栗焼(くりやき)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。太郎冠者を呼び出し、推(すい)をさする物がござる。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。そちに、ちと推(すい)をさする物がある。暫くそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「やいやい、この内にある物は、何であらうと思ふ。
▲シテ「されば、何でござりませうぞ。
▲アト「何であらうなあ。
▲シテ「お菓子の類(たぐ)ひではござりませぬか。
▲アト「まづ、その様な物ぢや。
▲シテ「お菓子の類ひならば、源平餅か花煎餅ではござらぬか。
▲アト「いやいや、その様な物ではない。
▲シテ「但し、饅頭ではござりませぬか。
▲アト「それも違うた。これぢや。
▲シテ「はあ。これは、栗でござりますか。
▲アト「中々。
▲シテ「扨も扨も、これは見事な栗でござる。これは、どれから参りました。
▲アト「丹波の伯父者人からくれられたが、何と見事な栗ではないか。
▲シテ「何(いづ)れ、丹波は栗の名物と承はつてはござれども、この様な見事な栗は、遂に見た事がござりませぬ。
▲アト「それについて、不審な事がある。五十ならば五十、乃至、百くれられさうなものぢやに、四十くれられたは、どうした事ぢやいなあ。
▲シテ「いや、それは、物でござりませう。
▲アト「物とは。
▲シテ「丹波の伯父御様とお前と、始終末代、仰せ合はされう。とあつて、四十遣はされたものでござりませう。
▲アト「扨々、汝はめでたう、よう祝うた。扨、これを賞翫に、一族達を申し入れう。と思ふが、何とあらう。
▲シテ「御意もなくば、申し上げうと存じてござる。一段と良うござりませう。
▲アト「それならば、水栗にしたものであらうか。但し、焼き栗が良からうか。
▲シテ「水栗も良うござりませうが。いや、只、焼き栗が良うござりませう。
▲アト「身共もさう思ふ。さりながら、客は大勢、栗はわづか四十ならではなし。これでは行き届くまいが、何としたものであらう。
▲シテ「されば、何とが良うござりませうぞ。
▲アト「何とが良からうなあ。
▲シテ「二つや三つに割つて引きませうか。
▲アト「いやいや、この丸い所が賞翫ぢや。
▲シテ「それならば、猶良い致し様がござる。
▲アト「何とする。
▲シテ「うまうまと栗を焼き済まして、渋皮なども去りまして、摺鉢へ入れて摺り砕いて、人数に丸(ぐわん)じて引きませう。
▲アト「扨々、汝はむさとした事を云ふ者ぢや。只この儘、大きな丸い所が賞翫ぢや。
▲シテ「扨は、その儘大きな丸い所が、御賞翫でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「これは、難しい事でござる。何と致したが、良うござらうぞ。いや、左様ならば、御菓子は私が引きませうによつて、上座(しやうざ)にござるお方へは、悉く栗を進じませうず。又、末座(ばつざ)にござるお方へは、引いたり引かなんだり、余のお菓子をなりとも上げませう。
▲アト「せめて、さうなりともせずばなるまい。則ち、汝に云ひ付くる。太儀ながら、焼いて置け。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「ぐわらぐわらぐわら。扨、焼け過ぎたも悪し、又、生焼けなも悪い程に、随分念を入れて、よう焼いて置け。
▲シテ「その段は、そつともお気遣ひなされますな。
▲アト「焼けたらば、早々この方へ知らせ。
▲シテ「畏つてござる。
{詰める。常の如し。}
