柑子(かうじ)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。夜前、去る方へ振舞ひに参つてござれば、菓子に見事な柑子が出た。取り上げて見たれば、三つなりであつた。世に二つなりさへ珍しいに、まして三つなりは稀な物ぢや、土産にせう。と存じて、太郎冠者に持たせて置いた。呼び出し、この方へ受け取らう。と存ずる。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。何と、夜前はいついつよりも、大御酒(おほごしゆ)ではなかつたか。
▲シテ「御意なさるゝ通り、何(いづ)れも御機嫌と見えてござる。
▲アト「扨、それについて、菓子に見事な柑子が出た。取り上げて見たれば、三つなりであつた。世に、二つなりさへ珍しいに、まして三つなりは稀な物ぢや。土産にせう。と思うて、汝に持たせて置いた。それをこの方へ渡せ。
▲シテ「夜前は、下々(したじた)までも大御酒を下されて、何がどうござつたやら、覚えませぬ。
▲アト「これはいかな事。いかに酒を呑めばとて、覚えのない程呑むといふ事があるものか。確かに汝に持たせて置いた。急いでこの方へ渡せ。
▲シテ「さう仰せらるゝについて、思ひ出してござる。
▲アト「又、思ひ出さいでならうか。
▲シテ「世に二つなりさへ珍しいに、まして三つなりは稀な物ぢや、大事に掛けう。と存じて、鎗の塩首本(しほくびもと)に、きつと結(ゆ)ひ付けて参つてござる。何と致したやら、一つ臍落(ほぞお)ちが致して、ころころとこけ落ちましたによつて、やがて、言葉を掛けてござる。
▲アト「何と掛けた。
▲シテ「好事門を出でず。と云ふ事がある、止まれ、止まれ。と申してござれば、草木心なし。と申せども、柑子には心がござるやら、木の葉の一葉(いちえふ)を楯について、きつと止(とゞ)まつてござる。尤、止まつた所は優しけれども、つれなう落ちた所が憎い。と存じて、やがて取り上げまして皮を剥き、中の白筋(しらすじ)なども去りまして、下されてござる。
▲アト「これはいかな事。それを喰ふといふ事があるものか。さりながら、喰うた物は是非に及ばぬ。残つた二つの柑子をこの方へ渡せ。
▲シテ「それから大事にかけまして、懐の内へ入れて参つてござる。
▲アト「それは出かした。
▲シテ「いつもお叱りなさるれども、夜前のお供は晴れがましいと存じて、例の角鍔を差いて参つてござる。すはお立ち。と申せば、何が大勢のお供が立ち騒ぎ、押し合ひまする内に、懐の内が冷(ひい)やりと致したによつて、異な事ぢや。と存じて、そつと手を入れて見ましたれば、申し、大事の事の。
▲アト「何とした。
▲シテ「角鍔に押されて、又柑子が一つ、つぶれてござる。
▲アト「これはいかな事。
▲シテ「とても、つぶれた物はお役に立つまい。と存じて、今度は皮をも去りませず、すゝり喰べに致してござる。
▲アト「それぢやによつて、角鍔を差すな。と云ふに、差し居るによつての事ぢや。何のかのと云うて、柑子を皆喰うた。これとても、喰うた物は是非に及ばぬ。せめて、残つた一つの柑子をこの方へ渡せ。
▲シテ「その一つ残つた柑子について、哀れな物語がござる。語つて聞かせませう。
▲アト「いやいや、物語は聞きたうない。早う柑子を渡せ。
▲シテ「一つは柑子のためでござる。お聞きなされませ。
▲アト「それなれば聞かう程に、急いで語れ。
▲シテ「畏つてござる。扨も、平相国の御時、三人の流人ありし。丹波の少将成経、平判官入道康頼、俊寛僧都、かの硫黄が島へ流さるゝ。二人(にゝん)は赦免あつて、俊寛一人、鬼界が島に残し置かるゝ。
{*1}その如く、三つありし柑子が、一つは臍(ほぞ)抜け、一つは潰れ、早(はや)、太郎冠者が六波羅に納まりぬ。人と柑子は変れども、思ひは同じ涙なり。
▲アト「扨々、汝は哀れな事を思ひ出した。古(いにし)への俊寛のお心の内が思ひやられて、おいたはしいなあ。
▲シテ「左様でござる。
▲アト「いや、これは古への俊寛物語。今の残つた一つの柑子をこの方へ渡せ。
▲シテ「その一つ残つた柑子は、物と致いてござる。
▲アト「何と。
▲シテ「物と。
▲アト「何と。
▲シテ「これも、太郎冠者が六はらに納めてござる。
▲アト「あのやくたいもない。しさりをれ。
{と云ひて、常の如く、留めて入るなり。}

校訂者注
 1:底本、ここから「思ひはをなじ涙なり」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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柑子(コオジ)(二番目)

▲アト「此辺りの者{*1}で御座る、夜前去る方へ振舞に参つて御座れば、菓子に見事な柑子が出た、取り上げて見たれば三ツなりであつた、世に二ツなりさへ珍敷いに、況て三ツなりは稀な物ぢや、土産にせうと存じて太郎冠者に持たせてをいた、呼び出し此方へ請取らうと存ずる{ト云て呼出す出るも如常}{*2}汝呼び出す別の事でない、何と夜前はいついつよりも大御酒ではなかつたか▲シテ「御意被成るゝ通り、何れも御機嫌と見えて御座る▲アト「さて夫に就て、菓子に見事な柑子が出た、取り上げて見たれば三ツなりで有つた、世に二ツなりさへ珍敷いに、増て三ツなりは稀な物ぢや、土産にせうと思ふて汝にもたせて置いた、夫を此方へ渡せ▲シテ「夜前は下た下た迄も大御酒を下されて、何がどう御座つたやらおぼへませぬ▲アト「是はいかな事、いかに酒をのめばとておぼへのない程呑むといふ事があるものか、慥に汝に持たせておいた、急いで此方へ渡せ▲シテ「さう仰せらるゝについて思ひ出して御座る▲アト「又思ひ出さいでならうか▲シテ「世に二ツなりさへ珍らしいに、況て三ツなりは稀な物ぢや、大事に掛けうと存じて、鎗の塩首本にきつと{*3}結付けて参つて御座る、何と致したやら一ツほぞ落が致して、ころころとこけ落ましたに依ツて、頓て言葉を掛けて御座る▲アト「何と掛けた▲シテ「好事{*4}門をいでずと云ふ事がある、止まれ止まれと申して御座れば、草木心なしと申せども、柑子には心が御座るやら、木の葉の一チ葉をたてについて、屹度とゞまつて御座る、尤も止まつた{*5}所は優しけれ共、つれなう落た所が憎いと存じて、頓て取り上げまして皮をむき、中のしら筋抔{*6}も去りまして下されて御座る▲アト「是はいかな事、夫を喰ふといふ事があるものか、去りながら喰ふた物は是非に及ばぬ、残ツた二ツの柑子を此方へ渡せ▲シテ「夫から大事にかけまして、懐の内へ入れて参つて御座る▲アト「夫は出来した▲シテ「いつもお叱り成さるれども、夜前のお供は晴がましいと存じて、例の角鍔をさいて参つて御座る、スワお立と申せば、何が大勢のお供が立さわぎ押合まする内に、懐の内がひいやりと致したに依ツて、異な事ぢやと存じてそつと手を入れて見ましたれば、申し大事の事の▲アト「何とした▲シテ「角鍔に押されて又柑子が一ツつぶれて御座る▲アト「是はいかな事▲シテ「迚もつぶれた物はお役に立つまいと存じて、今度は皮をも去りませず、すゝりたべに致して御座る▲アト「夫れぢやに依つて角鍔を差すなと云ふに、差居るに依つての事ぢや、何のかのと云ふて柑子を皆喰ふた、是迚も喰ふた物は是非に及ばぬ、責て残つた一ツの柑子を此方へ渡せ▲シテ「其一ツ残つた柑子に就て、哀な物語りが御座る語つて聞かせませう▲アト「いやいや物語りは聞きたうない、早う柑子を渡せ▲シテ「一ツは柑子の為で御座るおきゝ成れませ▲アト「夫なれば聞かう程に急で語れ▲シテ「畏つて御座る、偖も平相国の御時三人の流人ありし、丹波の少将成経、平判官入道康頼、俊寛僧都かの硫黄が島へ流さるゝ、二人は赦免あつて、俊寛一人鬼界が島に残し置かるゝ、其如く三ツありし柑子が、一ツはほぞぬけ一ツは潰れ、早太郎冠者が六波羅に納りぬ、人と柑子はかわれども、思ひはをなじ涙なり▲アト「さてさて汝はあわれな事を思ひ出した、古への俊寛のお心の内が思ひやられて、おいたわしいなあ▲シテ「左様で御座る▲アト「いや是は古への俊寛物語、今の残つた一ツの柑子を此方へ渡せ▲シテ「其一ツ残つた柑子は物と致いて御座る▲アト「何と▲シテ「物と▲アト「何と▲シテ「是も太郎冠者が六はらに納めて御座る▲アト「あのやくたいもないしさりおれ{ト云て如常留て入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「此辺り者」。
 2:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 3:底本は、「緊度(きつと)」。
 4:底本は、「好子(こうじ)門(もん)をいでず」。
 5:底本は、「止まつ所は」。
 6:底本は、「杯(など)」。