武悪(ぶあく)(二番目 三番目)
▲アト「誰(た)そをるか、誰(た)そをるか。誰もをらぬかいやい。
▲小アト「何ぢや、召すと云ふか。召しますか。
▲アト「召しますか。汝はどれに居た。
▲小アト「お次に居りました。
▲アト「次に居た者が、最前から声の嗄(か)るゝ程呼ぶに、聞こえぬといふ事があるものか。して、次には誰もゐぬか。
▲小アト「いや、誰もをりませぬ。
▲アト「ひそかに云ひ付くる事がある。つゝと、これへ寄れ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「内々(ないない)、不奉公者の武悪めが事ぢや。色々と思案をすれども、とかく、生けて置くやつでない。成敗する程に、さう心得い。
▲小アト「成程、お腹立ちの段は、御尤でござる。さりながら、きやつが病気も段々宜しうござるによつて、近日は、御奉公にも出う。などゝ、私方まで内々申し越して御ざる。まづ、この度はご許されて下されうならば、私までもありがたう存じまする。
▲アト「結構な執りなしでおりある。おのれが云ふまでもない。年久しう召し遣ふ者の事ぢやによつて、身共も随分、了簡をしたれども、もはや、堪忍袋が切れた。則ち、汝に討手を云ひ付くる程に、急いで武悪を討つて来い。
▲小アト「お言葉を返しまするは恐れ多うはござれども、武悪と私とは、幼少の時より、後懐(あとふところ)にも寝(ぬ)る様に致いた者の事でござる。私が内証で意見を致しませう程に、どうぞこの度の義は、ご許されて下されませ。
▲アト「扨はおのれは、不奉公者の武悪奴(め)とは一味せうず、身が云ふ事は聞くまい。といふ事か。
▲小アト「いや、左様ではござりませぬ。
▲アト「まだぬかしをる。おのれ、行かうか行くまいか、真つ直(すぐ)に云へ。
{と云ひて、そり打つ。}
▲小アト「あゝ、まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と待てとは。
▲小アト「畏つてござる。
{常の如く、きめる。}
▲アト「さうなうて叶はぬ事ぢや。急いで行け。
▲小アト「一旦はお断り申してござれども、この上は、畏つてござる。
▲アト「扨、その方に手覚えの物もあらうずれども、これは、身共が重代のわざよしぢや。これを持つて、首尾よう武悪を討つて来い。
▲小アト「その段は、そつともお気遣ひなされますな。
▲アト「急いで行(い)て、やがて戻れ。
{常の如く、詰める。}
▲小アト「扨も扨も、迷惑な事を仰せ付けられた。と云うても、行かずばなるまい。
{しかじか。}
誠に、身共が、まづかうあらう。と思うて、色々意見をすれども聞かぬによつて、この様に成り下つた事ぢや。扨、あの武悪は、並々の者でないによつて、すは参るぞ、かゝるぞ。と行(い)ては、中々身共らが手に及ぶ者ではない。とかく、騙すに手なしぢや。騙し討ちに致さう。いや、何かと云ふ内に、これぢや。まづ、この太刀を見せてはなるまい。物も、案内も。武悪、内にお居あるか。
{と云ひて、太刀、後ろへ隠し、案内を乞ふ。常の如し。}
▲シテ「表に、聞き馴れた声で案内がある。案内とは誰(た)そ。
▲小アト「身共でおりある。
▲シテ「えい、太郎冠者。そなたならば、案内なしに通りは召されいで。よそよそしい、何事でおりある。
▲小アト「この間は、久しう見舞はぬが、そなたの病気も次第に良さゝうで、一段でおりある。
▲シテ「成程、身共の病気も段々良いによつて、近日は御奉公にも出う。と思ふ。心元ないは、御前(ごぜん)の首尾は、何とでおりある。
▲小アト「それは、そつとも気遣ひ御(お)しあるな。身共がお側(そば)近う居るによつて、良い様に申し上げて置いた。
▲シテ「やれやれ、嬉しや。これといふも、わごりよがお側近う居るゆへの事ぢや。して又、今日(けふ)は何としておりあつた。
▲小アト「今日(けふ)は、そなたに注進する事があつて来た。
▲シテ「それは、心元ない。何事でおりある。
▲小アト「いやいや、別に心元ない事ではない。頼うだお方が、俄(には)かに客を得させらるゝ。魚に事を欠かせられた。又、そなたは川魚(かわうを)を獲る事を得てゐるによつて、何なりとも、ひと色ふた色獲つて上げて、これは武悪が差し上げまする。などゝ、それを潮(しほ)に、お目見得をさせう。と思うて、知らせに来た。
▲シテ「やれやれ、それは、ようこそ知らせておくれあつた。成程、身共は川魚を獲る事を得てゐるによつて、随分獲つて上げうが、さりながら、引つ籠(こ)うで居る内に殺生をする。などゝ、かへつてお叱りには遭ふまいか。
▲小アト「何しにそなたのために悪い事は云はぬ。早う獲つて上げさしませ。
▲シテ「それならば、獲つて上げう程に、暫くそれにお待ちあれ。
▲小アト「あゝ、まづ、お待ちあれ。
▲シテ「何と待てとは。
▲小アト「そなたの川魚を獲るを、身共はつひに見ぬ。某(それがし)も行かうぞ。
▲シテ「わごりよも来るか。
▲小アト「中々。
▲シテ「それは、一段ぢや。さあさあ、おりあれ。
▲小アト「心得た。
▲シテ「何と、一つ呑うで行くまいか。
▲小アト「それは、遅からぬ事ぢや。まづ、お行きあれ。
▲シテ「心得た。扨、身共も引つ籠うで居る内に、生簀(いけす)の様な所を拵へて置いたが、これに魚が夥(おびたゞ)しう居る事ぢや。
▲小アト「それは、定めて夥しう居るであらう。
▲シテ「いや、何かと云ふ内に、これぢや。
▲小アト「あの、この小さい所に、魚が居るか。
