井杭(ゐぐひ)(二番目 三番目)
▲シテ「この辺りに住居(すまひ)致す、井杭と申す者でござる。こゝに、御目を下さるゝお方がござる。これへ参れば、井杭、よう来た。とあつて、御懇ろには仰せらるれども、参る度ごとに、頭をはらせらるゝ。これをうるさう存じて、清水の観世音へ籠つてござれば、何かは存ぜぬが、この様な頭巾を下されてござる。これは定めて、頭をはらせらるゝ時に着よ。とある事でかな、ござらう。今日(こんにち)参つて様子を見よう。と存ずる。誠に、世には変つた人があるものでござる。参れば頭をはらせらるゝ。うるさう存じて参らねば、身代のためにならず。この様な迷惑な事はござらぬ。何かと云ふ内に、これぢや。
{と云ひて、案内乞ふ。出るも、常の如し。}
▲アト「ゑい、井杭。この間は久しう来なんだが、何として来なんだぞいやい。
{と云ひて、扇子をひろげ、頭を叩くなり。}
▲シテ「はあ。この間は、田舎へ参りまして、それ故、お見舞ひも申しませなんだ。
▲アト「その様な事とは知らず、誰(た)そ、人の中言(なかごと)で来ぬ事か。と思うて、いかう案じたわいやい。
{シテ、頭巾着る。}
これはいかな事。井杭がどれへやら行(い)た。井杭、井杭。今までこゝに居たが。
{と云ひて、尋ぬる心、色々あるべし。しかじかも云ふ。シテ、鼻の先へ指をさし付けなど、色々あるべし。}
▲シテ「これはいかな事。これを被(き)れば、見えぬさうな。扨々、不思議な事ぢや。あまり尋ねらるゝ。出ようと存ずる。申し申し、これに居ります。
▲アト「ゑい、井杭。汝はどれへ行(い)た。
▲シテ「表に人が、逢はう。と申したによつて、逢ひに参りました。
▲アト「これはいかな事。いかに人が、逢はう。と云へばとて、たまたま来て、逢ひに行くといふ事があるものか。汝をそれに置くによつてぢや。かう通れ。
▲シテ「いやも、これが良うござる。
▲アト「はて扨、まづ、かう通れ。と云ふに。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「扨、汝は、田舎へ行(い)た。と云ふが、何も変つた事もなかつたか。
▲シテ「別に、変つた事もござりませなんだが、私に変つた異名を付けました。
▲アト「何と付けた。
▲シテ「破れ障子と付けました。
▲アト「何ぢや。破れ障子。
▲シテ「中々。
▲アト「これは、変つた異名を付けた。それには何ぞ、仔細があるか。
▲シテ「私の存じまするは、これへ参れば、あまりはらせらるゝによつて、それでがな、付けたものでござらう。
▲アト「これはいかな事。それは、皆達の悪口といふものぢや。何しに憎うてはらうぞ。皆、可愛さのあまりぢやわいやい。
{と云ひて、叩く。又、頭巾を着る。}
これはいかな事。又、井杭がどれへやら行(い)た。井杭、井杭。
{と云ひて、尋ねる。}
▲シテ「とかく、これを着れば、見えぬさうな。扨々、奇特な事ぢや。
{以前の通り、鼻をさして、アトに付き、廻る。}
▲小アト「占屋算(うらやさん)、占(うら)の御用。占屋算、占の御用。しかも上手です。
▲アト「いや、これへ、占屋算が見えた。呼うで尋ねう。
▲シテ「占屋算を呼ばるゝさうな。ちと、見物致さう。
▲アト「なうなう、これこれ。
▲小アト「この方の事でござるか。
▲アト「いかにも、そなたの事ぢや。ちと尋ねたい事がある程に、まづ、かう通つておくれあれ。
▲小アト「畏つてござる。はあ。これは、お前のお屋敷でござるか。
▲アト「成程、身共が屋敷でおりある。
▲小アト「まづは、子々孫々、万々年もお栄えなされう、めでたいお家作りでござる。
▲アト「余の者が云はゞ、その様にも思ふまいが、わごりよ達が仰(お)せあれば、身共も悦ぶ事でおりある。
▲シテ「早(はや)、追従をぬかしをる。
▲小アト「私共も、むさとは申しませぬ。四神相応の地などゝ申して、皆、見所があつて申す事でござる。
▲アト「さうであらうとも。まづ、下におゐあれ。
▲小アト「心得ました。扨、お尋ねなされたい。とは、いか様の事でござる。