これはいかな事。難しい事を仰せ付けられた。扨これは、お台所へ持つて行(い)て焼かうか。但し、お次へ持つて行(い)て焼かうか。いやいや、お次へ持つて行(い)たらば、お子様方がお出なされて、やい、太郎冠者。その栗を一つくれい。と仰せられう。上げずばおむつかるであらうず。上げては、只さへ数の足らぬ栗ぢやによつて、頼うだお方が良いとは仰(お)せあるまい。いや、只お台所へ持つて行(い)て焼かう。誠に、丹波は栗の名物。と承つてはござれども、この様に打ち揃うて見事な栗は、余国にはござるまい。やあ、これは、栗を焼け。と云はんばかりに、こゝに炭火が熾(おこ)してある。これは、幸ひの事ぢや。さらば、こゝで焼かう。扨も扨も、これは重畳の事ぢや。この火を熾してゐたらば、埒のあく事ではあるまいに、良い手間助かりな事が、してあつた。
{と云ひて、しかじかの内、火をひろげ、栗を皆、火の内へ入れる。}
これこれ、これで良いぞ。さらば、焼かう。あゝ、熾(おこ)るわ、熾るわ。何(いづ)れ、炭火の熾つたは、人の身代にひやうした{*1}ものぢや。と云ふが、この様に、くわつくわつと熾つた所は、富貴なめでたいものぢや。ばつちり。
{と云ひてあふぐ内に、はつちりと云ひて、栗の飛ぶ仕方あり。口伝。}
やあ、こりや、栗が飛んだ。何として飛んだ事ぢや知らぬ。おゝ、それそれ。芽を切らなんだによつて、飛んだであらう。これは、麁相な事をした。さらば、芽を切らう。扨も扨も、よい肝をつぶした。さりながら、未だ良い時分に思ひ出した。この芽を切る事を忘れたならば、栗は皆飛んで、一つも役に立つまい。扨も扨も、不調法な事をした。これこれ、これで良いぞ。
{と云ひて、栗の芽を切りて、又火に埋み、扇にてあふぐ。}
あゝ、焼くるわ、焼くるわ。やあ、あそこの栗が動くぞよ。おゝ、こゝの栗も、むくむく召さる。定めて飛ばうと云ふ羽根繕ひであらう。いかないかな、芽を切つて置ゐたによつて、お飛びある事はなりますまいぞや《笑》。この方の栗殿は、何が面白うてやら、飛ぶけんよう{*2}はなうて、小歌節で、ぶゝゝ、ちうちう《笑》。これはいかな事。こりや、栗が焦げる。燻(くす)ぼるわ、燻ぼるわ。扨も扨も、油断をした。
{と云ひて、皆々かき出し、栗の皮を剥くなり。}
あゝ、熱(あつ)や、熱や。
{と云ひて、熱がる仕方、色々あるべし。しかじか工夫あるべし。口伝。}
うまうまと、栗を焼き済ました。まづ、急いで頼うだお方へお目に掛けう。旨い匂ひがする。これは、一つ食ひたいものぢやが。いやいや、只さへ数の足らぬ栗を食うたらば、頼うだ人が、良いとは仰(お)せあるまい。さりながら、こゝに気の毒がある。何(いづ)れもが、やい、太郎冠者。その栗の風味は何とあるぞ。とお尋ねの時、御内(みうち)にありながら、存ぜぬとも云はれまい。幸ひ、こゝに小さいのがある。これを一つ喰うて見よう。扨も扨も、旨い栗ぢや。この様な旨い栗は、遂に喰うた事がない。これは、もう一つ喰ひたいものぢやが。さうぢや、一つ喰ふも二つ喰ふも、同じ事ぢや。とてもの事に、大きなを喰はう。こりや、猶旨い。中々これは、口の離さるゝものではない。
{と云ひて喰ふ所、色々心持あるべし。虫喰ひなど云ひたるも良し。色々仕様あり。口伝なり。}
わあ、こりや、栗を皆喰うた。これはまづ、何としたものであらうぞ。いや、頼うだお方は愚かな人ぢやによつて、身共が口調法を以て、真(ま)つ返様(かひさま){*3}に申しなさう。と存ずる。申し。頼うだお方、ござりまするか。
▲アト「いや、太郎冠者が、栗を焼いたさうな。
▲シテ「ござりまするか、ござるか。
▲アト「太郎冠者か、太郎冠者か。
▲シテ「ござりまするか。
▲アト「えい、太郎冠者。
▲シテ「はあ。
▲アト「何と、栗を焼いたか。
▲シテ「うまうまと栗が焼けましてござる。
▲アト「さぞ、見事にあらうなあ。
▲シテ「いやも、生で見ましたよりも、格別見事にござる。
