文荷(ふみになひ)(二番目 三番目)
▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、この中(ぢゆう)東山に於いて、千満(せんみつ)殿と申す少人と参会致してござる。又、今宵参る様に。とあつて、文をくれられてござる。則ち、参らうと存じて、返事を認(したゝ)めておいた。両人の者を呼び出し、持たせて遣はさうと存ずる。
{と云ひて、呼び出す。出るも「附子」の通りなり。}
汝等を呼び出す、別の事でない。何と、この中(ぢゆう)の事を、次郎冠者は知るまい。なあ、太郎冠者。
▲シテ「あの仰せらるゝ事は。次郎冠者が事は、扨置きまして、この事を世間で。なあ、次郎冠者。
▲小アト「おゝおゝ。
▲二人「隠れがござりませぬ。
▲アト「包むとは思へども、隠れのない。といふは、油断のならぬ事ぢやなあ。
▲シテ「左様でござる。
▲アト「又、今宵も参る様に。とあつて、文をくれられた。則ち、行かうと思うて、これに返事を認めておいた。太儀ながら、汝、これを持つて行(い)てくれい。
▲シテ「畏つてはござれども、この事を内儀様(かみさま)がお聞きなされて、私をいかうお叱りなされてござる。これは、どうぞご許されませ。
▲アト「それは、女共の了簡が悪い。女の方へ遣る文ではなし、少人の方へ遣はす文ぢやによつて、苦しうない程に、持つて行け。
▲シテ「少人の事は扨置きまして、総じて、恋路の使ひをしたらば、きつと曲事(くせごと)ぢや。と堅う仰せ付けられてござる。これは、どうぞご許されませ。
▲アト「それならば、次郎冠者、持つて行け。
▲小アト「私は、お所を存じませぬ。
▲アト「何(いづ)れ、宿を知らいではなるまい。とかく、太郎冠者、持つて行(い)てくれい。
▲シテ「これは、どうござらうともご許されませ。
▲アト「扨はおのれは、女共が云ふ事は、怖いによつて聞かうず。身が云ふ事は聞くまい。といふ事か。
▲シテ「いや、左様ではござりませぬ。
▲アト「まだぬかしをる。行かうか行くまいか、まつ直(すぐ)に云へ。
{と云ひて、そり打つ。小アト、止める。}
▲シテ「あゝ、まづお待ちなされませ。
▲アト「何と待てとは。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「いゝや、お畏りあるまいものを。
▲シテ「畏つてござる。
▲小アト「畏つた。と申しまする。
▲アト「畏つた。
▲二人「はあ。
▲アト「《笑》これは、戯言(ざれごと)ぢや。気にかけずとも、持つて行(い)てくれい。
▲シテ「一旦は御断り申してござれども、この上は畏つてござる。
▲アト「扨、一人(いちにん)でも済む事なれども、重ねて宿を知るために、次郎冠者も行け。
▲小アト「畏つてござる。
▲シテ「扨は、このお使ひは、両人へ仰せ付けられまするか。
▲アト「成程、その通りぢや。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「急いで行(い)て、やがて戻れ。
{二人、受ける。アト、詰める。常の如し。}
▲シテ「やいやい、次郎冠者。何とこれは、興がつた事ではないかいやい。
▲小アト「何(いづ)れ、興の醒め果てた事ぢや。
▲シテ「と云うても、行かずばなるまい。さあさあ、来い来い。
▲小アト「心得た。
▲シテ「扨、何と思ふ。世間に妻を持つ。といふ事は、子を儲けて家相続のためでこそあれ。頼うだ人の様に少人狂ひは、何の役に立ゝぬものぢや。
