芥川(あくたがは)(二番目)
▲アト「この辺りの者でござる。承れば、生田の八幡に御遷宮があつて、大参りぢや。と申す、某(それがし)も参らう。と存ずる。誠に、身共は生まれ付いての片輪ではなけれども、伜の時分、高い所から落ちて、かやうなちんばとなつてござる。この事も祈誓致さう。と存ずる。いや、これまで来たれば、いかう草臥(くたび)れた。暫くこの処に休らうで、似合(にあは)しい者も通らば、言葉を掛けて同道致さう。と存ずる。
▲シテ「この辺りの者でござる。承れば、生田の八幡に御遷宮があつて、大参りぢや。と申す。某も参らう。と存ずる。誠に、某は生まれ付いての片輪ではござらねども、伜の時分、ふと手を患(わづら)うて、かやうな生姜手(しやうがて)となつてござる。この事も祈誓致さう。と存ずる。
▲アト「いや、これへ、一段の者が参つた。言葉を掛けう。なうなう、これこれ。
▲シテ「この方の事でおりあるか。
▲アト「成程、そなたの事ぢや。わごりよは、どれからどれへお行きある。
▲シテ「身共は、生田の八幡へ参る者ぢやが、何ぞ用でばし、おりあるか。
▲アト「身共も生田の八幡へ参る者ぢやが、何と、同道召されまいか。
▲シテ「幸ひ、ひとりで連れ欲しう存じた。成程、同道致さう。
▲アト「それならば、わごりよからお行きあれ。
▲シテ「何が扨、わごりよが先(せん)ぢや。まづ、わごりよからお行きあれ。
▲アト「何の。これに、先(せん)の後(ご)のと云ふ事はない。まづ、そなたからお行きあれ。
▲シテ「それならば、身共から行かう。
▲アト「一段と良からう。
▲シテ「さあさあ、おりあれ。
▲アト「心得た。扨、ふと言葉を掛けたに早速同心召されて、この様な悦ばしい事はない。
▲シテ「連れには、似合うたもあり、又似合はぬもあるものぢやに、そなたと身共は、似合うた良い連れでおりある。
▲アト「わあ、これは大きな川へ出た。
▲シテ「わごりよはこの川を知らぬか。
▲アト「いゝや、知らぬ。
▲シテ「これは、芥川と云うて、この川を渡らねば、生田の八幡へは参られぬが。
▲アト「何ぢや。この川を渡らねば、生田の八幡へは参られぬか。
▲シテ「中々。身共は、もはや渡るぞ。ゑい、ゑい。
{と云つて渡る。アト、後よりひよろひよろして渡る。シテ、ちんばを見て笑ふ。}
▲アト「これは、苦々しい所へ来た。と云うても、渡らずばなるまい。ゑい、ゑい。これは、いかう深い。石がすべる。ゑい、ゑい。
▲シテ「《笑》最前から、きやつが後(あと)へ下がると思へば、ちんばぢや。
{と云つて笑ふ。}
何と、渡らしましたか。
▲アト「やうやうと渡つておりある。
▲シテ「扨、そなたに今逢うて、又いつ逢はうも知れぬによつて、身共は歌を一首詠まう。と思ふが、何とあらう。
▲アト「これは、一段と良からう。
▲シテ「それならば、かうもあらうか。
▲アト「何と。
▲シテ「津の国の、難波入江に来て見れば、あしの下(もと)こそ可笑しかりけれ。
▲アト「これは、いかう出来たわ。
▲シテ「はあ。わごりよはこの歌に気が付かぬか。これは、あしの下(もと)。で持つた歌ぢや。
{と云つて、吟じて笑ふなり。}
▲アト「南無三宝。身共が足を見付けをつたさうな。扨々、苦々しい事ぢや。なうなうなう、そこな人。
▲シテ「何事ぢや。
▲アト「足の下(もと)、足の下(もと)。と、もう良うおりある。
▲シテ「身共が歌を吟ずれば、そなたはいかう腹をお立ちあるの。
▲アト「いや、腹は立たぬが。かう行く道に、この様な奇麗な水が、あらうもあるまいも知れぬによつて、身共はこゝで、手水を使うて行かう。と思ふが、何とあらう。
▲シテ「これは、一段と良からう。さりながら、互にとばしるがかゝれば悪いによつて、つゝと退(の)いて使はう。
▲アト「一段と良からう。
▲シテ「さあさあ、使はしめ。
▲アト「心得た。扨も扨も、奇麗な水ぢや。
▲シテ「扨々、奇麗な水かな。この様な奇麗な水はあるまい。心がせいせいとする。
{と云つて、互に手水を使ふ。アト、そつとのぞきて行く。シテの生姜手を見付けて笑ふなり。口伝。}
▲アト「最前から、きやつが一方の手を出さぬ。と思へば、生姜手ぢや。
{と云つて笑ふ。}
何と使はしましたか。
▲シテ「やうやうと使うておりある。
