杭か人か(くひかひとか)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、一人召し遣ふ下人が、身共が留守になれば片時も内に居ぬ。と申す。されども、人の申す事なれば、折檻も致されぬ。何とぞ今晩はたばかつて、様子を見届けう。と存ずる。
{常の如く、呼び出す。}
汝呼び出す、別の事でない。何とこの中(ぢゆう)、方々の御参会は、夥(おびたゞ)しい事ではないか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、打ち続きました事でござる。
▲アト「又、今宵も近所へ振舞ひに行く。よう留守をせい。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「扨、改めて云ふには及ばぬが、奥は皆、女わらべの事なり。すは。と云へば、そち一人(いちにん)ぢや。身共が留守に外へ出たらば、きつと云ひ付ける。随分、大事にせい。
▲シテ「これは、御意とも覚えませぬ。お前のお留守に、何しに外へ出ませうぞ。その段は、そつともお気遣ひなされますな。
▲アト「それならば、もはや行くぞ。
▲シテ「やがてお帰りなされませ。
▲アト「心得た。
▲シテ「出られた。扨々、この中(ぢゆう)、あなたこなたのお振舞ひ・御参会は、打ち続いた事ぢや。あれ程、頼うだお方の内にばかりござつたらば、身も骨も続く事ではあるまいぞ。総じて、高いも低(ひき)いも、宮仕へ程、辛労なものはござらぬ。さりながら、非番の時には、小宿へ参つて休息をし、又お留守の内は、そつと外へ出て御酒(ごしゆ)などを給べ、相応の心楽しみを致いてこそ、命も続いて勤まつたものぢや。さもなうて、中々奉公がなりさうなものではない。扨、最前、頼うだ人のいつに変つて、お留守の事をきつと云ひ付けられた。但し、いつもお留守に身共が外へ出る事を、誰そ申し上げたかぢやまで。何とやら、気味の悪い云ひ様であつた。とかく、今宵は外へは出られまい。是非に及ばぬ、お留守をするぢやまで。
▲アト「さればこそ、最前から立ち聞きをしてゐれば、人の云ふに少しも違(たが)はぬ。扨々、憎い事かな。あの体(てい)なれば、定めて今宵は出ぬであらう。されども、屋敷の辺りを離れずに、今夜の様子を見届けう。と存ずる。
▲シテ「誠に人は、悪う癖を附けうものではない。頼うだお方のお留守に、終に内に居た事がない。今夜ばかりじつとしてゐれば、足がうぢようぢよして、とかく心が落ち付かぬ。いちやが所までは近い。ちよつと行(い)て来うか。いやいや、わづか一夜の事をえ堪(こら)へぬと云ふは、卑怯な事ぢや。お留守ぢやと思ふによつて悪い。御内(みうち)にござると思うて堪へう。さうぢや、まづ下にゐて、と。あゝ、ざつと良い。かう思へば済むものを、よしない物思ひをした。扨、今宵は、頼うだ人はどれへお出なされたぞ。定めて今時分は、御酒最中であらう。諷(うた)ひつ舞ひつ、さぞ面白からう。いやいや、毎夜毎夜の事ぢや程に、それ程にも思し召すまい。結句、身共等がたまたま小宿へ参つての楽しみが、七賢にも勝つた事ぢや。あゝ、又由(よし)ない事を思ひ出して、いかう淋しうなつた。はて、気の毒な。何とせうぞ。いや、この様にして居ようより、寝たがましであらう。まづ、横にならう。扨も、楽やの楽やの。世の中に、寝る程楽はなきものを、知らぬうつけが起きて働く。あゝ、面白い面白い。
{こゝにて謡あるべし。口伝。}
枕勝手悪いは、寝られぬものぢや。寝返りを致さう。
{又、謡あるべし。}
