米市(よねいち)(三番目)

▲シテ「この辺りに住居(すまひ)致す者でござる。何かと申す内に、年の暮れになつてござる。いつも年の暮れには、あなたこなたより年取物(としとりもの)を下さるゝ。又こゝに、お目を下さるゝお方がござる。これも年久しう出入りを致すによつて、年々嘉例でお米を諸俵(もろだはら)づゝ下さるゝ。当年は取り込うで忘れさせられたやら、今に何の沙汰がない。今日は参つて、貰うて帰らうと存ずる。誠に、人は心を正直に持たう事でござる。某(それがし)は、生まれ付いて物事不調法にはござれども、久々律義に出入りするとあつて、毎年毎年あなたこなたより、夥(おびたゞ)しう年取物を下さるゝ。これを存じては、貧苦は致すとも、とかく心を直(すぐ)に持つて月日を送らう。と存ずる。何かと云ふ内に、これぢや。まづ、この棒はこゝに置いて。
{と云ひて、太鼓座に置き、案内乞ふ。出るも、常の如し。}
▲シテ「何かと申す内に、年の暮れになつてござる。
▲アト「仰(お)せある通り、近い春になつておりある。
▲シテ「こなたには、もはやお仕舞ひなされて、お正月のお拵へのみでござりませう。
▲アト「成程、身共が方(かた)は、もはや仕舞うた。定めてそなたも、お仕舞ひあつたであらう。
▲シテ「いや、私どもは、仕舞ひまするやら、仕舞ひませぬやら、一向訳がござりませぬ。
▲アト「はあ、扨はまだ仕舞はぬか。
▲シテ「左様でござる。
▲アト「これはいかな事。身共は又、もはや仕舞うて、歳暮の祝儀におりあつたか。と思うた。それならば、早う帰つて、仕舞うて、春ゆるゆるお出あれ。
▲シテ「いや、帰りましても、どうも仕舞はれませぬ。
▲アト「それは又、どうした事ぢや。
▲シテ「いつも嘉例で、あなたこなたから年取物を下されます。それの参つた所もござり、まだ参らぬ所もござる。何やら一向、訳がござりませぬ。
▲アト「それについて、いつも身共が方からも、米一石づゝ年取物をやるが、もはや、それは行(い)たか。
▲シテ「いや、まださうにござります。
▲アト「これはいかな事。云ひ付けて置いたに、忘れたものであらう。暫くそれにお待ちあれ。やいやい、太郎が方(かた)へ、なぜに年取物を遣らぬ。早う遣れ。ぢやあ。いや、なうなう、その通りを云うたれば、取り込うで、はつたと忘れて、早(はや)蔵を閉めた。と云ふ。春は早々、持たせてやらうぞ。
▲シテ「それは、気の毒でござる。下さるゝ物を、とやかう申すはいかゞでござれども、御存じの通りの私でござれば、それを貰ひませねば、どうも春へ越しまする事がなりませぬ。御蔭でどうぞ、妻子にも正月を致させたうござる。
▲アト「それは笑止な事ぢや。もう一度聞いて見よう。やいやい、蔵より外へ出た米はないか。ぢやあ。いや、なうなう、蔵より外へ出た米が、半石の又半石ある。と云ふが、それなりとも遣らうか。
▲シテ「まだその半石でも、苦しうござりませぬ。
▲アト「それにお待ちあれ。
{と云ひて、笛座より俵こかして出る。}
えい、えい、えい。
▲シテ「これは、御自身御苦労千万な。どれどれ、これへ下され。
▲アト「扨、これはどうして持つてお帰りある。
▲シテ「かやうの事もござらうと存じて、これへ棒を持つて参りました。
▲アト「それは、幸ひのものがある。
▲シテ「この棒の先へかけて参りませう。
▲アト「それが良からう。
{俵を棒にかけて、担(かた)げる心なり。}
▲シテ「これは、どうも持てませぬ。
▲アト「いかさま、それでは持てまい。
▲シテ「も一つあれば、良うござれども、どうも片荷づつで、持てませぬ。
▲アト「身共が良い様にして持たせてやらう。まづ、下におゐあれ。
▲シテ「これは、慮外でござります。
▲アト「これこれ、この縄を、かうして背負うて行かしめ。
{と云ひて、後ろに負はせてやる。}
