棒縛(ぼうしばり)(二番目 三番目)

▲アト「この辺りの者でござる。いつも某(それがし)が留守になれば、両人の者が酒を盗んで呑む。と申す。今日(けふ)も、山一つあなたへ参るによつて、きつと思案を致してござる。まづ、次郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて、小アトを呼び出す。常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。常々、太郎冠者が不奉公(ぶほうこう)をするによつて、縛つて置かう。と思ふが、何とあらう。
▲小アト「いか様(やう)の事でござるかは存じませねども、私が内証で意見を致しませう程に、まづこの度は、ご許されて下されませ。
▲アト「いやいや、気遣ひするな。懲らしめのため、暫く縛つて置かう。と思ふ。
▲小アト「左様ならば、ともかくもでござる。
▲アト「さりながら、きやつはつゝと心得た者ぢやによつて、聊爾には縛られまい。何としたものであらう。
▲小アト「されば、何とが良うござりませうぞ。
▲アト「何とが良からうなあ。
▲小アト「いや、きやつはこの中(ぢゆう)、棒を稽古致しまする。その棒の手の中に、と、かやうに致す手がござる{*1}。それを、お前と私と左右から、棒縛りに致しませうか。
▲アト「これは一段と良からう。まづ、この縄を持つてゐよ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「太郎冠者を呼べ。
▲小アト「心得ました。太郎冠者、召すわ。
▲シテ「何ぢや、召すと云ふか。
▲小アト「早うお出やれ。
▲シテ「心得た。太郎冠者、お前に。
▲アト「汝呼び出す、別の事ではない。聞けば、汝は棒を稽古するげな。ちと、使うて見せい。
▲シテ「これは、存じも寄らぬ事を承ります。私はつひに、棒を稽古致した事はござりませぬ。
▲小アト「これこれ、隠さしますな。あなたには、よう御存じぢや。
▲シテ「はあ、扨は、汝が申し上げたな。
▲アト「いやいや、あれは云はねども、身共がよう知つてゐる程に、遣うて見せい。
▲シテ「御存じの上は、隠しませう様はござらぬ。嗜みのため、ひと手ふた手、稽古致いてござる。追つ付け、遣うてお目にかけませう。
▲アト「早う遣へ。
▲シテ「畏つてござる。
▲小アト「早う遣はしめ。
▲シテ「心得た。
{と云ひて、太鼓座より、棒持ち出て、}
惣じて、棒の手は様々ござれども、私の習ひましたは、かやうに致すに早い利がござる。向かうから討つて参るを、と、撥(は)ね上げます{*2}。突く手もござり、引く所を付け入りに致す。討つて参るを、やあやあやあ。まづ、かやうでござる。
▲アト「出来た。
▲シテ「扨、夜道などを通りますには、提(さ)げまするか、担(かた)げまするが、たいていでござる。私が習ひましたは、かやうに致すに早い利がござる。闇の夜に人違(たが)へなどで、後ろから、覚えたか。と申して切り付けまするを、やあ。まづこれで、一過(いつくわ){*3}は遁れまする。さて、左から討つて参るを、やあ。
▲アト「こりや、何とする。
▲シテ「何と、寄れますまいが。
▲アト「いかないかな、寄られぬ。
▲シテ「右から討つて参るを、やあ。
▲小アト「こりや、何とする。
▲シテ「何と、寄られまいが。
