素襖落(すあうおとし)(二番目 三番目)
▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、俄(には)かに思ひ立つて、参宮を致す。それに付き、太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。
{と云ひて、呼び出す。出るも、常の如し。}
俄(には)かに思ひ立つて、参宮をする。汝は太儀ながら、伯父者人の方へ行(い)て、かねがねお約束でござるによつて、申し進じまする。御同心においては、早々この方へ向けて、お出でなされい。と云うて、行(い)て来い。
▲シテ「して、それは、いつの事でござる。
▲アト「今日(こんにち)、只今の事ぢや。
▲シテ「何。今日、只今。
▲アト「中々。
▲シテ「これはいかな事。参宮と申すものは、前広(まへびろ)から身をも清め、その用意をしてこそお参りなさるゝものなれ。どこにか、今日(けふ)の参宮を今仰せ遣はされて、何と伯父御様が、御同心なさるゝものでござる。これは、もそつとお延べなされたが、良うござりませう。
▲アト「おのれが何を知つて。身共さへ参らば、何時(なんどき)なりとも参らう。と仰(お)せあつた。その上、あの方へのお土産物も、悉くこの方に用意致してござる。只、お身すがらお出なされい。と云うて、行(い)て来い。
▲シテ「心得ました。
▲アト「扨、汝も供に行くか。と云うて、お問(と)あつたらば、まだ知れぬ。と云へ。
▲シテ「扨は、私は、お供には参りませぬか。
▲アト「いや、供には連(つ)るれども、もしお問(と)あつたらば、まだ知れぬと云へ。と云ふ事ぢや。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「急いで行(い)て、やがて戻れ。
{と云ひて、詰める。受ける。常の如し。}
▲シテ「扨々、火急な事を云ひ付けられた。さりながら、行かずばなるまい。誠に、こちの頼うだ人の様な我が儘な人は、あるまい。どこにか、今日(けふ)の参宮を、今云うて遣はされて、何と伯父御様が、御同心なさるゝものぢや。それを云へば、おのれが何を知つて。と云うて、歯を出さるゝ。この様な気の毒な事はござらぬ。いや、何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも、常の如し。}
頼うだ人、申しまする。かねがねお約束でござるによつて、申し進じまする。俄(には)かに思ひ立つて、参宮を致す。御同心においては、早々、この方へ向けてお出なされい。と申し越してござる。
▲小アト「して、それは、いつの事ぢや。
▲シテ「今日(こんにち)、只今の事でござる。
▲小アト「これはいかな事。参宮といふものは、前広から身をも清め、その用意をしてこそ参るものなれ。どこにか、今日の参宮を今云うて来る。といふ事があるものか。
▲シテ「いや、あの方へのお土産物も、悉くこの方で用意致してござる。只、お身すがらお出なされい。と申し越してござる。
▲小アト「いかにさうなればとて、汝もよう思うても見よ。今日(けふ)の事を今云うておこして、それが何と参らるゝものぢや。帰つて云はうは、参宮を召さるゝげな、めでたうこそあれ。身共は叶はぬ隙入(ひまいり)があるによつて、え参らぬ。やがてめでたう下向を待つでこそあれ。と云うてくれい。
▲シテ「扨は、お前には、お参りなされませぬか。
▲小アト「中々。
▲シテ「それは、お残り多う存じまする。
▲小アト「して、そちも供に行くか。
▲シテ「ゑゝ。
▲小アト「汝も供に行くか。と云ふ事ぢや。
▲シテ「それは、まだ知れぬさうにござる。