▲シテ「これは、重畳の御分別でござる。ちと後ろを抱(かゝ)へて下されい。
▲アト「心得た。
▲シテ「えい、えい、えい。これは、忝うござる。して、もう、かう参りませうか。
▲アト「お行きあるか。
▲シテ「はあ。
▲アト「良う、おりあつた。
▲シテ「これはいかな事。いつも奥様から、女共が方(はう)へ古着を一つ下さるゝが、これも忘れさせられたやら、何の沙汰がない。この様な事は、重ねての例になりたがるものぢや。気を付けて、貰うて帰らう。申し、ござりますか。
▲アト「太郎が声ぢやが。えい、太郎。何として、お帰りあつた。
▲シテ「いや、女共から奥様へ、御言伝(おことづて)を致しましたを、はたと忘れまして、それを申しに帰りました。
▲アト「それは、何と云うて、言伝(ことづて)をせられた。
▲シテ「奥様へ女共、申しまする。何かと申す内に、近い春になりましてござる。定めてこなたには、お仕舞ひなされて、お正月のお拵へのみでござりませう。その上、結構なお小袖を召しまして、温かなお正月をなされませう。私共は、その内がたつた一つござれば、寒い目も致しませぬ。春は早々上がりまして、御礼を申しませう。と、懇ろに申し上げてくれい。と申しましてござる。
▲アト「それは、念のいつた事ぢや。その通りを云はう程に、暫くそれにお待ちあれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「これはいかな事。いつも女共が方(はう)から、歳暮に古着を一つ遣はす。これもいまだ遣らぬ。と見えて、気を付けに戻つた。これも、遣らずばなるまい。
▲シテ「これも、お気が付いたさうな。
▲アト「なうなう、今の通りを云うたれば、ようこそ言伝(ことづて)をせられた。と云うて、悦ぶ。又これは、着古びたれども遣る程に、これを着て正月をおしあれ。と云うた。
▲シテ「あの、これを、女共へ下されまする。
▲アト「中々。
▲シテ「近頃ありがたうはござれども、この様な結構なお小袖は、女共には似合ひませぬ。御斟酌申しませう。
▲アト「いやいや、それはいらぬ辞儀ぢや。取つてお帰りあれ。
▲シテ「左様ならば、頂いて置きませうか。
▲アト「それが良からう。
▲シテ「扨これは、そぐはぬ持ち物でござるが、どうして持つて参りませうぞ。
▲アト「されば、何とが良からうぞ。
▲シテ「かうして持つて参りませうか。
{と云ひて、棒の先にかける。}
▲アト「その様な事は、なるまい。
▲シテ「左様ならば、かうして参りませうか。
▲アト「いやいや、その様な事もなるまい。これも、身共が分別を以つて、持たせてやらう。まづ、下にお居あれ。
▲シテ「これは度々、慮外でござる。
▲アト「これへ手を入れさしめ。
▲シテ「かうでござるか。
{と云ひて、小袖の両袖を通させ、褄を腰にはさませて、俵を隠すなり。}
▲アト「それそれ、それで良うおりある。
▲シテ「これは、一段の御分別でござる。
▲アト「はあ、後から見れば、悉皆、人を負うた様な。
▲シテ「さう見えますか。
▲アト「時分柄ぢやによつて、人が咎めまいものでもない。もし人が咎めたらば、俵藤太(たはらとうだ)のお娘子(むすめご)、米市御寮人のお里帰りぢや。と仰(お)せあれ。
▲シテ「何と仰せられます。俵藤太のお娘子、米市御寮人の、何とやら。
▲アト「お里帰り。
▲シテ「ゑゝ、お里帰り。これは、面白うござる。扨々、色々ありがたう存じまする。春は早々参りまして、お礼を申しませう。
▲アト「春は早々お出あれ。
▲シテ「もう、かう参ります。
{と云ひて、暇乞ふ。常の如し。}
なうなう、嬉しや、嬉しや。ざつと年は取つた。と云ふものぢや。まづ、急いで帰らう。誠に、あのお方の様な結構なお方はない。某(それがし)へ年取物を下さるゝのみならず、女共へまで、この様なお小袖を下さるゝ。帰つて女共へ見せたらば、さぞ悦ぶでござらう。
