寝音曲(ねおんぎよく)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。夜前、太郎冠者の部屋の腰を通つてござれば、高声(かうしやう)に謡の声が致してござる。呼び出し、様子を尋ねうと存ずる。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。夕べ、汝はどれへ行(い)た。
▲シテ「さればの事でござる。夜前は、友達どもが方へ、夜咄(やばなし)に参りまして、それ故、お迎ひには次郎冠者を上げましてござる。
▲アト「成程、迎ひには次郎冠者が来た。又、帰るさに、汝が部屋の前を通つたれば、謡を諷(うた)ふ声がした。あれは、汝であつたか。
▲シテ「それは、私ではござりませぬ。誰(た)そ、余の者の声と、お聞き違(ちが)へなされたものでござりませう。
▲アト「いやいや、幼少より召し遣ふ汝が声と余人の声と、聞き違ふ事ではない。あり様に云へ。
▲シテ「何がお耳に入りましたぞ、それは、物でござる。
▲アト「物とは。
▲シテ「只今も申します通り、夜前は友達どもの方へ夜咄に参りまして、したゝか御酒にたべ酔ひまして、帰つて子持ちが膝を枕に致して、訳もない事をひと節ふた節諷ひましたが、これがな、お耳に入つたものでござりませう。
▲アト「成程、それであらう。中々、面白い事であつた。ちと、身共に諷うて聞かせ。
▲シテ「いかないかな。私どもの謡は、お聞きなさるゝ様な謡ではござりませぬ。
▲アト「いやいや、殊の外、面白い事であつた程に、是非とも諷うて聞かせ。
▲シテ「その上、御酒にでもたべ酔ひまして、その酔ひまぎれにならば、諷はれまするが、中々、素面(すめ){*1}で諷はるゝ事ではござりませぬ。
▲アト「扨は、酒を呑まねば謡はれぬか。
▲シテ「まづ、その様なものでござります。
▲アト「それならば、酒を取つて来て呑ませう程に、暫くそれに待て。
▲シテ「いや、申し。御酒がたべたければ、私がお台所へ参つて下されまする。
▲アト「いやいや、暫くそれに待て。
▲シテ「申し、申し。これはいかな事。迷惑な事を云ひ出された。今度謡うたらば、今から節々、諷へ。であらう。何としたものであらう。いや、思ひ出した。諷ひ様がござる。
{アト、葛桶のふた、扇ひろげ、持ち出る。}
▲アト「さあさあ、太郎冠者。酒を取つて来た。
▲シテ「これは又、御自身、御苦労な。御酒がたべたければ、お台所へ参りまするに。
▲アト「いやいや、謡が所望ぢやによつて、自身、持つて来た。さあさあ、一つ呑うで、諷うて聞かせ。
▲シテ「これは、例の大盃が出ました。
▲アト「短かうせう。と思うて、大盃を取つて来た。
▲シテ「これで一つ下されたらば、悪うはござりますまい。
▲アト「さあさあ、呑め呑め。
▲シテ「これは、お酌、慮外でござる。
▲アト「苦しうない。
{と云ひて、つぐ。シテ、受けて呑む。}
▲シテ「扨も扨も、これは結構な御酒(ごしゆ)でござる。どの御酒でござる。
▲アト「そちに酒の吟味は頼まぬ。早う諷うて聞かせ。
▲シテ「成程、追つ付け諷ひまする。左様ならば、もう一つ下されませう。
▲アト「何程なりとも呑うで、早う諷うて聞かせ。
▲シテ「これは度々、慮外でござります。
▲アト「苦しうない。
{シテ、又受けて、笑ひなどして呑むなり。}
▲シテ「扨も扨も、たぶればたぶる程、良い御酒でござる。何と、お前もちと上がりませぬか。
▲アト「身共は、そちが知る通り、下戸ぢや。さあさあ、早う諷うて聞かせ。
▲シテ「これは又、忙(せは)しない事でござる。それならば、もう一つ下されませう。
▲アト「まだ呑むか。