何(いづ)れ、ものは思ふ様にならぬ。何ぞ御用を仰せ付けられて、善悪起きて居ねばならぬと云ふ時は、是非に目があかぬ。今又、ひと寝入りせうと思へば、色々にしても寝られぬ。気晴らしに、ちと外へ出て来たらば良からうか。いや、思ひ出した。お留守を大事にせい。と仰せ付けられた程に、幸ひの事ぢや、用心のため、お屋敷の外を夜廻り致さう。まづ、棒を取つて来て。これこれ、外へ出れば気が晴るゝ。扨も扨も、晴れりとした。この体(てい)を、もし人が見て、頼うだお方へ申し上げても、云ひ訳がある。いや、隣の窓の内に、夥(おびたゞ)しい灯(とも)し火の影が見ゆる。あれは、誰(た)そ起きてゐるか。夜更けては、余りな事ぢや。いざ、咎めう。しゝ申し。こなたの窓の内に、夥しい灯(ひ)の光が見えまする。用心時でござるが、誰そ起きてござるか。これはいかな事。物をも云はず、灯(ひ)を消した。扨は、寝て居たものであらう。扨々、不用心な事ぢや。扨、今宵の暗さといふ事は、雨が近いやら、星が一つもない。正真(しやうじん)の闇の夜といふは、今宵の事ぢや。いや、某は、ふと気晴らしに出たが、この様な事を思うては、たとへ頼うだお方がお留守でない。と云うても、今からちと夜廻りを致さう、その上、この辺りは常々物淋しいによつて、折節、いたづら者が徘徊せまいものでもない。あつぱれ、今宵は何者ぞ居らいで。この棒で、物をも云はせず打つて打つて、生けては帰すまいになあ。いや、人によつては、闇の夜は化け物でも出ようか。と思うて歩(あり)きにくいの、いや、雷は嫌いぢやの、光るを見れば目がまう。などゝ云ふ臆病者が多いが、身共は終に、物を怖いと思うた事がない。それで、友達どもが申すは、尤男に生まれて、健気なは良けれども、もし喧嘩などを仕出かさうかと思うて案ずる。と云うて異見をするによつて、随分嗜めども、只心が横着で気の毒ぢや。なう、悲しや。何やらあそこにあるぞよ。あれは、何ぢや。人ではないか。人ならば、声を掛くるか、身共を見たらば逃げさうなものぢやが。あゝ、胸がだくだくする。心で心を嗜めども、胴が震(ふる)うて、ちり毛もとからぞうぞうとする。何ぢやぞ、昼見れば、御内(みうち)の女が洗ひ物をして居たが、それをあそこに干して置いたかぢやまで。夜まで干して置かう様もない。又、あの辺りに古木の杭があつたかと思ふが、その杭かぢやまで。何を云うても、暗いによつて見ゆる事ではない。透かして見れば、人の様にもあり、又、杭の様にもある。但し、干し物か。この棒の先でいらうて見たいが。もし、人なれば、どの様な事をしようも知れぬ。一向、声を立てゝ、松明・篝を出させて吟味をせうか。人なれば良けれども、もし、むさとした物に大勢人を集むるも、外聞の悪い事ぢや。さうぢや。男の心は太うても太かれ。と云ふ。命を捨つると思うて、この棒で突いて見よう。気味の悪い事ぢやが。人か、杭か。杭か、人か。
▲アト「杭、杭。
▲シテ「杭、杭。さればこそ、杭であつた。その筈ぢや。人ならば、最前から黙つては居ぬ筈ぢや。まづ、安堵した。よい肝をつぶした事かな。あの様な物は、重ねても見違へれば悪い。この棒で打ち込うで置かう。又、打ち折つてなりとも仕舞はう。
▲アト「やい、そこなやつ。扨も扨も、うつけたやつの。
▲シテ「頼うだ人か。
▲アト「まだぬかし居る。おのれ、主の声を聞き忘れたか。
▲シテ「でも、杭、杭。と仰せらるゝによつて、杭か。と存じました。
▲アト「おのれ、古木の杭が、物を云うてよいものか。その上、立ち聞きをしてゐれば、いつも留守には外へ出て、内をあけ居る。重々、憎いやつぢや。
▲シテ「用心時ぢやによつて、夜廻りを致します。
