お冷(おひやし)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。この中(ぢゆう)は、殊の外の暑気でござる。今日(けふ)は、どれへぞ涼みに参らうと存ずる。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。}
この中(ぢゆう)は、別して暑気が強い。今日(けふ)は、どれぞへ涼みに出うと思ふが、何とあらう。
▲シテ「御意もなくば、申し上げうと存じてござる。一段と良うござりませう。
▲アト「それならば、どこへ行かうぞ。
▲シテ「されば、どれが良うござりませうぞ。
▲アト「どれが良からうなあ。
▲シテ「どれこれと仰せられうより、東山辺が良うござりませう。
▲アト「東山にとつても、どこ元が良からうなあ。
▲シテ「御参詣かたがた、清水へお出になり、滝の下でお涼みなされたらば、良うござりませう。
▲アト「これは良からう。それならば、さあさあ来い来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「扨、何と思ふ。時分柄とは云ひながら、別して当年の様な、強い暑気はあるまいなあ。
▲シテ「仰せらるゝ通り、当年の様な、強い暑気は覚えませぬ。
▲アト「いや、何かと云ふ内に、清水の西門ぢや。
▲シテ「左様でござる。
▲アト「まづ、お前へ参らうか。但し、滝へ下りて涼まうか。
▲シテ「いや、まづ滝へお出なされて、お手水でもお遣ひなされて、その上本堂へお参りなさるゝが、良うござりませう。
▲アト「これは尤ぢや。さあさあ、来い来い。何と思ふぞ。外へ出れば、気の晴るゝ故か、内にゐるより格別涼しいなあ。
▲シテ「中々。草木の色を見はらしまして、暑さを忘れまする。
▲アト「これこれ、滝へ来た。扨も扨も、清々と見事な滝ぢやなあ。
▲シテ「潔い事でござる。
▲アト「あれへ行(い)て、お冷しを掬(むす)んで来い。
▲シテ「何がどうぢや。と仰せられます。
▲アト「いや、あの滝のお冷しを掬んで来い。と云ふ事ぢや。
▲シテ「あの滝の水を汲んで来い。と仰せらるゝ事か。
▲アト「中々。
▲シテ「水ならば水汲め。で良い事を、お冷しを掬べ。
{と云ひて、笑ふ}
▲アト「それは、汝が何も知らぬによつてぢや。皆、上々(うへうへ)や又、内裏方の上臈達は、お冷しを掬ぶ。とこそ仰せらるれ、水を汲む。などゝは仰せられぬ。そちも、今から云ひ習へ。
▲シテ「尤、上々の上臈達や児若衆などは、お冷しとも掬ぶとも仰せられうが、お前のその大きな口から、お冷しを掬べ。
{と云ひて、笑ふ}
▲アト「扨々、さもしい事を云ふ。とかく、華奢な事は、云ひ習ふものぢや。
▲シテ「まだそのつれな事を仰せらるゝ。こゝに、物語がござる。語つて聞かせませう。昔、鳥羽の院の御時、佐藤兵衛則清と云つし人、浮世を厭ひ、元結を切り、その名を西行法師と名付く。かの西行、諸国を修行して、ある時、近江の国・醒井(さめがゐ)の宿に着き給ふ。頃は、水無月半ばの事なりしに、麦の水粉といふ物を参らんと、頭陀袋より取り出し給ふ所に、折節、川風烈しくして、水粉をぱつと吹き散らす。その時、西行の御歌に、頼みつる、麦粉は風に誘はれて、今日(けふ)醒井の水をこそ飲め。と、かやうに詠まれてこそ候へ。やはか、お冷しを掬ぶとは承らず候ふ。
▲アト「それに待て。これはいかな事。太郎冠者と、ふと争うて、はつたと詰まつた。何とせうぞ、いや、致し様がある。やいやい。この方には、お冷しと作られた謡がある。謡うて聞かせう。
▲シテ「承りませう。
▲アト「{*1}妻戸をきりゝと押しあけて。お冷し持ちて参りたり。しよりやうの神として。弓矢の家を守らしめ。石清水。
{と云ひて、口を塞ぐなり。}
▲シテ「一段の事を申さるゝ。この後(あと)で、もつて参らうと存ずる。申し申し、その後は、
{*2}石清水の流しを受けて。放生川の水汲まん。
▲アト「時々は、主(しゆ)にも負けて居よ。
{と云ひて常の如く留めて入るなり。}

校訂者注
