鬼瓦(おにがはら)(初番 二番目)

▲シテ「遥か遠国の者でござる。永々在京致す所、訴訟、思ひの儘に相叶ひ、安堵の御教書頂戴し、過分に新知を拝領し、あまつさへ、御暇までを下され、近日、本国へ罷り下る。この様な悦ばしい事はござらぬ。まづ、太郎冠者を呼び出し、この由、申し聞かせ、悦ばせうと存ずる。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。扨、名乗りの通り云ふ。この類、何(いづ)れも同意なり。}
これといふも、因幡堂の薬師如来を信仰する故ぢや。御礼かたがた、お暇乞ひがてら、参詣せう。と思ふが、何とあらう。
▲アト「御意もなくば、申し上げうと存じてござる。一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、追つ付け参らう。汝、供をせい。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「誠に、国元を出(づ)る時は、いつ御暇が出うぞ、いつ下らうぞ。と思うたに、御暇は下さるゝ、殊に訴訟は叶ふ、近日本国へ下らう。と思へば、この様な悦ばしい事はない。
▲アト「お供の我等如きまでも、このような悦ばしい事はござりませぬ。
▲シテ「追つ付け下る事は知らいで、国元には、さぞ待ちかねてゐるであらう。
▲アト「定めて、今や今やとお待ちかねでござりませう。
▲シテ「いや、何かと云ふ内に、因幡堂ぢや。
▲アト「誠に、お参り着きなされてござる。
▲シテ「まづ、お前へ向かはう。
▲アト「一段と良うござりませう。
▲シテ「ぢやぐわん、ぢやぐわん。
{と云ひて、鰐口を打ちて拝むなり。二人とも、下に居るなり。}
▲シテ「扨、最前も云ふ通り、この度、訴訟、思ひの儘に相叶ひ、首尾良う帰国するも、ひとへにこの薬師如来の御利生ぢや。国元へ下つたならば、これ程にはあるまいとも、小さうなりとも堂を建立して、この薬師如来を勧請申し、日参をせう。と思ふが、何とあらう。
▲アト「これは、一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、国元の大工に云ひ付けるためぢや。堂の様子を、篤(とく)と見覚えて行かう。汝も、よう見覚えて置け。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「これは、古(いにし)へ、飛騨の内匠が建てた堂ぢや。と云ふが、どれからどれまでも、結構に建てた堂ぢやなあ。
▲アト「いかさま、念を入つた事でござります。
▲シテ「まづ、天井の組み様、彫り物の様子・仕置き、尤、かうありさうな事ぢや。
▲アト「見事な細工でござりまする。
▲シテ「御厨子・須弥壇・来迎柱、何(いづ)れも結構な箔色ではないか。
▲シテ「金色(こがねいろ)と申すが、この事でござりまする。
▲シテ「扨、これから後(うしろ)堂へ廻らう。さあさあ、来い来い。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「何と、大きな堂ではないか。
▲アト「夥(おびたゞ)しい御堂でござる。
▲シテ「あれあれ、あの桝形たる木破風。扨も扨も、見事、見事。この縁の板は、楠(くすのき)と見ゆる。
▲アト「何かは存ぜぬが、見事な板でござる。
▲シテ「欄干の金物。惣じて釘隠し。一つとして、疎(おろ)かはないなあ。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「国元の大工に云ひ付けたりとも、その様には、えせまい。
▲アト「仰せ付けられたらば、随分精を出して致すでござりませう。
▲シテ「いやいや、何程精を出したりとも、今々の細工人では、覚束ない。
▲アト「いや、左様にもござりますまい。
▲シテ「やい、太郎冠者。あの、つゝと空に黒い物が見ゆる。あれは、何ぢや。
▲アト「何でござります。
▲シテ「あれあれ、あの、つゝと空に異形な物が見ゆる。あれは何ぢや。
▲アト「ゑゝ、鬼瓦の事でござるか。
▲シテ「誠に、鬼瓦ぢや。あの鬼瓦は、誰やらが顔によう似たな。
▲アト「誰に似ましたぞ。
{シテ、強く泣き出すなり。}
▲アト「もしもし。お前は俄(には)かに、何を御落涙なされます。
▲シテ「されば、あの鬼瓦を、誰に似たとこそと思うたれ。国元の女共が、妻戸の脇まで送つて出で、やがてめでたうお帰りなされい。と云うて、につと笑うた顔に、その儘ぢや。
{と云ひて、泣くなり。}
▲アト「何(いづ)れ、さう仰せらるれば、どこやらがよう似ました。
▲シテ「どこやら似たとは、似ぬも同然ぢや。これは、似たも似たも、たいていの事ではない。あの、瞼(まぶた)の覆ひ来さつた所、猿田彦の鼻程きよいと高い所は、さりとてはよう似た。
{と云ひて、泣く。}
▲アト「成程、只今見ますれば、よう似ましてござる。
▲シテ「あれあれ、あの口の耳せゝまで切れた所、首筋に苔の生(は)えた所は、その儘の女共ぢや。
{と云ひて、泣く。}
▲アト「もしもし。追つ付け、お下りなさるれば、早速お逢ひなさるゝ事でござるに、なぜ御落涙なされまする。
▲シテ「誠にさうぢや。追つ付け国元へ下れば、逢ふ事ぢや。由(よし)ない事に落涙した。この様な時は、どつと笑うて退(の)かう。
▲アト「これは、一段と良うござらう。
▲シテ「つゝと、これへ寄れ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「さあ、笑へ。
▲アト「まづ、お笑ひなされませ。
▲シテ「まづ。
▲アト「まづ。
▲二人「まづまづまづ。
{と云ひて、笑ひ留めにして、入るなり。}

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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鬼瓦(オニガワラ)(初番 二番目)

▲シテ「はるか遠国の者で御座る、永々在京致す所、訴訟思ひの儘に相叶ひ、安堵の御教書頂戴し、過分に新知を拝領し、あまつさへ御暇迄を下され、近日本国へ罷り下る、此様な悦ばしい事は御座らぬ、先づ太郎冠者を呼び出し、此由申し聞かせ悦ばせうと存ずる{ト云て呼出す出るも如常偖名乗の通り言ふ此類何れも同意なり}{*1}是といふも因幡堂の薬師如来を信仰するゆへぢや、御礼かたがたお暇乞がてら、参詣せうと思ふが何と有らう▲アト「御意もなくば申し上げうと存じて御座る、一段とよう御座りませう▲シテ「夫ならば追付参らう汝供をせい▲アト「畏つて御座る▲シテ「誠に国元をずる時はいつ御暇が出うぞ、いつ下らうぞと思ふたに、御暇は下さるゝ、殊に訴訟は叶う、近日本国へ下らうと思へば此様な悦ばしい事はない▲アト「お供の我等如き迄も、此ような悦ばしい事は御座りませぬ▲シテ「追付け下る事はしらいで、国許には嘸待ちかねてゐるで有らう▲アト「定て今や今やとお待ちかねで御座りませう▲シテ「いや何彼といふ内に因幡堂ぢや▲アト「誠にお参りつき被成て御座る▲シテ「先づお前へ向はう▲アト「一段とよう御座りませう▲シテ「ぢやぐわんぢやぐわん{ト云て鰐口を打て拝むなり二人共下に居るなり}▲シテ「偖最前もいふ通り、此度訴訟思ひの儘に相叶ひ首尾よう帰国するも偏に此薬師如来の御利生ぢや、国許へ下つたならば是程には有るまいとも、小さう{*2}なりとも堂を建立して、此の薬師如来を勧請申し日参をせうと思ふが何とあらう▲アト「是は一段とよう御座りませう▲シテ「夫ならば国許の大工にいひ付ける為ぢや、堂の様子をとくと見覚てゆかう、汝もよう見覚へて置け▲アト「畏つて御座る▲シテ「是は古しへ飛騨の内匠がたてた堂ぢやといふが、どれからどれまでも結構にたてた堂ぢやなあ▲アト「いかさま念を入つた事で御座ります▲シテ「先づ天井の組やうほり物の様子しをき{*3}、尤も斯うありさうな事ぢや▲アト「見事{*4}な細工で御座りまする▲シテ「御ずし須弥壇来迎柱、何れも結構な箔色ではないか▲シテ「金色と申すが此事で御座りまする▲シテ「偖是からうしろ堂へまわらう、さあさあこいこい▲アト「畏つて御座る▲シテ「何と大きな堂ではないか▲アト「おびたゞしい御堂で御座る▲シテ「あれあれ、あの桝形たる木破風、偖も偖も見事見事、此縁{*5}の板は楠と見ゆる▲アト「何かは存ぜぬが見事な板で御座る▲シテ「らんかんの金物惣じて釘かくし、一ツとしておろかはないなあ▲アト「左様で御座る▲シテ「国許の大工にいひ付けたり共、其様には得せまい▲アト「仰せ付けられたらば随分精を出して、致すで御座りませう▲シテ「いやいや何程精を出したり共、今々の細工人では覚束ない▲アト「いや左様にも御座りますまい▲シテ「やい太郎冠者、あのつツと空に黒い物が見ゆる、あれはなんぢや▲アト「何で御座ります▲シテ「あれあれあのつツと空に異形な物が見ゆる、あれは何ンぢや▲アト「ゑゝ鬼瓦の事で御座るか▲シテ「誠に鬼瓦ぢや、あの鬼瓦は誰やらが顔によう似たな▲アト「誰に似ましたぞ{シテ強く泣出す也}▲アト「もしもし{*6}、お前は俄に何を御落涙被成ます▲シテ「さればあの鬼瓦を誰に似たとこそと思ふたれ、国元の女共が妻戸の脇迄送つて出で、頓て目出たうお帰りなされいと云ふて、につと笑うた顔に其儘ぢや{ト云て泣く也}▲アト「いづれさう仰せらるれば{*7}どこやらが{*8}よう似ました▲シテ「どこやら似たとは似ぬも同然{*9}ぢや、是は似たも似たもたいていの事ではない、あのまぶたのをゝいきさつた所{*10}、猿田彦の鼻程きよいと高い所は、さりとてはよう似た{ト云て泣く}▲アト「成程唯今見ますれば、よう似まして御座る▲シテ「あれあれ、あの口の耳せゝ迄きれた所、首筋にこけのはゑた所は、其儘の女共ぢや{ト云て泣く}▲アト「もしもし{*11}、追付お下り被成るれば、早速おあい被成るゝ事で御座るに、なぜ御落涙被成まする▲シテ「誠にさうぢや、追付国許へ下れば逢う事ぢや、よしない事に落涙した、此様な時はどつと笑うてのかう▲アト「是は一段とよう御座らう▲シテ「つツと是へ寄れ▲アト「畏ツて御座る▲シテ「さあ笑へ▲アト「先づお笑ひ被成ませ▲シテ「まづ▲アト「まづ▲二人「まづまづまづ{ト云て笑留にして入るなり}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
 2:底本は、「少(ちい)さう」。
 3:底本は、「ほり物の様子しゝをき」。
 4:底本は、「美事(みごと)」。
 5:底本は、「椽(ゑん)」。
 6・11:底本は、「若(も)し(二字以上の繰り返し記号)」。
 7:底本は、「仰せられば」。
 8:底本は、「どこやが」。
 9:底本は、「同前(どうぜん)」。
 10:「まぶたのをゝいきさつた所」は、底本のまま。