▲アト「失物(うせもの)でおりある。
▲小アト「して、それは、いつの事でござる。
▲アト「今日(こんにち)只今の事でおりある。
▲小アト「今日は何月何日。もはや、何の刻でもござらうか。
▲アト「大方、その時分でもあらうか。
▲小アト「まづ、手占(てうら)を置いて見ませう。
▲アト「どうなりとも召され。
▲小アト「短長見路吟難場。はあ。これは、生類(しやうるい)でござるぞや。
▲アト「扨々、そなたは、いかい上手ぢや。成程、生類でおりある。
▲シテ「いかい上手ぢや。疑ひもない。生類です。
▲小アト「生類でござりませうが。
▲アト「中々。
▲小アト「お言葉に甘えて申すではござらねども、私が算がよう合ふ。とあつて、ある名は仰せられいで、あり様、あり様。と仰せらるゝ事でござる。
▲アト「さうであらうとも。いかい上手でおりある。とてもの事に、居り所をさいておくれあれ。
▲アト「それは、いつ算置かずばなりますまい。
▲アト「どうなりともしておくれあれ。
{と云ひて、算袋より算木本、出すなり。}
▲小アト「扨、私も、御門前までは節々(せつせつ)通りますれども、御用がござらねば、御見舞ひ申した事もござらぬ。この後(のち)は、節々お見舞ひ申しませう程に、お目をかけられて下されい。
▲アト「成程、この後は節々、お出あれ。心安う致さうぞ。
▲小アト「扨、お前のお年はおいくつでござる。
▲アト「身共はいくつでおりある。
▲小アト「いくつならば、何のお年。御一代の守り本尊は何。月の何日を御信心なされませ。
▲アト「成程、信心するであらう。
▲小アト「則ち、お前のお卦体(けたい)は、これに当たりまする。当年からは、何事も思し召す儘にお叶へなされう、めでたいお卦体でござる。
▲アト「それは、悦ばしい事でおりある。
▲小アト「さらば一算(いつさん)、置きませう。
▲アト「一段と良からう。
▲小アト「金生水(きんじやうすい)、水生木、木生火、火生土、土生金。まづは、算の表(おもて)。順に相生(さうでう)致いて、めでたうござる。さりながらこゝに、金克木(きんこくもく)と克致いて、ちと知れ難(にく)い所がござれども、又、こなたには水生木と、語らうた所もござれば、追つ付け知れませう。お心安う思し召しませ。
▲アト「それは、悦ばしい事でおりある。
▲小アト「一遊魂(いちゆこん)、二絶命、三禍害、四天医(してんい)、五福徳、六遊年、七生家(しちしやうけ)。七生家。これは、お座敷を離れたものではござらぬ。
▲アト「いやいや、座敷に居て、見えぬものではないぞや。
▲小アト「して、失物(うせもの)は、何でござる。
▲アト「人でおりある。
▲小アト「やあ、人でござるか。
▲アト「中々。
▲小アト「これはいかな事。この鏡の表の様な、何処(どこ)に。小隠れもないお座敷に、人が居て、見えまい様はござらぬ。即ち、算の表には、お前の左の方の座についてゐる。とござる。
▲アト「お見ある通り、身共が左の方には何もなけれども。最前から、ちと合点の行かぬ事がある。算の表について、探して見よう。
▲小アト「まづ、探して御覧(ごらう)じませ。
▲アト「心得た。井杭、井杭。
{と云ひて、探す。シテ、そつと逃げて、シテ柱にて云ふなり。}
▲シテ「これは、いかい上手ぢや。ちと、座を替へう。
▲小アト「をりますか。
▲アト「いゝや、をらぬ。
▲小アト「合点の参らぬ事でござる。それならば、も、いつ算、置きませう。
▲アト「どうなりともしておくれあれ。
▲アト「一徳(いつとく)六害の水、二儀七曜(にぎしちゑう)の火、三障八難、四絶九疫(しぜつくやく)、五祈祷の土。
{吟ずる。}
はあ。これは、座を替へました。
▲アト「何ぢや、座を替へたか。
▲小アト「この度は、私が右の方の座について居る。とござる。これも、算の表(おもて)について、探して御覧(ごらう)じませ。
▲アト「成程、心得た。井杭、井杭。
{と云ひて、探す。シテ、又そつと逃げて、しかじか云ふ。真ん中に陸(ろく)に居る{*2}なり。}