▲シテ「献(こん)が悪うござる。
▲アト「過ぎようぞよ。
▲シテ「過ぎる程呑まねば、諷はれませぬ。
▲アト「それならば、もう一つ呑うで、必ず諷へ。
▲シテ「ちと軽うおつぎなされませ。
▲アト「とても呑むなら、ちやうど呑め。
{と云ひて、又つぐ。シテ、「こします、こします」など云ひて、悦び笑ふなり。}
▲シテ「扨も扨も、給(た)ぶればたぶる程、結構な酒ぢや。
▲アト「やい、太郎冠者。
▲シテ「やあ。
▲アト「早う諷はぬかいやい。
▲シテ「扨々、忙(せは)しう仰せらるゝ。その様に忙しう仰せられて、諷はるゝものではござらぬ。左様ならば、もう一つ下されませう。
▲アト「いや、こゝな者が。いつまでその様に呑むものぢや。もはや、酒をとるぞ。
{と云ひて、盃を引き取り、持ちて入るなり。}
▲シテ「申し申し。これは又、お気の短かい事でござる。
▲アト「さあさあ、酒を呑ませた程に、早う諷うて聞かせ。
▲シテ「扨、御酒は下されましたが、私の謡には、まだ悪い癖がござりまして、子持ちが膝を枕にして、寝て諷ひますれば、声が出まする。起きてゐては、声が出ませぬ。
▲アト「これはいかな事。酒を呑まねば諷はれぬ。と云ふによつて酒を呑ますれば、又その様な事を云ふ。そちが女共を呼びにはやられまい。その様な事を云はずとも、早う諷うて聞かせ。
▲シテ「左様ならば、物と致しませう。
▲アト「何とする。
▲シテ「近日、夫婦づれで上がりまして、その節、諷ひませう。まづ今日(けふ)は、ご許されませ。
▲アト「これはいかな事。それまでが、何と待たるゝものぢや。それならば、身共が膝を貸さう程に、寝て諷へ。
▲シテ「御勿体ない。御主人の膝を枕にして、何と諷はるゝものでござる。
▲アト「いや、身共ぢやと思はずとも、そちが女共ぢや。と思うて、寝て諷へ。
▲シテ「あの、お前をや。
▲アト「中々。
▲シテ「お前の様な、怖いお顔を、何と私が女共ぢやと思はるゝものでござる。
▲アト「これはいかな事。身共も云ひ掛かつた事ぢやによつて、是非とも聞かねばならぬ。早う諷うて聞かせ。
▲シテ「左様ならば、近頃慮外ながら、お前を私が女共ぢやと存じて、寝て諷ひませうか。
▲アト「その通りぢや。
▲シテ「左様ならば、ご許されませ。
▲アト「苦しうない。これへ寄れ。
{主の傍へ寄り、膝を枕にして、}
▲シテ「あゝ、酔うたり、酔うたり。いやと云ふものを、大盃で三つ。《笑》女共、ちと諷うて聞かせうか。やあ、女共。ちと諷はうかよ。こりや、女共。
{と云ひて、手を上げて主の顔をなでる。主、驚き逃げる。}
▲アト「あゝ、こりや。何とする。
▲シテ「あまりお騒ぎなされまするな。只今のは、私が女共ぢやと存じて、ちと戯(ざ)れついた所でござる。
▲アト「扨々、気味の悪い事ぢやなあ。
▲シテ「かやうに致さねば、声が出ませぬ。
▲アト「是非に及ばぬ。さあさあ、これへ寄つて、諷うて聞かせ。
▲シテ「左様ならば、ご許されませ。
▲アト「許す、許す。
▲シテ「ご許されませ、ご許されませ。
{と云ひて、又主の膝を枕にして、何にても、小謡少し諷ふなり。}
▲アト「良いや、良いや。
▲シテ「不調法を仕(つかまつ)りました。
▲アト「扨々、面白い事であつた。
▲シテ「何のその様にござりませうぞ。
▲アト「その体(てい)ならば、何と、起きてゐても諷はれさうなものぢやなあ。
▲シテ「されば、合点の参らぬ事でござる。
▲アト「この度は、ちと起きて居て諷うて見よ。
▲シテ「いや、起きて居ては、一向声は出ませぬ。
▲アト「その上、謡といふものは、行儀に居て諷ふものぢや。まづこの度は、起きて居て諷うて見よ。
▲シテ「起きて居ては、かつて声は出ませぬが。
