比丘貞(びくさだ)(二番目)

▲アト「これは、この辺りの者でござる。某(それがし)、伜を一人(いちにん)持つてござる。今日(こんにち)は最上吉日でござるによつて、御寮様へ連れて参り、烏帽子を着せて貰はう。と存ずる。まづ、かな法師を呼び出し、この由(よし)を申し付けう。と存ずる。
{と云うて、呼び出す。出るも、常の如し}
汝呼び出す、別の事でもない。そなたもやうやう成人したによつて、今日はお寮様へ連れて行(い)て、烏帽子を着せて貰はう。と思ふが、何とあらうぞ。
▲子「それは、ともかくもでござる。
▲アト「それならば、竹筒(さゝえ)の用意を召され。
▲子「畏つてござる。竹筒(さゝえ)の用意、致してござる。
▲アト「追つ付け行かう。さあさあ、おりあれ。
▲子「心得ました。
▲アト「扨、あのお寮様は、御寿命と云ひ御富貴と云ひ、何に不足の無いお方ぢや程に、あやかる様に召され。
▲子「畏つてござる。
▲アト「扨、烏帽子を着せて貰うてからは、諸事、気を付けねばならぬ程に、随分大人しうならしませ。
▲子「心得ました。
▲アト「何かと云ふ内に、これぢや。まづ、案内を乞はう。そなたは、それに控へてゐさしませ。
▲子「畏つてござる。
▲アト「物も、案内も。お寮様、御内(みうち)にござりますか。
▲シテ「表に案内がある。案内とは誰(た)そら。
▲アト「私でござる。
▲シテ「ゑい、誰。おりあつたなう。おゝ、おりあつたなう。まづ、かう通らしませ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「やれやれ、珍しや、珍しや。この中(ぢゆう)もこの中で、この誰は、ちと見舞うてもくれられさうなものぢやに、お寮を見限つて、わせぬか。と思うて、いかう恨んだ。今日は、どち風が吹いて、来さしました。
▲アト「成程、お恨みの段は、御尤に存じまする。何かと渡世に隙(ひま)を得ませいで、御無沙汰を仕(つかまつ)りました。
▲シテ「渡世に隙が無い。とあれば、尤でおりある。して又、今日(けふ)は、何と思うておりあつたぞ。
▲アト「今日(けふ)は、かな法師が御見舞ひ申してござる。
▲シテ「やあやあ、かな法師が見舞うた。と仰(お)せあるか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「どれ、どこに居るぞ。
▲アト「御門前に待たせて置きました。
▲シテ「誰とした事が、あの小さい者を、外にひとり置く。といふ事があるものか。早うこちへ呼ばしめ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「早うお呼びや。
▲アト「はあ。さあさあ、あれへお出あれ。
▲子「心得ました。
▲アト「はあ、かな法師でござる。
▲シテ「やあやあ、これが、かな法師か。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「おゝ、よう来たなあ、よう来たなあ。久しう見ぬ間に、大きな者になつたなあ。余所(よそ)で見たらば、見違はうなう。
▲アト「これは、今日(こんにち)、かな法師がお見舞ひ申した印でござる。
▲シテ「あれが見舞うて来るこそ嬉しけれ。何の持たせに及ぶことぞ。扨々、大きな者になつたなあ。今も、かな法師と云ふか。
▲アト「されば、その事でござる。あれも段々、成人致してござるによつて、いつがいつまでかな法師と申すも、いかゞでござる。今日は、最上吉日でもござる。お寮様に、烏帽子を着せて貰ひませう。と存じて、参つてござる。
▲シテ「つがもない{*1}事を云ふ人ぢや。烏帽子着の、官途(くわんど){*2}の、と云ふは、皆、殿達のなさるゝ事でこそあれ。お寮はその様な事は、知り候はぬ。
▲アト「御尤には存じますれども、かな法師が、お寮様に付けて貰ひたい。と申す願ひでござる。どうぞ、お付けなされて下されい。
