止動方角(しどうはうがく)(二番目 三番目)
▲アト「この辺りの者でござる。今日(こんにち)俄(には)かに、東山に於いてお茶くらべがござる。それに付き、太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。今日俄に、東山においてお茶くらべがある。そちは、太儀ながら伯父者人へ行(い)て、この方の茶は、いまだ口を切りませぬ。お前の宜しうござらう極(ごく)を一袋(いつたい){*1}、わたし{*2}に入れてお貸しなされい。と云うて、行(い)て来い。
▲シテ「畏つてはござれども、お茶もお詰めなされいでのお茶くらべは、慮外ながら、御無用になされたが良うござりませう。
▲アト「おのれが何を知つて。兼日(けんじつ)からの約束ぢや。と云うて、借つて来い。
▲シテ「あゝ。
▲アト「扨、下々(したじた)が太刀を持つ。太刀も、借つて来い。
▲シテ「心得ました。
▲アト「何(いづ)れも、馬上でお出なさるゝ。馬も借つて来い。
▲シテ「人は、幾人(いくたり)遣はされます。
▲アト「いや、こゝなやつが。身共が内に、汝より外に、誰があるものぢや。そちひとり行(い)て、借つて来い。
▲シテ「お前も、よう思うても御覧(ごらう)じませ。お壺からお太刀お馬まで、私一人して、何と借つて参らるゝものでござらう。
▲アト「それならば、馬取りともに、借つて来い。
▲シテ「いかに伯父御様がお心安いと申して、馬取りまでの御無心は、申されますまい。
▲アト「やい、そちと伯父者人とは、合口(あひくち)ではないか。良い様に云うて、借つて来てくれい。
▲シテ「ならうなるまいは存じませねども、まづ参つて見ませう。
▲アト「急いで行(い)て、やがて戻れ。
{と云ひて、詰め、受けるも、常の如し。}
▲シテ「扨々、迷惑な事を云ひ付けられた。と云うても、行かずばなるまい。誠に、こちの頼うだ人の様な、我が儘な人はあるまい。どこにか、茶も詰めいでの茶くらべ。おいて貰ひたい。それを云へば、おのれが何を知つて。と云うて、歯を出さるゝ。この様な、苦々しい事はござらぬ。いや、何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも、常の如し。}
▲小アト「表に案内がある。案内とは誰(た)そ。
▲シテ「私でござる。
▲小アト「えい、太郎冠者。何として来た。
▲シテ「頼うだ者、申しまする。今日(こんにち)、俄(には)かに東山においてお茶くらべがござる。この方の茶は、いまだ口を切りませぬによつて、どうぞ、お前の宜しうござらう極(ごく)を一袋(いつたい)、わたしに入れてお借しなされて下されい。と申し越してござる。
▲小アト「何と思ふ。茶も詰めいでの茶くらべは、いらぬものではないか。
▲シテ「いや、当年は、少々ばかりは詰められたさうにござる。
▲小アト「何を云ふ。そちに茶を詰めぬ事は、身共がよう知つてゐる。
▲シテ「兼日(けんじつ)からの約束ぢや。とやら申されます。どうぞ、お貸しなされて下されませ。
▲小アト「兼日からの約束とあれば、変改(へんがへ)もなるまい。貸してやらうぞ。
▲シテ「それは、忝う存じまする。
▲小アト「暫くそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。まづ、ひと色は、埒があいた。
▲小アト「やいやい。これを持つて行け。
▲シテ「これは、結構なお茶と見えまして、外入(そといれ)までが、綺麗にござる。
▲小アト「晴れがましからう。と思うて、良いのを貸してやるぞ。
▲シテ「これは、ありがたう存じまする。扨、まだござります。
▲小アト「それは、何ぢや。
▲シテ「何(いづ)れも、下々が太刀を持ちまする。この方の太刀は、芝引(しばひき)が損じまして、金具屋へ直しに遣つてござる。これひと色は、頼うだ者が申し付けは致しませねども、どうぞ私へお貸しなされて下されい。
▲小アト「何(いづ)れ、ひと色貸すもふた色貸すも、同じ事ぢや。貸してやらう。それに待て。
▲シテ「忝う存じまする。これも、埒があいた。