▲アト「それは出かいた。急いで見せい。
▲シテ「それにつきまして、おめでたい事がござる。
▲アト「それは、何事ぢや。
▲シテ「まづ、うまうまと栗を焼き済ましまして、お目に掛けう。と存じて持つて参ると、後(あと)から、ほうい、太郎冠者、太郎冠者。と呼ぶ声が致したによつて、異な事ぢや。と存じて、後を、
{*4}きつと見向いて候へば。毛雪頭(かしら)に戴き、鬢髪(びんぱつ)に黒き髪もなく。老人と老女と夫婦来り給ひて。我はこれ釜の神。三十四人の父母なり。汝、栗をくれい。栗をくれたらば、主従ともに富貴になすべしと。事詳しうも、のたまへば。あら尊やと思ひて。夫婦に栗を。
《イロ》進じてござる。
▲アト「扨は、釜の神が出させられたか。
▲シテ「釜の神が出させられて、その栗を一つくれい。と仰せられたによつて、何が惜しうござらう。あそこへも、はあ、こゝへも、悉く栗を進じてござる。
▲アト「やれやれ、それはようこそ進上申したれ。残つた栗を、この方へ渡せ。
▲シテ「いや、もはや栗は、一つも残りは致しませぬ。
▲アト「いゝや、残らうがな。
▲シテ「まづ、お聞きなされませ。二人の釜の神で二つ。三十四人の公達で三十六。又二人の老人で三十八、九、四十。ちやうど合ひます。
▲アト「扨々、汝は不算用な者ぢや。まづ、よう聞け。二人の釜の神で二つ、三十四人の公達で三十六。まだ四つ残る筈ぢや。
▲シテ「いや、中に虫喰ひが一つござつて、揉みましたれば、ほろほろと粉になりました。
▲アト「でも、まだ三つ残る筈ぢや。
▲シテ「はあ、扨はお前には、栗焼き人の言葉を御存じござらぬか。
▲アト「いゝや、知らぬ。
▲シテ「{*5}栗焼き言葉にも、栗焼き言葉にも。
《詞》逃げ栗・追ひ栗・灰まぎれとて、三つは失せて何もなし。お主(しゆ)殿の御心中、お恥づかしう候ふ。
▲アト「あのやくたいもない。しさりをれ。
{常の如く、留めて入るなり。}

校訂者注
 1:「ひやうした」は、不詳。
 2:「けんよう」は、不詳。
 3:「真(ま)つ返様(かひさま)」は、「まっさかさま。真逆」の意。
 4:底本、ここから「あらたうとやと思ひて夫婦に栗を」まで、傍点がある。
 5:底本、ここ「栗焼言葉にも(二字以上の繰り返し記号)」に、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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栗焼(クリヤキ)(二番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、太郎冠者を呼出しすいをさする物が御座る{ト云て呼出す出るも如常}{*1}汝呼び出す別の事でない、そちにちとすいをさする物がある、暫らく夫にまて▲シテ「畏つて御座る▲アト「やいやい此内に有る物は何で有らうと思ふ▲シテ「されば何で御座りませうぞ▲アト「何で有らうなあ▲シテ「お菓子のたぐひでは御座りませぬか▲アト「先づ其様な物ぢや▲シテ「お菓子のたぐひならば、源平餅か花せんべいでは御座らぬか▲アト「いやいや其様な物ではない▲シテ「但し饅頭では御座りませぬか▲アト「夫も違うた是ぢや▲シテ「はあ是は栗で御座りますか▲アト「中々▲シテ「扨も扨も是は見事{*2}な栗で御座る、是はどれから参りました▲アト「丹波の伯父者人{*3}からくれられたが、何と見事{*4}な栗ではないか▲シテ「何れ丹波は栗の名物と承はつては御座れ共、此様な見事な栗は、遂に見た事が御座りませぬ▲アト「夫に就て不審な事がある、五十ならば五拾、乃至百くれられさうな物ぢやに、四十くれられたはどうした事ぢやいなあ▲シテ「いや夫は物で御座りませう▲アト「物とは▲シテ「丹波