▲シテ「やあやあ、何と仰(お)せある。あの子がこれを、お寮に付けて貰ひたい。といふ願ひぢや。と仰(お)せあるか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「やれやれ、馴染みとて、よう云うたなあ、よう云うたなあ。いか様、このお寮の様な、寿命と云ひ、富貴と云ひ、何に不足のない者はない。あやかる様に付けて見ようかいの。
▲アト「それは、忝う存じまする。
▲シテ「何も望みはないかの。
▲アト「別に望みもござりませぬ。代々、太郎と申す字を付けまする。
▲シテ「誠に、そなたの小さい時も、何太郎とやら云うたぞや。
▲アト「よい覚えでござりまする。
▲シテ「太郎、太郎。いか程案じたりとも、別の事もあるまい。このお寮が居る所をさいて、お庵、お庵。と仰せらるゝ。お庵の庵の字をかたどつて、庵太郎と付けうかいの。
▲アト「これは、良い名でござる。やいやい、そちが名を、向後(きやうかう)、庵太郎とお付けなさるゝ。
▲子「ありがたう存じまする。
▲シテ「何と、気に入つたかの。
▲アト「気に入つたさうにござる。
▲シテ「誰が気に入らいでも、あの子が気にさへ入れば、嬉しい。扨、この様な時は皆、殿達からは、太刀の、刀の。と云うて、お引きがあるものさうな。お寮は、その様な物は持たぬ。今の祝ひに、米(こめ)五十石おませうぞ。
▲アト「それは、ありがたう存じまする。これこれ、今の祝ひに、お米(よね)を五十石下された。御礼を申さしめ。
▲子「忝う存じまする。
▲シテ「あれが大人しうなつて、見事ひとり、礼を云ふわ。
▲アト「とてもの事に、字をも下されうならば、忝う存じまする。
▲シテ「庵太郎が事ぢや。物持ちさへしたらば、何が惜しからう。お寮は、地と云うては、一反も持たぬわいの。
▲アト「その地の事ではござりませぬ。名乗り字の事でござりまする。
▲シテ「何、名乗り字を。
▲アト「中々。
▲シテ「今のさへ、やうやうと付けた。それは又、殿達を頼ましめ。
▲アト「名をお付けなされて下された上の事でござる。どうぞ、名乗りも、お付けなされて下されませ。
▲シテ「その様に仰(お)せあれば、嫌とも云はれず。これも、付けてみようか。
▲アト「どうぞ、頼み上げまする。
▲シテ「これは、聞いた事もある。家に伝はる通り字とやら云ふ事が、あるげなが、その様な事もないか。
▲アト「成程、これも代々、貞と申す字を付けまする。
▲シテ「貞、貞。いか程案じても、別の事もあるまい。いづれもこのお寮をさいて、比丘尼(びくに)、比丘尼。と仰せらるゝ。比丘尼の比丘をかたどつて、比丘貞と付けうかいの。
▲アト「これは、忝う存じまする。これこれ、そなたの名乗り名を、比丘貞とお付けなさるゝ。御礼を申さしめ。
▲子「これは、忝う存じまする。
▲シテ「これも気に入つたやら、礼を云ふわ。
▲アト「左様でござります。
▲シテ「今の祝ひに、おあし百貫おませうぞ。
▲アト「忝うはござれども、最前のお米(よね)が夥(おびたゞ)しうござるによつて、これはちと、御斟酌申しませう。
▲シテ「いや、これはとゝが預つて置いて、あの子が大きうなつての資本(もとで)にして、太う長う栄ゆる様に召されよ。
▲アト「これは、ありがたう存じまする。こりあこりあ、今の祝ひに、鳥目百貫下された。御礼を申さしめ。
▲子「これは、重ね重ね、ありがたう存じまする。
▲シテ「おゝ、めでたいなう。祝うて、持たせの竹筒(さゝえ)を開かしめ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「やい、庵太郎よ。今から、とゝの仰(お)せある事をよう聞いて、手習ひを精出して、孝行に召されよ。
▲子「畏つてござる。
▲アト「竹筒(さゝえ)を開きましてござる。
▲シテ「これは、とゝのあいたてない、大きな盃をお出しあつたなう。
▲アト「一つ、召し上がられて下され。
▲シテ「めでたう、お寮が始めう。
▲アト「それが良うござりませう。
▲シテ「おゝ、ござる、ござる。むゝ、良い九献(くこん)やの、九献やの。念が入つたやら、美味しい酒(さゝ)でおりある。