▲シテ「居るとも、居るとも。あれあれ、あれは皆、鮒ぢや程にの。
▲小アト「誠に、夥しうをる。扨、そなたは、何も道具を持たぬが、どうして獲るぞ。
▲シテ「不審、尤ぢや。あの角(すみ)からこの角へ、押し草といふ事をして獲れば、無雑作に獲るゝ事ぢや。
▲小アト「いかさま、それは無雑作に獲るゝであらう。
▲シテ「扨、そなたも入(はい)つて追うてくれい。
▲小アト「身共も入(はい)つて追うてやりたけれども、今にも御前から召せば、濡れ足では上がられぬ。上から声をかけてやらうぞ。
▲シテ「これは、尤ぢや。それならば、上から声をかけておくれあれ。身共は入(はい)るぞよ。
▲小アト「入(はい)れ、入(はい)れ。
▲シテ「心得た。
{と云ひて、飛び込む。シテ、両手叩いて追ふ。小アト、肩ぬぎ、後ろより斬りかくるなり。}
▲シテ「しい。
▲小アト「居るか、居るか。
▲シテ「居るとも、居るとも。
▲小アト「居るか、居るか。
▲シテ「居るとも、居るとも。
▲小アト「がつきめ、やらぬぞ。
▲シテ「戯事(ざれごと)をするな。魚が怖(を)ぢる。
▲小アト「戯事ではない。御意で討ちに来た。覚悟せい。
▲シテ「何ぢや。御意で討ちに来た。
▲小アト「こりや、御太刀ぢやが、見忘れたか。
▲シテ「誠に、見れば御太刀ぢや。扨は、真実、討手に向かうたか。
▲小アト「くどい事を云ふ。たつたひと討ちにせう。
▲シテ「あゝ、まづ、待て待て。
▲小アト「何と待てとは。
▲シテ「やあら、そちは聞こえぬ者ぢや。一旦お腹立ちがあつて仰せ付けられうとも、たつてお詑びをしてくれうそちが、討手に向かうといふ事があるものか。
▲小アト「それを身共がぬからうか。色々お詑びを申し上げたれども、討手に行かぬにおいては、身共ともに御成敗なされう。とのお事ぢやによつて、背に腹はかへられず、討手に向かうた。もはや逃れぬ。覚悟せい。
▲シテ「まづ、待て待て。
▲小アト「何と待てとは。
▲シテ「いよいよ汝は聞こえぬ者ぢや。それ程極(きは)まつた事ならば、なぜ宿元で知らせてくれぬ。宿元で云うたならば、妻子にも暇乞ひをし、尋常に腹かき切つて死なうものを。何ぞや、この様な所へ連れて来て、騙し討ちにせう。といふ様な事があるものか。
▲小アト「それも、身共が合点なれども、宿元で云うたならば、妻子にも名残を惜しみ、未練な体(てい)もあらうか。と思うて、こゝまで騙して連れて来た。とかう云へば、命を惜しむに当たる。とても逃れぬ。覚悟せい。
▲シテ「まづ、待て待て。
▲小アト「何と待てとは。後(おく)れたか。
▲シテ「いゝや、後(おく)れはせぬ。全く命を惜しむでもない。さりながら、そちと身共とは幼少の時から、後懐にも寝る様にした者なり。その上、この辺りでは、武悪、武悪と、黒面(くろづら)をも見知られた某(それがし)を、何ぞや、この様な川中へ追ひ込うで、蛙を踏み潰した様にせう。と思ふ、そちが心入れは、扨々、胴欲なものぢやなあ。
{と云ひて、泣くなり。}
▲小アト「やい。武悪程の者が、最後に及うで未練な事を云はずとも、尋常に討たれいやい。
▲シテ「あゝ、さうぢや。この上は、頼うだお方に恨みはない。恨みはそちに残つた。さあ、これへ寄つて、斬りたい所から斬れいやい。
{と云ひて、泣く。}
▲小アト「その様に云へば、太刀の打ち付け所を忘れたわいやい。
▲シテ「人に物を思はせずとも、早う斬れいやい。
▲小アト「身共が、まづかうあらう。と思うて、色々とお詑びを申したれども、討手に行かぬにおいては、身共ともに御成敗なされう。とのお事ゆゑ、是非なう討手には向かうたれども、今そちが体(てい)を見ては、もはや斬られはせまい。命を助くる。そこを立て。
▲シテ「何ぢや、命を助くる。
▲小アト「中々。
▲シテ「それは、誠か。
▲小アト「こりやこりや、太刀も鞘へ納むるぞ。
▲シテ「やれやれ、嬉しや。命の親と奉るぞ。
▲小アト「あゝ、こりやこりや。礼どころではない。そちは、見えぬ国へ行(い)てくれずばなるまい。
▲シテ「それを身共がぬからうか。この足で、すぐに見えぬ国へ行くであらう。さりながら、身共が見えぬ国へ行(い)たらば、後で妻子が迷惑するであらう。そち、良い様に頼むぞ。
▲小アト「それは、そつとも気遣ひするな。さりながら、何処(いづく)に居ようとも、文の便りはせいよ。
▲シテ「命があらば、巡り逢はうぞ。
▲小アト「まづ、それ程は、さらば。
▲シテ「さらば。
▲二人「さらば、さらば。
{と云ひて、泣いて入れ違ひ、別れる。シテは、太鼓座に入る。小アト、笛座にて肩衣を着て、}
▲小アト「これはいかな事。武悪は早(はや)、とつと行(い)た。今の時に、助くるのではなかつたものを。あゝ、安大事(やすだいじ){*1}をした。是非に及ばぬ。とかく頼うだお方へは、討つた。と申し上げずばなるまい。誠に、これに付けても、させまじいは宮仕へでござる。あなたが良ければこなたが悪し、こなたが良ければあなたが悪し、中に立つて、この様な迷惑な事はござらぬ。いや、何かと云ふ内に、戻つた。
{と云ひて、呼び出す。主、出る。常の如し。}
▲アト「何と、武悪を討つたか。
▲小アト「討ちました。
▲アト「何ぢや、討つた。
▲小アト「はあ。
▲アト「やれやれ、嬉しや、嬉しや。武悪程の者なれども、この頃、討ちたい、討ちたい。と思うたれば、心にかゝつて悪かつたに、討つた。と聞いて、安堵したわいやい。
▲小アト「これは、御尤に存じまする。
