなう、嬉しや嬉しや。切られもせぬやら、血も垂らぬ。それならば、最前のお太刀がありさうなものぢやが。いやいや、お太刀は最前のいたづら者が取つて、身共が命を助けたものであらう。いやいや、太刀も刀も命には替へられぬ。まづ急いで帰つて、頼うだお方へは、身共が口調法を以つて、真(ま)つ返様(かひさま){*1}に申しなさうと存ずる。申し、頼うだお方、ござりますか。
▲アト「いや、太郎冠者が戻りをつたさうな。
{と云ふ。出る。アト、常の如し。}
えい、太郎冠者。
▲シテ「はあ。
▲アト「戻つたか。
▲シテ「只今帰りました。
▲アト「やれやれ、骨折や。して、肴を求めて来たか。
▲シテ「よう肴の段でござらうぞ。恐ろしい目に遭ひました。
▲アト「それは、心元ない。何事であつた。
▲シテ「さりながら、いかい手柄を致して参りました。
▲アト「急いで咄して聞かせ。
▲シテ「まづ、仰せ付けらるゝと、その儘参つてござるが、早、東寺で日がずんぶりと暮れました。
▲アト「さうであらうとも。
▲シテ「これからが大事ぢや。と存じて、左右へ目を配り、五、六町も参ると、早者奴(め)が四、五人出ましての。
▲アト「これはいかな事。
▲シテ「やがて言葉をかけてござる。
▲アト「何とかけた。
▲シテ「やいやい。それにゐるは、何者ぢや。身共は用心をして淀へ通る者ぢや。そこをのけ。のかぬか。と申してござれば、さすがは物師(ものし){*2}でござる。畦を伝うて、こそこそと逃げてござるによつて、さうもおりあるまい。と申して、まづ、そこは通りました。扨、上鳥羽と下鳥羽との間で、大勢に出合ひました。
▲アト「何程に出合うた。
▲シテ「およそ七、八十人、いやいや、百人もござらうか。まつ黒になつて来る。と思し召せ。
▲アト「これはいかな事。
▲シテ「これも、あの方から言葉をかけられては返答も難しい。かさにかゝつて権(けん)を取らう{*3}。と存じて、まづ、前をくわつと取りまして、お太刀の鎺(はゞき)元二、三寸抜きくつろげ、又、言葉をかけてござる。
▲アト「何とかけた。
▲シテ「やいやい。それにゐるは、打ち剥ぎ追ひ剥ぎと見たは、僻目(ひがめ)か。
▲アト「むう。
▲シテ「なう。
▲アト「出来た。
▲シテ「かう申す某は、頼うだお方の御内(みうち)に、一騎当千と呼ばるゝ太郎冠者。御用あつて淀へ通る。そこをのいて通せば良し、のかぬに於ては目に物を見する。と、大音声に申してござれば、すは、推参。と云ふわ、慮外を働くわ。と云ふ内より、六尺ばかりの大男が、五尺ばかりの太刀を抜いて、会釈もなう討つて参ると思し召せ。
▲アト「これはいかな事。
▲シテ「そこで私も、かの太刀をするりと抜き、きつと斜に構へ、討つて参るを引つぱづし、首を丁と討ち落いてござる。
{と云ひて、主の首討つ真似する。アト、怒る。}
▲アト「こりや、何とする。
▲シテ「仕方咄でござる。
▲アト「いかに仕方咄なればとて、主の首を討つ真似をするといふ事があるものか。
▲シテ「その様に仰せられては、咄がなりませぬ。まづ、お聞きなされませ。
▲アト「して何と。
▲シテ「すは、斬つたわ。狼藉をしたわ。と云ふ内より、大勢の者どもが、太刀刀を茅花(つばな)の穂の如く抜きつれて、右往左往より討つて参ると思し召せ。
▲アト「これはいかな事。
▲シテ「そこで私も、もはや逃れぬ百年目、たとへこの所で討死をするとも、頼うだお方のお名は下(くだ)すまい。と、きつと思案を極めてござれば、申し、大事の事の。
▲アト「何と。
▲シテ「私の胸は、黒鉄(くろがね)よりも強うなつたと思し召せ。
▲アト「さうであらうとも。
▲シテ「時大勢の中へ割つて入り、向かう者をば拝み討ち、大袈裟・小袈裟・車切・筒切・胴切から竹割などゝ申す者に、およそ手の下に十四、五人も切り伏せませうか。
▲アト「扨々、夥(おびたゞ)しう斬つたなあ。