▲アト「何とござりまするぞ。
▲シテ「そなた。と云ひたけれども、今日(けふ)の祝ひぢや。庵太郎へさしませう。
▲アト「それは、忝う存じまする。お盃ぢや、頂かしめ。
▲子「畏つてござる。
▲シテ「はあ、あの子も一つ呑むか。
▲アト「一つ下されますさうにござる。
▲シテ「瓜の蔓(つる)に茄子はならぬ。とゝの子ぢやもの、呑まいでは。
▲アト「扨、これは慮外ながら、お前へ上げたい。と申しまする。
▲シテ「おゝ、こちへくれさしめ。
{アト、酌する。小謡あるべし。「御子孫も」良し。同音ありたるが良きなり。}
謡と云ふものは、殿達の好かせらるゝ程あつて、賑やかなめでたいものぢやなう。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「扨、あの子は、小さい時は舞を舞うたが、今も舞ふか。
▲アト「只今も、少々舞ひまする。
▲シテ「めでたうひとさし舞へ。と仰(お)せあれ。
▲アト「畏つてござる。御所望ぢや程に、ひとさしお舞あれ。
▲子「畏つてござる。
{と云ひて、小舞舞ふ。但し、「一天四海波」良し。}
▲シテ「おゝ、上手やの、上手やの。とゝの精が出ると見えて、いかう庵太郎の舞ひが上がつたわいなう。
▲アト「随分とは存じますれども、無精な事でござります。
▲シテ「何かとして、遅なはつた。そなたへさしませうぞ。
▲アト「頂きませう。
▲シテ「庵太郎。酌をして、とゝにおませいよ。
▲子「畏つてござる。
▲アト「扨、一つ受け持ちました。お寮様へ、ちとお願ひがござります。
▲シテ「何ぢやの。
▲アト「久しう御立ち姿を拝見仕りませぬ。ひとさしお舞ひなされて下されうならば、忝う存じませう。
▲シテ「何ぢや。このお寮に、舞ひを舞へ。と仰(お)せあるか。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「恐ろしや、恐ろしや。このお寮が、いつ舞ひ舞うた事があるぞいの。
▲アト「いつぞやでござりましたを、覚えてをりまする。
▲シテ「あゝ、それは、久しい事であらうに、覚えの良い人ぢや。いかさま、今日はめでたい折柄ぢや。昔を思ひ出して、舞うても見ようかいの。
▲アト「それは、忝う存じまする。
▲シテ「地を謡うてくれさしめ。
▲アト「畏つてござる。
{シテ、「鎌倉の女郎」を舞ふ。同音が良きなり。}
良いや、良いや。
▲シテ「恥づかしや、恥づかしや。このお寮が舞うた。と、必ず人に仰(お)せあるな。
▲アト「いかないかな、申す事ではござりませぬ。
▲シテ「庵太郎も、人に云ふなよ。
▲子「畏つてござる。
▲アト「扨も、おしほらしい事でござる。
▲シテ「何のしほらしい事があらうぞいの。
▲アト「扨、憚りながら、これをお前へ上げませう。
▲シテ「これへくれさしめ。
{小謡あるべし。}
謡と云ふものは、何程聞いても聞き飽かぬ、賑やかなものぢやなう。
▲アト「左様でござる。
▲シテ「扨又これを、庵太郎へさしませう。
▲アト「それは、忝う存じまする。
▲シテ「も一つ呑め。と仰(お)せあれ。
▲アト「畏つてござる。又、お盃を頂かしませ。
▲子「畏つてござる。
▲アト「扨、庵太郎も一つ受け持つてござる。最前は、あまり短かうござる。もそつと長い事を、もひとさしお舞ひなされて下されうならば、忝うござる。
▲シテ「やあやあ、まだ舞を舞へ。と仰(お)せあるか。
▲アト「はあ。
▲シテ「あこぎやの、あこぎやの。今のさへ、やうやうと舞うた。もう許してくれさしめ。
▲アト「御尤でござれども、こゝに、ものとした事がござる。最前、私が盃の上でお舞ひ下されて、庵太郎が盃の上でお舞ひ下されいでは、子心にも、何とか存じませう。近頃御苦労ながら、もうひとさし、お舞ひなされて下されたらば、忝う存じまする。