▲アト「出いでも苦しうない程に、是非起きて居て諷うて見よ。
▲シテ「是非ともでござるか。
▲アト「中々。
{シテ、起きて諷ふ。声の出ぬ所、しかじか色々仕様あるべし。口伝。}
▲シテ「どうも出ませぬ。
▲アト「出ぬか。
▲シテ「左様でござる。
▲アト「それならば、今度は立つてゐて諷うて見よ。
▲シテ「これはいかな事。座つて居て出ぬ声が、何と立つてゐて出(づ)るものでござる。
▲アト「いやいや、立つて諷うたらば、又出まいものでもない。是非とも、立つてゐて諷うて見よ。
▲シテ「その上、御主人の前で、立ちはだかつて謡を諷ふといふ事は、ついに聞いた事がござりませぬ。
▲アト「それは苦しうない。早う謡うて見よ。
▲シテ「御所望の事ぢやによつて、謡は諷ひませうが、かつて声は出ませぬぞや。
▲アト「出いでも苦しうない。
▲シテ「これは又、迷惑な事ぢや。
{と云ひて、又立ちて諷ふ。声の出ぬ所、色々工夫あるべし。}
あ痛、あ痛。
▲アト「何とした、何とした。
▲シテ「声は出いで、病(やまひ)が出さうでござる。
▲アト「扨々、合点の行かぬ事ぢや。それならば、又身共が膝を貸さう程に、寝て謡へ。
▲シテ「いや、寝ましてならば、何程なりとも謡ひませう。
▲アト「最前のは、あまり短かい。今度は、もそつと長い事を謡うて聞かせ。
▲シテ「畏つてござる。
{と云ひて、又主の膝に寝る。謡、「玉の段」良し。諷ふ内に、主、そつと起こして見る。声出ず。下ろすと諷ふ。段々、上げたり下げたりする内に、取り違へる。上げる時声出し、下げると声出ず。切りの所になり、立ちて舞ふ。主は、脇座へのく。}
▲アト「やい、そこなやつ。
▲シテ「やあ。
▲アト「おのれ、その声はどこから出た。
▲シテ「あゝ、違ひました。
▲アト「あの横着者。やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云ひて、追ひ込み、入るなり。又主、「苦しうない。もそつと諷へ」と云ひて、入る事もあり。その時は、追ひ込みにあらず。}

校訂者注
 1:「素面(すめ)」は、「しらふ」の意。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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寝音曲(ネオンギヨク)(二番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、夜前太郎冠者の部屋の腰を通つて御座れば、高声に謡の声が致して御座る、呼出し様子を尋うと存ずる{ト云て呼出す出るも如常}{*1}汝呼出す別の事でない、夕べ汝はどれへいた▲シテ「さればの事で御座る、夜前は友達共が方へ夜咄に参りまして、夫ゆへお迎には次郎冠者を上げまして御座る▲アト「成程迎には次郎冠者が来た、又帰るさに汝が部屋の前を通つたれば、謡を諷う声がした、あれは汝で有つたか▲シテ「夫は私では御座りませぬ、誰そ余の者の声とお聞き違へ被成たもので御座りませう▲アト「いやいや幼少より召遣う汝が声と、余人の声と聞違う事ではないあり様に云へ▲シテ「何がお耳に入ましたぞ、夫は物で御座る▲アト「物とは▲シテ「唯今も申します通り、夜前は友達共の方へ夜咄に参りまして、したゝかる{*2}御酒にたべ酔ひまして、帰つて子持がひざを枕に致して、訳もない事をひとふしふたふし諷ひましたが、是がなお耳に入つた物で御座りませう▲アト「成程夫であらう、中々面白い事であつた、ちと身共に諷うてきかせ▲シテ「いかないかな、私共の謡ひはお聞き被成るゝやうな謡では御座