仁王(にわう)(三番目)

▲シテ「この辺りに住居(すまひ)致す者でござる。何が、揉む程に揉む程に、鹿の角の縄になる程揉うでござれば、散々揉み損なうて、はらりさんとなつて、後(あと)へも先へも参らぬ。あまつさへ、この所の住居(すまひ)もなり難(にく)うなつてござるによつて、見えぬ国へなりとも参らう。と存ずる。又こゝに、殊の外御懇意に思し召して下さるゝお方がござる。せめて、お暇乞ひを致して、すぐにどれへなりとも参らう。と存ずる。誠に、あのお方の御異見をなされたは、度々の事ぢやによつて、もはや、止まらう、止まらう。と思うても、勝てば面白し、負くれば取り返さう、取り返さう。と思うて、うかうかとしてゐる内に、ほうど、かやうの体(てい)になつてござる。何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも、常の如し。}
▲アト「これは、旅出立(たびいでたち)の体(てい)と見えたが、どれへお行きある。
▲シテ「面目もない事がござる。
▲アト「それは、何でおりある。
▲シテ「常々御異見なさるゝを聞かいで、又、かの勝負を致してござれば、散々不仕合せで、もはや、手と身とになつてござる。致さう様もござらぬによつて、この足で、見えぬ国へなりとも参らう。と存じまする。只今までの御恩を受けましたお礼かたがた、お暇乞ひのため、参りましてござる。
▲アト「扨も扨も、笑止千万な事かな。常々異見を致すは、そこの事ぢやが、何と、合点が参つたか。
▲シテ「後悔先に立たず。と申すが、この事でござる。度々の御異見、殊に再々の御合力、お礼の申し様もござらぬ。こなたへ参るも面目なうござれども、何かのお礼かたがた、参つてござる。もはや、お暇申しまする。
▲アト「まづ、待たしめ。何とも見捨てゝ遣るも気の毒な。して、行く先に当所(あてど)があるか。
▲シテ「いや、知るべもござらねども、差し当たつて仕様がござらぬ。
▲アト「何とか仕様がありさうなものぢやが。この中(ぢゆう)は、あそこへ神が飛ばせられたの、こゝへは仏が降らせられた。などゝ云ふ程に、どうぞ、わごりよを仏に作つて、どこへぞ飛ばせられた。と云うて、参詣をあらせて、その散物(さんもつ)を取らする様にせう。と思ふ。
▲シテ「これは、格別な御分別でござる。どうぞ、ならう事ならば、宜しう頼み上げます。
▲アト「何に拵へうぞ。今、思ひ出した。上野(うへの)へ仁王が降らせられた。と云うて、参詣をあらせうぞ。
▲シテ「仁王と仰せらるゝは、楼門の脇にある、大きな仏でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「私がその、仁王になられませうか。
▲アト「何とか取り繕うて見よう。
▲シテ「さりながら、仁王になつて居たりとも、誰も知つて参る者がござるまい。
▲アト「それは、良い仕様がある。そちを仁王に作つておいて、扨、知音(ちいん)に触れ知らせ、身共も同道で参詣して、ひと腰をかけて、今生・後生を祈つたらば、外の衆も相応に、散銭・散米を積むであらう。
▲シテ「これは、重畳の御思案でござる。何分、お前を頼み上げます。
▲アト「まづ、拵へてやらう。これへ寄らしめ。
{と云ひて、笛座にて肩衣取り、傍続(そばつぎ)を着せて、面白き頭巾着せる。或ひは、色鉢巻にて手首を括り、金入の唐人装束の上を着て、肌ぬぎたるも良し。物好き次第。}
扨、云ふまではないが、これに懲りて、以来ふつふつ、手慰みを已(や)めさしめ。
▲シテ「いやも、これに懲りぬ者はござりませぬ。
▲アト「身共が色々異見をすれども、お聞きあらぬによつて、この様な事ぢや。
{と云ひて、身拵への内、色々しかじかあるべし。}
それそれ、良いぞ。
▲シテ「良うござるか。
▲アト「これへお出あれ。
▲シテ「これは、変つた形(なり)になりました。何と良うござるか。
▲アト「これは、その儘の仁王でおりある。さあさあ、おりあれ。扨、最前も云ふ通り、この後(のち)、手慰みは、ふつふつ思ひ止(と)まらしめ。