▲シテ「誰とした事は、人が、嫌ともおうとも云はれぬ様に、上手に物を云ふ人ぢや。いかさま、今日(けふ)はめでたい折柄で、酒(さゝ)にも酔うた程に、今日の祝ひを長々と、舞ひ入りにせう。地を謡うてくれさしめ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「《中》{*3}やらやら、珍しや、珍しや。
▲同「昔が今に至るまで、比丘尼の烏帽子子をとる事は、これぞ初めの祝言なる。
▲シテ「さりながら、方丈。
▲同「さりながら、方丈、寺も庵もおあしも米(めゝ)も、づゝばと持たれば衆中の、旦那に頼み頼まるゝ、只今の引き出物。
▲シテ「《下》米(めゝ)五十石。
▲同「おあし百貫、比丘貞にとらせ、これまでなりとて方丈は、これまでなりとて方丈は、眠蔵(めんざう)にぐすと、入(はい)りけり。

校訂者注
 1:「つがもない」は、「とんでもない」の意。
 2:「官途(くわんど)」は、成人した時に名を与えられる儀式。官途成(くわんどなり)。
 3:底本、ここから最後まで、全て傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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比丘貞(ビクサダ)(二番目)

▲アト「是は此辺りの者で御座る、某{*1}忰を一人持つて御座る、今日は最上吉日で御座るに依つて、御寮様へつれて参りゑぼしをきせて貰はうと存ずる、先づかな法師を呼び出し、此由を申し付けうと存ずる{ト云うて呼出す出るも常の如し}{*2}汝呼び出す別の事でもない、そなたも漸成人したに依つて、今日はお寮様へつれていて、ゑぼしをきせて貰はうと思ふが何とあらうぞ、▲子「夫は兎も角もで御座る▲アト「夫ならばさゝえの用意を召され▲子「畏つて御座る、さゝえの用意致して御座る▲アト「追付行かうさあさあおりあれ▲子「心得ました▲アト「扨あのお寮様は御寿命といひ御富貴といひ、何に不足の無いお方ぢや程に、あやかる様に召され▲子「畏つて御座る▲アト「扨ゑぼしをきせて貰うてからは、諸事気を付けねばならぬ程に、随分おとなしうならしませ▲子「心得ました▲アト「何彼と云ふ内に是ぢや、先づ案内を乞う、そなたは夫にひかへてゐさしませ▲子「畏つて御座る▲アト「物も案内も、お寮様御内に御座りますか▲シテ「表に案内がある、案内とは誰そら▲アト「私で御座る▲シテ「ゑい誰、おりあつたのう、おゝおりあつたのう、先づかう通らしませ▲アト「畏つて御座る▲シテ「やれやれ珍しや珍しや、此中も此中で、此誰はちと見舞うてもくれられさうな者ぢやに、お寮を見限つてわせぬかと思うて、いかう恨んだ今日はどち風が吹いて、来さしました▲アト「成程お恨の段は御尤に存じまする、何彼と渡世に隙を得ませいで、御無沙汰を仕りました▲シテ「渡世に隙が無いとあれば尤でおりある、して又今日は何と思うておりあつたぞ▲アト「今日はかな法師が御見舞申して御座る▲シテ「やあやあかな法師が見舞うたとおせあるか▲アト「左様で御座る▲シテ「どれどこに居るぞ▲アト「御門前に待たせて置きました▲シテ「誰とした事が、あの小さい{*3}者を外に独り置くと云ふ事がある者か、早うこちへ呼ばしめ▲アト「畏つて御座る▲シテ「早うお呼びや▲アト「はあ、さあさああれへお出あれ▲子「心得ました▲アト「はあ、かな法師で御座る▲シテ「やあやあ是がかな法師か▲アト「左様で御座る▲シテ「おゝよう来たなあよう来たなあ、久敷う見ぬ間に大きな者に成つたなあ、余所で見たらば見違はうのう▲アト「是は今日かな法師がお見舞申した印で御座る▲シテ「あれが見舞うて来るこそ嬉しけれ、なんのもたせに及ぶことぞ、扨々大きな者に成つたなあ、今もかな法師と云ふか▲アト「されば其事で御座る、あれも段々成人致して御座るに依つて、いつがいつまでかな法師と申すもいかゞで御座る、今日は最上吉日でも御座る、お寮様に烏帽子をきせて貰ひませうと存じて参つて御座る▲シテ「つがもない事を云ふ人ぢや、烏帽子着のくわんどのと云ふは、皆殿達のなさるゝ事でこそあれ、お寮は其様な事は知り候はぬ▲アト「御尤には