▲立頭「なうなう、何(いづ)れもござるか。
▲立衆「これに居まする。
▲立頭「いつもの通り、歳暮の礼に参りませう。
▲立衆「一段と良うござらう。
▲立頭「さあさあ、ござれ。
▲立二「心得ました。
▲立頭「いや、あれへ、人を負うて行きまする。
▲立二「異な者が行きまする。
▲立頭「時分柄でござる。咎めて見ませう。
▲立二「良うござらう。
▲立頭「なうなう、これこれ。
▲シテ「こちの事か。
▲立頭「いかにも、そなたの事ぢや。卒爾ながら、その負ひましてござるは、どなたでおりある。
▲シテ「この負ひましてゐるが、不審なか。
▲立頭「中々。
▲シテ「これは、物ぢや。
▲立頭「物とは。
▲シテ「俵藤太のお娘子、米市御寮人のお里帰りぢや。
▲立頭「何ぢや。米市御寮人のお里帰りぢや。
▲シテ「中々。
▲立頭「暫くそれにお待ちあれ。
▲シテ「何も用はあるまいが。
▲立頭「ちと用がある。暫く待つておくれあれ。
▲シテ「心得た。
▲立頭「なうなう、今のを聞かせられたか。
▲立衆「成程、承つてござる。
▲立頭「米市御寮人は、承り及うだ美人でござる。何と、お盃を頂かうではござるまいか。
▲立衆「これは、一段と良うござらう。
▲立頭「なうなう、別の事でないが、あれに若い者が大勢居るが、御寮人の事を承り及うで、どうぞお盃が頂きたい。と申す。どうぞ、お盃を頂かせておくれあれ。
▲シテ「何ぢや、お盃が頂きたい。
▲立頭「中々。
▲シテ「これはいかな事。時も時、折も折、この道交(みちかひ)もとで、その様な事が、何となるものぢや。
▲立頭「尤なれども、それはこなたの心入れで、どうなりともなりさうな事ぢや程に、まづ、伺うて見ておくれあれ。
▲シテ「ぢやと云うて、今日(けふ)は年の暮れぢやと云うて、我人(われひと)取り込うでゐる中に、殊更、街道でその様な事が、何となるものぢや。これは、とかくならぬ。
▲立衆「なうなう、誰殿。ならずば押しかけて、無理にお盃を頂かう。と云うて下され。
▲立頭「あれあれ、あの様に云ひまする程に、どうぞこなた、良い様に云うて、お盃を頂かせて下されい。
▲シテ「これは又、迷惑な事ぢや。それならば、まづ伺うて見ようが、さりながら、御寮人はつゝと物恥づかしがりをなさるゝによつて、わごりよ達は、つゝとそちへ退(の)いておゐあれ。
▲立頭「心得た。なうなう、どうやら口がやわらぎました。
▲立衆「どうぞ、お盃が頂きたいものでござる。
▲立衆「はあ、伺ふさうにござる。
▲立衆「その通りでござる。
{このしかじかの内、シテ、脇座に俵を下(おろ)し、箔にて見えぬ様にして置くなり。仕様、色々難しき所なり。工夫すべきなり。}
▲シテ「はあ、申し上げます。あれに大勢若い者が居りまして、御寮人の事を承り及うで、お盃を頂きたい。と申しまするが、何と仕(つかまつ)りませう。はあ。御尤に存じまする。ゑゝ。
{と云ひて、耳を傍へ寄せて、聞き返す心にて、橋がゝりの方を見て、仕様あり。}
あゝ。それは、迷惑でござる。その通りを申しませう。なうなう、若い衆。埒があいた。
▲立頭「埒があいたか。
▲シテ「ならぬに埒があいた。
▲立頭「これはいかな事。それは、どうした事ぢや。
▲シテ「今の通りを申し上げたれば、時も時、折も折ぢや。この道交(みちかひ)もとでその様な事が、何となるものぢや。その様な事をしたらば、帰つて父様や母様に云うて、身共を叱らせう。と仰せらるゝ。それを、たつて。と云へば、おむつかるによつて、ならぬに埒があいた。といふ事ぢや。
▲立頭「そなたは最前、どうやらなりさうに仰(お)せあつたによつて、何(いづ)れも悦うでゐたに、どうぞ今一度、伺うて見ておくれあれ。
▲シテ「どうも、今云ふ訳ぢやによつて、ならぬ。
▲立頭「それはお道理ではあれども、どうぞわごりよの執りなしで、今一度願うておくれあれ。