 1:底本、ここから「弓矢の家を守らしめ岩清水」まで、傍点がある。
 2:底本、「いわし水の流しをうけて放生川の水くまん」に、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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お冷(オヒヤシ)(二番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、此中は殊の外の暑気で御座る今日はどれへぞ涼に参らうと存ずる{ト云て呼出す出るも如常}{*1}此中は別して暑気が強い、けふはどれぞへ涼に出うと思ふが何と有らう▲シテ「御意もなくば申し上げうと存じて御座る、一段とよう御座りませう▲アト「夫ならばどこへ行かうぞ▲シテ「さればどれがよう御座りませうぞ▲アト「どれがよからうなあ▲シテ「どれ是と仰せられうより、東山辺がよう御座りませう▲アト「東山にとつてもどこ元がよからうなあ▲シテ「御参詣旁清水へお出に成、滝の下でお涼みなされたらばよう御座りませう▲アト「是はよからう、夫れならばさあさあこいこい▲シテ「畏つて御座る▲アト「扨何と思ふ、時分柄とはいひながら、別して当年の様なつよい暑気はあるまいなあ▲シテ「仰せらるゝ通り、当年のやうなつよい暑気は覚えませぬ▲アト「いや何かといふ内に清水の西門ぢや▲シテ「左様で御座る▲アト「先お前へ参らふか但し滝へおりて涼まうか▲シテ「いや先づ滝へお出被成て、お手水でもお遣ひ被成て、其上本堂へお参り被成るゝがよう御座りませう▲アト「是は尤ぢや、さあさあこいこい、何と思ふぞ、外へ出れば気のはるゝ故か、内にゐるより格別すゞしいなあ▲シテ「中々草木の色を見はらしまして、あつさをわすれまする▲アト「是々滝へ来た、扨も扨もせいせいと見事な滝ぢやなあ▲シテ「いさぎよい事で御座る▲アト「あれへいておひやしをむすんでこい▲シテ「何がどうぢやと仰られます▲アト「いやあの滝のおひやしをむすんでこいといふ事ぢや▲シテ「あの滝の水をくむでこいと仰せらるゝ事か▲アト「中々▲シテ「水ならば水くめでよい事を、お冷をむすべ{ト云て笑ふ}▲アト「夫は汝が何もしらぬに依つてぢや、皆上々や又内裏方の上臈達{*2}は、お冷をむすぶとこそ仰せらるれ、水を汲むなどとは仰られぬ、そちも今からいひ習へ▲シテ「尤も上々の上臈達や児若衆抔{*3}は、お冷ともむすぶ共仰せられうが、お前の其大きな口から、お冷をむすべ{ト云て笑ふ}▲アト「扨々さもしい事をいふ、とかくきやしやな事はいひ習う物ぢや▲シテ「まだ其つれな事を仰せらるゝ、爰に物語が御座る、語つて聞かせませう、昔鳥羽の院の御時、佐藤兵衛則清といつし人、浮世をいとい元ゆひを切り、其名を西行法師と名づく、彼西行諸国を修行して、ある時近江の国醒井の宿につき給ふ、頃は水無月なかばの事なりしに、麦の水粉といふ物を参らんと、頭陀袋より取出し給ふ所に、折節川風はげしくして水粉をぱつと吹ちらす、其時西行の御歌に、頼みつる、麦粉は風にさそはれて、けふさめが井の水をこそのめ、と斯様によまれてこそ候へ、やわかお冷しをむすぶとは承らず候▲アト「夫にまて、是はいかな事、太郎冠者とふと争うてはつた{*4}とつまつた、何とせうぞ、いや致し様が有る、やいやい此方にはお冷と作られた謡がある謡うてきかせう▲シテ「承りませう▲アト{*5}「妻戸をきりりと押あけておひやしもちて参りたり。しよりやうの神として弓矢の家を守らしめ岩清水{ト云て口をふさぐなり}▲シテ「一段の事を申さるゝ、此跡でもつて参らうと存ずる、申し申し其跡は、いわし水の流しをうけて放生川の水くまん▲アト「時々は主にもまけて居よ{ト云て如常留めて入るなり}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 2:底本は、「上臈連(じやうろうたち)」。
 3:底本は、「杯(など)」。
 4:底本は、「はつとつまつた」。
 5:底本、ここに「▲アト」はない。