存じますれ共、かな法師がお寮様に付けて貰ひ度いと申す願で御座る、どうぞ御つけ成れて下されい▲シテ「やあやあ何とおせある、あの子が是をお寮に付けて貰ひたいと云ふ願ぢやとおせあるか▲アト「左様で御座る▲シテ「やれやれ馴染とてよう云ふたなあよう云ふたなあ、いか様此お寮の様な寿命と云ひ富貴と云ひ、何に不足のない者はない、あやかる様に付けて見やうかいの▲アト「夫は忝う存じまする▲シテ「何も望はないかの▲アト「別に望も御座りませぬ、代々太郎と申す字を付けまする▲シテ「誠にそなたの小さい{*4}時も何太郎とやら云ふたぞや▲アト「よい覚えで御座りまする▲シテ「太郎太郎、いか程案じたり共、別の事もあるまい、此お寮が居る所をさいてお庵お庵{*5}と仰せらるゝ、お庵の庵の字をかたどつて、庵太郎と付けうかいの▲アト「是はよい名で御座る、やいやいそちが名を向後庵太郎とお付け成さるゝ▲子{*6}「有難う存じまする▲シテ「何と気に入つたかの▲アト{*7}「気に入つたさうに御座る▲シテ「誰が気に入らいでも、あの子が気にさへ入れば嬉しい、扨此様な時は皆殿達からは太刀の、刀のと云ふてお引がある物さうな、お寮はその様な物は持たぬ、今の祝に米五十石おませうぞ▲アト「夫は有難う存じまする、是々今の祝ひにお米を五十石下された、御礼を申さしめ▲子「忝う存じまする▲シテ「あれがおとなしう成つて、見事独り礼を云ふは▲アト「迚もの事に字をも下されうならば、忝う存じまする▲シテ「庵太郎が事ぢや、物持さへしたらば何がおしからう、お寮は地と云うては一反も持たぬわいの▲アト「其地の事では御座りませぬ、名乗字の事で御座りまする▲シテ「何名乗字を▲アト「中々▲シテ「今のさへ{*8}漸とつけた、夫は又殿達を頼ましめ▲アト「名をお付け成されて下された上の事で御座る、どうぞ名乗もお付け成されて下されませ▲シテ「其様におせあればいやともいはれず、是も付けてみようか▲アト「どうぞ頼上まする▲シテ「是は聞いた事もある、家につたはる通り字とやら云ふ事があるげなが、其様な事もないか▲アト「成程是も代々貞と申す字を付けまする▲シテ「貞々、いか程案じても別の事もあるまい、いづれも此お寮をさいて、比丘尼比丘尼と仰せらるゝ、比丘尼の比丘をかたどつて、比丘貞と付けうかいの▲アト「是は忝う存じまする、是々そなたの名乗名を、比丘貞とお付け成さるゝ、御礼を申さしめ▲子「是は忝う存じまする▲シテ「是も気に入つたやら礼を云ふわ▲アト「左様で御座ります▲シテ「今の祝ひにおあし百貫おませうぞ▲アト「忝うは御座れ共、最前のお米がおびたゞしう御座るに依つて、是はちと御斟酌申しませう▲シテ「いや是はとゝが預つて置いて、あの子が大きう成つての資本にして、太う長う栄ゆる様に召されよ▲アト「是は有難う存じまする、こりあこりあ、今の祝ひに鳥目百貫下された、御礼を申さしめ▲子{*9}「是は重ね重ね有難う存じまする▲シテ「おゝ目出度いのう、祝うて持たせのさゝえをひらかしめ▲アト「畏つて御座る▲シテ「やい庵太郎よ、今からとゝのおせある事をよう聞いて、手習を精出して孝行にめされよ{*10}▲子「畏つて御座る▲アト「さゝえを開きまして御座る▲シテ「是はとゝのあいたてない、大きな盃をお出しあつたのう▲アト「一つ召し上られて下され▲シテ「目出度うお寮が始めう▲アト「夫がよう御座りませう▲シテ「おゝ御座る御座る、むゝよい九こんやの九こんやの、念が入つたやらおいしいさゝでおりある▲アト「何と御座りまするぞ▲シテ「そなたといひたけれ共、今日の祝ひぢや庵太郎へさしませう▲アト「夫は忝う存じまする、お盃ぢやいたゞかしめ▲子「畏つて御座る▲シテ「はああの子も一つ呑むか▲アト「一つ下されますさうに御座る▲シテ「瓜のつるに茄子は成らぬ、とゝの子ぢや者呑まいでわ▲アト「扨是は慮外ながらお前へ上げ度い{*11}と申しまする▲シテ「おゝこちへくれさしめ{アト酌する小謡あるべし、御子孫も吉同音ありたるがよきなり}{*12}謡と云ふ者は殿達のすかせらるゝ程あつて、賑な目出度い者ぢやのう▲アト「左様で御座る▲シテ「扨あの子は小さい{*13}時は舞ひをまふたが今もまふか▲アト「唯今も少々舞ひまする▲シテ「目出たう一とさしまへとおせあれ▲アト「畏つて御座る、御所望ぢや程に一とさしお舞あれ{*14}▲子「畏つて御座る{ト云て小舞まふ、但一天四海波よし}▲シテ「おゝ上手やの上手やの、とゝの精が出ると見えて、いかう庵太郎の舞ひがあがつたわいのう▲アト「随分とは存じますれ共、無精な事で御座ります▲シテ「何彼としておそなはつた、そなたへさしませうぞ▲アト「いたゞきませう▲シテ「庵太郎酌をしてとゝにおませいよ▲子「畏つて御座る▲アト「扨一つ受け持ちました、お寮様へちとお願が御座ります▲シテ「何ぢやの▲アト「久敷う御立ち姿を拝見仕りませぬ、一とさしお舞ひ成されて下されうならば忝う存じませう▲シテ「何ぢや此お寮に舞ひを舞へとおせあるか▲アト「左様で御座る▲シテ「恐ろしや恐ろしや、此お寮がいつ舞ひまふた事が有るぞいの▲アト「いつぞやで御座りましたを覚えておりまする▲シテ「あゝ夫は久敷い事であらうに、覚えのよい人ぢや、いかさま今日は目出度い折柄ぢや、昔を思ひ出して舞うても見ようかいの▲アト「夫は忝う存じまする▲シテ「地を謡うてくれさしめ▲アト「畏つて御座る{シテ鎌倉の女郎を舞ふ同音がよき也}{*15}よいやよいや▲シテ「恥かしや恥かしや、此お寮が舞ふたと、必人におせあるな▲アト「いかないかな申す事では御座りませぬ▲シテ「庵太郎も人に云ふなよ▲子「畏つて御座る▲アト「扨もおしほら敷い事で御座る▲シテ「何のしほらしい事が有らうぞいの▲アト「扨憚りながら是をお前へ上げませう▲シテ「是へくれさしめ{小謡あるべし}{*16}謡と云ふ者は何程聞いても聞きあかぬ賑なものぢやのう▲アト「左様で御座る▲シテ「扨又是を庵太郎へさしませう▲アト「夫は忝う存じまする▲シテ「も一つ呑めとおせあれ▲アト「畏つて御座る、又お盃をいたゞかしませ▲子「畏つて御座る▲アト「扨庵太郎も一つ受け持つて御座る、最前はあまり短かう御座る、も卒度長い事をも一さし、お舞ひ成されて下されうならば忝う御座る▲シテ「やあやあ、まだ舞を舞へとおせあるか▲アト「はあ▲シテ「あこぎやのあこぎやの、今のさへ漸と舞ふた、もう許してくれさしめ▲アト「御尤で御座れ共、爰に物とした事が御座る、最前私が盃の上でお舞ひ下されて、庵太郎が盃の上でお舞ひ下されいでは、子心にも何とか存じませう、近頃御苦労ながら、最一さしお舞ひ成されて下されたらば、忝う存じまする▲シテ「誰とした事は、人がいや共おう共いはれぬやうに、上手に物を云ふ人ぢや、いかさま今日は目出度い折柄で、さゝにも酔た程に、今日の祝ひを長々と舞入にせう、地を謡うてくれさしめ▲アト「畏つて御座る▲シテ「《中》やらやら珍らしや珍らしや▲同「昔が今に至る{*17}まで、比丘尼のゑぼし子をとる事は、是ぞ初めの祝言なる▲シテ「去ながら方丈▲同「去ながら方丈、寺もあんも、おあしもめゝも、づゝばと持たれば衆中の旦那にたのみたのまるゝ、唯今の引き出物▲シテ「《下》めゝ五十石▲同「おあし百貫比丘貞にとらせ{*18}、是までなりとて方丈は、是までなりとて方丈は、めんざうにぐすと、はいりけり。

校訂者注
 1:底本は、「其」。
 2・15:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 3・4・13:底本は、「少(ちい)さい」。
 5:底本は、「お庵々」。
 6:底本、ここに「▲子」はない。
 7:底本は、「▲シテ「」。
 8:底本は、「今のさい」。
 9:底本、ここに「▲子「」はない。
 10:底本は、「めさよ」。
 11:底本は、「上け度い」。
 12・16:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
 14:底本は、「おまあれ」。
 17:底本は、「到る」。
 18:底本は、「比丘貞とうせ」。