▲小アト「いかないかな、寄られぬ。
▲シテ「左右から進んで参るを、やあやあやあ。
▲二人「捕つたぞ。
{と云ひて、二人立ち寄り、棒縛りにするなり。}
▲シテ「これは、何となされまする。
▲アト「何とするとは、覚えがあらう。
▲シテ「何も覚えはござらぬ。
▲アト「次郎冠者、きつと縛れ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「さうして居をらう。
▲シテ「これは、迷惑な事ぢや。
▲小アト「あゝ、良い形(なり)の。とても縛らるゝものならば、かう縛られたが良い。
▲アト「捕つたぞ。
{と云ひて、又、後手(うしろで)に縛る。}
▲小アト「これは、何となされまする。
▲アト「何とゝは、覚えがあらう。
▲小アト「何も覚えはござりませぬ。
▲シテ「やつと参つたの。きつとお縛りなされませ。
▲アト「さうして居をれ。
▲シテ「申し申し。両人ともこの様になさるゝは、どうした事でござる。
▲アト「不審、尤ぢや。いつも身共が留守になれば、両人の者が酒を盗んで呑む。と聞いた。今日(けふ)も、用事あつて山一つ彼方(あなた)へ行く。追つ付け戻つて、解いてとらせうぞ。
▲シテ「でも、これではお留守がなりませぬ。
▲アト「追つ付け戻つて、解いてとらせう。
▲二人「申し申し。
▲シテ「出られた。
▲小アト「お出あつた。
▲シテ「あゝ。常々、そちが酒を盗んで呑むによつて、この様な事ぢや。
▲小アト「何を云ふ。常々、汝が酒を盗んで呑むによつて、咎(とが)もない身共までが、この様に縛られた。
▲シテ「と云うても、身から出した錆ぢや。しよう事がない。
▲小アト「その通りぢや。
▲シテ「扨、何と思ふ。この様に縛られて居ても、ひとしほ酒が呑みたいなあ。
▲小アト「何(いづ)れ、ひとしほ酒が呑みたい。
▲シテ「呑む事はならずとも、酒蔵へ行(い)て、酒の匂ひなりとも、嗅がうではあるまいか。
▲小アト「これは、一段と良からう。
▲シテ「さあさあ、来い来い。
▲小アト「心得た。
▲シテ「扨、この様な事を、誰(た)が申し上げたであらうなあ。
▲小アト「何(いづ)れ、誰が申し上げたであらうぞ。
▲シテ「定めて意地の悪い者が、申し上げたであらう。
▲小アト「その通りぢや。
▲シテ「いや、何かと云ふ内に、酒蔵ぢや。
▲小アト「誠に、酒蔵ぢや。
▲シテ「まづ、戸をあけう。
▲小アト「あくかよ。
▲シテ「まづ、開けて見よう。
▲小アト「一段と良からう。
{と云ひて、シテ、正面向かうへ出て、戸をあくる仕方あり。}
▲シテ「びん。
▲小アト「出来た。
▲シテ「ぎい。
▲小アト「をゝ。あくわ、あくわ。
▲シテ「ぐわらぐわらぐわら。さあ、あいた。
▲小アト「誠に、あいた。
▲シテ「さあさあ。入(はい)れ、入(はい)れ。
▲小アト「心得た。
{と云ひて、二人、蔵の内へ入(はい)る心。}
▲シテ「何と夥(おびたゞ)しい酒壺ではないか。
▲小アト「何(いづ)れ、夥しい酒壺ぢや。
▲シテ「扨、これは、どれが良からう。
▲小アト「あの渋紙で覆(お)ひのしたのが良からう。
▲シテ「まづ、ふたを取らう。
▲小アト「取れるかよ。
▲シテ「まづ、取つて見よう。むりむりむり。さあ、取れた。
▲小アト「誠に、取れた。
▲シテ「さあさあ。これへ寄つて、嗅げ、嗅げ。