▲シテ「何が扨、これに懲りぬと申す事はござりませぬ。何とぞ、この度の仁王を仕果(おほ)せまして、それを資本(もとで)に致し、何なりとも商売を致しませう。
▲アト「何かと云ふ内に、これぢや。さあさあ、これへ寄らしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「扨、眼(まなこ)をきつと見開いて、いかにも異形(いぎやう)におしあれ。
▲シテ「かうでござるか。
▲アト「おゝ、さうぢや、さうぢや。扨、阿吽(あうん)と云うて、口を開(あ)いたもあり、閉(ふさ)いだもある。参詣の時、必ず必ず、笑ふ事もならず、又、目遣ひなどに気を付けさしめ。
▲シテ「その段は、そつともお気遣ひなされますな。
▲アト「身共はこれから知音の衆へ触れ知らせて、追つ付け同道して参らうぞ。
▲シテ「それは、忝う存じまする。
▲アト「なうなう、何(いづ)れもござるか。
▲立衆「これにゐます。
▲各「何事でござる。
▲アト「珍しい事でござる。上野へ仁王が降らせられた。と申すが、聞かせられたか。
▲立衆「かつて、存じませぬ。
▲アト「殊の外、御利生があらたで、何を申しても叶ふ。と申す。いざ、参詣致しませうか。
▲立衆「これは、一段と良うござらう。
▲アト「さあさあ、ござれ。
▲各「心得ました。
▲アト「何と思し召す。この中(ぢゆう)は、あなたこなたへ神が飛ばせられたの、仏が降らせられたの。と申す。奇特な事ではござらぬか。
▲立衆「仰せらるゝ通り、今の世には、奇特な事でござる。
▲立二「中々。末世とは申されませぬ。
▲アト「別して、上野の仁王はあらたな。と申す事でござる。
▲立衆「さればこそ、これにござる。
▲立衆「誠に、これでござらう。
▲アト「いざ、拝をさせられい。
{と云ひて、各、下に居て拝むなり。}
扨も扨も、御殊勝な事かな。
{と云ひて、小さ刀をシテの手にかけて、願(ぐわん)をかける。その時、皆々、色々の物を出し、願をかける。小さ刀、三、四人、可なり。}
▲立衆「追つ付け、下向致しませう。
▲アト「某(それがし)は、ちと近所へ寄らいで叶はぬ所がござる。自由ながら、寄つて参らう。何(いづ)れもは、先へ行(い)て下され。
▲立衆「それならば、お先へ参りませう。
{アト、各帰るを見送る。シテ、アトの袖を引きて、}
▲シテ「扨々、お蔭で、夥(おびたゞ)しい賽銭その外、色々の物を受納致しました。まづ、お前のお腰の物は、御返し申しまする。
▲アト「扨、この体(てい)ならば、聞き伝へて段々、参詣があらう。
▲シテ「しからば、この類(たぐひ)はお前へお預け申しまして、私は後(あと)から帰りませう。
▲アト「成程これは、身共が良い様にしておかう程に、随分仕果(おほ)せて、後から戻らしめ。
▲シテ「畏つてござる。
{と云ひて、色々の物を受け取り、入るなり。又シテ、仁王になるなり。}
▲小アト「この辺りの者でござる。承れば、上野へ仁王が降らせられて、何事も申す事が叶ふ。と申す。某も参つて、願をかけう。と存ずる。誠に、末世と申すは只今の事か。と存ずれば、又、かやうの奇特がござれば、中々ものを片意地に申さう事ではない。則ち、これぢや。扨、かの仁王はどれにござる事ぢや。さればこそ、これにござる。
{と云ひて、草鞋をかけて拝むなり。}
扨も扨も、ありがたい事かな。名作と見えて御殊勝な。その儘、生きてござる様な、扨、某は折節、頭(かしら)を痛める。かやうなお仏には、とかく御縁を結ぶが良い。あなたの御髪(みぐし)を撫でゝ、某の身へ移さう。
{と云ひて、頭(つむり)を撫でゝ、身へ塗る。こそばがる顔つき、色々あるべし。}
思ひなしか、心がはつきりとした。とかく、仏体を撫でゝ、某の身へ移さう。
{と云ひて、方々を撫でる。こそばゆがる。}
身共は折々、腹を痛める。さらば、お腹も撫でゝ、某の腹へ移さう。何(いづ)れ、あらたな仏ぢや。御面体(ごめんてい)・惣御身(そうおんみ)が揺るがせらるゝ様に覚ゆる。身共は一方の足が不自由な。お蔭でこれも癒る様に。