▲シテ「はて、身共が何しに如才があるものぢや。色々と云うたれども、おむつかるによつて、どうもならぬ。
▲立頭「この上は、嫌でもおうでも、お盃を頂かねばならぬ。
▲シテ「何ぢや、嫌でもおうでもお盃を頂かねばならぬ。
▲立頭「おゝ扨。
▲シテ「やあら、こゝな者は。最前から色々と事を分けて云ふに、聞き分けのない。この上は、御寮人がお盃をなされう。とあつても、身共がさせぬ程に、さう心得い。
▲立頭「推参な事を云ふ。おのれ、その様な事を云はゞ、目に物を見するぞよ。
▲シテ「そりあ、誰が。
▲立頭「身共らが。
▲シテ「汝が目に物を見すると云うて、深しい事はあるまいぞ。
▲立頭「かまへて悔やむなよ。
▲シテ「何の様に悔やまうぞ。
▲立頭「扨々、憎いやつの。何(いづ)れも、押し寄せませう。
▲立衆「一段と良うござらう。
{と云ひて、各、肩をぬぎ、竹杖を持ち、押し寄せる。}
▲シテ「そつともお気遣ひなされますな。私がこれにをりますからは、聊爾はさせませぬ。
▲立衆「ゑい、とう、ゑい、とう。
▲シテ「これは、押し寄せるさうな。防がずばなるまい。
{と云ひて、シテも肩をぬぎ、棒を振りて追ひ散らす。}
ゑいや、ゑいや。ゑいゑい、おう。
{と云ひて、笑ふ。俵の傍へ来て、棒を使ひ、しかじか云ふ。仕様、色々あり。口伝なり。}
▲立頭「扨々、強いやつでござる。
▲立衆「その通りでござる。
▲立頭「この度は、何(いづ)れも一同に押し寄せさせられい。身共は後ろへ廻つて、御寮人を奪ひ捕りませう。
▲立衆「これは、一段と良うござりませう。
▲立頭「ぬからせらるゝな。
▲立衆「心得ました。
ゑい、とう、ゑい、とう。
{と云ひて、押し寄せる。シテ、又棒にて追ひ返す。その内に、立頭、後ろへ廻り、俵をあけて見て、笑ふ。}
▲立頭「なうなう、若い衆。この様な物でござる。
▲立衆「由(よし)ない事に騙された。いざ、帰りませう。
{と云ひて、立衆、先へ入るなり。}
▲シテ「やいやいやい、そこなやつ。
▲立頭「何ぢや。
▲シテ「汝等は最前から、お盃が頂きたい。と云うたではないか。さあさあ、それへ連れて行(い)て、お盃をせい。
▲立頭「この様な物と、何とお盃がなるものぢや。
▲シテ「はて、さう云はずとも、お盃をせいやい。
▲立頭「この様な物とお盃がならば、おのれ、しをれいやい。
{と云ひて、このしかじかの内、俵をあちこち、こかし合ふなり。立頭、入るなり。}
▲シテ「やいやい、お盃をせぬかいやい。あゝ、お盃をせいでなあ。これは、おれが大事の年取物ぢやわいやい。
{と云ひて、俵を担(かた)げて入るなり。この仕方、色々あり。甚だ難しきなり。口伝。}

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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米市(ヨネイチ)(三番目)

▲シテ「此辺りに住居致す者で御座る、何彼と申す内に年の暮に成つて御座る、毎も年の暮には、あなたこなたより年取物を下さるゝ、又爰にお目を下さるゝお方が御座る、是も年久敷う出入りを致すに依つて、年々嘉例でお米を諸俵づゝ下さるゝ、当年は取り込うで忘れさせられたやら、今に何の沙汰がない、今日は参つて、貰うて帰らうと存ずる、誠に、人は心を正直に持たう事で御座る、某は生れついて物事不調法には御座れ共、久々律義に出入りすると有つて、毎年毎年あなた此方より、おびたゞしう年取物を下さるゝ、是を存じては貧苦はいたす共、兎角心を直にもつて月日を送らうと存ずる、何彼といふ内に是ぢや、先づ此棒は爰において{ト云て太鼓座に置案内乞出るも如常}▲シテ「何彼と申す内に年の暮になつて御座る▲アト「おせある通り近い春になつておりある▲シテ「こなたには最早