▲小アト「心得た。
{と云ひて、二人、立ち寄り嗅ぐ。}
▲シテ「むゝ。旨い匂ひがするわ。
▲小アト「その通りぢや。
▲シテ「匂ひを嗅がぬ内は、その様にもなかつたが、匂ひを嗅いだれば、虫が取りのぼせて、どうも堪忍がならぬ。どうぞ一つ呑みたいなあ。
▲小アト「何(いづ)れ、一つ呑うだらば良からう。
▲シテ「いや、良い仕様があるわ。
▲小アト「何とする。
▲シテ「暫くそれに待て。
▲小アト「心得た。
{シテ、葛桶のふたを持ちて出て、}
▲シテ「こりやこりや。これで汲むわ。
▲小アト「汲めるかよ。
▲シテ「まづ汲んで見よう。さあ、汲んだわ。
▲小アト「誠に、汲めた。
▲シテ「扨、汝と云いたけれども、まづ身共から呑まう。
▲小アト「をゝをゝ、お呑みあれ。
{と云ひて、シテ、呑まうとすれども、呑まれず。色々とする所、工夫あるべし。}
▲シテ「これは、呑まれぬ。
▲小アト「何ぢや、呑めぬか。
▲シテ「中々。
▲小アト「それならば、身共に呑ませてくれい。
▲シテ「汝に呑ませてやらうぞ。
▲小アト「静かに、静かに。
▲シテ「こぼすな、こぼすな。
{と互に云ひて、小アトに呑ます。小アト、片膝つき、盃へ口をさしつけ、}
▲小アト「扨も扨も、良い酒ぢや。
▲シテ「何と、良い酒か。
▲小アト「殊の外、良い酒ぢや。
▲シテ「どうぞ、一つ呑みたいものぢやが。
{と云ひて汲みて、}
も一度、呑うで見よう。
▲小アト「一段と良からう。
{又、以前の如く呑めども、呑まれぬなり。}
▲シテ「これは、どうも呑まれぬ。
▲小アト「それならば、又身共に呑ませてくれい。
▲シテ「又、汝呑むか。
▲小アト「静かに、静かに。
▲シテ「こぼすな、こぼすな。
▲小アト「呑めば呑む程、良い酒ぢや。
▲シテ「あゝ、羨ましい。どうぞ、身共も一つ呑みたい事ぢや。
{と云ひて、又汲みに行く内、小アト、}
▲小アト「どうぞ、そちにも一つ呑ませてやりたいものぢや。
{と云ひて、後ろを向く。}
▲シテ「いや、良い仕様がある。
▲小アト「何とするぞ。
▲シテ「そちら向け。
▲小アト「かうか。
▲シテ「さあさあ、これを持て。
▲小アト「これは、良い分別ぢや。
▲シテ「かうして呑めば、何程でも呑める。
▲小アト「その通りぢや。
▲シテ「静かに、静かに。
▲小アト「こぼすな、こぼすな。
{と云ひて、盃へ口をさし寄せて呑む。}
▲シテ「扨も扨も、良い酒ぢや。
▲小アト「何と、良い酒であらうが。
▲シテ「こりや、も一つ呑まう程に、又持つてくれい。
▲小アト「幾度なりとも、持つてやらう。
▲シテ「静かに、静かに。
▲小アト「こぼすな、こぼすな。
▲シテ「呑めば呑む程、良い酒ぢや。ちと諷(うた)はう。
▲小アト「一段と良からう。
{と云ひて、小謡あり。}
▲シテ「扨、一つ受け持つた。さあさあ、ひとさしお舞(ま)やれ。
▲小アト「この様に縛られてゐて、何と舞が舞はるゝものぢや。
▲シテ「はて、それが面白い。平(ひら)にひとさしお舞(ま)やれ。
▲小アト「それならば舞はう程に、地を謡うておくれあれ。
▲シテ「心得た。
{小アト、舞ふ。「七つ子」良し。}
▲シテ「良いや、良いや。
▲小アト「不調法をした。
▲シテ「中々、面白かつた。
{小アト、又、小謡あり。}
▲小アト「さあさあ、そなたもひとさしお舞ひあれ。
▲シテ「この取り広げた形(なり)で、何と舞が舞はるゝものぢや。