▲シテ「これは、いかい上手ぢや。又、座を替へう。
▲小アト「をりますか。
▲アト「いゝや、をらぬ。
▲小アト「はて、合点の行かぬ。をる筈でござるが。いや、致し様がござる。
{と云ひて、算木を二、三本、放(ほ)るなり。}
▲アト「これは、珍しい算でおりある。
▲小アト「お前には、御奇特にお気が付きました。これは、天狗のなげ算と申して、私が家ならで、他の家に置かぬ算でござる。これを引きならして、知れぬと申す事はござらぬ。追つ付け、知れませう。お心安う思し召しませ。
▲アト「それは、悦ぶ事でおりある。
▲小アト「大水出れば、堤の弱り。大風吹けば、古家(ふるいへ)に祟(たゝ)る。何と、聞こえた事の。
▲アト「聞こえた事でおりある。
▲小アト「犬、地を走れば、猿、木へ登る。鼠、桁走れば、猫、きつと見たり。寒中連(かんちゅうれん)。寒(かん)は北、中は中(なか)、連(れん)は連なる。連なる。
{小アト、さし足して、舞台先へ出、アトを招き、シテも共に行く。}
しい。
▲アト「何でおりある。
▲小アト「この者は、仏力神力(ぶつりよくしんりよく)に叶うた者と見えまして、又、座を替へました。
▲アト「何ぢや。又、座を替へたか。
▲小アト「今度は、お前と私との間に、両方をきつと見張つてゐる。とござる。只は、とらへられますまい。欺(だま)してとらへませう程に、ぬからせられな。
▲アト「心得た。
▲小アト「合点の行かぬ。居る筈でござるが。
▲アト「何(いづ)れ、をりさうなものぢやが。
{と云ひて、二人うなづき合ひて、「井杭、井杭」と尋ねる。色々あり。}
▲シテ「扨も、上手かな。これでは、置き出さるゝであらう。致し様がござる。
{と云ひて、算木を皆取り、書物を取り乱して置くなり。}
いかなりとも、これでは知るゝといふ事はあるまい。
▲小アト「何と、をりますか。
▲アト「いゝや、居らぬ。
▲小アト「合点の行かぬ。をる筈でござるが。
▲アト「あゝ、そなたは最前から、いかい上手の様に仰(お)せあつたれども、一切、算が合はぬぞや。
▲小アト「総じて、失物(うせもの)待人(まちびと)。と申して、算置(さんおき)の病(やまひ)に致す。さりながら、今日(けふ)の様に、物がちらちらして、算の置き難(にく)い事はござらぬが。はあ、こなたには、お隙(ひま)でござるによつて、我ら如きを召し寄せられて、なぶらせらるゝさうな。大事の家の書物を取り散らし、その上、置き詰めておいた算木まで取り隠さつせある。これで知れう様がござらぬ。さあさあ、早う算木を出さつせあれ。
▲アト「いや、こゝなやつが。最前から、算の合はぬのみならず、諸侍に難題を云ひかくる。身共はそれへ、指もさしはせぬ。
▲小アト「指もさゝぬと云うて、この内に、こなたと身共より外に、誰(た)があるものぢや。さあさあ、早う出さつせあれ。
{と云ふ内に、アトの天窓(あたま)の上より、算木一本出すなり。}
▲アト「これか。
▲小アト「これか。と云ふ事があるものか。一時(いちどき)に出さつせあれ。
{と云ふ内、又一本、小アトの頭の上より出すなり。}
▲アト「それそれ、そこへも出たわ。
▲小アト「はて、この様にせずとも、いつ時(とき)に出さつせあれ。
{算木をアトへ打ちつけるなり。}
▲アト「あ痛、あ痛。これは、身共に算木を投げ付けるか。
▲小アト「足らぬ算木が投げつけらるゝものか。
{又、小アトへ投げ付けるなり。}
あ痛、あ痛。これは、身共に算木を投げ付けさつせあるか。
▲アト「身共はそれへ、指もさゝぬ。
{と云ふ内、二人の中へ、算木を残らず出すなり。}
そりあ、そりあ。出たわ、出たわ。
▲小アト「六十一本、数の揃うた物を、この様にするといふ事があるものか。
{これよりシテ、両人の鼻を弾き、耳を引き、色々なぶる後に、叩く。シテ、笑ふ。但し、橋かゝりにて笑ふ。仕様、この間、色々口伝。}
▲シテ「扨も扨も、面白い事かな。
▲小アト「今までは、いつ時(とき)の旦那ぢや。と思うて了簡をした。もはや、堪忍がならぬ。