▲小アト「何(いづ)れ、汝が云ふ通り、頼うだ人の様な文盲(もんまう){*1}な人が少人狂ひは、おいて貰ひたいなあ。
▲シテ「その通りぢや。
{と云ひて、二人、笑ふなり。}
▲シテ「さあ、持て。
▲小アト「何ぢや、持て。
▲シテ「中々。
▲小アト「いや、こゝな者が。身共は、お宿を知るためにこそ行け。文を持て。とは仰せられぬ。
▲シテ「でも、このお使ひは、両人に仰せ付けられたではないか。平(ひら)にお持ちあれ。
▲小アト「それならば、替り替りに持つぞよ。
▲シテ「堅い事を云はずとも、お持ちあれ。
▲小アト「さあさあ、来い来い。
▲シテ「心得た。
▲小アト「扨、何と思ふ。頼うだ人の様な無口な人が、少人にお逢ひあつての挨拶が聞きたいなあ。
▲シテ「定めて、畳の塵がな毟(むし)つて居らるゝであらう。
▲小アト「大方、その様な事であらうぞいやい。
{と云ひて、笑ふ。}
さあ、持て。
▲シテ「早(はや)、持たすか。
▲小アト「早と云ふ事があるものか。お持ちあれ。
▲シテ「それならば、さあさあ、来い来い。
▲小アト「心得た。
▲シテ「扨、何と思ふ。この文程、持つて行きともない文はないなあ。
▲小アト「身共は、身肉(みしゝ)堪(た)へて{*2}持つて行きとむない。
▲シテ「さあ、持て。
▲小アト「早、渡すか。
▲シテ「早と云ふ事はない。お持ちあれ。
▲小アト「扨々、忙(せは)しない事ぢや。さあさあ、来い来い。
▲シテ「心得た。
▲小アト「何と思ふ。この文程、持ち重りのする文はないなあ。
▲シテ「その重いは、物であらう。
▲小アト「物とは。
▲シテ「今宵逢ひに行くが嬉しさに、中へ銭がな包み込うで置かれたものであらうぞいやい。
▲小アト「その様な事であらうぞいやい。
{と云ひて、笑ふ。}
さあ、持て。
▲シテ「又、渡すか。
▲小アト「又と云ふ事があるものか。余程持つた。お持ちあれ。
▲シテ「この様にあちらこちらしてゐては、道ばかゞ行かぬ。これはどうぞ、持ち様のありさうな事ぢや。
▲小アト「何(いづ)れ、持ち様のありさうな事ぢや。
▲シテ「いや、良い仕様がある。
▲小アト「何とする。
▲シテ「こりやこりや。この竹に結ひ付けて、中担(なかにな)うて行かう。
▲小アト「これは、一段と良からう。
▲シテ「汝も手伝へ。
▲小アト「心得た。
▲シテ「かうして行けば、片身(かたみ)恨みがなうて、良いではないか。
▲小アト「何(いづ)れ、片身恨みがなうて良い。
▲シテ「さあさあ、持て持て。
▲小アト「心得た。
▲シテ「何と、昔から文を担ふといふは、珍しい事ではないか。
▲小アト「何(いづ)れ、例(ためし)少ない事ぢや。
▲シテ「その通りぢや。
{と云ふ内、小アトの方へ文を押しやるなり。}
▲小アト「あゝ、これは、いかう重うなつた。
▲シテ「何も重い筈はないが。
▲小アト「しきりに重うなつた。あれあれ、重いこそ道理なれ。なぜに文をこちへ寄するぞいやい。
▲シテ「寄せはせねど、ひとり寄れば、せう事がない。
▲小アト「その様にせずとも、真ん中に置け。
▲シテ「心得た。扨、この文を只担ふも、いかゞぢや。この体(てい)を、謡に作つて諷(うた)はうと思ふが、何とあらう。
▲小アト「これは、一段と良からう。
▲シテ「汝も諷へ。
▲小アト「心得た。
▲シテ「{*3}しめじが腹立ちや。
▲二人「由(よし)なき恋を菅筵(すがむしろ)。肩に持てども持たれもせず。苦しや。ひとり寝の我が手枕(たまくら)の。えい。肩代へて持てども持たれず。そも。文は何の重荷ぞ。
▲シテ「あゝ、重い事ぢや。
▲小アト「何(いづ)れ、重い事ぢや。