▲小アト「はて、それが面白い。平(ひら)にお舞(ま)やれ。
▲シテ「それならば舞はう程に、地を謡うておくれあれ。
▲小アト「心得た。
{シテ、舞ふ。「暁の明星」良し。小アト、褒める。又、シテ、小謡諷ふ。「兵(つはもの)」良し。この内、アト出る。}
▲アト「やうやう、只今帰つてござる。さぞ両人の者が、待ち兼ねてゐるでござらう。これはいかな事。あれ程縛つて置いても、まだ酒を呑みをる。扨々、腹の立つ事かな。
{と云ひて、二人の後ろの方の真ん中に立ちて居るなり。}
▲シテ「何と思ふぞ。この様に縛られてゐても、酒を呑むといふは、兵(つはもの)ではないか。
▲小アト「何(いづ)れ、兵(つはもの)ぢや。
▲シテ「やい、次郎冠者。
▲小アト「何事ぢや。
▲シテ「頼うだ人が、この様に縛つて置いても酒を呑むか、呑むか。と思はるゝやら、頼うだ人の執心が、この盃の中へ映る。
▲小アト「何を、訳もない事を云ふぞいやい。
▲シテ「いやいや、これへ寄つて見よ。
▲小アト「どれどれ。何もないぞよ。
▲シテ「たつた今まであつたが。
{と云ふ時、主、そつと覗いて見ると、}
ありやありや、出たわ、出たわ。
▲小アト「誠に、出たわ、出たわ。
▲シテ「憎々しい顔ぢやなあ。
▲シテ「何(いづ)れ、吝(しわ)さうな顔ぢや。
▲シテ「この体(てい)を、謡に作つて謡はうと思ふが、何とあらう。
▲小アト「これは、一段と良からう。
▲シテ「汝も謡へ。
▲小アト「心得た。
▲シテ「{*4}嬉しや、こゝに酒あり。
▲小アト「主はひとり。
▲シテ「影はふたり。
▲二人「みつしほの夜の盃に主をのせて、主とも思はぬ、うちの者かな。
{この謡の内に、主、シテ柱の方へのきて、右の肩をぬぐ。}
▲アト「扨も扨も、腹の立つ事かな。がつきめ、がつきめ。
▲二人「あゝ、ご許されませ、ご許されませ。
▲アト「憎いやつの。
{と云ひて、小アトを追ひ込む内に、}
▲シテ「こりや、身共ひとりになつた。何とせうぞ。
▲アト「やいやいやい、そこなやつ。
{と云ふ時、「やあやあやあ」と三度、主を棒にて打ち込む。主、後ろへ引き、三度目に引つぱづして、後ろへ廻り、追ひ込み入るなり。}

校訂者注
 1:本来であれば、ト書きで{ここで小アト、棒の技を真似る仕様をして、}などとあるべき所であろう。
 2:本来であれば、ト書きで{ここでシテ、棒の技を見せながら、}などとあるべき所であろう。
 3:「一過(いつくわ)」は、「いっとき」の意。
 4:底本、ここから「主共思はぬ内の者かな」まで、傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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棒縛(ボウシバリ)(二番目 