▲アト「扨、汝を遣つた後で、いかう案じてな。
▲小アト「何をお案じなされました。
▲アト「武悪は並々の者でないによつて、すは、参るぞ。かゝるぞ。と云うて、中々聊爾には討たれまい。もし仕損じて、返り討ちにでも遇ふならば、外聞も宜しうない。今一両人も人を附けてやれば良かつたに。と思うて、いかう案じたわいやい。
▲小アト「これは、御尤に存じまする。
▲アト「扨、最期は何とであつた。
▲小アト「良うござりました。
▲アト「何、良かつた。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「して、それは、どの様な最期であつた。
▲小アト「まづ、あれへ参つて、御意で討ちに来た、覚悟せい。と申してござらば、まづかうあらうと存じた。と申して、西に向かひ、念仏十遍ばかり申す所を、何が、御太刀ではござり、水もたまらず首を丁と討ち落してござる。
▲アト「何ぢや、首を丁と討ち落した。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「それは、思ひの外、良い最期であつたなあ。
▲小アト「はあ。
▲アト「その様な事ならば、もそつと生けて置いたらば、役に立たうものを。ちと、早まつた事をした。
▲小アト「何(いづ)れ、御残念をなされました。
▲アト「最期が良かつた。と聞けば、不憫に思ふ。今日(けふ)は、東山辺へ往(い)て、武悪が跡を弔うてとらせう。
▲小アト「それは、武悪が悦びませう。
▲アト「さあさあ、来い来い。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「扨、何と、その太刀はよう切れたか。
▲小アト「さすが、お太刀でござる。まづ只、水の中へ打ち込む様にござりました。
▲アト「さうであらうとも。あれは、親者人が、重代のわざよしぢや。と云うて、御秘蔵なされたわいやい。
{と云ふしかじかの内、シテ、橋がゝりへ立ちて、しかじか云ふ。舞台にて行き当たる。よく云ひ合はすなり。}
▲シテ「なうなう、嬉しや、嬉しや。この度、命を助かつたは、太郎冠者が蔭とは云へど、日頃、清水の観世音を信仰する故ぢや。見えぬ国へ行(い)たらば、又参る事もなるまい。お礼かたがた参らうと存ずる。
{と云ひて、行き当たり、シテは、一の松まで逃げて隠る。アト、見付くる。小アト、中へ入り、隠すなり。皆々、心持ち、色々仕様あるべし。よくよく云ひ合はすべし。その外、仕様、口伝。}
▲小アト「何でござります。
▲アト「何でござります。おのれ、今のは武悪ではないか。
▲小アト「いや、武悪は私が手にかけて討ちましてござる。
▲アト「おのれ、討ちもせいで討つたと偽らば、末孫(ばつそん)を絶やすぞよ。
▲小アト「これは、御意とも覚えませぬ。討ちもせいで討つたと、申し上げ様がござらぬ。武悪は、私が手にかけて討ちましてござる。
▲アト「何(いづ)れ、事にこそよらうけれ。討ちもせいで討つたと偽らう様はない。でも、今のは武悪であつたが。退(の)け。見て来う。
▲小アト「まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と待てとは。
▲小アト「私をお連れなさるゝは、かやうな時のためでござる。私、見て参りませう。
▲アト「急いで見て来い。
▲小アト「畏つてござる。やい、そこなうろたへ者。何として、こゝへは出をつたぞいやい。
▲シテ「天に網が被(き)さつた。一旦命を助かつたは、そちが蔭とは云ひながら、日頃清水の観世音を信仰する故ぢや、見えぬ国へ行つたらば、又参る事もなるまい。と思うて、御礼かたがた参る所に、思ひもよらぬ、頼うだお方のお目にかゝつた。この上は、頼うだお方にも、そちにも恨みはない。これへよつて首を討つて、頼うだ御方にお目にかけてくれい。
▲小アト「まだそのつれを云ふ。一旦、武悪は討ちました。と申し上げて、今又、これは武悪が首でござる。などゝ、何と申し上げらるゝものぢや。その様な事を云はずとも、何ぞ良い思案はないかいやい。
▲シテ「身共も途方に暮れて、思案も出ぬわいやい。
▲小アト「何と、こゝは鳥辺野ではないか。
▲シテ「誠に、こゝは鳥辺野ぢやが。それが、何とした。
▲小アト「身共が思ふは、武悪はお主(しゆ)の命を背いた者でござれば、浮かみもやりませず、たゞ今のは、武悪が幽霊でござらう。などゝ申し上げう程に、そちは、幽霊になつて出よ。
▲シテ「身どもは遂に、幽霊になつた事がない。
▲小アト「いや、こゝな者が。誰あつて、幽霊になつた者があらう。時の間(ま)を合はすためぢや。良い様に取り繕うてお出あれ。
▲シテ「それならば、聞いた事もあるによつて、取り繕うて出う程に、そこの首尾を頼むぞ。
▲小アト「早う出よ、早う出よ。
▲シテ「心得た、心得た。
{と云ひて、中入りする。}
▲小アト「何がお目にかゝつた知らぬ。
▲アト「何と、見て来たか。
▲小アト「成程、見て参りましたが、あの高見へ上がりますれば、五町三町は手の下にも見えまする。武悪が事は扨置きまして、似た者も居りませぬ。
▲アト「何ぢや、似た者も居らぬ。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「はて、合点の行かぬ。確かに今のは武悪であつたが。
▲小アト「申し。こゝは、鳥辺野ではござらぬか。
▲アト「成程、こゝは鳥辺野ぢやが。それが、何とした。
▲小アト「私が存じまするは、武悪はお主の命を背いた者の事でござれば、浮かみもやりませいで、只今のは、武悪が幽霊か。と存じまする。
▲アト「やあ、何が、何と。
▲小アト「いや、幽霊かと存じまする。
▲アト「何ぢや、幽霊。
▲小アト「はあ。
▲アト「あゝ、そちは、気味の悪い事を云ひ出した。もう来い。戻らう。
▲小アト「それが、良うござりませう。
▲アト「今日(けふ)に限つた事ではない。又近日、出て弔うてとらせう。
▲小アト「それが、良うござりませう。
▲アト「幽霊と聞いたれば、どうやら、ちり毛元からぞうぞうと、つかみ立つる様な。
▲シテ「あゝ、苦しうござる。
▲アト「そりあ、何やら出たわ、出たわ。
▲小アト「誠に、何やら出ました。
▲アト「それへ出たは何者ぢや。と云うて、尋ねい。
▲小アト「畏つてござる。やいやい、それへ出たは、何者ぢや。
▲シテ「武悪が幽霊でござる。
▲小アト「申し、武悪が幽霊ぢや。と申しまする。
▲アト「誠に、武悪が幽霊ぢや。と云ふ。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「扨は、最前、幻の様に見えたは、きやつかいなあ。
▲小アト「何(いづ)れ、きやつでかな、ござりませう。
▲アト「あれへ行(い)て云はうには、武悪は汝に云ひ付けて成敗させたが、何としてこれへは出た。と云うて問へ。
▲小アト「畏つてござる。やいやい、武悪は最前、太郎冠者に仰せ付けられて御成敗なされたが、何としてこれへは出た。と仰せらるゝ。
▲シテ「お主の命を背いた者でござれば、浮かみもやりませず、魂(こん)は冥途にありながら、魄(はく)はこの世に留(とゞ)まつて、あゝ、苦しうござる。
▲小アト「申し上げます。
▲アト「聞いた、聞いた。
▲小アト「お聞きなされましたか。
▲アト「主の命を背いた者は、皆、あの通りぢや。汝も随分、奉公を大事にかけい。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「扨、武悪にちと尋ねたい事がある程に、もそつとこちへ寄れ。と云へ。
▲小アト「畏つてござる。やいやい、武悪にちとお尋ねなされたい事がある程に、もそつとこれへ寄れ。と仰せらるゝ。
▲シテ「あゝ、苦しうござる。
▲アト「あゝ、それで良い、それで良い。
▲小アト「あまり傍へ寄りますな。
▲アト「扨、地獄極楽は、あるとも云ひ、無いとも云ふが、あるが定(ぢやう)か、無いが定か。
▲シテ「地獄もござり。
▲アト「むゝ。
▲シテ「極楽もござる。
▲アト「やいやい、太郎冠者。地獄極楽も、あるといやい。
▲小アト「左様に申しまする。
▲アト「すれば、後生が大事ぢやなあ。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「扨、この世から過ぎ去らせられたお方も多いが、どれへぞお目にかゝつたか。
▲シテ「悉く、お目にかゝつてござる。中にも、大殿様のお目にかゝつてござる。
▲アト「何ぢや、親者人(おやぢやひと)のお目にかゝつた。
▲シテ「あゝ。
▲アト「やれやれ、お懐かしや、お懐かしや。それはまづ、どの様な所に御座なさるゝぞいやい。
▲シテ「地獄でもござらず。
▲アト「むゝ。
▲シテ「極楽でもなし。
▲アト「はあん。
▲シテ「只、むさとした所にござる。
▲アト「これは、かうもありさうな事ぢや。親者人がこの世に御座なされた時、さのみ善をもなさらず、又、さして悪をもなされなんだによつて、かうありさうな事ぢやなあ。
▲小アト「左様でござる。
▲シテ「大殿様からお言伝てがござる。
▲アト「やれやれ、おしほらしや、おしほらしや。それは、何と仰せ遣はされたぞいやい。
▲シテ「あの方は、盗人が流行りまして、お太刀にお事を欠かせられてござる。お目にかゝつたらば取つて来い。と仰せられてござる。
▲アト「やい、太郎冠者。この世ばかり盗人が流行るかと思へば、あの方にも盗人が流行るといやい。
▲小アト「左様に申しまする。
▲アト「油断のならぬ事ぢやなあ。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「幸ひ、そちに持たせて置いた太刀を、確かに届けませい。と云うて、遣れ。
▲小アト「畏つてござる。やいやい、これを確かに届けませい。
▲シテ「まだ、ござる。
▲アト「何ぢや。
▲シテ「夜(よ)に三度、日に三度、閻魔王への御出仕に、小さ刀にお事を欠かせられてござる。お目にかゝつたらば、これも取つて来い。と仰せられてござる。
▲アト「いかいご苦労をなさるゝ事ぢやなあ。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「さりながら、これは親者人のお譲りあつた物を、皆取りお返(かや)しある。といふものぢや。さりながら、又この様な良い便りはあるまい。確かに届けい。と云うて、これも遣れ。
▲小アト「畏つてござる。さあさあ、これも確かに届けませい。
▲シテ「まだ、ござる。
▲アト「何ぢや、まだあるか。
▲シテ「あの方は、謡が流行りまして、扇にお事を欠かせられてござる。これも取つて来い。と仰せられてござる。
▲アト「《笑》やいやい。親者人の謡が、まだ止(や)まぬといやい。
▲小アト「左様に申しまする。
▲アト「いかいお好きであつたなあ。
▲小アト「左様でござる。