▲小アト「こりあこりあ。これを持つて行け。
▲シテ「これは、結構なお太刀でござる。もそつと粗末なを、お貸しなされて下され。
▲小アト「重代なれども貸す程に、損なはぬ様にして、持つて行け。
▲シテ「これは、定めて頼うだ者が、さぞ悦ぶでござりませう。
▲小アト「して、もう行くか。
▲シテ「ゑゝ。
▲小アト「もう行くか。と云ふ事ぢや。
▲シテ「はあ。《笑》まだ、ござります。
▲小アト「何ぢや、まだあるか。
▲シテ「何(いづ)れも馬上でお行きあります。こちの頼うだ者ばかり、徒歩跣(かちはだし)で参つては、これは又、お前の御外聞も宜しうござらぬ。とてもの事に、お馬もお貸しなされて下されうならば、ありがたう存じまする。
▲小アト「何(いづ)れ、小身で、馬は持たれぬ。これも貸してやらうぞ。
▲シテ「それは、ありがたう存じまする。
▲小アト「暫くそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。なうなう、嬉しや嬉しや。ざつと埒があいた。この由を頼うだ者に申し聞かせたらば、さぞ悦ぶでござらう。
{小アト、楽屋より馬を引いて出る。}
▲小アト「はい、はい、はい。
▲シテ「これは御自身、御苦労な事でござる。おゝ、これは、いかうお馬が肥えました。
▲小アト「何と、太つたであらうが。
▲シテ「飼はつしやれ様が良うござるによつて、殊の外、太りました。
▲小アト「扨、これは、汝一人(いちにん)か。
▲シテ「私一人でござる。
▲小アト「そち一人(いちにん)では、なるまいぞよ。
▲シテ「何(いづ)れ、お壺からお太刀お馬まで、私一人ではなりますまいが。とてもの事に、お仲間(ちゆうげん)衆を一両人、お貸しなされて下されうならば、忝うござる。
▲小アト「それは、何より易い事なれども、今日(けふ)は方々へ使ひに遣はして、一人も宿に居らぬ。
▲シテ「あの、一人(いちにん)もお宿に居りませぬか。
▲小アト「中々。
▲シテ「左様ならば、是非に及びませぬ。一方には、お壺とお太刀を持ちまして、また一方には、このお馬を牽いて帰りませう。
▲小アト「せめて、さうなりともせずばなるまい。扨、その馬には、悪い癖があるぞよ。
▲シテ「それは、いか様な事でござる。
▲小アト「その馬の後(あと)で咳(すはぶ)きをすれば、たちまち取つて出る程に、さう心得い。
▲シテ「それは、悪い癖でござる。私は存じましたによつて、随分嗜みませうが、もし、行き通りの者が存ぜいで、咳(すはぶ)きを致して、お馬が取つて出ましたらば、何と致しませうぞ。
▲小アト「それには、早速鎮(しづ)まる誦文(じゆもん)がある。教へてやらうぞ。
▲シテ「それは、何と申す事でござる。
▲小アト「寂蓮童子六万菩薩鎮(しづ)まり給へ止動方角。といふ事ぢや。
▲シテ「何と仰せられます。じやくれん童子六万ぼさつしづまり給へ。何でござります。
▲小アト「止動方角。
▲シテ「ゑゝ、止動方角。大方、覚えましてござる。
▲小アト「扨、汝に頼む事がある。
▲シテ「それは、いか様な事でござる。
▲小アト「これまで、そちが所へいろいろ道具を貸せども、ついにひと色も戻した事がない。この度は、数々秘蔵の道具を貸す程に、あいたらば早々、返してくれい。
▲シテ「その段は、そつともお気遣ひなされますな。あきましたらば、早々私が御返弁申しませう。
▲小アト「必ずそれを頼むぞ。
▲シテ「もう、かう参ります。
▲小アト「もう行くか。
▲シテ「はあ。
▲小アト「よう来た。
▲シテ「はあ。なうなう、嬉しや、嬉しや。何が案じつらう。三色(みいろ)ともに、ざつと埒があいた。まづ、急いで帰らう。はい、はい。誠に、あの伯父御様の様な、結構なお方はござるまい。いつ何時、何を申して参つても、それをならぬ。と仰せられた事がない。あの伯父御がなくば、こちの頼うだ人は、何で公儀を召されうぞ。あの様なお方を悪う思うたらば、罰が当たらうぞ。はい、はい、はい、し。
{アト、シテのしかじかの内に立つ。}