▲小アト「これはいかな事。今日参るに、今まで供の知れぬ。といふ事があるものか。定めて汝が参るであらう。参つたらば、めでたう下向をせい。
▲シテ「忝う存じまする。
▲小アト「扨、何と、一つ呑うで行かぬか。
▲シテ「いや、今日(こんにち)は、内が殊の外忙しうござる。もう、かう参りませう。
▲小アト「常に来てさへ呑ます。殊に今日(けふ)は、参宮の門出ぢや。平(ひら)に一つ、呑うで行け。
▲シテ「左様ならば、たつた一つ、下されませうか。
▲小アト「まづ、下に居よ。
▲シテ「扨々、お気のつかせられたお方ぢや。
▲小アト「さあさあ、一つ呑め。
▲シテ「これは又、例の大盃をお出しなされました。
▲小アト「そちは、小さいが嫌いぢやによつて、大きなを出した。
▲シテ「何(いづ)れ、これで一つ下されたらば、悪うはござりますまい。
▲小アト「さあさあ、呑め呑め。
▲シテ「これは、お酌、慮外でござる。
▲小アト「身共が慰みについでやらう。
▲シテ「おゝ、ござります、ござります。これは、ちやうどつがせられた。
{シテ、呑む。}
▲小アト「何とあつたぞ。
▲シテ「只、冷(ひい)やりとばかり致して、何も覚えませなんだ。
▲小アト「それならば、もう一つ呑うで、味を覚えい。
▲シテ「いか様、もう一つ下されて、味を覚えませう。
▲小アト「さあさあ、呑め呑め。
▲シテ「これは、度々、慮外でござる。
▲小アト「苦しうない。
{小アト、又つぐ。しかじか、常の如し。}
▲シテ「今、覚えました。
▲小アト「何とあつた。
▲シテ「これは、結構な御酒(ごしゆ)でござる。どの御酒でござる。
▲小アト「そちに酒を振舞うて、惜しうない。これは、身共が寝酒にたぶる、遠来ぢや。
▲シテ「何、御遠来。
▲小アト「中々。
▲シテ「さればこそ、私が、並ならぬ結構な御酒ぢや。とたべ覚えた事でござる。扨、この御酒(ごしゆ)を下されて申すではござらぬが、お前の事を、いかう世間で人が褒めます。
▲小アト「それは、何と云うて褒むる。
▲シテ「まづ第一、お慈悲が深い。下々(したじた)までも、細かにお気が付かせらるゝ。あのお心入れならば、追つ付け御立身をなされう。と申して、いかう人が褒めまする。
▲小アト「それは、悪い事を聞く様になうて、身共も悦ぶ事ぢや。
▲シテ「扨、それについて、こちの頼うだ者を、ちと御異見をなされて下されませ。
▲小アト「それは、どうした事ぢや。
▲シテ「いや、もう我が儘で、どうもなりませぬ。ちと御異見をなされませ。
▲小アト「成程、身共も云はうが、そちも年久しう居る者ぢやによつて、折々は云うたが良い。
▲シテ「よう私共の申す事を、お聞きありませうぞ。それはさうではござるまい。と申せば、おのれが何を知つて。と云うて、歯を出されまする。それ、最前も、供に行くか。と云うて、な。
▲小アト「おゝ。
▲シテ「お尋ねなされました。
▲小アト「成程、尋ねた。
▲シテ「参りまする。
▲小アト「行くか。
▲シテ「あゝ。
▲小アト「さうであらう。
▲シテ「さ、それを、もしお問(と)あつたらば、まだ知れぬと云へ。と仰(お)せありました。
▲小アト「はて、隠さいでも大事ない事を。
▲シテ「これには大分、様子のある事でござる。
▲小アト「様子とは。
▲シテ「まづ、この度、私が参る。と申したらば、何がお前の事でござるによつて、私へ餞(はなむけ)をなされませう。又、こなたの御家来衆の参らつせある時に、その返しをせねばならぬ。といふ様な事でかな、ござりませう。
▲小アト「何のその様な事であらうぞいやい。
▲シテ「云はれぬ人の世話を焼かれまする。扨、この度、お前には、えお参りなされぬによつて、神前で、御長久な様に御祈念を致しまして、めでたうお前へは、お祓ひを上げませう。
▲小アト「それは、過分な。