▲シテ「あまり不審な。そと、中をあけて見よう。
▲小アト「いや、こゝな者が。この様に念を入れて封のしてある物を、あけて見よう。と云ふ事があるものか。
▲シテ「又、元の様にしておけば、同じ事ぢや。
▲小アト「身共は、同心でないぞよ。
▲シテ「こりあこりあ。この上書(うはがき)を見よ。
▲小アト「何と書いてある。
▲シテ「千(せん)もじ参る。身(み)より。
{と云ひて、笑ふ。}
これは、女の方へ遣る様に書かれた。
▲小アト「それも、誰ぞに習はれたものであらう。
▲シテ「さらば、中をあけて見よう。
▲小アト「あゝ、あくる事はよしにせいで。
▲シテ「扨も扨も、恋しや恋しや。《笑》重いこそ道理なれ。小石、沢山に書き込うで置かれた。
▲小アト「どれどれ。ちと身共にも見せい。
▲シテ「さあさあ、お見あれ。
▲小アト「お懐かしさは、富士の山にて候ふ。《笑》重いこそ道理なれ。余席(よせき){*4}もない文の中へ、富士の山まで書き込うで置かれた。
▲シテ「どれどれ、見せい。
▲小アト「見よ、見よ。
▲シテ「まづは、拙(つたな)い手ぢや。悉皆、雀の踊り足を見る様な。
▲小アト「どれどれ、見せい。
▲シテ「お見あれ、お見あれ。
▲小アト「何(いづ)れ、蚯蚓(みゝず)のぬたくつた様な。
▲シテ「どれどれ、見せい。
▲小アト「お見あれ、お見あれ。
▲シテ「墨の濃い所もあり、又薄い所もあるわ。
▲小アト「何(いづ)れ、その様な手でよう、文を遣らう。と思はれた事ぢや。
▲シテ「その通りぢや。
{と云ひて、二人、笑ふ。}
▲小アト「どれどれ、見せい。
▲シテ「もそつと見せい。
▲小アト「はて、身共に見せい。
{と云ひて、せり合ふ。文を引き裂く。}
▲シテ「おゝ、良い事を召された。
▲小アト「何と。
▲シテ「身共ばかりに見せておけば良いものを、無理に引っ張るによつて、この様に破れた。身共は知らぬ。そち、良い様に申し上げい。
▲小アト「いや、こゝな者が。身共がおけ。と云ふものを、無理にと云うて、封を切つて見初(そ)めたも汝ではないか。身共は知らぬ。そち、良い様に申し上げい。
▲シテ「あゝ、こりあこりあ。これは、両人の咎(とが)は逃れまいぞよ。
▲小アト「何(いづ)れ、両人の咎(とが)は逃れまい。
▲シテ「これはまづ、何としたものであらう。
▲小アト「あひ口を以つて、詑言(わびごと)をして貰はうか。
▲シテ「いかないかな。その様な事を聞く様な人ではない。
▲小アト「ぢやと云うて、何とせう。
▲シテ「身共は、これから走らうと思ふ。
▲小アト「何ぢや、走らう。
▲シテ「中々。
▲小アト「こりあ、良からう。
▲シテ「あゝ、どこへ行く。
▲小アト「走れ。と云ふによつて、走る。
▲シテ「いかに走ればとて、文を持つては走られまい。捨てゝ走らう。
▲小アト「これは、一段と良からう。
▲シテ「只捨つるも、いかゞぢや。小歌節で捨てう程に、汝も謡へ。
▲小アト「心得た。
▲シテ「{*5}志賀の浦を通るとて。
▲二人「文を落といた浜松の、風の便りに、風の便りに。
{と云ひて、二人、扇をひろげて「風の便り」を云ひて扇ぎ、面白がる仕様あるべし。この小歌の内に、アト立ちて、一の松へ行く。}
▲アト「両人の者を使ひに遣はしてござる。あまり帰りが遅い。迎ひに参らうと存ずる。これはいかな事。大事の文を破りをつた。やいやいやい、そこなやつ。
▲二人「そりあ、頼うだ人ぢや。
{と云ひて、二人、うろたへて、破れ文の皺を伸ばす。}
▲アト「さてさて、腹の立つ事かな。
{と云ひて、主、右の肩をぬぐ。}