▲アト「太郎冠者を伯父者人の方へ使ひに遣はしてござる。あまり帰りが遅い。見に参らうと存ずる。もはや、戻りさうなものぢやに、何をしてゐる事ぢや知らぬ。さればこそ、あれへ戻りをる。やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「やあ。
▲アト「やあ。おのれ、今まで何をして居をつた。
▲シテ「何をしてゐませうぞいの。これが、ひと色やふた色の借り物ではなし、伯父御様の御機嫌を損ねぬ様に。と思うて、色々の追従を云うて、やうやうと借つて来ました。
▲アト「おのれ、それ程の物を借るに、何の追従が要るものぢや。もはや、何時(なんどき)ぢやと思ひ居る。何(いづ)れもは、遅い。と云うて、早(はや)先へお行きあつたわいやい、お行きあつたわいやい。こりあ又、例の弁口がな、ぬかしてゐをつたものであらう。のきをれ。
{と云ひて、シテを突きのけ、馬に乗るなり。}
▲シテ「よう借つて来た。とは云はいで、早、あれぢや。
▲アト「やいやい、うせをらぬかいやい。
▲シテ「この壺や太刀は、誰が持ちます。
▲アト「誰(た)が持つものぢや。おのれ、持つてうせう。
▲シテ「行きます。
▲アト「うせをらう。
▲シテ「湯を沸かして水へ入るゝ。と云ふは、この事ぢや。まめしげもない{*3}奉公をする事ぢや。
▲アト「やいやい。それは、道もない処を、どこへうせをる。
▲シテ「道がなくば、戻りますわいの。
▲アト「戻りをらう。
▲シテ「戻ります。
▲アト「扨々、憎いやつの。おのれが様なやつは、身に引つ添うて来い。
▲シテ「引つ添うてか。
▲アト「引つ付いてうせう。
▲シテ「引つ添うて居たが良い。
▲アト「ゑゝ、引つ添うて。と云へば、覆ひ重なる様にしをる。おのれが様なやつは、先へ行け。
▲シテ「先へか。
▲アト「先へうせう。
▲シテ「先へ行(い)たが良い。
▲アト「あれあれ、あの不承さうな面(つら)わいやい。おのれ、供先なればこそ了簡をしておけ、宿元へ帰つたらば、只置かうと思ひをるか。やいやいやい、やい、そこなやつ。
▲シテ「やあ。
▲アト「やあ。おのれ、先へ行け。と云へば、方領もなう先へうせをるがな。
▲シテ「こなた、先へ行け。と云はつせあるによつて、先へ行きます。それぢやと云うて、何としませう。
▲アト「おのれは、良い加減を知らぬか。
▲シテ「おりあ、どれ程が良い加減やら、知りませぬわいなう。
▲アト「まだぬかしをる。戻りをらう。
▲シテ「戻ります。
▲アト「戻れ。
▲シテ「あゝ。
▲アト「扨々、憎いやつの。
▲シテ「扨々、腹の立つ事ぢや。何とせう。いや、落としてくれう。
{と云ひて、馬の後口にて、咳払ひをする。馬、跳ねる。アト、落つる。シテ、乗るなり。}
じやくれん童子六万菩薩鎮(しづ)まり給へ止動方角止動方角。
{隠し笑ひする。}
こりあ、落ちさつせありましたか。
▲アト「あまり、おのれが世話を焼かしをるによつて、落馬をした。
▲シテ「それは、危ない事でござりました。それへ参つて御介抱が致したうござれども、お馬が取つて出まするによつて、乗り鎮めてをります。どこも痛みは致しませぬか。
▲アト「したゝか、腰の骨を打つた。
▲シテ「それは、危ない事でござりました。さりながら、大方、お馬も鎮まりました。いざ、召しませ。
▲アト「いや、もうその様な馬に乗る事は嫌ぢや。
▲シテ「ぢやと申して、このお馬を何と致しませう。
▲アト「はて、それから追ひ帰せ。
▲シテ「これはいかな事。伯父御様の御秘蔵のお馬を、馬取りもなしに、何と追ひ帰さるゝものでござる。
▲アト「それならば、汝、乗つて行け。
▲シテ「御意ならば、乗りも致しませうが、あのお壺やお太刀は、誰が持ちます。
▲アト「誰(た)が持つものであらう。汝、持つて乗れ。
▲シテ「これは又、御意とも覚えませぬ。お前が召しつけてござつてさへ、御落馬をなさるゝ。まして、私が乗りつけも致さいで、あのお壺やお太刀を持つて乗りましたらば、そりや、落つるにかゝつてをりませう。さあ、平(ひら)に召しませ。
▲アト「あゝ、嫌ぢやと云ふに。由(よし)ない物を借つてうするによつてぢや。是非に及ばぬ。壺や太刀は、身共が持つてやらう。
▲シテ「あの、お前がお持ちなされまするか。