▲シテ「奥様へは伊勢白粉(おしろい)、お子様方へは悦ばせらるゝ様に、ぜゞ貝{*1}や、しやうの笛を上げませう。
▲小アト「いや、も、その様に銘々には、おいてくれい。
▲シテ「私の事でござるによつて、正真(しやうじん)の心ばかりでござる。
▲小アト「まだ呑むか。
▲シテ「献(こん)が悪うござる。
▲小アト「過ぎはせまいか。
▲シテ「何の、この結構な御酒(ごしゆ)を、二つや三つ下されたとて、何の酔ふものでござる。
▲小アト「酒は惜しまぬ。酔はぬ程、呑め。
▲シテ「さりながら、ちと軽うつがつせあれ。
▲小アト「とても呑むならば、ちやうど呑め。
▲シテ「軽う、軽う。
▲小アト「ちやうど、ちやうど。
▲シテ「あゝ、こします、こします。
{と云ひて、笑ふ。}
こりあ又、ちやうどつがせられた。あゝ、強いお酌ぢや。
{と云ひて、半分程呑みて、むせるなり。}
▲小アト「何とした、何とした。
▲シテ「あまり大盃で、とつかけとつかけ下されたらば、ちと、きけました。
▲小アト「静かに呑め。
▲シテ「休んで下されませう。
▲小アト「それが良からう。
▲シテ「扨、いつぞは申さう申さう。と存じましたが、お前の事を、いかう世間で人が褒めます。
▲小アト「それは、最前聞いた。
▲シテ「早(はや)、聞かつせあれたか。
▲小アト「中々。
▲シテ「ところで、この度はお参りなさらぬによつて、神前で御長久な様に御祈念を致しまして、めでたうお前へは伊勢白粉(おしろい)を上げませう。
▲小アト「それは、過分な。
▲シテ「奥様へはぜゞ貝や、しやうの笛。お子様方は悦ばつせある様に、お祓ひを上げませう。
▲小アト「その様に銘々には、おいてくれい。
▲シテ「いや、も、私の事でござるによつて、正真の心ばかりでござる。
{と云ひて、盃を取りて呑む。}
さあ、取らつせあれ。
▲小アト「もはや、呑まぬか。
▲シテ「もう、嫌ぢや。
▲小アト「それならば、取るぞよ。
▲シテ「はて、取つたが良い。あゝ、くどい人ぢや。《笑》お前へは、ぜゞ貝や、しやうの笛。奥様へは、お祓ひ。お子様方へは、悦ばせらるゝ様に、伊勢編笠を上げませう。
▲小アト「太郎冠者、やい、太郎冠者。
▲シテ「やあ。
▲小アト「立て。
▲シテ「何ぢや、立て。
▲小アト「中々。
▲シテ「立つて見せう。そりあ、立つたわ。
▲小アト「扨、何がなと思へども、これは身共が着古びたれども、そちに遣る程に、これを着て、めでたう宮参りをせい。
▲シテ「あの、これを、頼うだ人へか。
▲小アト「いやいや、汝に遣る。
▲シテ「あの、私にや。
▲小アト「中々。
▲シテ「まづ以つて、ありがたうは存じますれども、この様な結構な物は、私には似合ひませぬ。御斟酌を申しませう。
▲小アト「それは、いらぬ辞儀ぢや。平(ひら)に、取つて行け。
▲シテ「左様ならば、頂いて置きませう。
▲小アト「それが良からう。
▲シテ「頼うだ者が見ましたらば、こちへおこせ。と申しませう。
▲小アト「むゝ。
▲シテ「遣りますまい。
▲小アト「どうなりともせい。
▲シテ「扨、物ぢや。
▲小アト「物とは。
▲シテ「もう、かう行くわ。
▲小アト「もう行くか。
▲シテ「あゝ。
▲小アト「よう来た。
▲シテ「扨々、結構な伯父御様ぢや。嫌と云ふものを、大盃で三つ。まだその上に、この様な物まで下された。こりあ、ちと諷(うた)うて行かう。
《中》{*2}あの山見さい。この山見さい。頂(いたゞき)つれて。
あの山もこの山も、皆、これぢや、これぢや。
{と云ひて、笑ひ、悦ぶ。この謡の内に、主、立つ。}
▲アト「太郎冠者を伯父者人の方へ使ひに遣はしてござる。あまり帰りが遅い。見に参らうと存ずる。さればこそ、あれへ戻りをる。やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「何者ぢや。
