樋の酒(ひのさけ)(二番目 三番目)
▲アト「この辺りの者でござる。用事あつて、山一つあなたへ参る。両人の者を呼び出し、留守の義を申し付けうと存ずる。
{と云ひて、呼ぶ。出る。常の如し。}
汝等呼び出す、別の事でない。用事あつて、山一つあなたへ行く程に、両人とも、よう留守をせい。
▲シテ「畏つてはござれども、両人の内一人は、なあ、次郎冠者。
▲小アト「おゝおゝ。
▲二人「お供に参りませう。
▲アト「いやいや、今日(けふ)は、供はいらぬ。則ち、太郎冠者には米蔵を預くる。又、次郎冠者には酒蔵を預くる。両人ともに、蔵を離れずに、よう番をせい。
▲シテ「その段は、そつともお気遣ひなされますな。
▲アト「やがて戻らう。
▲シテ「やがてお帰りなされませ。
▲アト「心得た。
▲シテ「出られた。
▲小アト「お出あつた。
▲シテ「扨、何と思ふ。頼うだお方の余所(よそ)へお出なさるゝ時、身共がお供に行けば、汝がお留守をする。又、そちが御供に行けば、身共がお留主をするに、両人一緒にお留守をするといふは、珍しい事ぢや。
▲小アト「いづれ、今日(けふ)は珍しい事ぢや。
▲シテ「されども、蔵の番を云ひ付けられて、両人ともに、蔵の内を離るゝ事がならねば、一緒に話さう様がない。
▲小アト「いや、それこそ、窓から互にのぞき合うて話さう。
▲シテ「これは、一段と良からう。扨、追つ付け蔵の内へ行かうぞ。
▲小アト「某(それがし)も、土蔵(くら)の内へ入るぞ。
▲シテ「扨も、久しう見ぬ間に、米がしたゝか詰まつた。
▲小アト「これは、いつ入(はい)つても、良い香(にほ)ひぢや。
▲シテ「やいやい、次郎冠者。
▲小アト「何事ぢや。
▲シテ「そちは酒蔵を預かつて、けなりい事ぢや。
▲小アト「いか様、米といふ物は宝の第一ぢやが、急な間には合はぬものぢや。酒は、いつ呑まうとも儘な物ぢや。
▲シテ「けなりや、けなりや。さりながら、米もこれ程沢山にある内を、少々取つたと云うても知れまいによつて、宿にいらば、ちとのけてやらうぞ。
▲小アト「それは誠か。
▲シテ「おゝ扨、誠ぢや。
▲小アト「それは過分な。必ず頼む程に、忘るなよ。
▲シテ「心得た。
▲小アト「いかう淋しい。一盃呑まう。どの酒が良からうぞ。この渋紙で覆(お)ひのしたのにせう。むりむりむり。良い香ひぢや。さらば、一つ呑まう。扨も、良い酒ぢや。も一つ呑まう。
▲シテ「いかう淋しい。次郎冠者は、何をしてゐるぞ。これはいかな事。やいやい、早(はや)呑むか。
▲小アト「太郎冠者、けなりいか。
▲シテ「身共に見せて置いて、心強い。よう呑むぞ。
▲小アト「呑みたくば、こゝへ来い。
▲シテ「どうも、預かつた蔵が空(あ)けられぬ。
▲小アト「どうぞ呑ませたいが。思ひ出した事がある。こゝに樋がある。これをこの窓からその米蔵の窓まで渡して、こちらから酒をつがう程に、おぬしはそちで呑め。
▲シテ「これは尤ぢや。それならば、早うついでくれい。
▲小アト「心得た。樋の口を、お主が口へ指し付けて居よ。さらば、酒をつぐぞ。
▲シテ「早うついでくれい。
▲小アト「そりやそりや。行くか、行くか。
▲シテ「おゝ、来るぞ、来るぞ。
▲小アト「何と、身共が分別を見ておけ。
▲シテ「あゝ、重畳の事を思ひ出したなあ。
▲アト「又つぐぞ。
▲シテ「つげ、つげ。
▲小アト「そりやそりや。
▲シテ「むゝ。いきどしい。静かについでくれい。
▲小アト「心得た、心得た。
▲シテ「呑めば呑む程、旨(むま)い事ぢや。さりながら、いかにというても窮屈な。頼うだ人の帰らるゝまでは、まだ余程間があらう。一向その蔵へ行(い)て呑まう。
▲小アト「これは良からう。こちへ来い。樋も仕舞はう。