{などゝ云ひて、足を撫で、脇の下を撫で、色々する。シテ、こそばがり、「くつくつ」と云ふ。}
これはいかな事。何とやら、様子が変つた。えて今時(いまどき)は、売僧(まいす)が流行る。ちと、こそぐつて見よう。
{と云ひて、こそぐる。耐へかねて笑ふを見つけ、「売僧よ」と追ひ込む。色々、口伝なり。}

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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仁王(ニワウ)(三番目)

▲シテ「此辺りに住居致す者で御座る、何が揉む程に揉む程に鹿の角の縄に成程揉うで御座れば、さんざんもみそこなうてはらりさんとなつて、後へも先へも参らぬ、あまつさへ此所の住居も成りにくう成つて御座るに依つて、見へぬ国へなりとも参らうと存ずる、又爰に、殊の外御懇意に思ぼし召して下さるゝお方が御座る、責てお暇乞を致してすぐにどれへなりとも参らうと存ずる、誠に、あのお方の御異見を被成たは、度々の事ぢやに依つて、最早とまらうとまらうと思ふても、勝てば面白し負くれば取返さう取返さうと思ふて、うかうかとしてゐる内に、ほうど斯様の体に成つて御座る、何彼と云ふ内に是ぢや{ト云て案内乞出るも如常}▲アト「是は旅出立の体と見へたが、どれへおゆきある▲シテ「面目もない事が御座る▲アト「夫は何でおりある▲シテ「常々御異見被成るゝを聞かいで、又彼の勝負を致して御座ればさんざん不仕合で、最早手と身とに成つて御座る、致さう様も御座らぬに依つて、此足で見へぬ国へなりとも参らうと存じまする、只今迄の御恩を受けましたお礼旁、お暇乞の為め参りまして御座る▲アト「偖も偖も笑止千万な事かな、常々異見を致すはそこの事ぢやが、何と合点が参つたか▲シテ「後悔先きにたゝずと申すが此事で御座る、度々の御異見殊にさいさいの御合力お礼の申しやうも御座らぬ、こなたへ参るも面目なう御座れども、何かのお礼旁々参つて御座る、最早お暇申しまする▲アト「先づまたしめ、何共見捨てやるも気の毒な、してゆく先にあてどがあるか▲シテ「いや知るべも御座らね共、差当つて仕様が御座らぬ▲アト「何とか仕様が有りさうなものぢやが、此中はあそこへ神がとばせられたの、爰へは仏がふらせられた抔といふ程に、どうぞわごりよを仏に作つて、どこへぞとばせられたといふて参詣をあらせて、其さんもつ{*1}をとらする様にせうと思ふ▲シテ「是は格別な御分別で御座る、どうぞならう事ならば宜しう頼上げます▲アト「何に拵うぞ、今思ひ出した、上野へ仁王がふらせられたといふて、参詣をあらせうぞ▲シテ「仁王と仰せらるゝは、楼門の脇にある大きな仏で御座るか▲アト「中々▲シテ「私が其仁王になられませうか▲アト「何とか取りつくらうて見う▲シテ「去ながら仁王に成つて居たり共、誰も知つて参る者が御座るまい▲アト「夫はよい仕様がある、そちを仁王に作つておいて、扨て知音にふれ知らせ、身共も同道で参詣して、一ト腰をかけて今生後生を祈つたらば、外の衆も相応にさんせんさんまいをつむで有らう▲シテ「是は重畳の御思案で御座る、何分お前を頼み上げます▲アト「先づ拵えてやらう是へよらしめ{ト云て笛座にて肩衣取りそばつぎをきせて面白き頭巾きせる或は色鉢巻にて手首をくゝり金入の唐人装束の上をきて{*2}肌ぬぎたるもよし物好次第}{*3}偖いふ迄はないが、是にこりて以来ふつふつ手慰みをやめさしめ▲シテ「いやも是にこりぬものは御座りませぬ▲アト「身共が種々異見をすれどもおきゝあらぬに依つて此様な事ぢや{ト云て身拵の内色々しかしかあるべし}{*4}夫れ夫れよいぞ▲シテ「よう御座るか▲アト「是へお出あれ▲シテ「是はかわつたなりに成ました、何とよう御座るか▲アト「是はその儘の仁王でおりある、さあさあおりあれ、偖最前もいふ通り、此後