▲アト「あの臆病者が、何の役に立つものぢや。この棒で、たつた一と打ちにせうぞ。
▲シテ「あゝ、ご許されませ、ご許されませ。
{と云ひて、逃げて入るなり。後より棒にて追ひ込む。}

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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杭か人か(クイカヒトカ)(二番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、某一人召遣う下人が、身共が留守になれば、片時も内に居ぬと申す、去れ共人の申す事なれば折檻も致されぬ、何卒今晩はたばかつて、様子を見届うと存ずる{如常呼出}{*1}汝呼出す別の事でない、何と此中方々の御参会は、おびたゞしい事ではないか▲シテ「御意被成るゝ通り、打続ました事で御座る▲アト「又今宵も近所へ振舞に行く、よう留守をせい▲シテ「畏つて御座る▲アト「扨あらためていふには及ばぬが、奥は皆女わらべの事なり、すわといへばそち一人ぢや、身共が留守に外へ出たらば屹度云ひ付ける、随分大事にせい▲シテ「是は御意共覚へませぬお前のお留守に、何しに外へ出ませうぞ、其段は卒ツ都もお気遣ひ被成ますな▲アト「夫ならば最早行くぞ▲シテ「頓てお帰り被成ませ▲アト「心得た▲シテ「出られた、扨々此中あなたこなたのお振舞御参会は、打続いた事ぢや、あれ程頼うだお方の内に計り御座つたらば、身も骨もつゞく事では有まいぞ、総じて高いもひきいも宮仕程辛労な者は御座らぬ、去り乍ら非番の時には、小宿へ参つて休息をし、又お留守の内はそつと外へ出て御酒抔{*2}を給べ、相応の心楽みを致てこそ命も続いて勤つたものぢや、さもなうて中々奉公が成りさうなものではない、扨最前頼うだ人のいつに変つて、お留守の事を屹度いひ付けられた、但いつもお留守に身共が外へ出る事を誰そ申し上げたかぢや迄、何とやら気味のわるい云ひ様で有ツた、兎角今宵は外へは出られまい是非に及ばぬお留守をするぢや迄▲アト「去ればこそ最前から立聞をしてゐれば、人の云ふに少しもたがはぬ、扨々憎ひ事かな、あの体なれば定めて今宵は出ぬで有らう、去れ共屋敷の辺りを放れずに、今夜の様子を見届けうと存ずる▲シテ「誠に人は悪うくせを附けうものではない、頼うだお方のお留守に、終に内に居た事がない、今夜計りじつとしてゐれば、足がうぢようぢよして兎角心が落付かぬ、いちやが所迄は近い、鳥渡いてかうか、いやいや、わづか一夜の事を得堪へぬと云ふはひきやうな事ぢや、お留守ぢやと思ふに依つてわるい、御内に御座ると思ふて堪えう、そうじや、先づ下にゐてと、あゝざつとよい、かう思へば済む物を、よしない物思ひをした、扨今宵は頼うだ人は、どれへお出被成たぞ、定めて今時分は御酒最中で有らう、諷ツ舞ツ嘸面白からう、いやいや、毎夜毎夜の事ぢや程に、それ程にも思し召すまひ、結句身共等がたまたま小宿へ参つての楽が、七賢にもまさつた事ぢや、あゝ又よし無い事を思ひ出して、いかう淋敷う成つた、はて気の毒な、何とせうぞ、いや此様にして居ようより寝たが増で有らう、先横に成らう、扨も楽やの楽やの、世の中にねる程楽はなき物を、知らぬうつけがおきて働く、あゝ面白い面白い{爰にて謡あるべし口伝}枕勝手わるいはねられぬ物ぢや、ねがへりを致さう{亦謡可有}何れ物は思ふ様にならぬ、何ぞ御用を仰せ付けられて、善悪おきて居ねばならぬと云ふ時は是非に目が明かぬ、今又一ト寝入せうと思へば、種々にしても寝られぬ、気晴らしにちと外へ出て来たらばよからうか、いや思ひ出した