▲アト「扨、最前の歌が、あまり良う出来たによつて、身共は今の返歌をせう。と思ふが、何とあらう。
▲シテ「あの、今の、足の下(もと)の返歌か。
▲アト「中々。
▲シテ「これは、一段と良からう。
▲アト「かうもあらうか。
▲シテ「何と。
▲アト「芥川塵かき流す手を見れば、足の下(もと)より猶ぞ可笑しき。
▲シテ「これも、一段と出来たさうな。
▲アト「はあ。わごりよもこの歌に気が付かぬさうな。これは、手を見れば。で持つた歌ぢや。
{と云つて笑ふ。吟ずるなり。}
▲シテ「南無三宝。身共が手を見付けをつたさうな。いや、なうなう。それよりは、足の下(もと)こそ可笑しかりけれ。
▲アト「それよりは、手を見れば。
▲シテ「足の下(もと)。
▲アト「手を見れば。
{と云つて、互に云ひ合ひて、笑ふなり。}
▲シテ「なうなうなう、そこな人。
▲アト「何ぢや。
▲シテ「最前から、手を見れば、手を見れば。と仰(お)せあるが、身共が何とした。
▲アト「何ともせぬが、生姜手ぢや。
{と云つて笑ふ。シテ、左の手を出して、}
▲シテ「どこに、これが生姜手ぢや。
▲アト「いやいや、そちらではない。こちらの手を出せ。
▲シテ「こちらぢや。と云うて、出し兼ねうか。そりや、出した。
{と云つて、左の手を右の方へ廻して出し、見せるなり。}
▲アト「これは、身共が誤つた。もう一度、そちらの手を出して見せい。
▲シテ「幾度なりとも出して見せう。そりや、出した。
▲アト「取つたぞ。
{と云つて、左の手を取り、下(しも)の方へ引き廻して、}
▲シテ「こりや、何とする。
▲アト「さあ、そちらの手を出せ。
▲シテ「こちらは最前出した。
▲アト「そりや。生姜手ぢやによつて、え出さぬわ。
▲シテ「生姜でなくば、何とする。
▲アト「存分にせい。
▲シテ「存分にするぞよ。
▲アト「おゝおゝ。存分にならうとも。
▲シテ「出すぞよ。
▲アト「出せ。
▲シテ「出すぞよ。
▲アト「出せ。
▲シテ「そりや、出した。
▲アト「そりや、生姜ぢや。
▲シテ「やいやいやい、そこな奴。
▲アト「何ぢや。
▲シテ「どこに、これが生姜ぢや。これは、薑(はじかみ)と云ふものぢやわいやい。
▲アト「生姜も薑も、同じ事ぢや。生姜よ、生姜よ。
▲シテ「あの横着者、やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云つて、追ひ込み入るなり。}
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
芥川(アクタガワ)(二番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、承れば生田の八幡に御遷宮があつて、大参りぢやと申す、某も参らうと存ずる、誠に、身共は生れついての片輪では無けれ共、忰の時分高い所から落て、斯様なちんばと成つて御座る、此事も祈誓致さうと存ずる、いや是迄来たればいかう草臥た、暫く此処に休らうで、似合しい者も通らば、言葉を掛けて同道致さうと存ずる▲シテ「此辺りの者で御座る、承れば生田の八幡に御遷宮があつて、大参ぢやと申す、某も参らうと存ずる{*1}、誠に、某は生れついての片輪では御座らね共、忰の時分ふと手をわづらうて、斯様な生姜手と成つて御座る、此事も祈誓致さうと存ずる▲アト「いや是へ一段の者が参つた、言葉を掛う、なうなう是々▲シテ「此方の事でおりあるか▲アト「成程そなたの事ぢや、わごりよはどれからどれへおゆきある▲シテ「身共は生田の八幡へ参る者ぢやが、何ぞ用でばしおりあるか▲アト「身共も生田の八幡へ参る者ぢやが、何と同道召されまいか▲シテ「幸ひ独りでつれほしう存じた、成程同道致さう▲アト「夫ならばわごりよからお行あれ▲シテ「何が扨わごりよが先ぢや、先わごりよからお行あれ▲アト「なんの是に先の後のと云ふ事はない、先そなたからお行あれ▲シテ「夫ならば身共からゆかう▲アト「一段とよからう▲シテ「さあさあおりあれ▲アト「心得た、扨ふと言葉を掛けたに、早速同心召されて、此様な悦ばしい事はない▲シテ「つれには似合うたもあり、又似合はぬもある者ぢやに、そなたと身共は似合うたよいつれでおりある▲アト「わあ是は大きな川へ出た▲シテ「わごりよは此川をしらぬか▲アト「いゝや知らぬ▲シテ「是は芥川と云うて、此川を渡らねば、生田の八幡へは参られぬが▲アト「何ぢや此川を渡らねば生田の八幡へは参られぬか▲シテ「中々身共は最早渡るぞ、ゑいゑい{ト云つて渡るアト後よりひよろひよろして渡る、シテちんばを見て笑ふ}▲アト「是はにがにがしい所へ来た、と云うても渡らずば成るまい、ゑいゑい、是はいかう深い、石がすべる、ゑいゑい▲シテ「《笑》最前からきやつが後へ下ると思へばちんばぢや{ト云つて笑ふ}{*2}なんと渡らしましたか▲アト「漸と渡つておりある▲シテ「扨そなたに今逢うて又いつ逢はうも知れぬに依つて、身共は歌を一首詠まうと思ふが何と有らう▲アト「是は一段とよからう▲シテ「夫ならばかうも有らうか▲アト「何と▲シテ「津の国の、難波入江に来て見れば、あしの下こそ可笑かりけれ▲アト「是はいかう出来たは▲シテ「はあ、わごりよ{*3}は此歌に気が付かぬか、是は足の元でもつた歌ぢや{ト云つて吟じて笑ふなり}▲アト「南無三宝身共が足を見付けおつたさうな、扨々にがにがしい事ぢや、なうなうなうそこな人▲シテ「何事ぢや▲アト「足の元足の元と、まふようおりある▲シテ「身共が歌を吟ずれば、そなたはいかう腹をお立ちあるの▲アト「いや腹はたゝぬが、かう行く道に此様な奇麗な水が有らうも有るまいも知れぬに依つて、身共は爰で手水を使うて行かうと思ふが何と有らう▲シテ「是は一段とよからう、乍去、互にとばしるがかゝればわるいに依つて、つつとのいて{*4}使おう▲アト「一段とよからう▲シテ「さあさあ使はしめ▲アト「心得た、扨も扨も奇麗な水ぢや▲シテ「扨々奇麗な水かな、此様な奇麗な水はあるまい、心がせいせいとする{ト云つて互に手水を使ふ、アトそつとのぞきて行く、シテの{*5}生姜手を見付けて笑ふなり口伝}▲アト「最前からきやつが一方の手を出さぬと思へば生姜手ぢや{ト云つて笑ふ}何と使はしましたか▲シテ「漸と使うておりある▲アト「扨最前の歌があまりよう出来たに依つて、身共は今の返歌をせうと思ふが何と有らう▲シテ「あの今の足の本の返歌か▲アト「中々▲シテ「是は一段とよからう▲アト「かうも有らうか▲シテ「何と▲アト「芥川ちりかき流す手を見れば、足の元より猶ぞおかしき▲シテ「是も一段と出来たさうな▲アト「はあ、わごりよも此歌に気が付かぬさうな、是は手を見ればでもつた歌ぢや{ト云つて{*6}笑ふ吟ずるなり}▲シテ「南無三宝身共が手を見付けおつたさうな、いやなうなう夫よりは足の元こそおかしかりけれ▲アト「夫よりは手を見れば▲シテ「足の元▲アト「手を見れば{ト云つて互に云合て笑ふ也}▲シテ「なうなうなうそこな人▲アト「何ぢや▲シテ「最前から手を見れば手を見ればとおせあるが、身共が何とした▲アト「何ともせぬが生姜手ぢや{ト云つて笑ふシテ左りの手を出して}▲シテ「どこに是が生姜手ぢや▲アト「いやいやそちらではない、こちらの手を出せ▲シテ「こちらぢやと云うて出し兼うかそりや出した{ト云つて左りの手を右の方え廻して{*7}出し見せるなり}▲アト「是は身共があやまつた、最一度そちらの手を出して見せい▲シテ「幾度なり共出して見せう、そりや出した▲アト「取つたぞ{ト云つて左りの手を取り、下もの方へ引廻して}▲シテ「こりや何とする▲アト「さあそちら{*8}の手を出せ▲シテ「こちらは最前出した▲アト「そりや生姜手ぢやに依つて得出さぬわ▲シテ「生姜でなくば何とする▲アト「存分にせい▲シテ「存分にするぞよ▲アト「おゝおゝ存分に成らう共▲シテ「出すぞよ▲アト「出せ▲シテ「出すぞよ▲アト「出せ▲シテ「そりや出した▲アト「そりや生姜ぢや▲シテ「やいやいやいそこな奴▲アト「何ぢや▲シテ「どこに是が生姜ぢや、是は薑と云ふ者ぢやわいやい▲アト「生姜も薑もおなじ事ぢや、生姜よ生姜よ▲シテ「あの横着者やるまいぞやるまいぞ{ト云つて追込入るなり}
校訂者注
1:底本は、「存する」。
2:底本、ここに「▲シテ「」がある(略)す。
3:底本は、「はあ、ごりよは」。
4:底本は、「のいで」。
5:底本は、「シテ生姜手を見付けて」。
6:底本は、「ド云つて」。
7:底本は、「廻しで」。
8:底本は、「そちの手」。
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