の伯父御様と、お前と始終末代仰合されうと有ツて、四十遣はされた物で御座りませう▲アト「扨々汝は目出たうよう祝うた、扨之を賞翫に一族達を申し入れうと思ふが何と有らう▲シテ「御意もなくば申し上げうと存じて御座る、一段とよう御座りませう▲アト「夫ならば水栗にした物で有らうか、但焼栗がよからうか▲シテ「水栗もよう御座りませうが、いや唯やきぐり{*5}がよう御座りませう▲アト「身共もさう思ふ、去り乍ら客は大勢、栗はわずか四十ならではなし、是ではゆきとゞくまいが、何とした物で有らう▲シテ「されば何とがよう御座りませうぞ▲アト「何とがよからうなあ▲シテ「二つや三つに割つて引ませうか▲アト「いやいや此丸い所が賞翫ぢや▲シテ「夫ならば猶よい致し様が御座る▲アト「何とする▲シテ「うまうまと栗を焼すまして、渋皮などもさりまして、摺鉢へ入れてすりくだいて、人数に丸じて引ませう▲アト「扨々汝は無沙とした事を云ふ者ぢや、唯此儘大きな丸い所が賞翫ぢや▲シテ「扨は其儘大きな丸い所が御賞翫で御座るか▲アト「中々▲シテ「是は六ケ敷事で御座る、何と致したがよう御座らうぞ、いや左様ならば、御菓子は私が引ませうに依つて上座に御座るお方へは、悉く栗を進じませうず、又末座に御座るお方へは引たり引なんだり、余のお菓子を成共上げませう▲アト「責めてさう成共せずば成まい、則汝にいひ付くる、太儀ながら焼ておけ▲シテ「畏つて御座る▲アト「ぐわらぐわらぐわら、扨焼け過たもわるし、又なま焼なもわるい程に、ずい分念を入れてよう焼ておけ▲シテ「その段は卒つ都もお気遣ひ被成ますな▲アト「やけたらば早々此方へしらせ▲シテ「畏つて御座る{つめる如常}{*6}是はいかな事、六ケ敷い事を仰付られた、扨是はお台所へ持つていて焼かうか、但お次へ持つていて焼かうか、いやいやお次へ持つていたらば、お子様方がお出被成て、やい太郎冠者其栗を一つくれいと仰せられう、上げずばおむつかるで有らうず、上げては唯さへ数のたらぬ栗ぢやに依つて、頼うだお方がよいとはおせあるまい、いや唯お台所へ持つていて焼かう、誠に丹波は栗の名物と承つては御座れ共、此様に打揃うて見事な栗は余国には御座るまい、やあ是は栗をやけといはん計りに、爰に炭火がおこしてある、是は幸ひの事ぢや、さらば爰で焼かう、扨も扨も是は重畳の事ぢや、此火をおこしていたらば埒のあく事ではあるまいに、よい手間だすかりな事がして有つた{ト云てしかしかの内火をひろげ栗を皆な火の内へ入れる}是々是でよいぞさらば焼かう、あゝおこるはおこるは、何れ炭火のおこつたは人のしん代にひやうした物ぢやといふが、此の様にくわつくわつとおこつた所は、富貴な目出たい者ぢや、ばつちり{ト云てあふぐ内にはつちりと云て栗の飛仕方あり口伝}やあこりや栗がとんだ、何として飛んだ事ぢやしらぬ、おゝ夫々芽を切らなんだに依つてとんだで有らう、是は麁相な事をした、さらば芽を切らう、扨も扨もよい肝をつぶした、去り乍ら未だよい時分に思ひ出した、此芽を切る事を忘れたならば、栗は皆飛んで一つも役に立つまい、扨も扨も不調法な事をした、是々是でよいぞ{ト云て栗のめを切て又火に埋み扇にてあふぐ{*7}}あゝやくるはやくるは、やあ、あそこの栗が動くぞよ、おゝ爰の栗もむくむくめさる、定めて飛ばうと云ふ羽根繕いで有らう、いかないかな芽を切つて置ゐた{*8}に依つて、お飛ある事は成ますまいぞや、《笑》{*9}此方の栗殿は何が面白うてやら、とぶけんようはなうて小歌節で、ぶぶぶちうちう、《笑》{*10}是はいかな事、こりや栗がこげる、くすぼるはくすぼるは、扨も扨も油断をした{ト云て皆皆かき出し栗の皮をむくなり}あゝあつやあつや{ト云てあつがる仕方色々あるべししかしか{*11}工夫可有口伝}うまうまと栗を焼済した、先急ひで頼うだお方へお目に掛けう、うまひ匂がする、是は一つ食いたい物ぢやが、いやいや唯さへ数のたらぬ栗を食ふたらば、頼うだ人がよいとはおせあるまい、去ながら爰に気の毒がある、何れもが、やい太郎冠者、其栗の風味は何とあるぞとお尋ねの時、御内に有乍ら存ぜぬ共云はれまい、幸ひ爰に小さいのがある、之を一つ喰ふて見よう、扨も扨もうまい栗ぢや、此様なうまい{*12}栗は遂に喰うた事がない、是は最一つ喰たい物ぢやが、さうぢや一つ喰ふも二つ喰ふも同じ事ぢや、迚もの事に大きなを喰はう、こりや猶うまひ、中々是は口の放さるゝ者ではない{ト云て喰ふ所色々心持可有虫くい抔{*13}云たるも吉色々仕様有り口伝なり}わあ、こりや栗を皆喰うた、是は先づ何とした物であらうぞ、いや頼うだお方はおろかな人ぢやに依つて、身共が口調法を以て、まつかひ様に申しなさうと存ずる、申し頼うだ御方御座りまするか▲アト「いや太郎冠者が栗を焼いたさうな▲シテ「御座りまするか御座るか▲アト「太郎冠者か太郎冠者か▲シテ「御座りまするか▲アト「えい太郎冠者▲シテ「はあ▲アト「何と栗を焼いたか▲シテ「うまうまと栗が焼まして御座る▲アト「嘸見事に有らうなあ▲シテ「いやも生で見ましたよりも格別見事に御座る▲アト「夫は出来いた急いで見せい▲シテ「夫に就ましてお目出たい事が御座る▲アト「夫は何事ぢや▲シテ「先ずうまうまと栗を焼済しまして、お目に掛けうと存じて持つて参ると、跡からほうい太郎冠者、太郎冠者と呼声が致したに依つて、異な事ぢや{*14}と存じて跡を屹度、見向いて候へば。毛雪かしらにいたゞきびんぱつに黒き髪もなく。老人と老女と。夫婦来り給ひて。我は是釜の神。三拾四人{*15}の父母なり。汝栗をくれい。栗をくれたらば、主従共に富貴になすべしと。事くわしうもの給へば。あらたうとやと思ひて夫婦に栗を《イロ》進じて御座る▲アト「扨は釜の神が出させられたか▲シテ「釜の神が出させられて、其栗を一つくれいと仰せられたに依つて、何がおしう御座らう、あそこへも、はあ、爰へも、悉く栗を進じて御座る▲アト「やれやれ夫はようこそ進上申したれ、残つた栗を此方へ渡せ▲シテ「いや最早栗は一つも残りは致しませぬ▲アト「いゝや残らうがな▲シテ「先おきゝ被成ませ、二人りの釜の神で二つ、三拾四人{*16}の公達で三十六、又二人の老人で三十八九四十恰度合ひます▲アト「扨々汝は不算用な者ぢや、先ようきけ、二人りの釜の神で二タつ、三十四人の公達で三六、まだ四つ残る筈ぢや▲シテ「いや中に虫食ひが一つ御座つて揉みましたれば、ほろほろと粉になりました▲アト「でもまだ三つ残る筈ぢや▲シテ「はあ扨はお前には栗焼人の言葉を御存知御座らぬか▲アト「いゝや知らぬ▲シテ「栗焼言葉にも栗焼言葉にも《詞》逃栗追栗灰まぎれとて、三つは失せて何もなし、お主殿の御心中おはづかしう候▲アト「あのやくたいもないしさりおれ{如常留て入る也}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 2・4:底本は、「美事(みごと)」。
 3:底本は、「伯父(おぢ)や人(ひと)」。
 5:底本は、「やまぐり」。
 6:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
 7:底本は、「扇にふあてぐ」。
 8:底本は、「切つて置ゐに依つて」。
 9・10:底本は「笑フ」。但し、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
 11:底本は、「しかし工夫可有」。
 12:底本は、「此様な美味栗」。
 13:底本は、「杯(など)」。
 14:底本は、「異な事ぢと存じて」。
 15・16:底本は、「三拾余人」。
 17:底本は、「如常留を入る也」。