三番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、毎も某が留守になれば、両人の者が酒を盗んで呑むと申す、今日も山一ツあなたへ参るに依つて、屹度思案を致して御座る、先づ次郎冠者を呼出し、申し付くる事が御座る{ト云て小アトを呼出如常}{*1}汝呼出す別の事でない、常々太郎冠者が不奉公をするに依つて、しばつて置かうと思ふが何と有らう▲小アト「いか様の事で御座るかは存じませね共、私が内証で意見を致しませう程に、先づ此度はごゆるされて下されませ▲アト「いやいや気遣ひするな、こらしめのためしばらくしばつて置かうと思ふ▲小アト「左様ならば兎も角もで御座る▲アト「去ながら、きやつはつツと心得た者ぢやに依つて、りやうじにはしばられまい、何とした物で有らう▲小アト「されば何とがよう御座りませうぞ▲アト「何とがよからうなあ{*2}▲小アト「いやきやつは此中棒を稽古致しまする、其棒の手の中に、と{*3}斯様に致す手が御座る、夫をお前と私と左右から棒縛に致しませうか▲アト「是は一段とよからう、先づ此縄を持つてゐよ▲小アト「畏つて御座る▲アト「太郎冠者を呼べ▲小アト「心得ました、太郎冠者召すは▲シテ「何ぢやめすといふか▲小アト「早うお出やれ▲シテ「心得た、太郎冠者お前に▲アト「汝呼出す別の事ではない、聞けば汝は棒を稽古するげな、ちとつかうて見せい▲シテ「是は存じもよらぬ事を承ります、私はついに棒を稽古致した事は御座りませぬ▲小アト「是々かくさしますな、あなたにはよう御存ぢや▲シテ「はあ扨は汝が申し上げたな▲アト「いやいやあれは云はね共、身共がよう知つてゐる程に遣うて見せい▲シテ「御存じの上は隠しませう様は御座らぬ、たしなみのため一ト手二タ手稽古致いて御座る、追付け遣うてお目にかけませう▲アト「早うつかへ▲シテ「畏つて御座る▲小アト「早う遣はしめ▲シテ「心得た{ト云て太鼓座より棒持ち出て}{*4}惣じて棒の手は様々御座れ共、私の習ひましたは斯様に致すに早い利が御座る、向うから討つて参るを、とはねあげます{*5}、突く手も御座り、引く所をつけ入に致す、討つて参るを、やあやあやあ{*6}、先づ斯様で御座る▲アト「出来た▲シテ「扨夜道などを通りますには、提げまするか、かたげまするがたいていで御座る、私が習ひましたは斯様に致すに早い利が御座る、闇の夜に人たがへ抔{*7}で、うしろから覚たかと申して切り付けまするを、やあ、先づ是で一ツくわは遁れまする、さて左から討つて参るを、やあ▲アト「こりや何とする▲シテ「何と寄れますまいが▲アト「いかないかなよられぬ▲シテ「右から討つて参るを、やあ▲小アト「こりや何とする▲シテ「何とよられまいが▲小アト「いかないかなよられぬ▲シテ「左右からすゝんで参るを、やあやあやあ▲二人「捕つたぞ{ト云て二人立寄り棒しばりにするなり}▲シテ「是は何となされまする▲アト「何とするとは覚が有らう▲シテ「何も覚は御座らぬ▲アト「次郎冠者屹度しばれ▲小アト「畏つて御座る▲アト「さうして居おらう▲シテ「是は迷惑な事ぢや▲小アト「あゝよいなりの、迚も縛らるゝ物ならば、かう縛られたがよい▲アト「とつたぞ{ト云て又後手に縛る}▲小アト「是は何となされまする▲アト「何ととは覚へが有らう▲小アト「何も覚へは御座りませぬ▲シテ「やつと参つたの、屹度お縛り被成ませ▲アト「さうして居おれ▲シテ「申し申し、両人共此様に被成るゝはどうした事で御座る▲アト「不審尤ぢや、毎も身共が留守になれば、両人の者が酒を盗んで呑むと聞た、けふも用事有つて山一つ彼方へゆく、追付け戻つて解てとらせうぞ▲シテ「でも是ではお留守がなりませぬ▲アト「追付け戻つてといてとらせう▲二人「申し申し▲シテ「出られた▲小アト「お出あつた▲シテ「あゝ常々そちが酒を盗んで呑むに依つて此様な事ぢや▲小アト「何をいふ、常々汝が酒を盗んで呑むに依つて、とがもない身共迄が此様に縛られた▲シテ「といふても身から出したさびぢやしよう事がない▲小アト「其通りぢや▲シテ「扨何と思ふ、此様に縛られて居ても、一入酒が呑みたいなあ▲小アト「何れ一入酒が呑みたい▲シテ「呑む事はならずとも、酒蔵へいて酒の匂ひなりとも、かごうでは有るまいか▲小アト「是は一段とよからう▲シテ「さあさあこいこい▲小アト「心得た▲シテ「扨此様な事を誰が申し上げたであらうなあ▲小アト「何れ誰が申し上げたで有らうぞ▲シテ「定めて意地のわるい者が申し上げたで有らう▲小アト「其通りぢや▲シテ「いや何彼といふ内に酒蔵ぢや▲小アト「誠に酒蔵ぢや▲シテ「先づ戸をあけう▲小アト「あくかよ▲シテ「先づ開けて見よう▲小アト「一段とよからう{ト云てシテ正面向ふへ出て戸をあくる仕方あり}▲シテ「びん▲小アト「出来た▲シテ「ぎい▲小アト「をゝあくはあくは▲シテ「ぐわらぐわらぐわら、さああいた▲小アト「誠にあいた▲シテ「さあさあ這入れ這入れ▲小アト「心得た{ト云て二人蔵の内へ這入心}▲シテ「何とおびたゞしい酒壺ではないか▲小アト「何れおびたゞしい酒壺ぢや▲シテ「扨是はどれがよからう▲小アト「あの渋紙でおいのしたのがよからう▲シテ「先づふたをとらう▲小アト「とれるかよ▲シテ「先づ取つて見よう、むりむりむり、さあとれた▲小アト「誠にとれた▲シテ「さあさあ是へよつて嗅げ嗅げ▲小アト「心得た{ト云て二人立寄り嗅ぐ}▲シテ「むゝうまい匂ひがするわ▲小アト「其通りぢや▲シテ「匂ひをかゞぬ内は其様にもなかつたが、匂ひをかいだれば{*8}虫が取のぼせてどうも堪忍がならぬ、どうぞ一つ呑みたいなあ▲小アト「何れ一つのうだらばよからう▲シテ「いやよい仕様があるは▲小アト「何とする▲シテ「しばらく夫にまて▲小アト「心得た{シテ葛桶のふたを持て出て}▲シテ「こりやこりや、之でくむは▲小アト「くめるかよ▲シテ「先づ汲んで見よう、さあくんだわ▲小アト「誠にくめた▲シテ「扨汝といゝたけれども、先づ身共から呑まう▲小アト「をゝをゝお呑みあれ{ト云てシテ呑うとすれ共呑まれず色々とする所工夫あるべし}▲シテ「是はのまれぬ▲小アト「何ぢや呑めぬか▲シテ「中々▲小アト「夫ならば身共にのませてくれい▲シテ「汝にのませてやらうぞ▲小アト「しづかにしづかに▲シテ「こぼすなこぼすな{ト互に云て小アトに呑ます小アト片ひざつき盃へ口をさしつけ}▲小アト「扨も扨もよい酒ぢや▲シテ「何とよい酒か▲小アト「殊の外よい酒ぢや▲シテ「どうぞ一つ呑みたい物ぢやが{ト云て汲て}最一度呑うで見よう▲小アト「一段とよからう{又以前の如呑めども{*9}呑れぬなり}▲シテ「是はどうも呑まれぬ▲小アト「夫ならば又身共にのませてくれい▲シテ「又汝呑むか▲小アト「しづかにしづかに▲シテ「こぼすなこぼすな▲小アト「のめばのむ程よい酒ぢや▲シテ「あゝ羨ましひどうぞ身共も一つ呑みたい事ぢや{ト云て又汲に行く内小アト}▲小アト「どうぞそちにも一つのませてやりたい物ぢや{ト云て後を向く{*10}}▲シテ「いやよい仕様がある▲小アト「何とするぞ▲シテ「そちらむけ▲小アト「かうか▲シテ「さあさあ之をもて▲小アト「是はよい分別ぢや▲シテ「かうしてのめば何程でものめる▲小アト「其通りぢや