▲シテ「残る者どもは、なるまい。と存じたやら、蜘蛛の子を散らすごとく、はらはらはらと逃げてござるを、やるまい。と申して、余程追うてはござれども、いやいや、駈くるも引くも時による、長追ひは無用。と存じて立ち帰り、お太刀の伸(の)りました{*4}を、大木に押し当て、しつとりしつとりと矯(た)め直し、辺りなる松が根に腰をかけ、大息ついて居る所へ、申し、難義な物をおこしました。
▲アト「何をおこした。
▲シテ「飛金(とびがね)。
▲アト「何ぢや、飛金。
▲シテ「中々。
▲アト「飛金とは、何の事ぢや。
▲シテ「それ、これ程な竹の先に、尖つた金(かね)の付いた物を、ひうひうと、いくらもおこしました。
▲アト「おのれ、それは矢の事ではないか。
▲シテ「おゝ、その矢の事でござる。
▲アト「そちは、その年になるまで、弓矢を知らぬか。
▲シテ「忘れました。
▲アト「いゝや、知らぬと見えた。
▲シテ「まづ、お聞きなされませ。
▲アト「何と。
▲シテ「これも、上へ参るを、と外し{*5}、下へ参るを躍(をど)り越え、真つ只中さいて参る矢を、切り折り切り折り致してござれば、一本も当たらばこそ。
▲アト「さうであらうとも。
▲シテ「もはや、敵の矢種も尽きましたと見えまして、今度は長道具でしかけました。
▲アト「何でしかけたぞ。
▲シテ「およそ、柄の十四、五間もござらう。大身の鎗を私が鼻の先へ、によつきによつきとおこしました。
▲アト「扨々、長い鎗であつたなあ。
▲シテ「これも、右へ参るを丁、左へ参るを丁、丁々々と切り折り切り折り致してござれば、申し、大事の事の。
▲アト「何とした。
▲シテ「お太刀に焼き切れがござつたか、但しは、大勢と戦ひました故か、お太刀の鎺元二、三寸おいて、ぽっきと折れました。
▲アト「これはいかな事。
▲シテ「そこで私も、ほうど力は落ちまする。致さう様はござらず、間近う進む小男の目と鼻との間へ、折れたお太刀をほうど投げ付けまして、後(あと)をも見ずして帰りましたが、何といかい手柄を致しませうが。
▲アト「扨々、汝はいかい手柄をした。汝が様な者は、世間にもうひとりとあるまいやい。
▲シテ「いや、世間は広い事でござるによつて、お尋ねなされたらば、ないと申す事はござりますまい。
▲アト「いやいや、何程尋ねたりとも、汝が様な者は、もうひとりとあるまい。
▲シテ「左様に思し召せば、私も大慶に存じまする。
▲アト「して、太刀の折れたは定(ぢやう)か。
▲シテ「惜しい事は、真つ二つに折れました。
▲アト「いやいや、気遣ひするな。物には幸ひのあるものぢや。汝を使ひに遣つた後で、去る方から太刀を売りに来て、求めて置いた、見せう程に、暫くそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。まづ、これ程までには云うたが。
{と云ふ内、アト、太刀を持ち、出る。}
▲アト「やいやい、太郎冠者。これを見よ。
▲シテ「これは、結構さうな太刀でござる。
▲アト「手へ取つて、篤(とく)と見よ。
▲シテ「畏つてござる。
{と云ひて、受け取り、見て大いに驚く。}
▲アト「定めてあれを見たらば、肝をつぶすでござらう。
▲シテ「これはいかな事。何としてこの太刀が戻つた知らぬ。扨々、合点の行かぬ事ぢや。
▲アト「太郎冠者、太郎冠者、やい、太郎冠者。
▲シテ「やあ。
▲アト「汝は、その太刀を見知つて居るか。
▲シテ「見知りは致しませぬが、結構さうなお太刀でござる。
▲アト「見知らうがな。
▲シテ「いゝや。
▲アト「おこしをらう。扨々、憎いやつの。云はせて置けば、方領もない事をぬかしをる。おのれが臆病者を知つてゐるによつて、後をしたうて見たれば、上鳥羽と下鳥羽との間で、相手もないに、命を助けて下されいの、この太刀を進じませう。などゝぬかしてゐ居つたによつて、人に取られてはなるまい。と思うて、太刀を取つて、おのれが背中を打擲したれば。