▲アト「さりながら、この世に御座なされた時は、鋼(はがね)を鳴らしたお侍であつたによつて、扇の五本や十本に、事は欠かせられなんだに。冥土とて、物の不自由な。扇一本にさへ、事を欠かせられる。
{と云ひて、泣く。}
宿元でござらば、どの様の扇なりとも、取り調(とゝの)へて進じませうに。途中で武悪に逢ひましたによつて、持ち古びましたれども、これを進じまする程に、確かに届けませい。と云うて、早う遣れ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「もう良い加減にして、早う往(い)ね。と云へ。
▲小アト「心得ました。やいやい、これも確かに届けませい。
▲シテ「まだ、ござる。
▲アト「何ぢや、何ぢや。
▲シテ「此方は、つまらせられて御窮屈にござらう。あの方は、広々とお屋敷取りをなされてござる。お目にかゝつたらば、お供せい。と仰せられてござる。
▲アト「それは、親者人の御無分別といふものぢや。身共がこの世に居てこそ、五十年忌の百年忌のと云うて、訪(と)ひ弔ひもすれ、それへ参つては、誰あつて後を弔ふ者がござらぬ。その上、以前とは違ひまして、隣り屋敷を買ひ求めまして、只今では広々と致してをる。それのお屋敷は、どれへなりともお譲りなされ、又私も、参る時分には参らう。と云うて、まづ汝も早う往(い)ね。
▲シテ「それは、御卑怯でござる。
▲アト「ぢやと云うて、よう思うても見よ。これが何と、行かるゝのぢや。
▲シテ「是非ともお供せい。と仰せられてござる。
▲アト「そちが跡も弔うてやるわいやい。
▲シテ「それは、御卑怯でござる。
▲アト「あゝ、許してくれい、許してくれい。
▲シテ「是非お供せい。と仰せられてござる。
{と云ひて、追ひ込み入る。主は、逃げて入るなり。太郎冠者、後より入るなり。}
校訂者注
1:「安大事(やすだいじ)」は、「一見、何でもないようで、実は大きな意味を持つこと」の意。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
武悪(ブアク)(二番目 三番目)
▲アト「たそおるか、たそおるか、誰もおらぬかいやい▲小アト「なんぢやめすといふか、めしますか▲アト「召しますか、汝はどれに居た▲小アト「お次に居りました▲アト「次に居た者が、最前から声のかるゝ程呼ぶに、聞へぬといふ事が有るものか、して次には誰もゐぬか▲小アト「いや誰もおりませぬ▲アト「ひそかにいひ付くる事が有る、つツと是へよれ▲小アト「畏ツて御座る▲アト「内々不奉公者の武悪めが事ぢや、種々と思案をすれ共、兎角いけて置くやつでない、成敗する程にさう心得い▲小アト「成程お腹立の段は御尤で御座る去ながら、きやつが病気も段々宜敷う御座るに依ツて、近日は御奉公にも出う抔と、私方迄内々申し越して御ざる、先づ此度は御ゆるされて下されうならば、私迄も難有う存じまする▲アト「結構な執成でおりある、おのれがいふ迄もない、年久しう召し遣う者の事ぢやに依ツて、身共も随分了簡をしたれども、最早堪忍袋がきれた、則ち汝に討手をいひ付くる程に、急いで武悪を討つてこい▲小アト「お言葉を返しまするは恐れ多は御ざれども、武悪と私とは幼少の時より、後懐にもぬる様に致いた者の事で御座る、私が内証で意見を致しませう程に、どうぞ此度の義は御ゆるされて下されませ▲アト「偖はおのれは、不奉公者の武悪奴とは一味せうず、身がいふ事はきくまいといふ事か▲小アト「いや左様では御座りませぬ▲アト「まだぬかしをる、おのれ行かうかゆくまいか真ツ直にいへ{ト云てそり打}▲小アト「あゝ先づおまち被成ませ▲アト「何とまてとは▲小アト「畏ツて御座る{如常{*1}きめる}▲アト「さうなうて叶はぬ事ぢや、急いでゆけ▲小アト「一旦はお断申して御座れ共、此上は畏ツて御座る▲アト「偖其方に手覚の物も有らうずれども{*2}、之は身共が重代のわざよしぢや、之を持ツて首尾よう武悪を討つてこい▲小アト「其段は卒ともお気遣ひ被成ますな▲アト「急いでいて頓て戻れ{如常つめる}▲小アト「偖も偖も迷惑な事を仰せ付けられた、といふてもゆかずばなるまい、{シカシカ{*3}}誠に、身共が真ツ斯うあらうと思ふて、種々意見をすれども聞かぬに依ツて、此様に成下ツた事ぢや、偖あの武悪は並々の者でないに依ツて、すは参るぞかゝるぞといては、中々身共らが手に及ぶ者ではない、兎角だますに手なしぢや、だまし討ちに致さう、いや何彼といふ内に是ぢや、先づ此太刀を見せてはなるまい、物も案内も、武悪内にお居あるか{ト云て太刀後ろへ隠し案内を乞ふ如常}▲シテ「表に聞き馴れた声で案内がある、案内とは誰そ▲小アト「身共でおりある▲シテ「えい太郎冠者、そなたならば案内なしに通りは召されいで、よそよそしい何事でおりある▲小アト「此間は久しう見まはぬが、そなたの病気も次第によささうで一段でおりある▲シテ「成る程身共の病気も段々よいに依ツて、近日は御奉公にも出うと思ふ、心元ないは御前の首尾は何とでおりある▲小アト「夫は卒ツとも気遣いお仕あるな、身共がおそば近う居るに依ツて、よい様に申し上げておいた▲シテ「やれやれ嬉しや、是といふも和ごりよがおそば近う居るゆへの事ぢや、して又けふは何としておりあつた▲小アト「けふはそなたに注進する事が有ツて来た▲シテ「夫は心元ない何事でおりある▲小アト「いやいや別に心元ない事ではない、頼うだお方が俄に客を得させらるゝ、魚に事をかゝせられた、又そなたは川魚をとる事を得てゐるに依ツて、何成とも一種二種とつて上げて、是は武悪が差し上げまする抔と、夫をしをにお目見得をさせうと思ふて知らせに来た▲シテ「やれやれ夫はようこそ知らせておくれあつた、成程身共は川魚をとる事を得てゐるに依ツて、随分捕ツて上げうが去ながら、引籠うで居る内に殺生をする抔と、かへつてお叱りにはあうまいか▲小アト「何しにそなたの為にわるい事はいはぬ、早う捕ツて上げさしませ▲シテ「夫ならば捕ツて上げう程に、しばらく夫におまちあれ▲小アト「あゝ先づおまちあれ▲シテ「何とまてとは▲小アト「そなたの川魚をとるを、身共はついに見ぬ某もゆかうぞ▲シテ「わごりよもくるか▲小アト「中々▲シテ「夫は一段ぢやさあさあおりあれ▲小アト「心得た▲シテ「何と一つ呑うでゆくまいか▲小アト「夫はおそからぬ事ぢや、先づおゆきあれ▲シテ「心得た、偖身共も引籠うで居る内に、生州の様な所を拵ておいたが、是に魚が夥しう居る事ぢや▲小アト「夫は定めておびたゞしうおるで有らう▲シテ「いや何彼といふ内に是ぢや▲小アト「あの此小さい所に魚が居るか▲シテ「おるともおるとも、あれあれ、あれは皆鮒ぢや程にの▲小アト「誠に夥しうをる、偖そなたは何も道具を持たぬが、どうして捕るぞ▲シテ「不審尤ぢや、あの角から此角へ押草といふ事をしてとれば、無雑作にとるゝ事ぢや▲小アト「いかさま夫はむざうさにとるゝで有らう▲シテ「偖そなたも這入つて追てくれい▲小アト「身共も這入つて追てやりたけれども、今にも御前から召せばぬれ足では上がられぬ、上から声をかけてやらうぞ▲シテ「是は尤ぢや、夫ならば上から声をかけておくれあれ、身共は這入るぞよ▲小アト「はいれはいれ▲シテ「心得た{ト云て飛びこむシテ両手叩いて追ふ小アト肩ぬぎ後より切かくるなり}▲シテ「しい▲小アト「おるかおるか▲シテ「おるともおるとも▲小アト「おるかおるか▲シテ「おる共おる共▲小アト「がつきめやらぬぞ▲シテ「ざれ事をするな魚がをじる▲小アト「戯事ではない御意で討に来た覚悟せい▲シテ「何ぢや御意で討に来た▲小アト「こりや御太刀ぢやが見忘れたか▲シテ「誠に見れば御太刀ぢや、偖は真実討手に向うたか▲小アト「くどい事をいふたつた一ト討にせう▲シテ「あゝ先づまてまて▲小アト「何とまてとは▲シテ「やあらそちは聞こえぬ者ぢや、一旦お腹立が有ツて仰せ付けられうとも、達てお詑びをしてくれうそちが、討手に向うといふ事が有るものか▲小アト「夫を身共がぬからうか種々お詑を申し上げたれども、討手にゆかぬにおいては身共ともに御成敗被成れうとのお事ぢやに依ツて、背に腹はかへられず討手に向うた、最早のがれぬ覚悟せい▲シテ「先づまてまて▲小アト「何とまてとは▲シテ「いよいよ汝は聞こえぬ者ぢや、夫程きはまつた事ならば、なぜ宿元で知らせてくれぬ、宿元で云ふたならば、妻子にも暇乞をし、尋常に腹かき切ツて死のふものを。なんぞや此様な所へつれて来て、だまし討にせうといふ様な事が有るものか▲小アト「夫も身共が合点なれ共、宿元でいふたならば、妻子にも名残をおしみ、未練な体も有らうかと思ふて爰までだましてつれて来た、兎斯ういへば命をおしむにあたる、迚ものがれぬ覚悟せい▲シテ「先づまてまて▲小アト「何とまてとはおくれたか▲シテ「いゝやおくれはせぬ、まつたく命をおしむでもない乍去、そちと身共とは幼少の時から、後懐にもぬる様にした者なり、其上此辺りでは、武悪武悪と黒づらをも見知られた某を、何ぞや此様な川中へ追ひ込うで、蛙をふみつぶしたやうにせうと思ふそちが心入は、偖々どうよくな者ぢやなあ{ト云て泣なり}▲小アト「やい武悪ほどの者が最後に及うで、未練な事をいはずとも尋常に討れいやい▲シテ「あゝさうぢや、此上は頼うだお方に恨みはない、恨みはそちに残ツた、さあ是へ寄ツて切りたい所からきれいやい{ト云て泣く}▲小アト「其様にいへば太刀の打ち付け所を忘れたわいやい▲シテ「人に物を思はせずとも、早う斬れいやい▲小アト「身共が真ツ斯う有らうと思ふて、種々とお詑を申したれ共、討手にゆかぬにおいては、身共ともに御成敗被成れうとのお事ゆへ、是非なう討手には向うたれども、今そちが体を見ては最早きられはせまい、命を助くるそこを立て▲シテ「何ぢや命をたすくる▲小アト「中々▲シテ「夫は誠か▲小アト「こりやこりや太刀も鞘へ納むるぞ▲シテ「やれやれ嬉しや、命の親と奉るぞ▲小アト「あゝこりやこりや、礼所ではない、そちは見へぬ国へいてくれずばなるまい▲シテ「夫を身共がぬからうか、此足ですぐに見へぬ国へゆくであらう乍去、身共が見へぬ国へいたらば、跡で妻子が迷惑するで有らう、そちよいやうに頼むぞ▲小アト「夫は卒ツとも気遣いするな乍去、いづくに居やうとも文の便りはせいよ▲シテ「命があらばめぐり逢はうぞ▲小アト「先づ夫程はさらば▲シテ「さらば▲二人「さらばさらば{ト云て泣て入違い別れるシテは太鼓座に入る小アト笛座にて肩衣{*4}を着て}▲小アト「是はいかな事、武悪は早とつといた、今の時に助くるのではなかつたものを、あゝ安大事をした、是非に及ばぬ、兎角頼うだお方へは討つたと申し上げずば成まい、誠に、是に付けても、させまじいは宮仕へで御座る、あなたがよければこなたがわるし、こなたがよければあなたがわるし、中に立ツて此様な迷惑な事は御座らぬ、いや何彼といふ内に戻つた{ト云て呼出す主出る如常}▲アト「何と武悪を討つたか▲小アト「討ちました▲アト「何ぢや討つた▲小アト「はあ▲アト「やれやれ嬉しや嬉しや、武悪程の者なれ共、此ごろ討ちたい討ちたいと思ふたれば、心にかゝつてわるかつたに、討つたと聞いて安堵{*5}したわいやい▲小アト「是は御尤に存じまする▲アト「偖汝をやつた跡でいかう案じてな▲小アト「何をお案じ被成ました▲アト「武悪は並々の者でないに依ツて、すは参るぞかゝるぞといふて、中々聊爾には討たれまい、若し仕損じて返り討にでもあうならば、外聞も宜しうない今一両人{*6}も人を附けてやればよかつたにと思ふて、いこう案じたわいやい▲小アト「是は御尤に存じまする▲アト「偖最期は何とで有ツた▲小アト「よう御座りました▲アト「何よかつた▲小アト「左様で御座る▲アト「して夫はどの様な最期で有ツた▲小アト「先づあれへ参ツて、御意で討に来た覚悟せいと申して御座らば、真ツ斯う有らうと存じたと申して、西に向ひ念仏十遍ばかり申す所を、何が御太刀では御座り、水もたまらず首を丁と討落して御座る▲アト「何ぢや首を丁と討落した▲小アト「左様で御座る▲アト「夫は思ひの外よい最期で有ツたなあ▲小アト「はあ▲アト「其様な事ならば、最卒ツと生けて置いたらば役に立たうものを、ちと早まつた事をした▲小アト「何れ御残念を被成ました▲アト「最期がよかつたと聞けばふびんに思ふ、けふは東山辺へ往て、武悪が跡を吊らうてとらせう▲小アト「夫は武悪が悦びませう▲アト「さあさあこいこい▲小アト「畏ツて御座る▲アト「偖何と其太刀はよう切れたか▲小アト「さすがお太刀で御座る、真つ唯水の中へ討込むように御座りました▲アト「さうであらう共、あれは親者人が重代のわざよしぢやといふて、御秘蔵被成たわいやい{ト云しかしかの内シテ橋がゝりへ立てしかしか云舞台にて行当るよく云ひ合すなり}▲シテ「のふのふ嬉しや嬉しや、此度命を助かツたは太郎冠者が蔭とはいへど、日頃清水の観世音を信仰するゆへぢや、見へぬ国へいたらば又参る事も成まい、お礼かたがた参らうと存ずる{ト云て行当りシテは一の松迄逃て隠るアト見付る小アト中え入り隠すなり皆々心持色々仕様有べしよくよく云合すべし其外仕様口伝}▲小アト「何で御座ります▲アト「何で御座ります、おのれ今のは武悪ではないか▲小アト「いや武悪は私が手にかけて討ちまして御座る▲アト「おのれ討ちもせいで討つたといつわらば、末孫をたやすぞよ▲小アト「是は御意とも覚へませぬ、討ちもせいで討つたと申し上げ様が御座らぬ、武悪は私が手にかけて討ちまして御座る▲アト「いづれ事にこそよらうけれ、討ちもせいで討つたといつわらう様はない、でも今のは武悪で有ツたが、退け見てこう▲小アト「先づお待ち被成ませ▲アト「何と待てとは▲小アト「私をおつれなさるゝは斯様な時の為で御座る、私見て参りませう▲アト「急いで見て来い▲小アト「畏ツて御座る、やいそこなうろたへ者、何として爰へは出おつたぞいやい▲シテ「天に網が被さつた、一たん命を助かツたは、そちが蔭とはいひながら、日頃清水の観世音を信仰するゆへぢや、見へぬ国へいつたらば又参る事も成まいと思ふて、御礼かたかた参る所に、思ひもよらぬ頼うだお方のお目にかゝつた、此上は頼うだお方にもそちにも恨はない、是へよつて首を討つて、頼うだ御方にお目にかけてくれい▲小アト「まだ其のつれをいふ、一旦武悪は討ちましたと申し上げて、今又是は武悪が首で御座る抔と、何と申し上げらるゝ{*7}ものぢや、其様な事を云はずとも、何んぞよい思案はないかいやい▲シテ「身共も途方にくれて思案も出ぬはいやい▲小アト「何と爰は鳥辺野ではないか▲シテ「誠に爰は鳥辺野ぢやがそれが何とした▲小アト「身共が思ふは、武悪はお主の命をそむいた者で御座れば、うかみもやりませず、たゞ今のは武悪が幽霊で御座らうなどと申し上げう程に、そちは幽霊になつて出よ▲シテ「身どもは遂ひに幽霊に成つた事がない▲小アト「いや爰な者が、誰あつて幽霊に成つたものが有らう、時の間を合はす爲ぢや、よい様に取つくらうてお出あれ▲シテ「それならば聞いた事も有るに依ツて取つくらうて出う程に、そこの首尾を頼むぞ▲小アト「早う出よ早う出よ▲シテ「心得た心得た{ト云て中入する}▲小アト「何がお目にかゝつたしらぬ▲アト「何と見て来たか▲小アト「成程見て参りましたが、あの高見へ上がりますれば、五町三町は手の下にも見へまする、武悪が事は偖置まして似た者も居りませぬ▲アト「何ぢや似た者も居らぬ▲小アト「左様で御座る▲アト「はて合点のゆかぬ、慥に今のは武悪で有ツたが▲小アト「申し爰は鳥辺野では御座らぬか▲アト「成程爰は鳥辺野ぢやが、夫が何とした▲小アト「私が存じまするは、武悪はお主の命をそむいた者の事で御座ればうかみもやりませいで、唯今のは武悪が幽霊かと存じまする▲アト「やあ何がなんと▲小アト「いや幽霊かと存じまする▲アト「なんぢや幽霊▲小アト「はあ▲アト「あゝそちは気味のわるい事をいひだした、最こい戻らう▲小アト「夫がよう御座りませう▲アト「けふに限つた事ではない、又近日出て吊うてとらせう▲小アト「夫がよう御座りませう▲アト「幽霊ときいたれば、どうやらちり毛元から、ぞうぞうとつかみたつるやうな{*8}▲シテ「あゝ苦しう御座る▲アト「そりあ何やら出たは出たは▲小アト「誠に何やら出ました▲アト「夫へ出たは何者ぢやと云ふて尋ねい▲小アト「畏ツて御座る、やいやい、夫へ出たは何者ぢや▲シテ「武悪が幽霊で御座る▲小アト「申し武悪が幽霊ぢやと申しまする▲アト「誠に武悪が幽霊ぢやといふ▲小アト「左様で御座る▲アト「偖は最前まぼろしのやうに見へたはきやつかいなあ▲小アト「何れきやつでかな御座りませう▲アト「あれへいて言はうには、武悪は汝にいひ付けて成敗させたが、何として是へは出たといふてとへ▲小アト「畏ツて御座る、やいやい、武悪は最前太郎冠者に仰せ付けられて御成敗被成たが、何として是へは出たと仰せらるゝ▲シテ「お主の命をそむいた者で御座れば、うかみもやりませず、魂は冥途にありながら、魄は此世にとゞまつて、ああ苦敷う御座る▲小アト「申し上げます▲アト「きいたきいた▲小アト「お聞きなされましたか▲アト「主の命をそむいた者は皆あの通りぢや、汝も随分奉公を大事にかけい▲小アト「畏つて御座る▲アト「偖武悪にちと尋ねたい事がある程に、最卒つとこちへ寄れといへ▲小アト「畏つて御座る、やいやい、武悪にちとお尋ね被成たい事が有る程に、最そつと是へよれと仰せらるゝ▲シテ「あゝくるしう御座る▲アト「あゝ夫でよい夫でよい▲小アト「あまりそばへよりますな▲アト「偖地獄極楽はあるとも云ひ無いともいふが、有るが定か無いが定か{*9}▲シテ「地獄も御座り▲アト「むゝ▲シテ「極楽も御座る▲アト「やいやい太郎冠者、地獄極楽もあるといやい▲小アト「左様に申しまする▲アト「すれば後生が大事ぢやなあ▲小アト「左様で{*10}御座る▲アト「偖此世から過ぎ{*11}去らせられたお方もおゝいが、どれえぞお目にかゝつたか▲シテ「悉くお目にかゝつて御座る、中にも大殿様のお目にかゝつて御座る▲アト「何ぢや親者人のお目にかゝつた▲シテ「あゝ▲アト「やれやれおなつかしやおなつかしや、夫は先づどの様な所に御座被成るゝぞいやい▲シテ「地獄でも御座らず▲アト「むゝ▲シテ「極楽でもなし▲アト「はあん▲シテ「唯むさとした所に御座る▲アト「是は斯うも有りさうな事ぢや、親者人が此世に御座被成た時、さのみ善をも被成らず又さして悪をも被成なんだに依つて、斯うありさうな事ぢやなあ▲小アト「左様で御座る▲シテ「大殿様からお言伝が御座る▲アト「やれやれおしほらしやおしほらしや、夫は何と仰せ遣はされたぞいやい▲シテ「あの方は盗人がはやりまして、お太刀にお事をかゝせられて御座る、お目にかゝつたらば取つて来いと仰せられて御座る▲アト「やい太郎冠者、此世ばかり盗人がはやるかと思へば、あの方にも盗人がはやるといやい▲小アト「左様に申しまする▲アト「油断のならぬ事ぢやなあ▲小アト「左様で御座る▲アト「幸ひそちに持たせて置た太刀を、慥に届けませいといふてやれ▲小アト「畏つて御座る、やいやい之を慥に届けませい▲シテ「まだ御座る▲アト「何ぢや▲シテ「夜に三度日に三度、閻魔王への御出仕に、小さ刀にお事をかゝせられて御座る、お目にかゝつたらば、是も取つて来いと仰せられて御座る▲アト「いかいご苦労を被成るゝ事ぢやなあ▲小アト「左様で御座る▲アト「乍去是は親者人のお譲りあつた物を、皆取おかやしあるといふ物ぢや、乍去又此やうなよい便りは有るまい、慥に届けいといふて之もやれ▲小アト「畏つて御座る、さあさあ之も慥に届けませい▲シテ「まだ御座る▲アト「なんぢやまだあるか▲シテ「あの方は謡がはやりまして、扇にお事をかゝせられて御座る、是も取つて来いと仰せられて御座る▲アト「《笑》やいやい、親者人の謡がまだ止まぬといやい▲小アト「左様に申しまする▲アト「いかい御すきであつたなあ▲小アト「左様で御座る▲アト「乍去此世に御座被成た時は、はがねを鳴らしたお侍で有つたに依つて、扇の五本や十本に事はかゝせられなんだに、冥土とて物の不自由な、扇一本にさへ事をかゝせられる{ト云て泣く}宿元で御座らば、どの様の扇なりとも取調へて進じませうに、途中で武悪に逢ひましたに依つて、持ふるびましたれ共之を進じまする程に、慥に届けませいと言ふて早うやれ▲小アト「畏つて御座る▲アト「もうよいかげんにして早ういねといへ▲小アト「心得ました、やいやい之も慥に届けませい▲シテ「まだ御座る▲アト「なんぢやなんぢや▲シテ「此方はつまらせられて御窮屈に御座らう、あの方はひろひろとお屋敷取を被成て御座る、お目にかゝつたらばお供せいと仰せられて御座る▲アト「夫は親者人の御無分別といふものぢや、身共が此世に居てこそ、五十年忌の百年忌のといふてとひ吊いもすれ、夫へ参つては誰有つて後をとむらう者が御座らぬ、其上以前とは違いまして、隣り屋敷を買ひ求めまして、唯今では広々と致しておる、夫のお屋敷はどれへ成ともお譲り被成れ、又私も参る時分には参らうといふて、先づ汝も早ういね▲シテ「夫は御卑怯で御座る▲アト「ぢやといふてよう思ふても見よ、是が何んとゆかるゝのぢや▲シテ「是非共お供せいと仰せられて御ざる▲アト「そちが後も吊らうてやるわいやい▲シテ「夫は御卑怯で御座る▲アト「あゝゆるしてくれいゆるしてくれい▲シテ「是非お供せいと仰せられて御座る{ト云て追込入る主は逃て入るなり太郎冠者後より入るなり}
校訂者注
1:底本は、「常如」。
2:底本は、「有らうすれども」。
3:ここの「シカシカ」、底本は縦一行書きで、ト書き割注の形にはなっていない。
4:底本は、「肩を着て」。
5:底本は、「安緒」。
6:底本は、「今一両も」。
7:底本は、「申し上げらるゞ」。
8:底本は、「つかみたつる如(やう)な」。
9:底本は、「有るが誠(じやう)か無いか誠か」。
10:底本、「で」はカスレ、判読困難。
11:底本は、「過き」。
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