りませぬ▲アト「いやいや殊の外面白い事であつた程に、是非共諷うて聞かせ▲シテ「其上御酒にでもたべ酔いまして、其の酔ひまぎれにならば諷はれまするが、中々すめで諷はるゝ事では御座りませぬ▲アト「扨は酒を呑ねば謡はれぬか▲シテ「先づ其様なもので御座ります▲アト「夫ならば酒を取つて来て呑ませう程に、しばらく夫にまて▲シテ「いや申し、御酒がたべたければ、私がお台所へ参つて下されまする▲アト「いやいやしばらく夫にまて▲シテ「申し申し、是はいかな事、迷惑な事をいひ出された、今度謡うたらば、今から節々諷へであらう、何とした物で有らう、いや思ひ出した、諷ひやうが御座る{アト葛桶のふた扇ひろげ持出る}▲アト「さあさあ太郎冠者酒を取つて来た▲シテ「是は又御自身御苦労な、御酒がたべたければお台所へ参りまするに▲アト「いやいや謡が所望ぢやに依つて自身持つて来た、さあさあ一ツ呑うで諷うて聞かせ▲シテ「是は例の大盃が出ました▲アト「みぢかうせうと思ふて大盃を取つて来た▲シテ「之で一ツ下されたらば悪うは御座りますまい▲アト「さあさあのめのめ▲シテ「是はお酌慮外で御座る▲アト「苦敷うない{ト云てつぐシテ受て呑む}▲シテ「偖も偖も是は結構な御酒で御座るどの御酒で御座る▲アト「そちに酒の吟味は頼まぬ、早う諷うて聞かせ▲シテ「成程追付諷まする、左様ならば最一ツ下されませう▲アト「何程成共呑うで、早う諷うて聞かせ▲シテ「是は度々{*3}慮外で御座ります▲アト「苦敷うない{シテ又受て笑抔{*4}して{*5}呑なり}▲シテ「偖も偖もたぶればたぶる程よい御酒で御座る、何とお前もちとあがりませぬか▲アト「身共はそちが知る通り下戸ぢや、さあさあ早う諷うて聞せ▲シテ「是は又せわしない事で御座る、夫ならば最一ツ下されませう▲アト「まだ呑むか▲シテ「献がわるう御座る▲アト「過ようぞよ▲シテ「過る程呑まねば諷はれませぬ▲アト「夫ならば最一ツ呑うで必ず{*6}諷へ▲シテ「ちと軽うおつぎ被成ませ▲アト「迚も呑むなら恰度のめ{ト云て又つぐシテこします{*7}こします抔{*8}云て悦笑ふなり}▲シテ「偖も偖も給ぶればたぶる程結構な酒ぢや▲アト「やい太郎冠者▲シテ「やあ▲アト「早う諷はぬかいやい▲シテ「偖々世話しう仰せらるゝ、其様に世話敷う仰せられて諷はるゝ物では御座らぬ、左様ならば最一ツ下されませう▲アト「いや爰な者が、いつ迄其様に呑むものぢや、最早酒をとるぞ{ト云て盃を引取り持ちて入なり}▲シテ「申し申し、是は又お気の短い事で御座る▲アト「さあさあ酒を呑せた程に早う諷うて聞かせ▲シテ「偖御酒は下されましたが、私の謡にはまだ悪いくせが御座りまして、子持が膝を枕にして寝て諷ひますれば声が出まする、起てゐては声が出せぬ▲アト「是はいかな事、酒を呑まねば諷はれぬといふに依つて、酒を呑ますれば又其様な事をいふ、そちが女共を呼びにはやられまい、其様な事をいはず共早う諷うて聞かせ▲シテ「左様ならば物と致しませう▲アト「何とする▲シテ「近日夫婦づれで上がりまして、其節諷ひませう、先づ今日は御ゆるされませ▲アト「是はいかな事、夫迄が何とまたるゝ物ぢや夫ならば身共がひざを貸さう程に寝て諷へ▲シテ「御勿体ない、御主人のひざを枕にして何と諷はるゝ物で御座る▲アト「いや身共ぢやと思はず共、そちが女共ぢやと思ふて寝て諷へ▲シテ「あのお前をや▲アト「中々▲シテ「お前のようなこはいお顔を、何と私が女共ぢやと思はるゝ物で御座る▲アト「是はいかな事、身共もいひ掛かツた事ぢやに依ツて、是非共聞かねばならぬ、早う諷うて聞かせ▲シテ「左様ならば近頃慮外ながら、お前を私が女共ぢやと存じて、寝て諷ひませうか▲アト「其通りぢや