▲アト「算置(さんおき)の分として、諸侍に難題を云ひかくる。もはや、堪忍がならぬ。
{と云ひて、両人、刀に手をかけ、胸ぐらをとりて、「やあやあ」と云ふ。}
▲シテ「これはいかな事。喧嘩になつた。出ずばなるまい。申し申し、まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と待てとは。
▲シテ「お尋ねの井杭は、こゝに居ります。
▲アト「声はすれども姿が見えぬが。どれに居る。
▲シテ「これに居ます。
{と云ひて、頭巾とり、逃げて入るなり。}
▲アト「失物は、あれでござる。
▲小アト「ちやつと捕らへさせられい。
{と云ひて、二人、追ひ込み入るなり。}
校訂者注
1:「卦体(けたい)」は、「易の卦の算木が示す縁起」の意。
2:「陸(ろく)に居る」は、「あぐらをかいて座る」。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
井杭(ヰグヰ)(二番目 三番目)
▲シテ「此あたりに住居致す井杭と申す者で御座る、爰に御目を下さるゝお方が御座る、是へ参れば井杭よう来たとあつて御念頃には仰せらるれ共、参る度毎にあたまをはらせらるゝ、是をうるさう存じて、清水の観世音へ籠つて御座れば、何かは存ぜぬが此様な頭巾を下されて御座る、是は定めてあたまをはらせらるゝ時に、きよとある事でかな御座らう、今日参つて様子を見ようと存ずる、誠に世には変はつた人があるもので御座る、参れば頭をはらせらるゝ、うるさう存じて参らねば身代の為にならず、此やうな迷惑な事は御座らぬ、何彼といふ内に是ぢや{ト云て案内乞出るも如常}▲アト「ゑい井杭、此間は久敷うこなんだが、何としてこなんだぞいやい{ト云て扇子をひろげ頭をたゝくなり}▲シテ「はあ、此間は田舎へ参りまして、夫故お見舞も申しませなんだ▲アト「其様な事とは知らず、たそ人のなか言でこぬ事かと思ふて、いかう案じたわいやい{シテ頭巾きる}{*1}是はいかな事、井杭がどれへやらいた、井杭井杭、今迄爰にいたが{ト云て尋る心色々あるべししかしかも云シテ鼻の先へ指をさしつけ抔{*2}色々可有}▲シテ「是はいかな事、是を被れば見へぬさうな、偖々不思議な事ぢや、あまり尋ねらるゝ出うと存ずる、申し申し是に居ります▲アト「ゑい井杭、汝はどれへいた▲シテ「表に人が逢うと申したに依つてあいに参りました▲アト「是はいかな事、いかに人が逢ふといへばとて、たまたま来てあいにゆくといふ事が有るものか、汝を夫に置くに依つてぢやかう通れ▲シテ「いやも是がよう御座る▲アト「果偖先づかう通れといふに▲シテ「畏つて御座る▲アト「偖汝は田舎へいたといふが、何もかはつた事もなかつたか▲シテ「別にかはつた事も御座りませなんだが、私にかはつた異名を付けました▲アト「何と付けた▲シテ「破れ障子と付けました▲アト「何ぢや破れ障子▲シテ「中々▲アト「是はかはつた異名を付けた、夫には何んぞ仔細があるか▲シテ「私の存じまするは、これ{*3}へ参ればあまりはらせらるゝに依つて、夫でがな付けたもので御座らう▲アト「是はいかな事、それは皆達のわる口といふものぢや、何しに憎うてはらうぞ、皆かあいさのあまりぢやわいやい{ト云て叩く亦頭巾をきる}{*4}是はいかな事、又井杭がどれへやらいた、井杭井杭{ト云て尋ねる}▲シテ「兎角是をきれば見へぬさうな、偖々奇特な事ぢや{以前の通り鼻をさしてアトに付き廻る}▲小アト「占や算占の御用、占や算占の御用、しかも上手です▲アト「いや是へ占屋さんが見へた、呼うで尋ねう▲シテ「占屋さんを呼ばるゝさうな、ちと見物致さう▲アト「なうなう是々▲小アト「此方の事で御座るか▲アト「いかにもそなたの事ぢや、ちと尋たい事がある程に、先づかう通つておくれあれ▲小アト「畏つて御座る、はあ是はお前のお屋敷で御座るか▲アト「成程身共が屋敷でおりある▲小アト「先づは子々孫々万々年もお栄へ被成れう目出たいお家作りで御座る▲アト「余の者がいはゞ其様にも思ふまいが、わごりよ達がおせあれば、身共も悦ぶ事