▲小アト「身共が、この様な事であらうと思うた。
▲アト「やいやいやい、そこなやつ。
▲小アト「はあ、お返事でござる。
▲アト「この破れた物を、お返事とは。
{と云ひて、破れ文を引つたぐり、追ひ込むなり。}
▲小アト「あゝ、ご許されませ、ご許されませ。
{と云ひて、小アト、逃げて入る。扨、シテも同断。しかじかあり。前に同じ。但し、本追ひ込みにするなり。この類、同意なり。}
校訂者注
1:「文盲(もんまう)」は、「無学な。無粋な」の意。
2:「身肉(みしゝ)堪(た)へて」は、「身にこたえて。どうしても」の意。
3:底本、ここから「持て共もたれずそも文は何の重荷ぞ」まで、傍点がある。
4:「余席(よせき)」は、「余分のところ、余地」の意。
5:底本、ここから「浜松の風の便りに風の便りに」まで、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
文荷(フミニナイ)(二番目 三番目)
▲アト「此の辺りの者で御座る、某此中東山に於いて、千満殿と申す少人と参会致して御座る、又今宵参る様にと有つて文をくれられて御座る、則ち参らうと存じて返事を認めておいた、両人の者を呼び出し、もたせて遣はさうと存ずる{と云て呼出す出るも附子の通りなり}{*1}汝等を呼び出す別の事でない、何と此中の事を次郎冠者は知るまいなあ太郎冠者▲シテ「あの仰せらるゝ事は、次郎冠者が事は偖置きまして、此事を世間でなあ次郎冠者▲小アト「おゝおゝ▲二人「隠れが御座りませぬ▲アト「つゝむとは思へども隠れのないといふは油断のならぬ事ぢやなあ▲シテ「左様で御座る▲アト「又今宵も参る様にと有つて文をくれられた、則ちゆかうと思ふて是に返事を認めておいた、太儀ながら汝之を持つていてくれい▲シテ「畏つては御座れ共、此事を内儀様がおきゝなされて、私をいかうおしかりなされて御座る、是はどうぞ御ゆるされませ▲アト「夫は女共の了簡がわるい、女の方へやる文ではなし、少人の方へ遣はす文ぢやに依つて苦敷うない程にもつてゆけ▲シテ「少人の事は偖おきまして、総じて恋路の使をしたらば、急度曲事ぢやとかたう仰せ付けられて御座る、是はどうぞ御ゆるされませ▲アト「夫ならば次郎冠者持つてゆけ▲小アト「私はお所を存じませぬ▲アト「いづれ宿をしらいではなるまい、兎角太郎冠者持つていてくれい▲シテ「是れはどう御座らうとも御ゆるされませ▲アト「偖はおのれは、女共がいふ事はこわいに依つて聞かうず、身がいふ事はきくまいといふ事か▲シテ「いや左様では{*2}御座りませぬ▲アト「まだぬかしをる行かうかゆくまいかまつ直にいへ{ト云てそり打小アトとめる}▲シテ「あゝ先づお待被成ませ▲アト「何とまてとは▲シテ「畏つて御座る▲アト「いゝやお畏りあるまい物を▲シテ「畏つて御座る▲小アト「畏つたと申しまする▲アト「畏つた▲二人「はあ▲アト「《笑》是は戯言ぢや、気にかけず共持つていてくれい▲シテ「一旦は御断り申して御座れども、此上は畏つて御座る▲アト「偖一人でも済事なれ共、重て宿をしるために次郎冠者もゆけ▲小アト「畏つて御座る▲シテ「偖は此お使は両人へ仰せ付けられまするか▲アト「成ほど其通りぢや▲シテ「畏つて御座る▲アト「急でいて頓て戻れ{二人請るアトつめる如常}▲シテ「やいやい次郎冠者、何と是はきやうがつた事ではないかいやい▲小アト「何れ興のさめ果た事ぢや▲シテ「といふてもゆかずば成るまい、さあさあこいこい▲小アト「心得た▲シテ「偖何と思ふ、世間に妻を持といふ事は、子をもうけて