▲シテ「しまへ、しまへ。扨も扨も、久々で酒蔵へ入(はい)つたが、夥しい酒を造り込うで置かれたなあ。
▲小アト「何と、夥しい事か。
▲シテ「さらば、そなたにも汲んで呑ませう。
▲小アト「身共にも呑ませてくれい。
▲シテ「ちと諷(うた)はうか。
▲小アト「一段と良からう。
▲シテ「扨、したゝか呑うだが、壺や桶の酒が少しも減らぬ。
▲小アト「減りもせうけれども、とかく沢山にある内ぢやによつて、減らぬ様な。
▲シテ「いや、頼うだ人が有徳なによつて、正真(しやうしん)の泉といふは、この酒の事ぢや。
▲小アト「いやましに湧き出(づ)る酒ぢや。
▲シテ「いざ、この通りを舞はう程に、諷はしめ。
▲小アト「心得た。
▲シテ「{*1}よも尽きじ、よも尽きじ。
▲二人「薬の水も泉なれば、汲めども汲めども、いやましに出る菊水を、呑めば甘露もかくやらんと、心も晴れやかに、飛び立つばかり有明(ありやけ)の夜と昼となき楽しみの、栄花にも栄耀(えゝう)にも、げにこの上やあるべき。
▲アト「只今帰つてござる。定めて両人の者が待ち兼ねて居よう。と存ずる。これはいかな事。米蔵の内に人が居ぬ。さればこそ酒蔵に、両人酒盛りをして居をる。扨々、憎いやつかな。やいやい、戻つたぞ、戻つたぞ。
▲二人「そりやあ、お帰りなされた。
▲アト「扨々、腹の立つ事かな。やいやいやい、そこなやつ。
▲小アト「あゝ、ご許されませ、ご許されませ。
▲アト「やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「あゝ、ご許されませ。
▲アト「何の、ご許されませ。
▲シテ「許させられい、許させられい。
▲アト「憎いやつの。
▲シテ「まづ、待たせられい。泉の壺でござるによつて、汲めども呑めども、尽きる事ではござらぬ。
▲アト「まだそのつれをぬかし居る。あの横着者、やるまいぞ、やるまいぞ。
校訂者注
1:底本、ここから「ゑよふにも実この上や有べき」まで、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
樋の酒(ヒノサケ)(二番目 三番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、用事有つて山一つあなたへ参る、両人の者を呼び出し、留守の義を申し付けうと存ずる{ト云て呼出る如常}{*1}汝等呼出す別の事でない、用事有つて山一つあなたへ行程に、両人共よう留守をせい▲シテ「畏つては御座れども、両人の内一人はなあ次郎冠者▲小アト「おふおふ▲二人「お供に参りませう▲アト「いやいやけふは供はいらぬ、則ち太郎冠者には米蔵を預くる、又次郎冠者には酒蔵を預くる、両人共に蔵を放れずによう番をせい▲シテ「其段はそつとも{*2}お気遣被成ますな▲アト「頓て戻らう▲シテ「頓てお帰り被成ませ▲アト「心得た▲シテ「出られた▲小アト「お出あつた▲シテ「偖何と思ふ、頼うだお方の余所へお出なさるゝ時、身共がお供に行けば汝が{*3}お留守をする、又そちが御供にゆけば身共{*4}がお留主をするに、両人一所にお留守をするといふは珍敷い事ぢや▲小アト「いづれけふは珍ら敷い事ぢや▲シテ「去れ共蔵の番を云ひ付けられて、両人共に蔵の内を離るゝ事がならねば、一所に咄さう様がない▲小アト「いや夫こそ窓からたがいにのぞき合うて咄さう▲シテ「是は一段とよからう、偖追付蔵の内へ行うぞ▲小アト「某も土蔵の内へはいるぞ▲シテ「偖も久敷う見ぬまに米がしたゝか詰つた▲小アト「是はいつ這入つてもよい香ひぢや▲シテ「やいやい次郎冠者▲小アト「何事ぢや▲