、お留守を大事にせいと仰せ付けられた程に、幸ひの事ぢや用心の為、お屋敷の外を夜廻り致さう、先づ棒を取ツて来て、是々外へ出れば気がはるゝ、扨も扨もはれりとした、此体を若し人が見て頼うだお方へ申し上げても云ひ訳がある、いや隣の窓の内におびたゞしひ灯火の影が見ゆる、あれはたそ起きてゐるか、夜更ては余りな事ぢや、いざとがめう、シゝ申し、こなたの窓の内に夥しい灯の光が見へまする、用心時で御座るが誰そおきて御座るか、是はいかな事、物をもいはず灯を消した、扨は寝て居たもので有らう、扨々不用心な事ぢや、扨今宵のくらさといふ事は、雨が近いやら星が一ツもない、正真{*3}の暗の夜といふは今宵の事ぢや、いや某は不図気晴らしに出たが、此様な事を思ふては、たとへ頼うだお方がお留守でないと云ふても、今からちと夜廻りを致さう、其上此辺りは常々物淋敷に依つて、折節いたづら者がはいくわいせまい物で{*4}もない、天晴今宵は何者ぞおらいで、此棒で物をもいはせず、打ツて打ツて生けては帰すまいになあ、いや人に依つては、闇の夜は化物でも出やうかと思ふて、ありきにくいの、いや雷は嫌いぢやの、光るを見れば目がまうなどゝ云ふ、臆病者がおゝいが、身共は終に物をこはいと思ふた事がない、夫で友達共が申すは、尤男に生れて健気なはよけれ共、若し喧嘩抔{*5}を仕出かさうかと思うて、案ずると云ふて、異見をするに依つて、随分たしなめ共、只心が横着で気の毒ぢや、のうかなしや何やらあそこに有るぞよ、あれは何ぢや、人ではないか、人ならば声を掛るか、身共を見たらば逃さうな者ぢやが、あゝ胸がだくだくする、心で心をたしなめ共、胴がふるうて、ちり毛もとからぞうぞうとする、何ぢやぞ、昼見れば御内の女が洗物をして居たが、其をあそこに干して置いたかぢや迄、夜まで干して置かう様もない、又あの辺りに古木の杭が有つたかと思ふが、其杭かぢや迄、何をいふてもくらいに依つて見ゆる事ではない、すかして見れば人の様にも有り、又杭の様にも有る、但干し物か{*6}、此棒の先でいらうて見たいが、若し人なればどの様な事をしやうも知れぬ、一向声を立て松明{*7}篝を出させて吟味をせうか、人なればよけれ共、若し無差とした物に、大勢人を集むるも外聞のわるい事ぢや、さうじや、男の心はふとうても太かれと云ふ、命を捨ると思ふて、此棒で突て見やう、気味の悪い事ぢやが、人か杭か杭か人か▲アト「くいくい▲シテ「杭々、去ればこそ杭で有つた、其筈ぢや、人ならば最前からだまつては居ぬ筈ぢや、先づ安堵した、よい肝をつぶした事かな、あの様な物は重ねても見違れば悪い、此棒で打込で置かう、又打折つて成共仕まわう{*8}▲アト「やいそこなやつ、扨も扨もうつけたやつの▲シテ「頼うだ人か▲アト「まだぬかし居る、おのれ主の声を聞き忘れたか▲シテ「でも杭々と仰せらるゝに依つて、杭かと存じました▲アト「おのれ古木の杭が物をいふてよい物か、其上立聞をしてゐれば、毎も留守には外へ出て内をあけ居る、重々憎いやつぢや▲シテ「用心時ぢやに依つて夜廻りを致します▲アト「あの臆病者が何の役に立つ物ぢや、此棒でたつた一と打ちにせうぞ▲シテ「あゝごゆるされませごゆるされませ{と云てにげて入なり跡より棒にて追ひ込}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 2・5:底本は、「杯(など)」。
 3:底本は、「正身(しやうじん)」。
 4:底本は、「物てもない」。
 6:底本は、「但(たゞし)干(ほ)し物が」。
 7:底本は、「明松(たいまつ)」。
 8:底本は、「打折らて成共仕まわう」。