手慰はふつふつ思ひとまらしめ▲シテ「何が偖是にこりぬと申す事は御座りませぬ、何卒此度の仁王を仕果せ{*5}まして、夫を資本に致し何成り共商売を致しませう▲アト「何彼といふ内に是ぢや、さあさあ是へよらしめ▲シテ「畏つて御座る▲アト「偖まなこを急度見ひらいて、如何にも異形におしあれ▲シテ「斯うで御座るか▲アト「おゝさうぢやさうぢや、偖あうんといふて口を開いたもあり閉いだもある、参詣の時必ず必ず笑う事もならず、又目づかい抔に気を付けさしめ▲シテ「其段はそつともお気遣い被成ますな▲アト「身共は是から知音の衆へふれ知らせて、追付同道して参らうぞ▲シテ「夫は忝う存じまする▲アト「なうなう何れも御座るか▲立衆「是にゐます▲各「何事で御座る▲アト「珍ら敷い事で御座る、上野へ仁王がふらせられたと申すがきかせられたか▲立衆「曽て存じませぬ▲アト「殊の外御利生があらたで、何を申しても叶うと申す、いざ参詣致しませうか▲立衆「是は一段とよう御座らう▲アト「さあさあ御座れ▲各「心得ました▲アト「何と思し召す此中はあなた此方へ神がとばせられたの、仏がふらせられたのと申す奇特な事では御座らぬか▲立衆「仰せらるゝ通り、今の世には奇特な事で御座る▲立二「中々末世とは申されませぬ▲アト「別して上野の仁王はあらたなと申す事で御座る▲立衆「さればこそ是に御座る▲立衆「誠に是で御座らう▲アト「いざ拝をさせられい{ト云て各下に居て拝むなり}{*6}偖も偖も御殊勝な事かな{ト云て小さ刀をシテ{*7}の手にかけて願をかける其時皆々色々の物を出し願をかける小さ刀三四人可なり}▲立衆「追付下向致しませう▲アト「某はちと近所へよらいで叶はぬ所が御座る、自由ながら寄つて参らう何れもは先へいて下され▲立衆「夫ならばお先へ参りませう{アト各帰るを見送るシテ、アトの袖を引て}▲シテ「偖々お蔭でおびたゞしいさいせん、其外種々の物を受納致しました、先づお前のお腰の物は御返し申しまする▲アト「偖此体ならば聞き伝へて段々参詣が有らう▲シテ「然らば此類はお前へお預け申しまして、私は後から帰りませう▲アト「成程是は身共がよい様にしておかう程に、随分仕果せ{*8}て、後から戻らしめ▲シテ「畏つて御座る{ト云て色々の物を受取入るなり又シテ仁王になるなり}▲小アト「此あたりの者で御座る、承れば上野へ仁王がふらせられて、何事も申す事が叶うと申す、某も参つて願をかけうと存ずる、誠に、末世と申すは唯今の事かと存ずれば、又斯様の奇特が御座れば、中々ものを片意地に申さう事ではない、則ち是ぢや、偖て彼仁王はどれに御座る事ぢや、去ればこそ是に御座る{ト云て草鞋をかけて拝むなり}{*9}偖も偖も有難い事かな、名作と見へて御殊勝な、其儘いきて御座るやうな、偖某は折節かしらをいためる、斯様なお仏には、兎角御縁を結ぶがよい、あなたの御ぐしをなでゝ、某の身へうつさう{ト云てつむりをなでゝ身へぬるこそばがる顔つき色々あるべし}{*10}思ひなしか心がはつきりとした、兎角仏体をなでゝ、某の身へうつさう{ト云て方々をなでるこそばゆがる}{*11}身共は折々腹をいためる、さらばお腹もなでゝ某の腹へ移さう何れあらたな仏ぢや、御面体惣御身がゆるがせらるゝ様に覚ゆる、身共は一つ方の足が不自由な、お蔭で是も癒る様に{抔{*12}と云て足をなで脇の下をなで色々する、シテこそばがりくつくつと云ふ}{*13}是はいかな事、何とやら様子がかはつた、ゑて今時はまいすがはやる、ちとこそぐつて見よう{ト云てこそぐる耐へかねて笑ふを見つけ売僧よと追込色々口伝也}

校訂者注
 1:底本は、「さん物(もの)」。
 2:底本は、「唐人装束の上みをきて」。
 3・4・6:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 5・8:底本は、「仕課(おゝ)せ」。
 7:底本は、「して」。
 9~11・13:底本、全て「▲小アト「」がある(全て略)。
 12:底本は、「杯」。