▲アト「何者とは。おのれ、主を見忘れたか。
▲シテ「頼うだ人か。
▲アト「中々。
▲シテ「こなた、こゝへ何しに来た。
▲アト「あまり遅さに、迎ひに来た。
▲シテ「いらぬ迎ひの。おりあ、よう道を知つてゐる。先へ行かつせあれ。
▲アト「して、参宮の返事は、何とであつた。
▲シテ「参宮の返事は、参宮でこそあれぢや。
▲アト「これはいかな事。参らう。と仰(お)せあつたか。又、参るまい。と仰(お)せあつたか。
▲シテ「参らうとやら、又、参るまいとやらぢや。
{と云ひて、笑ふ。}
▲アト「これはいかな事。それでは知れぬ。参らう。と仰(お)せあつたか。又、参るまい。と仰(お)せあつたか。
{と云ひて、太郎冠者の手を取りて云ふ。}
▲シテ「物ぢや。
▲アト「物とは。
▲シテ「ようこそ太郎冠者を遣はされたれ。との。面白いか。
▲アト「面白い。
▲シテ「いかにも、参らうまい。ぢや。
▲アト「参るまい。と仰(お)せあつたか。
▲シテ「嫌ぢや、嫌ぢや。と仰(お)せあつた。
▲アト「それで知れた。うせをらう。
{と云ひて、突き放すなり。}
呑む者も呑む者。又、あの様に、呑ます伯父者人も聞こえぬ事でござる。
{シテ、又、謡を諷うて廻る内に、素襖落とす。主、拾ふなり。}
▲シテ「これこれを知らいで。
{*3}頂(いたゞき)つれて。
あの山もこの山も、皆、これぢや、これぢや。
{と云ひて、尋ぬるなり。}
たつた今まで、あつたが。
▲アト「太郎冠者が、機嫌の良いこそ道理なれ。この様なものを、貰うて来をつた。致し様がござる。太郎冠者、太郎冠者、やい、太郎冠者。
▲シテ「やあ。
▲アト「ちと、謡はぬかいやい。
▲シテ「謡ひたくば、こなた、謡はつせあれ。
{と云ひて、尋ぬる。}
▲アト「汝は、俄(には)かに不機嫌になつた。その上、見れば何やら尋ぬる体(てい)ぢや。何も落としはせぬか。
▲シテ「おれは、何も落としはせぬが。こなた、何ぞ拾ひはせぬか。
▲アト「身共は、物を拾うた。
▲シテ「何を。
▲アト「物を。
▲シテ「何を。
▲アト「この様なものを拾うた。
▲シテ「あゝ、それは、身共が伯父御様で貰うて来たのでござる。
▲アト「これは、身共が拾うたのぢや。
▲シテ「こちへ返して下され。
▲アト「ならぬぞ、ならぬぞ。
{と云ひて、主、先へ入る。シテ、追ひ込み、入るなり。}
校訂者注
1:「ぜゞ貝」は、細螺(きさご)。貝細工やおはじきなどに用いられた。
2:底本、「あの山見さいこの山見さいいたゞきつれて」に、傍点がある。
3:底本、「いたゞきつれて」に、傍点がある。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
素襖落(スオウオトシ)(二番目 三番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、某俄に思ひ立ツて参宮を致す、夫に付き太郎冠者を呼び出し、申し付くる事が御座る{ト云て呼出す出るも如常}{*1}俄に思ひ立つて参宮をする、汝は太儀ながら、伯父者人{*2}の方へいて、かねがねお約束で御座るに依つて申し進じまする、御同心においては、早々此方へ向けてお出で被成いと云ふていて来い▲シテ「して夫はいつの事で御座る▲アト「今日唯今の事ぢや▲シテ「何今日唯今▲アト「中々▲シテ「是はいかな事、参宮と申すものは前広から身をも清め、其用意をしてこそお参り被成るゝものなれ、どこにかけふの参宮を今仰せ遣はされて、何と伯父御様が御同心被成るゝもので御座る、是は最卒つとお延べ被成たがよう御座りませう▲アト「おのれが何を知つて、身共さへ参らば何時成共参らうと仰せあつた、其上あの方へのおみやげ物も、悉く此方に用意致して御座る、唯お身すがらお出被成いといふていて来い▲シテ「心得ました▲アト「偖汝も供にゆくかといふておとあつたらば、まだ知れぬといへ▲シテ「偖は私はお供には参りませぬか▲アト「いや供にはつるれ共、若しおとあつたらばまだ知れぬといへと云ふ事ぢや▲シテ「畏ツて御座る▲アト「急でいて頓て戻れ{ト云てつめるうける如常}▲シテ「偖々火急な事をいひ付けられた、去ながらゆかずばなるまい、誠に、こちの頼うだ人のやうな我儘な人は有るまい、どこにかけふの参宮を今いふて遣はされて、何と伯父御様が御同心被成るゝものぢや、夫をいへばおのれが何を知つて、といふて歯を出さるゝ、此様な気の毒な事は御座らぬ、いや何彼といふ内に是ぢや{ト云て案内乞出るも如常}{*3}頼うだ人申しまする、予々お約束で御座るに依つて申し進じまする、俄に思ひ立つて参宮を致す、御同心においては、早々此方へ向けてお出被成いと申し越して御座る▲小アト「して夫はいつの事ぢや▲シテ「今日唯今の事で御座る▲小アト「是はいかな事、参宮といふものは、前広から身をも清め其用意をしてこそ参るものなれ、どこにか今日の参宮を今いふて来るといふ事があるものか▲シテ「いやあの方へのおみやげ物も、悉く此方で用意致して御座る、唯お身すがらお出被成いと申し越して御座る▲小アト「いかにさうなればとて、汝もよう思ふても見よ、けふの事を今いふておこして夫が何んと参らるゝものぢや、帰つていはうは、参宮を召さるゝげな目出たうこそあれ、身共は叶はぬ隙入が有るに依つて得参らぬ、頓て目出たう下向をまつでこそあれといふてくれい▲シテ「偖はお前にはお参り被成ませぬか▲小アト「中々▲シテ「夫はお残り多う存じまする▲小アト「してそちも供にゆくか▲シテ「ゑゝ▲小アト「汝も供にゆくかといふ事ぢや▲シテ「夫はまだ知れぬさうに御座る▲小アト「是はいかな事、今日参るに今迄供のしれぬといふ事が有るものか、定めて汝が参るであらう、参つたらば目出たう下向をせい▲シテ「忝う存じまする▲小アト「偖何と一つ呑うでゆかぬか▲シテ「いや今日は内が殊の外いそがしう御座る、最斯う参りませう▲小アト「常に来てさへ呑ます、殊にけふは参宮の門出ぢや、ひらに一つ呑うでゆけ▲シテ「左様ならばたつた一つ下されませうか▲小アト「先づ下たに居よ▲シテ「偖々お気のつかせられたお方ぢや▲小アト「さあさあ一つ呑め▲シテ「是は又例の大盃をお出し被成ました▲小アト「そちは小さいが嫌いぢやに依つて、大きなを出した▲シテ「何れ是で一つ下されたらば、わるうは御座りますまい▲小アト「さあさあ呑め呑め▲シテ「是はお酌慮外で御座る▲小アト「身共が慰についでやらう▲シテ「おゝ御座ります御座ります、是は恰度つがせられた{シテ呑む}▲小アト「何とあつたぞ▲シテ「唯ひいやりとばかり致して何もおぼへませなんだ▲小アト「夫ならば最一つ呑うで味を覚へい▲シテ「いか様最一つ下されて、味を覚へませう▲小アト「さあさあ呑め呑め▲シテ「是は度々{*4}慮外で御座る▲小アト「くるしうない{小アト又つぐしかしか如常}▲シテ「今覚へました▲小アト「何とあつた▲シテ「是は結構な御酒で御座る、どの御酒で御座る▲小アト「そちに{*5}酒を振舞うて惜うない、是は身共が寝酒にたぶる遠来ぢや▲シテ「何に御遠来▲小アト「中々▲シテ「去ればこそ私が、並ならぬ結構な御酒ぢやとたべ覚へた事で御座る、偖此御酒を下されて申すでは御座らぬが、お前の事をいかう世間で人がほめます▲小アト「夫は何といふてほむる▲シテ「先づ第一お慈悲がふかい、下た下た迄もこまかにお気がつかせらるゝ、あのお心入れならば、追付御