▲シテ「左様ならば御ゆるされませ▲アト「苦敷うない是へよれ{主の傍へ寄りひざを枕にして}▲シテ「あゝ酔うたり酔うたり、いやといふ物を大盃で三ツ《笑》{*9}女共ちと諷うて聞かせうか、やあ女共ちと諷はうかよ、こりや女共{ト云て手を上て主の顔をなでる主驚逃げる}▲アト「あゝこりや何とする▲シテ「あまりおさわぎなされまするな、唯今のは私が女共ぢやと存じて、ちとざれついた所で御座る▲アト「偖々気味の悪るい事ぢやなあ▲シテ「斯様に致さねば声が出ませぬ▲アト「是非に及ばぬ、さあさあ是へ寄つて諷うて聞かせ▲シテ「左様ならばごゆるされませ▲アト「ゆるすゆるす▲シテ「御ゆるされませ御ゆるされませ{ト云て又主のひざを枕にして何にても小謡少し{*10}諷ふなり}▲アト「よいやよいや▲シテ「不調法を仕りました▲アト「偖々面白い事であつた▲シテ「何の其様に御座りませうぞ▲アト「其体ならば何と起きてゐても、諷はれそうな物ぢやなあ▲シテ「されば合点の参らぬ事で御座る▲アト「此度はちと起きて居て諷うて見よ▲シテ「いや起きて居ては一向声は出ませぬ▲アト「其上謡といふ物は、行儀に居て諷う物ぢや、先づ此度は起て居て諷うて見よ▲シテ「おきて居ては曽て声は出ませぬが▲アト「出いでも苦敷うない程に是非起て居て諷うて見よ▲シテ「是非共で御座るか▲アト「中々{シテ起て諷ふ声の出ぬ所しかしか色々仕様可有口伝}▲シテ「どうも出ませぬ▲アト「出ぬか▲シテ「左様で御座る▲アト「夫ならば今度は立つてゐて諷うて見よ▲シテ「是はいかな事、すはつて居て出ぬ声が、何と立つてゐて出るもので御座る▲アト「いやいや立つて諷うたらば、又出まい物でもない、是非共立つてゐて諷うて見よ▲シテ「其上御主人の前で、立はだかつて謡を諷うといふ事はついに聞いた事が御座りませぬ▲アト「夫は苦敷うない、早う謡うて見よ▲シテ「御所望の事ぢやに依つて、謡は諷ひませうが、曽て声は出ませぬぞや▲アト「出いでも苦敷うない▲シテ「是は又迷惑な事ぢや{ト云て又立て諷ふ声の出ぬ所色色工夫可有}{*11}あいたあいた▲アト「何とした何とした▲シテ「声は出いで病が出さうで御座る▲アト「偖々合点のゆかぬ事ぢや、夫ならば又身共がひざを貸さう程に寝て謡へ▲シテ「いや寝ましてならば何程成共謡ませう▲アト「最前のはあまりみじかい、今度は最卒つと長い事を謡うて聞かせ▲シテ「畏つて御座る{ト云て又主のひざに寝る謡玉の段よし諷ふ内に主ソツト起して見る声出ず下すと諷ふ段々上たり下たりする内に取違へる上る時声出し下ると声出ず切の所になり立て舞ふ主は脇座へのく}▲アト「やいそこなやつ▲シテ「やあ▲アト「おのれ其声はどこから出た▲シテ「あゝ違ひました▲アト「あの横着者、やるまいぞやるまいぞ{ト云て追込入なり{*12}又主苦敷ない最卒と諷へと云て入る事もあり其時は追込にあらず}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 2:底本は、「したゝる」。
 3:底本は、「毎々(たび(二字以上の繰り返し記号濁点付き))」。
 4・8:底本は、「杯」。
 5:底本は、「笑杯シテ呑なり」。
 6:底本は、「必す」。
 7:底本は、「こしまず(二字以上の繰り返し記号)」。
 9:底本は「笑フ」。但し、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
 10:底本は、「少 (一字分印刷カスレ)」。
 11:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
 12:底本は、「ト云て追入なり」。