▲シテ「あゝ、目がまう、目がまう。
▲アト「それそれ、それ程の事にさへ目鼻を廻すやつが、何の空腕だてを。
▲シテ「いや、さうも仰せられな。落武者は、薄(すゝき)の穂にさへ怖(お)づる。と申す譬へがござる。
▲アト「まづ、そのつれであつたによつて、太刀は身共が取つて来た。折れたが定か、折れぬが定か。真つすぐに云へ。
▲シテ「まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と待てとは。
▲シテ「成程、お太刀は折れましたが、それについて、おめでたい事を思ひ出しました。
▲アト「それは、何事ぢや。
▲シテ「追つ付け御立身をなされて、御普請をなされう御瑞相に、折れた太刀も癒(い)え合ひまして、私より先へ戻つたものでござらう。
▲アト「あのやくたいもない。しさりをれ。
{と云ひて、常の如く留めて入るなり。又、追ひ込みにする事もあり。}

校訂者注
 1:「真(ま)つ返様(かひさま)」は、「まっさかさま。真逆」の意。
 2:「物師(ものし)」は、「手慣れた人。巧者」の意。
 3:「権(けん)を取る」は、「力で他を圧倒する」意。
 4:「伸(の)る」は、「そり返る」意。
 5:本来であれば、ト書きで{矢をかわす仕方あり}などとあるべき所であろう。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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空腕(ソラウデ)(二番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、某一人召使う下人が、臆病者のくせに空腕だてを申す、今日は屹度思案を致して御座るに依つて、今から淀へ使に遣はし、様子を見ようと存ずる{ト云て呼出す出るも如常}{*1}汝呼出す別の事でない、俄かに客を得る程に、汝は大儀ながら今から淀へいて、鯉なり共鱸なり共、あたらしからうずる肴を求めてこい▲シテ「畏つては御座れども、最早今日は日がくれまする、是は明日の事になされませ▲アト「日がくるれば淀へ人を通さぬか▲シテ「いや左様では御座らね共、あの道はつつと不用心に御座つて、其上打はぎ追はぎ抔が出まして、中々独り抔通らるゝ道では御座らぬ▲アト「汝は日頃お馬の前で討死をも致さう抔といふが、扨は皆空腕だてぢやな▲シテ「いや夫とは訳の違うた事で御座る▲アト「まだぬかしおる、今から淀へゆかぬやつが、何の役に立つ者ぢや、ゆかうか行くまいか、まつすぐにいへ▲シテ「先お待ち被成ませ▲アト「何とまてとは▲シテ「畏つて御座る{つめる如常}▲アト「さうなうては叶はぬ事ぢや、急いで行け▲シテ「畏つて御座れ共、いかにしても丸腰では心元なう御座る、何んぞ切れ物をおかし被成て下され▲アト「是は尤ぢや貸てやらう、しばらく夫にまて▲シテ「畏つて御座る▲アト「やいやい、是は身共が重代ぢや、随分そこなはぬようにして持つてゆけ▲シテ「心得ました▲アト「片時も急いで夜通しに戻れ{請るつめる如常}▲シテ「是はいかな事、迷惑な事をいひ付られた、といふても行かずばなるまい、誠に、こちの頼うだ人は、終に此様な事をいひ付られた事はないが、けふは何事を思ひ出して、人に迷惑をさせらるゝ事ぢやしらぬ迄、いや爰はどこぢや、東寺か、はあ是は最早日がくるゝかしらぬ、いかうくらうなつて来た、やあやあ、こりや頻に暗うなるは、ほうほう、南無三宝日がずんぶりとくれた、さあさあ、是からがこわ物ぢや、兎角安穏で淀へ行き着かうとは思はれぬ、其上怖い怖い{*2}とおもへば胴はふるう、足手に力はなし、ちりけ元からぞうぞうとつかみたつるやうな、あゝごゆるされませごゆるされませ{ト云て驚き逃て下に居}私は用事あつて淀へ使に参る者で御座る、どうぞそこをお通し被成て下され、申し通りませうか、ごゆるされますか、なぜに物を仰られませぬ、ごゆるされますか、通りませうか、申し申し、こなた誰ぢや、是はいかな事、人か人かと思ふたれば、ありやいばら黒ぢや、あゝ世間に臆病な者もおゝからうが、身共が様な臆病な者は最独りとは有るまい、こわいこわいと思ふたれば、いばら黒が人に見えた、此様な事で中々淀へは行かれまい、是は何としたもので有らうぞ、惣じて此こわいこわいと思ふは何からずるぞと思へば、皆心からぢや、其心はと云へば、此目で物の色品を見て命をおしむに依つてぢや、こりや目をふさいで行かう、先目を屹度ふさいで、是々かうして行けば、何も見へぬに依つて、こわい事もおそろしひ事もなんにもない{ト云て目をふさぎ正面へそろそろ出松の木に行き留りたる心にてうしろへこけるなり}何ぢや、松の木か、あゝ又目をふさいでゆけば、物に行当つて一ト足もあるかれぬ、是は先何とした者であらうぞ、あゝおろかやおろか、命をすつるからは、まなこを屹度見ひらいてゆく筈ぢや、そうぢや、身共は命を捨たぞ、是々此思案が最前からずれば、今迄道にはかゝらぬものを命を捨つるからは、たとへ天魔鬼神が出たりとも、こわい事も恐しい事もなんにもない{と云てしかしか云て廻り脇座の方迄行き向ふて見て驚き逃げ戻る}{*3}やあ、又向うからまつ黒になつてくるは、人ではないかの、さあさあ、こりや又思案が違うた、殊に成まいは大勢と見へて、まつ黒になつて来る、去り乍ら、最前もいばら黒が人に見えたに依つて、今度はとつくりと見定めて行かう、あれは人かの、人かと思へば人のやうにもあり、又そでない様にもあるが、人か人でないか、よううごくぞよ、ありやありや、こちへくるは、あゝごゆるされませごゆるされませ{ト云て逃て戻り下に居ると主一の松へたち}▲アト「太郎冠者を淀へ使へ遣はして御座る、臆病者で御座るに依つて、跡をしたうて参り様子を見ようと存ずる▲シテ「私は何も取りめのある者では御座りませぬ、用事あつて淀へ使に参る者で御座る、どうぞ命をおたすけ被成て下されい▲アト「さればこそ、あれに相手もないに命を助て下されいと、ぬかしてゐをる▲シテ「申し申し、なぜに物を仰せられませぬ、爰を通りませうか、左様ならばこゝに金飾の太刀が御座る、之を上げませう程に、どうぞ命を助けて下されい▲アト「是はいかな事、太刀を進ぜう抔とぬかしてゐ居る、人にとられては成まい、致し様が御座る、がつきめ{ト云て太刀を取つてシテの背中をたゝくシテあゝと云て目をまわしこけるときに}{*4}先帰つて様子を見ようと存ずる{ト云て主座に付く}▲シテ「斬つたり斬つたり大げさに斬つた、総じて切れ物で斬つたはいたまぬ物ぢやといふが、こりやしびりの切れた様にもない、扨は身共はしんだぢやまで、扨も扨も非業の死をした事かな、総じて冥途には六道といふて六つの途がある、是では必ずまようときいた、某はどうぞまよはぬ様に、とくと見定めて参らう、はあ、あの向うに見ゆる在所はどこやらによう似た在所ぢやが、おゝ夫々、しやばで見た鳥羽によう似た在所ぢや、果知らぬ事の、冥途にも鳥羽といふ在所があるかぢやまで、あれは其儘の鳥羽ぢや、あれが又誠の鳥羽ならば、秋の山が有さうな物ぢやが{ト云て見付て驚き立つて}やあ、あれに秋の山があるぞよ、すれば身共はきられはせぬか{ト云て肩よりせなかをなでゝ見る}のふのふ嬉しや嬉しや、切られもせぬやら血もたらぬ、夫ならば最前のお太刀がありそうな物ぢやが、いやいや、お太刀は最前のいたづら者が取つて、身共が命を助けた物であらう、いやいや太刀もかたなも命にはかへられぬ、先急いで帰つて頼うだお方へは身共が口調法を以つてまつかいさまに申しなさうと存ずる、申し頼うだお方御座りますか▲アト「いや太郎冠者が戻りおつたさうな{ト云ふ出るアト如常}{*5}えい太郎冠者▲シテ「はあ▲アト「戻つたか▲シテ「唯今帰りました▲アト「やれやれ骨折や、して肴を求めて来