▲アト「中々。
▲シテ「それは、御苦労な事でござる。左様ならば、お先へ参りませうか。
▲アト「行け、行け。
▲シテ「ご許されませ。はい、はい。
▲アト「やいやい、太郎冠者。そちはいかう、馬上が見事ぢや。
▲シテ「何と、良うござりますか。
▲アト「殊の外、見事ぢや。
▲シテ「お言葉に甘えて申すではござりませぬが、お前が御立身をなされたらば、私ぢやと申して、馬に腰をかけまいものでもござらぬ。その時、人を遣ひつけいで遣うたらば、さぞ不都合にござらう。幸ひ、今日(けふ)は後先(あとさき)に人もなし。誰(た)そ、似合(にあは)しい者もあらば、うちの者の様にして、呼うで見たいもので《笑》。いや、申しますまい、申しますまい。
▲アト「何と云ふぞ。身が立身したらば、そちゞやと云うて、馬に腰をかけまいものでもない。その時、人を遣ひつけいで遣うたらば、さぞ不都合にあらう。幸ひ今日(けふ)は後先(あとさき)に人もなし。身共をうちの者にして呼うで見たい。と云ふか。
▲シテ「いかないかな。お前を。と申す事ではござらぬ。誰(た)そ、似合(にあは)しい者もあらば。と申す事でござる。
▲アト「それは、良い心がけぢや。又、身共もつひに、うちの者になつた事がない。幸ひ、後先(あとさき)に人もなし。許す程に、呼うで見よ。
▲シテ「ぢやと申して、御勿体ない。それが、何と呼ばるゝものでござる。
▲アト「苦しうない。早う呼べ。
▲シテ「それならば、呼うで見ませう。
▲アト「呼べ、呼べ。
{「えゝ」と云ひて、アトの顔を見て、笑ふ。}
▲シテ「中々これは、呼ばれさうにはござりませぬ。
▲アト「その様な事ではならぬ。思ひ切つて呼うでみよ。
▲シテ「それならば、思ひ切つて呼うで見ませう。ご許されませ。
▲シテ「許すとも。
▲シテ「やいやい、太郎冠者。
▲アト「はあ。
▲シテ「来るか。
▲アト「はあ。
▲シテ「ござりまする。あゝ、ご許されませ、ご許されませ。
{と云ひて、手を合はせ、主を拝むなり。}
▲アト「これはいかな事。
▲シテ「いや、もう、お顔を見ましては、空恐ろしうて、中々呼ばるゝ事ではござらぬ。
▲アト「その様な気の弱い事では、中々立身はならぬ。許すからは、のし切つて呼べ。
▲シテ「こゝは、聞き所でござる。ご許さるゝ上は、のし切つて呼べ。でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「それならば、構へてご許されませ。
▲アト「許す、許す。
▲シテ「呼びますぞや。
▲アト「早う呼べ。
▲シテ「やいやい、太郎冠者。
▲アト「はあ。
▲シテ「来るか。
▲アト「はあ。
▲シテ「やい、そこなやつ。おのれ、今まで何をして居おつた。もはや、何時ぢやと思ひをる。何(いづ)れもは、遅い。と云うて、早先へお行きあつたわいやい、お行きやつたわいやい。こりあ又、例の弁口がな、ぬかして居おつたものであらう。うせをらう。はいはいはい。扨々、憎いやつの。やいやい、そりや、道もない処を、どこへうせをる。後へ戻れ、戻りをれ。やいやい、おのれが様なやつは、身に引つ添うて来い。身に引つ付いてうせう。はいはい。ゑゝ、身に引つ添うて。と云へば、覆ひ重なる様にしをる。おのれが様なやつは、先へうせう、先へうせをらう。あれあれ、あの不承さうなつ面わいの。おのれ、供先なればこそ了簡をしておけ、宿元へ帰つたらば、只置かうと思ふか。やいやいやい、そこなやつ。先へ行け。と云へば、方領もなう先へうするがな。おのれ、良い加減を知らぬかよう。戻りをれ、戻りをれ。あの面わいなう。はいはいはい。扨々、憎いやつの。
▲アト「扨々、腹の立つ。
{と云ひて、馬より突き落す。アト、馬に乗りて色々、口伝。}
やい、そこなやつ。
▲シテ「やあ。
▲アト「やあ。おのれ、今のは何ぢや。
▲シテ「こなた、許す程に呼べ。と云はつせあれたによつて、呼びました。
▲アト「いかに許せばとて、主に遣ふ言葉を知らぬか。おのれは、最前の云ひ返しをしをつたなあ。
▲シテ「あれあれ、許す程に呼べ。と云うて置いて、早(はや)、あれぢや。
▲アト「まだぬかしをる。うせをらう。