家相続の為でこそあれ、頼うだ人のやうに少人狂ひはなんの役に立ゝぬ物ぢや▲小アト「何れ汝がいふ通り、頼うだ人の様なもんもうな人が、少人狂ひはおいて貰ひたいなあ▲シテ「其通りぢや{ト云て二人笑ふなり}▲シテ「さあもて▲小アト「何ぢやもて▲シテ「中々▲小アト「いや爰な者が、身共はお宿を知るためにこそゆけ、文をもてとは仰せられぬ▲シテ「でも此お使は両人に仰せ付けられたではないか、ひらにお持ちあれ▲小アト「夫ならばかはりがはりにもつぞよ▲シテ「かたい事をいはずともお持ちあれ▲小アト「さあさあこいこい▲シテ「心得た▲小アト「偖何と思ふ、頼うだ人の様なむくちな人が、少人におあひあつての挨拶が聞きたいなあ▲シテ「定めて畳のちりがなむしつて居らるゝであらう▲小アト「大方其様な事で有らうぞいやい{ト云て笑ふ}{*3}さあもて▲シテ「はやもたすか▲小アト「はやといふ事が有る物かおもちあれ▲シテ「夫ならばさあさあこいこい▲小アト「心得た▲シテ「偖て何と思ふ、此文程持つてゆきともない文はないなあ▲小アト「身共は身しゝたゑて持つてゆきとむない▲シテ「さあもて▲小アト「早渡すか▲シテ「早といふ事はないおもちあれ▲小アト「偖偖せわしない事ぢや、さあさあこいこい▲シテ「心得た▲小アト「何と思ふ、此文ほど持おもりのする文はないなあ▲シテ「其おもいは物で有らう▲小アト「物とは▲シテ「今宵あいにゆくが嬉しさに、中へ銭がなつゝみこうでおかれた物で有らうぞいやい▲小アト「其様な事で有らうぞいやい{ト云て笑ふ}{*4}さあもて▲シテ「又渡すか▲小アト「又といふ事が有るものか余程もつたお持ちあれ▲シテ「此様にあちらこちらしていては道ばかゞゆかぬ、是はどうぞ持ちやうのありさうな事ぢや▲小アト「何れ持ちやうのありさうな事ぢや▲シテ「いやよい仕様がある▲小アト「何とする▲シテ「こりやこりや、此竹にゆい付けて中荷なうて行かう▲小アト「是は一段とよからう▲シテ「汝も手伝へ▲小アト「心得た▲シテ「斯うしてゆけば、かたみうらみがなうてよいではないか▲小アト「何れかたみうらみがなうてよい▲シテ「さあさあもてもて▲小アト「心得た▲シテ「何と昔から文を荷なうといふは、珍敷い事ではないか▲小アト「何れためしすくない事ぢや▲シテ「其通りぢや{と云ふ内小アトの方へ文を押やるなり}▲小アト「あゝ之はいかう重うなつた▲シテ「何もおもい筈はないが▲小アト「しきりに重うなつた、あれあれ、重いこそ道理なれ、なぜに文をこちへよするぞいやい▲シテ「よせはせねど、独りよればせう事がない▲小アト「其様にせず共真ん中{*5}におけ▲シテ「心得た、偖此文を唯荷なうもいかゞぢや、此体を謡に作つて諷はうと思うが何とあらう▲小アト「是は一段とよからう▲シテ「汝も諷へ▲小アト「心得た▲シテ「しめじがはらだちや▲二人「よしなき恋をすがむしろ、肩にもてどももたれもせず、くるしや独り寝の、我がたまくらの、えい、肩かへて持て共もたれずそも文は何の重荷ぞ▲シテ「あゝおもい事ぢや▲小アト「何れ重い事ぢや▲シテ「あまり不審な、そと中を明けて見よう▲小アト「いや爰な者が、此様に念をいれて封のしてある物を、明けて見ようといふ事が有るものか▲シテ「又もとの様にしておけばおなじ事ぢや▲小アト「身共は同心でないぞよ▲シテ「こりあこりあ、此上書を見よ▲小アト「何と書いてある▲シテ「千もじ参る、身より{ト云て笑ふ}{*6}是は女の方へやるようにかかれた▲小アト「夫も誰ぞに習はれた物で有らう▲シテ「さらば中を明けて見よう▲小アト「あゝ明くる事はよしにせいで▲シテ「偖も偖も恋しや恋しや《笑》{*7}おもいこそ道理なれ、小石沢山に書込うで置かれた▲小アト「どれどれちと身共にも見せい▲シテ「さあさあお見あれ▲小アト「おなつかしさは富士の山にて候《笑》{*8}おもいこそ道理なれ、よせきもない文の中へ、富士の山迄書き込うでおかれた▲シテ「どれどれ見せい▲小アト「見よ見よ▲シテ「先づはつたない手ぢや、しつかい雀の踊り足を見る様な▲小アト「どれどれ見せい▲シテ「お見あれお見あれ▲小アト「何れみゝずのぬたくつたやうな▲シテ「どれどれ見せい▲小アト「お見あれお見あれ▲シテ「墨のこい所もあり又うすい所もあるは▲小アト「何れ其様な手でよう文をやらうと思はれた事ぢや▲シテ「其通りぢや{ト云て二人笑ふ}▲小アト「どれどれ見せい▲シテ「最卒つと見せい▲小アト「はて身共に見せい{ト云てせり合ふ文をひきさく}▲シテ「おゝよい事を召された▲小アト「何と▲シテ「身共ばかりに見せておけばよいものを、無理にひつぱるに依つて此様に破れた、身共は知らぬそちよい様に申し上げい▲小アト「いや爰な者が、身共がおけと云ふ物を、無理にといふて封を切つて見そめたも汝ではないか、身共はしらぬそちよい様に申し上げい▲シテ「あゝこりあこりあ、是は両人のとがはのがれまいぞよ▲小アト「いづれ両人の科はのがれまい▲シテ「是は先づ何とした物であらう▲小アト「あい口をもつて詑言をして貰はうか▲シテ「いかないかな、其様な事を聞くような人ではない▲小アト「じやといふて何とせう▲シテ「身共は是から走らうと思ふ▲小アト「何ぢや走らう▲シテ「中々▲小アト「こりあよからう▲シテ「あゝどこへゆく▲小アト「はしれといふに依つてはしる▲シテ「いかにはしればとて、文をもつては走られまい捨てはしらう▲小アト「是は一段とよからう▲シテ「唯すつるもいかゞぢや、小歌ぶしで捨てう程に汝も謡へ▲小アト「心得た▲シテ「志賀の浦を通るとて▲二人「文をおといた浜松の風の便りに風の便りに{ト云て二人扇をひろげて風の便りを云てあをぎ面白がる仕様有べし此小歌の内にアト立て一の松へ行}▲アト「両人の者を使に遣はして御座る、あまり帰りがおそい迎ひに参らうと存ずる、是はいかな事、大事の文を破りおつた、やいやいそこなやつ▲二人「そりあ頼うだ人ぢや{ト云て二人うろたへて破文のしわをのばす}▲アト「さてさて腹の立つ事かな{ト云て主右の肩をぬぐ}▲小アト「身共が此やうな事で有らうと思ふた▲アト「やいやいやいそこなやつ▲小アト「はあ、お返事で御座る▲アト「此破れた物をお返事とは{ト云て破れ文を引たぐり追込なり}▲小アト「あゝ御ゆるされませ御ゆるされませ{ト云て小アト逃て入る偖シテも同断しかしかあり前に同じ但し本追込にするなり此類同意なり}
校訂者注
1:底本、ここに「アト「」がある(略す)。
2:底本は、「左様で御座りませぬ」。
3・4:底本、全て「▲小アト「」がある(全て略)。
5:底本は、「真(ま)ツ中(なか)」。
6:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
7:底本は「笑ふ」。但し、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
8:底本は「笑フ」。但し、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
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