立身を被成れうと申して、いかう人がほめまする▲小アト「夫は悪い事を聞くやうになうて、身共も悦ぶ事ぢや▲シテ「偖夫に就て、こち{*6}の頼うだ者をちと御異見をなされて下されませ▲小アト「夫はどうした事ぢや▲シテ「いやもう我儘でどうもなりませぬ、ちと御異見を被成ませ▲小アト「成程身共もいはうが、そちも年久敷う居る者ぢやに依つて、折々はいふたがよい▲シテ「よう私共の申す事をお聞きありませうぞ、夫はさうでは御座るまいと申せば、おのれが何を知つて、といふて歯を出されまする、夫最前も供にゆくかといふて、な▲小アト「おゝ▲シテ「お尋ね被成ました▲小アト「成程たづねた▲シテ「参りまする▲小アト「ゆくか▲シテ「あゝ▲小アト「さうであらう▲シテ「さ夫を若しおとあつたらば、まだしれぬといへとおせありました▲小アト「果かくさいでも大事ない事を▲シテ「是には大分様子のある事で御座る▲小アト「様子とは▲シテ「先づ此度私が参ると申したらば、何がお前の事で御座るに依つて、私へはなむけを被成ませう、又此方の御家来衆の参らつせある時に、其返しをせねばならぬ、といふ様な事でかな御座りませう▲小アト「なんの其様な事で有らうぞいやい▲シテ「いわれぬ人の世話をやかれまする、偖此度お前には得お参り被成ぬに依つて、神前で御長久なように御祈念を致しまして、目出度うお前へはおはらいを上げませう▲小アト「夫は過分な▲シテ「おく様へは伊勢おしろい、お子様方へは悦ばせらるゝ様に、ぜゞ貝{*7}やせうの笛を上げませう▲小アト「いやも其様に銘々にはおいてくれい▲シテ「私の事で御座るに依つて、正真の心ばかりで御座る▲小アト「まだ呑むか▲シテ「献がわるう御座る▲小アト「過はせまいか▲シテ「なんの此結構な御酒を、二つや三つ下されたとてなんの酔うもので御座る▲小アト「酒はおしまぬ、よはぬ程のめ▲シテ「去ながらちとかるうつがつせあれ▲小アト「迚も呑むならば恰度のめ▲シテ「かるうかるう▲小アト「恰度恰度▲シテ「あゝこしますこします{ト云て笑ふ}{*8}こりあ又恰度つがせられた、あゝつよいお酌ぢや{ト云て半分程呑てむせるなり}▲小アト「何とした何とした▲シテ「あまり大盃でとつかけとつかけ下されたらば、ちときけました▲小アト「しづかにのめ▲シテ「休んで下されませう▲小アト「夫がよからう▲シテ「偖いつぞは申さう申さうと存じましたが、おまへの事をいかう世間で人がほめます▲小アト「夫は最前きいた▲シテ「早きかつせあれたか▲小アト「中々{*9}▲シテ「所で此度はお参り被成らぬに依つて、神前で御長久なように御祈念を致しまして、目出たうお前へは伊勢白粉を上げませう▲小アト「夫は過分な▲シテ「奥様へはぜゞ貝{*10}やしようの笛、お子様方は悦ばつせある様におはらいを上げませう▲小アト「其様にめいめいにはおいてくれい▲シテ「いやも私の事で御座るに依つて、正真の心ばかりで御座る{ト云て盃を取て呑む}{*11}さあとらつせあれ▲小アト「最早呑まぬか▲シテ「もういやぢや▲小アト「夫ならば取るぞよ▲シテ「果とつたがよい、あゝくどい人ぢや《笑》{*12}{*13}お前へはぜゞ貝{*14}やせうの笛、おく様へはお祓{*15}、お子様方へは悦ばせらるゝやうに伊勢あみ笠を上げませう▲小アト「太郎冠者、やい太郎冠者▲シテ「やあ▲小アト「たて▲シテ「何ぢやたて▲小アト「中々▲シテ「たつて見せう、そりあ立つたは▲小アト「偖何がなと思へども是は身共が着ふるびたれどもそちにやる程に、之を着て目出たう宮参りをせい▲シテ「あの之を頼うだ人へか▲小アト「いやいや汝にやる▲シテ「あの私にや▲小アト「中々▲シテ「先づ以つてあり難うは存じますれ共、此様な結構な物は私には似合ひませぬ、御しんしやくを申しませう▲小アト「夫はいらぬじぎぢやひらに取つてゆけ▲シテ「左様ならばいたゞいて置きませう{*16}▲小アト「夫がよからう▲シテ「頼うだ者{*17}が見ましたらば、こちへおこせと申しませう▲小アト「むゝ▲シテ「やりますまい▲小アト「どう成共せい▲シテ「偖物ぢや▲小アト「物とは▲シテ「もうかうゆくは▲小アト「もうゆくか▲シテ「あゝ▲小アト「よう来た▲シテ「偖々結構な伯父御様ぢや、いやといふものを大盃で三つ、まだ其上に此様な物まで下された、こりあちと諷うてゆかう、《中》あの山見さい此山見さいいたゞきつれてあの山も此山も皆是ぢや是ぢや{ト云て笑悦ぶ此謡の内に主立つ}▲アト「太郎冠者を伯父者人{*18}の方へ使に遣はして御座る、あまり帰りがおそい見に参らうと存ずる、さればこそあれへ戻りをる、やいやいやいそこなやつ▲シテ「何者ぢや▲アト「何者とはおのれ、主を見わすれたか▲シテ「頼うだ人か▲アト「中々▲シテ「こなた爰へ何しに来た▲アト「あまりおそさに迎ひに来た▲シテ「いらぬむかいの、おりあよう道をしつてゐる、先へゆかつせあれ▲アト「して参宮の返事は何とであつた▲シテ「参宮の返事は参宮でこそあれぢや▲アト「是はいかな事、参らうとおせあつたか又参るまいとおせあつたか▲シテ「参らうとやら又参るまいとやらぢや{ト云て{*19}笑ふ}▲アト「是はいかな事、夫では知れぬ、参らうとおせあつたか又参るまいとおせあつたか{ト云て太郎冠者の手を取て言ふ}▲シテ「物ぢや▲アト「物とは▲シテ「ようこそ太郎冠者を遣はされたれとの、面白いか▲アト「面白い▲シテ「いかにも参らうまいぢや▲アト「参るまいとおせあつたか▲シテ「いやぢやいやぢやとおせあつた▲アト「夫で知れた、うせおらう{ト云て突放すなり}{*20}呑む者ものむ者、又あの様に呑ます伯父者人{*21}もきこへぬ事で御座る{シテ又謡を諷ふて廻る内に素襖落す主拾ふ也}▲シテ「是々をしらいで、いたゞきつれてあの山も此山も皆是ぢや是ぢや{ト云て尋る也}{*22}たつた今迄有つたが▲アト「太郎冠者が機嫌のよいこそ道理なれ此様なものを貰うて来おつた、致し様が御座る、太郎冠者、太郎冠者、やい太郎冠者▲シテ「やあ▲アト「ちと謡はぬかいやい▲シテ「謡いたくばこなた謡はつせあれ{ト云て尋る}▲アト「汝は俄に不機嫌に成つた、其上見れば何やら尋ぬる体ぢや、何も落しはせぬか▲シテ「おれは何も落しはせぬが、こなたなんぞ拾いはせぬか▲アト「身共は物を拾ふた▲シテ「何を▲アト「物を▲シテ「何を▲アト「此様なものを拾ふた▲シテ「あゝ夫は身共が伯父御様で貰うて来たので御座る▲アト「是は身共が拾ふたのぢや▲シテ「こちへ返して下され▲アト「ならぬぞならぬぞ{ト云て主先へ入るシテ追込入るなり}
校訂者注
1・20:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
2:底本は、「伯父じや人」。
3・8・11・13・22:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
4:底本は、「毎度(たび(二字以上の繰り返し記号))」。
5:底本は、「そち酒を」。
6:底本は、「此方(こち)」。
7・10・14:底本は、「ぜゝ貝」。
9:底本は、「仲々」。
12:底本は「笑ふ」。但し、ト書きと同じ大きさの活字で縦一行書き。
15:底本は、「お秡(はらい)」。
16:底本は、「置きせう」。
17:底本は、「頼うた者」。
18・21:底本は、「伯父や人」。
19:底本は、「ト云ふ」。
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