▲シテ「しづかにしづかに▲小アト「こぼすなこぼすな{ト云て盃へ口をさしよせて呑む}▲シテ「扨も扨もよい酒ぢや▲小アト「何とよい酒で有らうが▲シテ「こりや最一つ呑まうほどに又持つてくれい▲小アト「幾度成共持つてやらう▲シテ「しづかにしづかに▲小アト「こぼすなこぼすな▲シテ「のめば呑むほどよい酒ぢや、ちと諷はう▲小アト「一段とよからう{ト云て小謡有}▲シテ「扨一つ請持つた、さあさあひとさしおまやれ▲小アト「此様にしばられてゐて、何と舞がまはるゝ物ぢや▲シテ「果て夫が面白い、ひらに一トさしおまやれ▲小アト「夫ならば舞はう程に、地を謡うておくれあれ▲シテ「心得た{小アト舞七ツ子吉}▲シテ「よいやよいや▲小アト「不調法をした▲シテ「中々面白かつた{小アト亦小謡あり}▲小アト「さあさあそなたも一トさしお舞あれ▲シテ「此取ひろげたなりで何と舞がまわるゝ物ぢや▲小アト「果て夫が面白いひらにおまやれ▲シテ「夫ならば舞はうほどに地を謡うておくれあれ▲小アト「心得た{シテ舞暁月の明星よし小アトほめる又シテ小謡諷ウツワモノ吉此内アト出る}▲アト「漸々唯今帰つて御座る、嘸両人の者が待兼てゐるで御座らう、是はいかな事、あれ程縛つて置いてもまだ酒を呑みをる、扨々腹の立つ事かな{ト云て二人の後の方の真中に立て居なり}▲シテ「何と思ふぞ、此様にしばられてゐても、酒を呑むといふは兵ではないか▲小アト「何れつはものぢや▲シテ「やい次郎冠者▲小アト「何事ぢや▲シテ「頼うだ人が此様にしばつておいても、酒を呑むか呑むかと思はるゝやら、頼うだ人の執心が、此盃の中へうつる▲小アト「何を訳もない事をいふぞいやい▲シテ「いやいや是へよつて見よ▲小アト「どれどれ、何もないぞよ▲シテ「たつた今まであつたが{ト云時主ソツとのぞいて見ると}{*11}ありやありや出たは出たは▲小アト「誠に出たわ出たわ▲シテ「憎々しい顔ぢやなあ▲シテ「何れ吝さうな顔ぢや▲シテ「此体を謡に作つて謡はうと思ふが何と有らう▲小アト「是は一段とよからう▲シテ「汝も謡へ▲小アト「心得た▲シテ「嬉しや爰に酒あり▲小アト「主はひとり▲シテ「影はふたり▲二人「みつしほの夜るの盃に主をのせて、主共思はぬ内の者かな{此謡の内に主シテ柱{*12}の方へのきて右の肩をぬぐ}▲アト「扨も扨も腹の立事かな、がつきめがつきめ▲二人「あゝごゆるされませごゆるされませ▲アト「憎いやつの{ト云て小アトを追込うちに}▲シテ「こりや身共独りになつた、何とせうぞ▲アト「やいやいやいそこなやつ{ト云ふ時やあやあやあと三度主を棒にて打込主後へ引三度目に引はづして後ろへ廻り追込入るなり。}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 2:底本は、「何とがよかうなあ」。
 3:「手の中に、と斯様に致す手が御座る」は、底本のまま。
 4・11:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 5:「討つて参るを、とはねあげます」は、底本のまま。
 6:底本は、「や(二字以上の繰り返し記号二つ)」。
 7:底本は、「杯(など)」。
 8:底本は、「かいたれば」。
 9:底本は、「呑めとも」。
 10:底本は、「ト云て後ろを向くシテ」。
 12:底本は、「シテ桂」。