▲シテ「行きます。
▲アト「うせをれ。
▲シテ「行きます。
▲アト「扨々、憎いやつかな。はい、はい、はい。
▲シテ「扨々、腹の立つ事かな。又、落としてくれう。
{と云ひて、咳払ひする。又、馬跳ね落とし、楽屋へ入るなり。アト、落つる。シテ、主に飛びかゝつて、「じやくれん童子」を云ふ。}
▲アト「やいやい、身共ぢやわいやい、身共ぢやわいやい。
▲シテ「頼うだお方でござるか。
▲アト「あの横着者、やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云つて、追ひ込み入るなり。}
校訂者注
1:「極(ごく)」は、「極揃(ごくそろひ)」。宇治産の極上の抹茶。「一袋(いつたい)」は、茶を数える単位(詳細不詳)。
2:「わたし」は、茶を中に入れて保存する容器。
3:「まめしげもない」は、「張り合いもない」意。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
止動方角(シドウホウガク)(二番目 三番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、今日俄に東山に於てお茶くらべが御座る、夫に付き太郎冠者を呼び出し、申し付くる事が御座る{ト云て呼出す出るも如常}{*1}汝呼び出す別の事でない、今日俄に東山におゐてお茶くらべがある、そちは太儀ながら伯父者人{*2}へいて、此方の茶はいまだ口を切りませぬ、お前の宜敷う御座らう極をいつたい、私に入れてお貸し被成れいといふていてこい▲シテ「畏ツては御座れども、お茶もおつめ被成れいでのお茶くらべは、慮外ながら御無用に被成たがよう御座りませう▲アト「おのれが何をしつて、けん日からの約束ぢやといふて借つてこい▲シテ「あゝ▲アト「偖下々が太刀をもつ、太刀もかつて来い▲シテ「心得ました▲アト「何れも馬上でお出被成るゝ馬もかつて来い▲シテ「人は幾たり遣はされます▲アト「いや爰なやつが、身共が内に汝より外に誰があるものぢや、そち独りいて借つて来い▲シテ「お前もよう思ふても御らうじませ、お壺からお太刀お馬迄私一人して何と借つて参らるゝもので御座らう▲アト「夫ならば馬取共に借つてこい▲シテ「いかに伯父御様がお心易いと申して、馬取迄の御無心は申されますまい▲アト「やい、そちと伯父者人{*3}とは合口ではないか、よい様に云ふて借つて来てくれい▲シテ「ならうなるまいは存じませねども、先づ参つて見ませう▲アト「急でいて頓て戻れ{ト云てつめうけるも如常}▲シテ「偖々迷惑な事をいひ付けられた、といふてもゆかずばなるまい、誠に、こちの頼うだ人の様な我儘な人はあるまい、どこにか茶もつめいでの茶くらべおいて貰ひたい、夫をいへばおのれが何を知ツて、といふて歯を出さるゝ、此様なにがにがしい事は御座らぬ、いや何彼といふ内に是ぢや{ト云て案内乞出るも如常}▲小アト「表に案内がある、案内とは誰そ▲シテ「私で御座る▲小アト「えい太郎冠者何として来た▲シテ「頼うだ者申しまする、今日俄に東山においてお茶くらべが御座る、此方の茶はいまだ口を切りませぬに依ツて、どうぞお前の宜敷う御座らう極をいつたい、わたしに入れてお借し被成て下されいと申し越して御座る▲小アト「何と思ふ、茶もつめいでの茶くらべはいらぬものではないか▲シテ「いや当年は少々ばかりはつめられたさうに御座る▲小アト「何をいふ、そちに茶をつめぬ事は、身共がよう知つてゐる▲シテ「兼日からの約束ぢやとやら申されます、どうぞお貸し被成て下されませ▲小アト「兼日からの約束とあれば変改も成まい、貸してやらうぞ▲シテ「夫は忝う存じまする▲小アト「しばらく夫にまて▲シテ「畏ツて御座る先づ一ト種は埒が明いた▲小アト「やいやい、是を持ツてゆけ▲シテ「是は結構なお茶と見へまして、そといれ迄がきれいに御座る▲小アト「はれがましからうと思ふて、よいのを貸してやるぞ▲シテ「是は難有う存じまする、偖まだ御座ります▲小アト「夫は何ぢや▲シテ「何れも下々が太刀を持ちまする、此方の太刀は芝引がそんじまして、金具屋へ直しに遣