たか▲シテ「よう肴の段で御座らうぞ、おそろしい目にあいました▲アト「夫は心元ない何事で有つた▲シテ「去り乍ら、いかい手柄を致して参りました▲アト「急いで咄して聞かせ▲シテ「先仰付らるゝと其儘参つて御座るが、早や東寺で日がずんぶりとくれました▲アト「そうで有らう共▲シテ「是からが大事ぢやと存じて、左右へ目を配り五六町も参ると、早者奴が四五人出ましての▲アト「是はいかな事▲シテ「頓て言葉をかけてござる▲アト「何とかけた▲シテ「やいやい、夫にゐるは何者ぢや、身共は用心をして淀へ通る者ぢや、そこをのけ、のかぬかと申して御座れば、流石は物しで御座る、畦をつたうてこそこそと逃て御座るに依つて、そうもおりあるまいと申して、先そこは通りました、扨上鳥羽と下鳥羽との間で大勢に出合ひました▲アト「何程に出合うた▲シテ「凡七八十人いやいや百人も御座らうか、まつ黒に成つて来ると思し召せ▲アト「是はいかな事▲シテ「是もあの方から言葉をかけられては返答も六ケ敷い、かさにかゝつてけんを取らうと存じて、先前をくわつと取りまして、お太刀の[金祖]{*6}元二三寸抜くつろげ、又言葉をかけて御座る▲アト「何とかけた▲シテ「やいやい夫にゐるは打はぎ追剥と見たはひが目か▲アト「ムウ▲シテ「ノウ▲アト「出来た▲シテ「かう申す某は、頼うだお方の御内に一ツ騎当千と呼るゝ太郎冠者、御用あつて淀へ通る、そこをのいて{*7}通せばよし、のかぬに於ては目に物を見すると、大音声に申して御座れば、すは推参といふは慮外をはたらくはといふ内より六尺計の大男が{*8}、五尺計の太刀を抜いて、ゑしやくもなう討つて参ると思し召せ▲アト「是はいかな事、▲シテ「そこで私も彼の太刀をするりと抜き、屹度しやに構へ{*9}、討つて参るを引ぱづし、首を丁と討落て御座る{ト云て主の首討つ真似するアトいかる}▲アト「こりや何とする▲シテ「仕方咄で{*10}御座る▲アト「いかに仕方咄なればとて、主の首を討つ真似をするといふ事が有る物か▲シテ「其様に仰られては、咄がなりませぬ、先おきゝ被成ませ▲アト「して何と▲シテ「すは斬つたは狼藉をしたはと、云ふ内より大勢の者共{*11}が太刀刀をつばなの穂の如く、抜きつれて、右往左わうより討つて参ると思し召せ▲アト「是はいかな事▲シテ「そこで私も最早のがれぬ百年目、たとへ此所で討死をする共頼うだお方のお名は下だすまいと、屹度思案を極めて御座れば、申し大事の事の▲アト「何と▲シテ「私の胸は黒がねよりも強うなつたと思し召せ▲アト「さうで有らう共▲シテ「時大勢の中へ割つて入り、向う者をばおがみ討、大袈裟小袈裟車切筒切胴切から竹割抔{*12}と申す者に、凡そ手の下に十四五人も切伏せませうか▲アト「扨々おびたゞしう斬つたなあ▲シテ「残る者共は成まいと存じたやら、蜘蛛の子をちらすごとくはらはらはらとにげて御座るを、やるまいと申して余程追ふては御座れ共、いやいや、かくるも引も時による、長追ひは無用と存じて立帰り、お太刀ののりましたを大木に押あて、しつとりしつとりとため直し、辺りなる松が根に腰をかけ大いきついて居る所へ、申し難義な物をおこしました▲アト「何をおこした▲シテ「とびがね▲アト「何ぢや飛金▲シテ「中々▲アト「飛金とは何の事ぢや▲シテ「夫れ是程な竹の先きに尖つたかねのついた物を、ひうひうといくらもおこしました▲アト「おのれ夫は矢の事ではないか▲シテ「おゝ其矢の事で御座る▲アト「そちは其年に成る迄弓矢を知らぬか▲シテ「わすれました▲アト「いゝや知らぬと見へた▲シテ「先お聞きなされませ▲アト「何と▲シテ「是も上へ参るをとはづし{*13}下たへ参るを踊りこへ、真つ唯中さいて参る矢を切折々々致して御座れば、一本もあたらばこそ▲アト「そうで有らう共▲シテ「最早敵の矢種もつきましたと見へまして、こんどは長道具でしかけました▲アト「何でしかけたぞ▲シテ「凡柄の十四五間も御座