でおりある▲シテ「はやついしやうをぬかしをる▲小アト「私共もむさとは申しませぬ、四神相応の地抔と申して、皆見所があつて申す事で御座る▲アト「さうであらう共、先づ下におゐあれ▲小アト「心得ました、偖お尋成れたいとはいか様の事で御座る▲アト「失物でおりある▲小アト「して夫はいつの事で御座る▲アト「今日只今の事でおりある▲小アト「今日は何月何日、最早何の刻でも御座らうか▲アト「大方其時分でも有らうか▲小アト「先づ手占をおいて見ませう▲アト「どう成共めされ▲小アト「短長見路吟難場、はあ是は生類で御座るぞや▲アト「偖々そなたはいかい上手ぢや、成程生類でおりある▲シテ「いかい上手ぢや、疑ひもない生類です▲小アト「生類で御座りませうが▲アト「中々▲小アト「お言葉にあまへて申すでは御座らねども、私が算がようあうとあつて、有る名は仰せられいで、あり様あり様と仰せらるゝ事で御座る▲アト「さうで有らう共、いかい上手でおりある、迚もの事におり所をさいておくれあれ▲アト「夫は一ツ算おかずばなりますまい▲アト「どうなりともしておくれあれ{ト云て算袋より算木本出すなり}▲小アト「偖私も御門前迄は節々通りますれ共、御用が御座らねば御見舞申した事も御座らぬ、此後は節々お見舞申しませう程に、お目をかけられて下されい▲アト「成程此後は節々お出あれ、心易う致さうぞ▲小アト「偖お前のお年はおいくつで御座る▲アト「身共はいくつでおりある▲小アト「いくつならば何のお年、御一代の守り本尊は何、月の何日を御信心被成ませ▲アト「成程信心するで有らう▲小アト「則ちお前のおけたいは是にあたりまする、当年からは何事も思し召す儘にお叶へ被成れう目出たいおけたいで御座る▲アト「夫は悦ばしい事でおりある▲小アト「さらば一算おきませう▲アト「一段とよからう▲小アト「金生水、水生木、木生火、火生土、土生金、先づは算の表順に相生致いて目出たう御座る{*5}、去ながら、爰に金こく木と克{*6}致いてちとしれにくい所が御座れども、又此方には水生木{*7}とかたらうた所も御座れば追付知れませう、お心易う思し召しませ▲アト「夫は悦ばしい事でおりある▲小アト「一遊魂、二絶命、三禍害、四天医、五福徳、六遊年、七生家、七生家、是はお座敷をはなれたものでは御座らぬ▲アト「いやいや座敷に居て見へぬ物ではないぞや▲小アト「して失物は何で御座る▲アト「人でおりある▲小アト「やあ人で御座るか▲アト「中々▲小アト「是はいかな事、此鏡の表のやうな何処に小隠れもないお座敷に、人が居て見へまいやうは御座らぬ、即ち算の表には、お前の左りの方の座についてゐると御座る▲アト「お見ある通り、身共が左の方には何もなけれども、最前からちと合点のゆかぬ事がある、算の表についてさがして見よう▲小アト「先づさがして御らふじませ▲アト「心得た、井杭井杭{ト云てさがす、シテそつと逃てシテ柱にて云なり}▲シテ「是はいかい上手ぢや、ちと座をかゑう▲小アト「おりますか▲アト「いゝやおらぬ▲小アト「合点の参らぬ事で御座る、夫ならばも一ツ算置きませう▲アト「どうなり共しておくれあれ▲アト「一徳六害の水、二儀七曜の火、三障八難、四絶九疫、五祈祷の土{吟ずる{*8}}はあ是は座をかへました▲アト「何ぢや座をかへたか▲小アト「此度は私が右の方の座について居ると御座る、是も算の表についてさがして御らふじませ▲アト「成程心得た、井杭井杭{ト云てさがすシテ亦そつと逃てしかしか云真中にろくに居る也}▲シテ「是はいかい上手ぢや、又座をかゑう▲小アト「おりますか▲アト「いゝやおらぬ▲小アト「果合点のゆかぬおる筈で御座るが、いや致様が御座る{ト云て算木を二三本ほるなり}▲アト「是は珍敷い算でおりある▲小アト「お前には御奇特にお気が付きました、是は天狗のなげ算と申して、私が家ならで他の家におかぬ算で御座る、是を引ならして知れぬと申す事は御座らぬ、追付しれませう、お心易う思し召しませ▲アト「夫は悦ぶ事でおりある▲小アト「大水出れば堤のよわり、大風吹けば古る家にたゝる、何ときこへた事の▲アト「きこへた事でおりある▲小アト「犬地を走れば猿木へ登る、鼠桁走れば猫急度見たり、寒中連かんは北、中はなか、れんはつらなる、つらなる{小アトさし足して舞台先へ出アトを招きシテも共に行く}{*9}しい▲アト「何んでおりある▲小アト「此者は仏力神力に叶うた者と見へまして、又座をかへました▲アト「何ぢや又座をかへたか▲小アト「今度はお前と私との間に、両方を急度見はつてゐると御座る、唯はとらへられますまい、欺してとらへませう程に、ぬからせられな▲アト「心得た▲小アト「合点のゆかぬ居る筈で御座るが▲アト「何れおりさうなものぢやが{ト云て二人うなづき合て井杭井杭と尋る色々あり{*10}}▲シテ「偖も上手かな、是ではおきださるゝであらう、致しやうが御座る{ト云て算木を皆取り書物を取乱て置なり}{*11}いか成り共、是では知るゝといふ事は有るまい▲小アト「何とおりますか▲アト「いゝや居らぬ▲小アト「合点のゆかぬおる筈で御座るが▲アト「あゝそなたは最前から、いかい上手の様におせあつたれども、一切算があはぬぞや▲小アト「総じて失物待人と申して、算置の病ひに致す去ながら、今日のやうに物がちらちらして、算の置にくい事は御座らぬが{*12}、はあこなたにはお隙で御座るに依つて、我等如きを召し寄せられてなぶらせらるゝさうな、大事の家の書物を取ちらし、其上置つめておいた算木迄取隠さつせある、是で知れう様が御座らぬ、さあさあ早う算木を出さつせあれ▲アト「いや爰なやつが、最前から算の合はぬのみならず、諸侍に難題をいひかくる、身共は夫へ指もさしはせぬ▲小アト「ゆびもさゝぬといふて、此内に此方と身共より外にたがあるものぢや、さあさあ早う出さつせあれ{ト云ふ内にアトの天窓の上より算木一本出すなり}▲アト「是か▲小アト「是かといふ事が有るものか、いち時に出さつせあれ{ト云内亦一本小アトの頭の上より出す也}▲アト「それそれそこへも出たわ▲小アト「果此様にせずとも一ツ時に出さつせあれ{算木をアトへ打つけるなり}▲アト「あいたあいた、是は身共に算木を投げ付けるか▲小アト「たらぬ算木が投げつけらるゝものか{亦小アトへ投付るなり}{*13}あいたあいた、是は身共に算木を投つけさつせあるか▲アト「身共は夫へ指もさゝぬ{ト云内二人の中え算木を残らず出すなり}{*14}そりあそりあ出たわ出たわ▲小アト「六拾一本数の揃ふた物を、此様にするといふ事があるものか{是よりシテ両人の鼻をはじき耳を引色々なぶる後に叩シテ笑ふ但し橋かゝりにて笑仕様此間色々口伝}▲シテ「偖も偖も面白い事かな▲小アト「今迄は一ツ時の旦那ぢやと思ふて了簡をした、最早堪忍がならぬ▲アト「算置の分として諸侍に難題をいひかくる、最早堪忍がならぬ{ト云て両人刀に手をかけ胸ぐらをとりてやあやあと云ふ}▲シテ「是はいかな事、喧嘩に成つた、出ずば成まい、申し申し先づおまち被成ませ▲アト「何とまてとは▲シテ「お尋ねの井杭は爰に居ります▲アト「声はすれ共姿が見へぬがどれに居る▲シテ「是に居ます{ト云て頭巾とり逃て入るなり}▲アト「失物はあれで御座る▲小アト「ちやつと捕へさせられい{ト云て二人追込入なり}
校訂者注
1・4・14:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
2:底本は、「杯」。
3:底本は、「此方(これ)」。
5:底本は、「金性水(きんじやうすゐ)、水性木、木性火(もくじやうくわ)、火性土、土性金(どじやうきん)、先づは算(さん)の表順に双調(さうじよう)致(いた)いて目出たう御座る」。
6:底本は、「克(こ)く」。
7:底本は、「水性木」。
8:底本は、「吟する」。
9・13:底本、全て「▲小アト「」がある(全て略)。
10:底本は、「色々ある」。
11:底本、ここに「▲シテ「」がある(略す)。
12:底本は、「御座らぬか」。
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