つて御座る、是一ト種は頼うだ者が申し付けは致しませねども、どうぞ私へお貸し被成て被下い▲小アト「何れ一ト種かすも二タ種貸すも同じ事ぢや、貸してやらう夫にまて▲シテ「忝う存じまする、是も埒が明いた▲小アト「こりあこりあ、之をもつてゆけ▲シテ「是は結構なお太刀で御座る、最卒ツと粗末なをお貸し被成て下され▲小アト「重代なれども貸す程に、そこなはぬようにして持つてゆけ▲シテ「是は定めて頼うだ者が嘸悦ぶで御座りませう▲小アト「してもうゆくか▲シテ「ゑゝ▲小アト「もうゆくかといふ事ぢや▲シテ「はあ《笑》{*4}まだ御座ります▲小アト「何ぢやまだあるか▲シテ「何れも馬上でおゆきあります、こち{*5}の頼うだ者ばかりかちはだしで参つては、是は又お前の御外聞も宜敷う御座らぬ、迚もの事にお馬もお貸し被成て下されうならば、有難う存じまする▲小アト「何れ小身で馬はもたれぬ、是も貸してやらうぞ▲シテ「夫は有難う存じまする▲小アト「しばらく夫に待て▲シテ「畏ツて御座る、のふのふ嬉しや嬉しや、ざつと埒があいた、此由を頼うだ者に申しきかせたらば、さぞ悦ぶで御座らう{小アト楽屋より馬を引て出る}▲小アト「はいはいはい▲シテ「是は御自身御苦労な事で御座る、おゝ是はいかうお馬がこへました{*6}▲小アト「何とふとつたで有らうが▲シテ「飼わつしやれようがよう御座るに依ツて、殊の外ふとりました▲小アト「偖是は汝一人か▲シテ「私一人で御座る▲小アト「そち一人では成まいぞよ▲シテ「何れお壺からお太刀お馬まで、私一人ではなりますまいが、迚もの事にお仲間衆を一両人、お貸し成されて下されうならば忝ふ御座る▲小アト「夫は何より安い事なれ共、けふは方々へ使に遣はして一人も宿におらぬ▲シテ「あの一人もお宿におりませぬか▲小アト「中々▲シテ「左様ならば是非に及びませぬ、一方にはお壺とお太刀を持ちまして、また一方には此お馬を牽いて帰りませう▲小アト「せめてさうなりともせずば成まい、偖其馬には悪いくせが有るぞよ▲シテ「夫はいか様な事で御座る▲小アト「其の馬のあとですわぶきをすれば、忽ち取ツて出る程にさう心得い▲シテ「夫は悪いくせで御座る、私は存じましたに依つて、ずい分たしなみませうが、若し行き通りの者が存ぜいで、すわぶきを致して、お馬が取つて出ましたらば何と致しませうぞ▲小アト「夫には早速しづまる誦文があるをしへてやらうぞ▲シテ「夫は何と申す事で御座る▲小アト「寂蓮童子六万菩薩しづまり給へ止動方角といふ事ぢや▲シテ「何と仰せられます、じやくれん童子六万ぼさつしづまり給へ、何で御座ります▲小アト「止動方角▲シテ「ゑゝ止動方角、大方覚へまして御座る▲小アト「偖汝に頼む事がある▲シテ「夫はいか様な事で御座る▲小アト「是迄そちが所へいろいろ道具をかせ共、ついに一ト種も戻した事がない、此度は数々秘蔵の道具を貸すほどに、あいたらば早々返してくれい▲シテ「其段は卒ツともお気遣い被成ますな、あきましたらば早々私が御返弁申しませう▲小アト「かならず夫を頼むぞ▲シテ「もう斯う参ります▲小アト「もうゆくか▲シテ「はあ▲小アト「よう来た▲シテ「はあ、のふのふ嬉しや嬉しや、何が案じつらう三種共にざつと埒があいた、先づ急いで帰らう、はいはい、誠にあの伯父御様のやうな結構なお方は御座るまい、いつ何時何を申して参つても、夫をならぬと仰せられた事がない、あの伯父御がなくば、こちの頼うだ人はなんで公儀を召されうぞ、あの様なお方を悪う思ふたらば、罰があたらうぞ、はいはいはいし{アトシテのシカシカの内に立}▲アト「太郎冠者を伯父者人{*7}の方へ使に遣はして御座る、あまり帰りがおそい見に参らうと存ずる、最早戻りさうなものぢやに、何をしてゐる事ぢやしらぬ、去ればこそあれへ戻りをる、やいやい、やいそこなやつ▲シテ「やあ▲アト「やあ、おのれ今迄何をして居をつた▲シテ「何をしてゐませうぞいの、是が一ト種や二タ種の借り物ではなし、伯父御様の御機嫌をそこねぬようにと思ふて、種々のついしやうをいふて、漸々と借つて来ました▲アト「おのれ夫程のものを借るに、何のついしようが要るものぢや、最早何時ぢやと思ひ居