らう、大身の鎗を私が鼻の先へ、によつきによつきとおこしました▲アト「扨々長い鎗で有つたなあ▲シテ「是も右へ参るを{*14}丁、左へ参るを丁、丁々々と切折切折致して御座れば、申し大事の事の▲アト「何とした▲シテ「お太刀に焼ぎれが御座つたか、但しは大勢とたゝかひましたゆへか、お太刀の[金祖]{*15}元二三寸おいてぽっきと折れました▲アト「是はいかな事▲シテ「そこで私もほうどちからは落まする、致さう様は御座らず、間近かうすゝむ小男の目と鼻との間へ、折れたお太刀をほうどなげつけまして、跡をも見ずして帰りましたが、何といかい手柄を致しませうが▲アト「扨々汝はいかい手柄をした、汝が様な者は世間に最独りと有るまいやい▲シテ「いや世間は広い事で御座るに依つて、お尋ねなされたらば、ないと申す事は御座りますまい▲アト「いやいや何程尋ねたりとも、汝が様な者は最独りと有るまい▲シテ「左様に思し召せば私も大慶に存じまする▲アト「して太刀の折れたは定{*16}か▲シテ「おしひ事は真つ二つに折れました▲アト「いやいや気遣いするな、物には幸ひのある物ぢや、汝を使にやつた跡で、去る方から太刀を売に来て求めておいた、見せう程に暫らく夫にまて▲シテ「畏つて御座る、先是程迄にはいふたが{ト云内アト太刀を持ち出る}▲アト「やいやい太郎冠者是を見よ▲シテ「是は結構さうな太刀で御座る▲アト「手へ取つてとくと見よ▲シテ「畏つて御座る{ト云て請とり見て大いにをどろく{*17}}▲アト「定めてあれを見たらば肝をつぶすで御座らう▲シテ「是はいかな事、何として此太刀が戻つたしらぬ、扨々合点の行かぬ事ぢや▲アト「太郎冠者、太郎冠者、やい太郎冠者▲シテ「やあ▲アト「汝は其太刀を見知つて居るか▲シテ「見知りは致しませぬが、結構さうなお太刀で御座る▲アト「見知らうがな▲シテ「いゝや▲アト「おこしおらう、扨々憎いやつの、いはせておけば方領もない事をぬかしおる、おのれが臆病者を知つてゐるに依つて、跡をしたうて見たれば、上鳥羽と下鳥羽との間で、相手もないに命を助けて下されいの、此太刀を進じませう抔と、ぬかしてゐ居つたに依つて、人に取られては成まいと思ふて、太刀を取つてをのれが背中をちやうちやくしたれば▲シテ「あゝ目がまう目がまう▲アト「夫々、夫程の事にさへ目鼻をまはすやつが、何の空腕だてを▲シテ「いやさうも仰られな、落武者はすゝきの穂にさへおづると申す例へが御座る▲アト「真つ其つれで有つたに依つて、太刀は身共が取つて来た、折れたが定{*18}か折れぬが定{*19}か、真つすぐにいへ▲シテ「先お待ち被成ませ▲アト「何とまてとは▲シテ「成程お太刀は折れましたが、夫についてお目出たい事を思ひ出しました▲アト「夫は何事ぢや▲シテ「追付御立身を被成て、御普請を被成れう御瑞相に、折れた太刀もいへ合まして、私より先へ戻つた物で御座らう▲アト「あのやくたいもない、しさりおれ{ト云て如常留て入なり亦追込みにする事もあり{*20}}

校訂者注
 1・4・5:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 2:底本は、「強(こは)い(二字以上の繰り返し記号)」。
 3:底本は、「▲アト「」。「▲シテ「」の誤り(略す)。
 6・15:底本「[金祖(はゞき)]」は一字。「Windowsメモ帳」で表示不可能。
 7:底本は、「のいで」。
 8:底本は、「大男か」。
 9:底本は、「搆へ」。
 10:底本は、「仕方咄して」。
 11:底本は、「大勢の者供」。
 12:底本は、「杯(など)」。
 13:「とはづし」は、底本のまま。或いは「取(と)つ外(ぱづ)し」の略か。
 14:底本は、「右へ参ると丁」。
 16・18・19:底本は、「誠(ぜう)」。
 17:底本は、「をどろ(二字以上の繰り返し記号)」。
 20:底本は、「する事もある」。