お仕舞被成て、お正月のお拵のみで御座りませう▲アト「成程身共が方は最早仕まうた、定めてそなたもお仕舞あつたで有らう▲シテ「いや私共は仕まひまするやら、仕まひませぬやら、一向訳が御座りませぬ▲アト「はあ偖はまだ仕まわぬか▲シテ「左様で御座る▲アト「是はいかな事、身共は又最早仕まうて、歳暮の祝儀におりあつたかと思ふた、夫ならば早う帰つて仕舞うて、春ゆるゆるお出あれ▲シテ「いや帰りましてもどうも仕舞はれませぬ▲アト「夫は又どうした事ぢや▲シテ「いつも嘉例で、あなたこなたから年取物を下されます、夫の参つた所も御座り、まだ参らぬ所も御座る、何やら一向訳が御座りませぬ▲アト「夫に就て、毎も身共が方からも米一石づゝ年取物をやるが、最早夫はいたか▲シテ「いやまださうに御座ります▲アト「是はいかな事、云ひ付けて置ゐたに忘れたもので有らう暫く夫れにおまちあれ、やいやい、太郎が方へなぜに年取物をやらぬ早うやれ、ぢやア、いやなうなう、其通りをいふたれば、取り込うではつたと忘れて、はや蔵をしめたといふ、春は早々もたせてやらうぞ▲シテ「夫は気の毒で御座る、下さるゝ物を兎やかう申すはいかゞで御座れ共、御存じの通りの私で御座れば、夫を貰ひませねばどうも春へ越しまする事が成ませぬ、御蔭でどうぞ妻子にも正月を致させたう御座る▲アト「夫は笑止な事ぢや、最一度聞いて見よう、やいやい、蔵より外へ出た米はないか、じやア、いやなうなう、蔵よりそとへ出た米が、半石の又半石あるといふが、夫なりともやらうか▲シテ「まだ其半石でも苦敷う御座りませぬ▲アト「夫におまちあれ{ト云て笛座より俵こかして出る}{*1}えいえいえい▲シテ「是は御自身御苦労千万な、どれどれ是へ下され▲アト「偖是はどうして持つてお帰りある▲シテ「斯様の事も御座らうと存じて、是へ棒を持つて参りました▲アト「それは幸ひのものがある▲シテ「此棒の先へかけて参りませう▲アト「夫がよからう{俵を棒にかけてかたげる心なり}▲シテ「是はどうも持てませぬ▲アト「いかさま夫ではもてまい▲シテ「も一つあればよう御座れども、どうも片荷づつで持てませぬ▲アト「身共がよいやうにして持たせてやらう、先づ下におゐあれ▲シテ「是は慮外で御座ります▲アト「是れ是れ、此縄をかうして背負うてゆかしめ{ト云て後ろに負はせてやる}▲シテ「是は重畳の御分別で御座る、ちとうしろをかゝえて下されい▲アト「心得た▲シテ「えいえいえい、是は忝う御座る、してもうかう参りませうか▲アト「おゆきあるか▲シテ「はあ▲アト「ようおりあつた▲シテ「是はいかな事、いつも奥様から女共が方へ古着を一つ下さるゝが、是もわすれさせられたやら何の沙汰がない、此様な事は重ねての例になりたがる物ぢや、気をつけて貰うて帰らう、申し御座りますか▲アト「太郎が声ぢやが、えい太郎、何としてお帰りあつた▲シテ「いや女共から奥様へ御言づてを致しましたを、はたと忘れまして、夫を申しに帰りました▲アト「夫はなんといふて言づてをせられた▲シテ「奥様へ女共申しまする、何彼と申す内に近い春に成まして御座る、定めてこなたにはお仕舞被成て、お正月のお拵のみで御座りませう、其上結構なお小袖を召しまして、あたゝかなお正月を被成ませう、私共は其内がたつた一つ御座れば、さむいめも致しませぬ、春は早々あがりまして御礼を申しませうと、ねんごろに申し上げてくれいと申しまして御座る▲アト「夫は念のいつた事ぢや、其通りをいはう程に、しばらく夫におまちあれ▲シテ「畏つて御座る▲アト「是はいかな事、いつも女共が方から歳暮に古着を一つ遣はす、是もいまだやらぬと見へて気をつけに戻つた、是もやらずば成まい▲シテ「是もお気がついたさうな▲アト「なうなう、今の通りをいふたれば、ようこそことづてをせられたといふて悦ぶ、又之は着古びたれ共やる程に、之を着て正月をおしあれといふた▲シテ「あの之を女共へ下されまする▲アト「中々▲シテ「近頃有難うは御座れども、此様な結構なお小袖は女共には似合ひませぬ、御しんしやく申しませう▲アト「いやいや夫はいらぬじぎぢや、とつてお帰りあれ▲シテ「左様ならばいたゞいて置きませうか▲アト「夫がよからう▲シテ「偖是はそぐわぬ持ち物で御座るが、どうして持つて参りませうぞ▲アト「されば何んとがよからうぞ▲シテ「斯うして持つて参りませうか{ト云て棒の先にかける}▲アト「その様な事は成るまい▲シテ「左様ならば斯うして参りませうか▲アト「いやいやその様な事もなるまい、是も身共が分別をもつて、持たせてやらう、先づ下にお居あれ▲シテ「是は度々慮外で御座る▲アト「是へ手を入れさしめ▲シテ「斯うで御座るか{ト云て小袖の両袖を通させ褄を腰にはさませて俵を隠すなり}▲アト「それそれ、夫でようおりある▲シテ「是は一段の御分別で御座る▲アト「はあ後から見れば、しつかい人をおうたような▲シテ「さう見へますか▲アト「時分柄ぢやに依つて、人がとがめまいものでもない、若し人がとがめたらば、俵藤太のお娘子米市御寮人のお里帰りぢやとおせあれ▲シテ「何と仰せられます、俵藤太のお娘子米市御寮人の何とやら▲アト「お里帰り▲シテ「ゑゝお里帰り、是は面白う御座る、偖々種々有難う存じまする、春は早々参りましてお礼を申しませう▲アト「春は早々お出あれ▲シテ「もうかう参ります{ト云て暇乞常の如し}{*2}のふのふ嬉しや嬉しや、ざつと年はとつたといふものぢや、先づ急いで帰らう、誠にあのお方の様な結構なお方はない、それがしへ年取物を下さるゝのみならず、女共へ迄此様なお小袖を下さるゝ、帰つて女共へ見せたらば、嘸悦ぶで御座らう▲立頭「なうなう何れも御座るか▲立衆「是に居まする▲立頭「毎もの通り歳暮の礼に参りませう▲立衆「一段とよう御座らう▲立頭「さあさあ御座れ▲立二「心得ました▲立頭「いやあれへ人を負うて行きまする▲立二「異な者が行きまする▲立頭「時分がらで御座る、とがめて見ませう▲立二「よう御座らう▲立頭「なうなう是々▲シテ「こちの事か▲立頭「いかにもそなたの事ぢや、そつじながら其負ひまして御座るはどなたでおりある▲シテ「此負ひましてゐるが不審なか▲立頭「中々▲シテ「是は物ぢや▲立頭「物とは▲シテ「俵藤太のお娘子米市御寮人のお里帰りぢや▲立頭「何ぢや米市御りやう人のお里帰りぢや{*3}▲シテ「中々▲立頭「しばらく夫にお待ちあれ▲シテ「何も用は有るまいが▲立頭「ちと用があるしばらくまつておくれあれ▲シテ「心得た▲立頭「なうなう今のをきかせられたか▲立衆「成程承つて御座る▲立頭「米市御りやう人は承り及うだ美人で御座る、何とお盃をいたゞかうでは御座るまいか▲立衆「是は一段とよう御座らう▲立頭「なうなう別の事でないが、あれに若い者が大勢居るが、御りやう人の事を承り及うで、どうぞお盃がいたゞきたいと申す、何卒お盃をいたゞかせておくれあれ▲シテ「何ぢやお盃がいたゞきたい▲立頭「中々▲シテ「是はいかな事、時も時折もをり、此道かいもとで其様な事が何と成るものぢや▲立頭「尤なれども、それはこなたの心入で、どう成とも成さうな事ぢや程に、先づ伺うて見ておくれあれ▲シテ「じやといふて、けふは年の暮ぢやといふて我人取り込うでゐる中に、殊更街道で其様な事が何と成ものぢや、是はとかくならぬ▲立衆「なうなう誰殿、ならずば押かけて無理にお盃をいたゞかうといふて下され▲立頭「あれあれあの様に云ひまする程に、どうぞこなたよいように云ふて、お盃をいたゞかせて下されい▲シテ「是は又迷惑な事ぢや、夫ならば先づ伺うて見ようが去ながら、御寮人はつゝと物はづかしがりを被成るゝに依つて、和御料達はつゝとそちへのいておゐあれ▲立頭「心得た、なうなうどうやら口がやわらぎました▲立衆「どうぞお盃がいたゞきたいもので御座る▲立衆「はあ伺うさうに御座る▲立衆「其通りで御座る{此しかしかの内シテ脇座に俵をおろし箔にて見へぬようにして置なり仕様色々六ケ敷所なり工夫すべきなり}▲シテ「はあ申し上げます、あれに大勢若い者が居りまして御寮人の事を承り及うで、お盃をいたゞきたいと申しまするが何と仕りませう、はあ、御尤に存じまする、ゑゝ{ト云て耳を傍へよせて聞かへす心にて橋がゝりの方を見て仕様あり}{*4}あゝ夫は迷惑で御座る、其通りを申しませう、なうなう若い衆埒があいた▲立頭「埒があいたか▲シテ「ならぬに埒があいた▲立頭「是はいかな事、夫はどうした事ぢや▲シテ「今の通りを申し上げたれば、時も時折も折ぢや、此道かいもとで其様な事が何と成るものぢや、其様な事をしたらば帰つて父様や母様にいふて、身共をしからせうと仰せらるゝ、それをたつてといへばおむつかるに依つて、ならぬに埒があいた{*5}といふ事ぢや▲立頭「そなたは最前どうやらなりさうにおせあつたに依つて、何れも悦うでゐたに、どうぞ今一度伺うて見ておくれあれ▲シテ「どうも今いふ訳ぢやに依つてならぬ▲立頭「夫はお道理ではあれども、どうぞわごりよの執成で今一度願うておくれあれ▲シテ「果て身共が何しに如才がある物ぢや、種々といふたれども、おむつかるによつてどうもならぬ▲立頭「此上はいやでもおうでも、お盃をいたゞかねばならぬ▲シテ「何ぢやいやでもおうでもお盃をいたゞかねばならぬ▲立頭「おゝ偖▲シテ「やあら爰な者は、最前から種々と事をわけていふに聞きわけのない、此上は御寮人がお盃を被成れうとあつても、身共がさせぬ程にさう心得い▲立頭「すいさんな事をいふ、おのれ其様な事をいはゞ、目に物を見するぞよ▲シテ「そりあ誰が▲立頭「身共らが▲シテ「汝が目に物を見するといふて、ふかしい事は有るまいぞ▲立頭「かまへて悔むなよ▲シテ「なんのやうに悔まうぞ▲立頭「偖々憎いやつの、何れも押し寄せませう▲立衆「一段とよう御座らう{ト云て各肩をぬぎ竹杖を持押よせる}▲シテ「そつともお気遣いなされますな、私が是におりますからは、聊爾はさせませぬ▲立衆「ゑいとうゑいとう▲シテ「是は押しよせるさうな、防がずばなるまい{ト云てシテも肩をぬぎ棒を振りて追ひちらす}{*6}ゑいやゑいや、ゑいゑいおう{ト云て笑ふ俵の傍へ来て棒をつかいしかしか云仕様色々あり口伝也}▲立頭「偖々つよいやつで御座る▲立衆「其通りで御座る▲立頭「此度は何れも一同に押しよせさせられい、身共は後へ廻はつて、御寮人を奪捕りませう▲立衆「是は一段とよう御座りませう▲立頭「ぬからせらるゝな▲立衆「心得ました、ゑいとうゑいとう{ト云て押よせるシテ亦棒にて追返す其内に立頭後へ廻り俵をあけて見て笑ふ}▲立頭「なうなう若い衆、此様な物で御座る▲立衆「よしない事にだまされた、いざ帰りませう{ト云て立衆先へ入なり}▲シテ「やいやい、やいそこなやつ▲立頭「何ぢや▲シテ「汝等は最前からお盃がいたゞきたい{*7}といふたではないか、さあさあ夫へつれていてお盃をせい▲立頭「此様な物と何とお盃が成るものぢや▲シテ「果さういはず共お盃をせいやい▲立頭「此様な物とお盃がならば、おのれしをれいやい{ト云て此しかしかの内俵をあちこちこかし合なり立頭入なり}▲シテ「やいやいお盃をせぬかいやい、あゝお盃をせいでなあ、是はおれが大事の年取物ぢやわいやい{ト云て俵をかたげて入なり此仕方色々有り甚六ケ敷なり口伝}

校訂者注
 1:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 2・4・6:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 3:底本は、「お里帰ぢや」。
 5:底本は、「埒かあいた」。
 7:底本は、「いたゝきたい」。