る、何れもは遅いといふて、早先きへおゆきあつたわいやい、おゆきあつたわいやい、こりあ又例の弁口がなぬかしてゐをつたもので有らう、のきおれ{ト云てシテを突のけ馬に乗る也}▲シテ「よう借ツて来たとはいはいで、早あれぢや▲アト「やいやい、うせをらぬかいやい▲シテ「此壺や太刀は誰が持ちます▲アト「たが持つものぢやおのれ持つてうせう▲シテ「ゆきます▲アト「うせおらう▲シテ「湯をわかして水へ入るゝといふは此事ぢや、まめしげもない奉公をする事ぢや▲アト「やいやい、夫は道もない処をどこへうせおる▲シテ「道がなくば戻りますわいの▲アト「戻りおらう▲シテ「戻ります▲アト「偖て偖て憎いやつの、おのれが様なやつは身にひつそふて来い▲シテ「ひつそふてか▲アト「引ツ付いてうせう▲シテ「引ツそふて居たがよい▲アト「ゑゝひつそふてといへば、おゝいかさなる様にしをる、おのれが様なやつは先きへゆけ▲シテ「先へか▲アト「先へうせう▲シテ「先へいたがよい▲アト「あれあれ、あの不承{*8}さうなつらわいやい、おのれ供先なればこそ了簡をしておけ、宿元へ帰ツたらば唯置かうと思ひおるか、やいやいやい、やいそこなやつ▲シテ「やあ▲アト「やあ、おのれ先へゆけといへば方領もなう先きへうせをるがな▲シテ「こなた先きへゆけといはつせあるに依ツて先へゆきます、それぢやといふて何としませう▲アト「おのれはよいかげん{*9}を知らぬか▲シテ「おりあどれ程がよいかげんやら知りませぬわいのふ▲アト「まだぬかしをる戻りおらう▲シテ「戻ります▲アト「戻れ▲シテ「あゝ▲アト「偖々憎いやつの▲シテ「偖々腹の立つ事ぢや、何とせう、いやおとしてくれう{ト云て馬の後口にて咳ばらいをする馬はねるアト落るシテ乗るなり}{*10}じやくれん童子六万菩薩しづまりたまへ、止動方角止動方角{隠し笑ひする}{*11}こりあ落さつせありましたか▲アト「あまりおのれが世話をやかしおるに依ツて落馬をした▲シテ「夫はあぶない事で御座りました、夫へ参ツて御介抱が致したう御座れども、お馬が取ツて出まするに依ツて乗りしづめております、どこも痛みは致しませぬか▲アト「したゝか腰の骨を打つた▲シテ「夫はあぶない事で御座りました、乍去大方お馬もしづまりました、いざ召しませ▲アト「いやもう其様な馬に乗る事はいやぢや▲シテ「じやと申して此お馬を何と致しませう▲アト「果て夫から追ひ返へせ▲シテ「是はいかな事、伯父御様の御秘蔵のお馬を、馬取りもなしに何と追ひ帰さるゝもので御座る▲アト「夫ならば汝のつてゆけ▲シテ「御意ならば乗りも致しませうが、あのお壺やお太刀は誰が持ちます▲アト「たが持つもので有らう、汝持つてのれ▲シテ「是は又御意とも覚へませぬ、お前が召しつけて御座つてさへ御落馬をなさるゝ、まして私がのりつけも致さいで、あのお壺やお太刀を持つてのりましたらば、そりや落るにかゝつておりませう、さあひらに召しませ▲アト「あゝいやぢやといふに、よしない物を借ツてうするに依ツてぢや、是非に及ばぬ壺や太刀は身共が持ツてやらう▲シテ「あのお前がお持なされまするか▲アト「中々▲シテ「夫は御苦労な事で御座る、左様ならばお先へ参りませうか▲アト「ゆけゆけ▲シテ「御ゆるされませ、はいはい▲アト「やいやい太郎冠者、そちはいかう馬上が見事ぢや▲シテ「何とよう御座りますか▲アト「殊の外見事ぢや▲シテ「お言葉にあまへて申すでは御座りませぬが、お前が御立身を被成たらば、私ぢやと申して馬に腰をかけまいものでも御座らぬ、其時人をつかひつけいで遣うたらば、嘸不都合に御座らう、幸ひけふは後先に人もなし、たそ似合しい者もあらばうちの者{*12}の様にして呼うで{*13}見たいもので《笑》{*14}いや申しますまい申しますまい▲アト「何といふぞ、身が立身したらば、そちぢやといふて馬に腰をかけまいものでもない、其時人を遣いつけいで遣うたらば、嘸不都合に有らう、幸ひけふは後と先に人もなし、身共をうちの者{*15}にして呼うで見たいといふか▲シテ「いかないかな、お前をと申す事では御座らぬ、たそ似合しい者もあらばと申す事で御座る▲アト「夫はよい心がけぢや、又