シテ「そちは酒蔵を預かつてけなりい事ぢや▲小アト「いか様米と云ふ物は、宝の第一ぢやが急な間には合はぬものぢや、酒はいつ呑まうとも儘な物ぢや▲シテ「けなりやけなりや、乍去米も是程沢山にある内を、少々取つたと云ふてもしれまいに依つて、宿にいらばちとのけてやらうぞ▲小アト「夫は誠か▲シテ「おゝ偖誠ぢや▲小アト「夫は過分な、必ず頼む程に忘るなよ▲シテ「心得た▲小アト「いかう淋敷い一盃呑まう、どの酒がよからうぞ、此渋紙でおひのしたのにせう、むりむりむり、よい香ぢや、さらば一つ呑まう、偖もよい酒ぢや最一つ呑まう▲シテ「いかう淋敷い、次郎冠者は何をしてゐるぞ、是はいかな事、やいやい、早呑むか▲小アト「太郎冠者けなりいか▲シテ「身共に見せて置いて心強いよう呑むぞ▲小アト「呑度ば爰へこい▲シテ「どうも預かつた蔵が明けられぬ▲小アト「どうぞ呑ませたいが、思ひ出した事がある、爰に樋が有る、之を此窓から其米蔵の窓迄渡して、こちらから酒をつがう程に、おぬしはそちでのめ▲シテ「是は尤ぢや、夫ならば早うついで呉れい▲小アト「心得た、樋の口をお主が口へ指し付けて居よ、さらば酒をつぐぞ▲シテ「早うついで呉れい▲小アト「そりやそりや行くかゆくか▲シテ「をゝくるぞくるぞ▲小アト「何と身共が分別を見ておけ▲シテ「あゝ重畳の事を思ひ出したなあ▲アト「又つぐぞ▲シテ「つげつげ▲小アト「そりやそりや▲シテ「むゝいきどしい静についで呉れい▲小アト「心得た心得た▲シテ「呑めばのむ程むまい事ぢや、去ながらいかにといふても窮屈な、頼うだ人の帰らるゝ迄はまだ余程間が有らう、一向其蔵へいて呑まう▲小アト「是はよからうこちへこい、樋も仕舞はう▲シテ「しまへしまへ、偖も偖も久々で酒蔵へ這入つたが、夥敷しい酒を造り込うで置かれたなあ▲小アト「何と夥しい事か▲シテ「さらばそなたにも汲んでのませう▲小アト「身共にも呑ませて呉れい▲シテ「ちと諷はうか▲小アト「一段とよからう▲シテ「偖したゝかのうだが、壺や桶の酒が少しもへらぬ▲小アト「減りもせうけれども、兎角沢山に有る内ぢやに依つてへらぬような▲シテ「いや頼うだ人が有徳なに依つて、正真{*5}の泉と云ふは此酒の事ぢや▲小アト「弥増に湧き出る酒ぢや▲シテ「いざ此通りを舞はう程に諷はしめ▲小アト「心得た▲シテ「よもつきじよもつきじ▲二人「薬の水も泉なれば、汲めども汲めども弥増に出る菊水を、呑めば甘露もかくやらんと心も晴やかに、飛立ばかりありやけの夜と昼となきたのしみの、栄花にもゑよふにも実此上や有べき▲アト「唯今帰つて御座る、定めて両人の者が待兼て居ようと存ずる、是はいかな事、米蔵の内に人が居ぬ、去ればこそ酒蔵に両人酒盛{*6}をして居をる、偖て偖て憎いやつかな、やいやい戻つたぞ戻つたぞ▲二人「そりやあお帰り被成た▲アト「偖々腹の立つ事かな、やいやいやいそこなやつ▲小アト「あゝごゆるされませごゆるされませ▲アト「やいやいやいそこなやつ▲シテ「あゝごゆるされませ▲アト「何の御ゆるされませ▲シテ「ゆるさせられいゆるさせられい▲アト「憎いやつの▲シテ「先づまたせられい、泉の壺で御座るに依つて、汲め共呑め共つきる事では御座らぬ▲アト「まだ其つれをぬかし居る、あの横着者やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
2:底本は、「些(そつ)とも」。
3:底本は、「汝か」。
4:底本は、「身供」。
5:底本は、「正身(しやうしん)」。
6:底本は、「酒宴(さかもり)」。
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