身共もついにうちの者{*16}に成つた事がない、幸ひ後先に人もなし、ゆるす程に呼うで見よ▲シテ「ぢやと申して御勿体ない、夫が何と呼ばるゝもので御座る▲アト「くるしうない早うよべ▲シテ「夫ならばようで見ませう▲アト「よべよべ{えゝと云てアトの顔を見て笑ふ}▲シテ「中々是は呼ばれさうには御座りませぬ▲アト「其様な事ではならぬ、思ひ切つて呼うでみよ▲シテ「夫ならば思切ツて呼うで見ませう、御ゆるされませ▲シテ「ゆるすとも▲シテ「やいやい太郎冠者▲アト「はあ▲シテ「くるか▲アト「はあ▲シテ「御座りまする、あゝ御ゆるされませ御ゆるされませ{ト云て手を合せ主を拝むなり}▲アト「是はいかな事▲シテ「いやもうお顔を見ましては、空恐ろしうて中々呼ばるゝ事では御座らぬ▲アト「其様な気の弱い事では中々立身はならぬ、ゆるすからはのし切ツてよべ▲シテ「爰は聞き所で御座る、御ゆるさるゝ上はのし切ツて呼べで御座るか▲アト「中々▲シテ「夫ならばかまへて御ゆるされませ▲アト「ゆるすゆるす▲シテ「呼びますぞや▲アト「早うよべ▲シテ「やいやい太郎冠者▲アト「はあ▲シテ「くるか▲アト「はあ▲シテ「やいそこなやつ、おのれ今迄何をして居おつた、最早何時ぢやと思ひをる、何れもはおそいと云ふて早先きへおゆきあつたわいやい、おゆきやつたわいやい、こりあ又例の弁口がなぬかして居おつたもので有らう、うせおらう、はいはいはい、偖々憎いやつの、やいやいそりや道もない処をどこへうせおる、後へ戻れ、戻りおれ、やいやい、おのれが様なやつは身に引ツそふてこい、身に引ツついてうせう、はいはい、ゑゝ身に引ツそうてといへば、おゝい重る様にしをる、おのれが様なやつは先へうせう、先へうせをらう、あれあれ、あの不承{*17}さうなつらわいの、おのれ供先なればこそ了簡をしておけ、宿元へ帰つたらば唯置かうと思ふか、やいやい、やいそこなやつ、先へゆけといへば方領もなう先へうするがな、おのれよいかげんを知らぬかよふ、戻りをれ戻りをれ、あのつらわいのふ、はいはいはい、偖々憎いやつの▲アト「偖々腹の立つ{ト云て馬より突落すアト馬に乗りて{*18}色々口伝}{*19}やいそこなやつ▲シテ「やあ▲アト「やあ、おのれ今のは何ぢや▲シテ「こなたゆるす程に呼べといはつせあれたに依つて呼びました▲アト「いかにゆるせばとて、主に遣う言葉を知らぬか、おのれは最前の言ひ返しをしをつたなあ▲シテ「あれあれ、ゆるす程によべといふて置いてはやあれぢや▲アト「まだぬかしをるうせおらう▲シテ「ゆきます▲アト「うせをれ▲シテ「ゆきます▲アト「偖々憎いやつかな、はいはいはい▲シテ「偖々腹の立つ事かな、又落してくれう{ト云て咳払ひする又馬はね落し楽屋へ入る也アト落るシテ主に飛かゝつてジヤクレン童子を云ふ}▲アト「やいやい身共ぢやわいやい身共ぢやわいやい{*20}▲シテ「頼うだお方で御座るか▲アト「あの横着者、やるまいぞ{*21}やるまいぞ{ト云て追込入るなり}
校訂者注
1・19:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
2:底本は、「伯父じや人」。
3・7:底本は、「伯父ぢや人」。
4:底本は「笑フ」。但し、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
5:底本は、「此方(こち)」。
6:底本は、「お馬かいたへました」。
8・17:底本は、「不祥(ふしやう)」。
9:底本は、「かけん」。
10・11:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
12・15・16:底本は、「徒者(うちのもの)」。
13:底本は、「呼うて」。
14:底本は「笑ふ」。但し、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
18:底本は、「アト馬に乗りにて」。
20:底本は、「身共ぢや(二字以上の繰り返し記号)わいやい」。
21:底本は、「やるまいそ(二字以上の繰り返し記号)」。
コメント