膏薬煉(かうやくねり)(二番目)

▲アト「これは、鎌倉に隠れもない。膏薬煉りの大名人でござる。某(それがし)が膏薬程、世に強い膏薬はあるまい。と存ずる所に、又、上方にも強い膏薬を煉り出す。と承つてござるによつて、この度尋ねて上(のぼ)り、膏薬を吸はせ比べて見よう。と存ずる。誠に、某の膏薬程、世に強い膏薬はあるまい。と存ずれば、又、上方にも強い膏薬を煉り出す。と申せば、油断のならぬ事でござる。いや、これまで来たれば、いかう草臥(くたび)れた。暫くこの所に休らうで参らう。と存ずる。
▲シテ「これは、上方に隠れもない、膏薬煉りの大名人でござる。某が膏薬程、世に強い膏薬はあるまい。と存ずる所に、又、鎌倉にも強い膏薬を煉り出す。と承つてござるによつて、この度尋ねて下(くだ)り、膏薬を吸はせ比べて見よう。と存ずる。誠に、商売の習ひでござるによつて、そつとも油断は致さねども、又、鎌倉にも強い膏薬を煉り出す。と申せば、中々油断のならぬ事でござる。参つたらば、大方様子が知るゝでござらう。
▲アト「はて、異な事の。俄(には)かに松脂臭(まつやにくさ)うなつた。
▲シテ「これはいかな事。これまで来たれば、俄かに松脂臭うなつた。
▲アト「あれあれ、しきりに匂ふ。どこに松脂を取り扱ふ事ぢや知らぬ。しきりに匂ふ。
{このしかじか、アトの通り。シテと替はり替はりに云つて、手にて煙を取つて見て、段々傍へ寄り、行き当たるなり。}
やい、そこなやつ。
▲シテ「何ぢや。
▲アト「この広い街道を避(よ)けては通らいで、人に行き当たる。といふ事があるものか。
▲シテ「いや、こゝな者が。この方からこそ云ひ分があれ。この広い街道を避(よ)けては通らいで、人に行き当たる。まづ、汝は何者ぢや。
▲アト「身共を知らぬか。
▲シテ「いゝや、知らぬ。
▲アト「身共は鎌倉に隠れもない、膏薬煉りの大名人ぢや。
▲シテ「あの、そなたがや。
▲アト「中々。
▲シテ「して何と。
▲アト「某が膏薬程、世に強い膏薬はあるまい。と存ずる所に、又、上方にも強い膏薬を煉り出す。と聞いたによつて、この度尋ねて上り、膏薬を吸はせ比べて見よう。と思うて、これまで来たれば、俄かに松脂臭うなつて、今わごりよに行き当たつた事でおりある。
▲シテ「扨は、さうでおりあるか。身共は上方に隠れもない、膏薬煉りの大名人でおりある。
▲アト「あの、そなたがや。
▲シテ「中々。
▲アト「して何と。
▲シテ「某が膏薬程、世に強い膏薬はあるまい。と存ずる所に、又、鎌倉にも強い膏薬を煉り出す。と聞いたによつて、この度尋ねて下り、膏薬を吸はせ比べて見よう。と思うて、これまで来たれば、俄かに松脂臭うなつて、今わごりよに行き当たるをも知らなんだ。
▲アト「扨は、さうでおりあるか。こゝで逢うたこそ、幸ひなれ。暫くこの所に逗留して、互に系図をも語り、薬種をも明かし合ひ、その後(のち)、膏薬を吸はせ比べて見よう。と思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「それは、身共が望む所ぢや。一段と良からう。
▲アト「それならば、まづ下にお居あれ。
▲シテ「心得た。
▲アト「扨、そなたの系図を語らしめ。
▲シテ「まづ、そなたの系図から語らしませ。
▲アト「それならば語らう程に、ようお聞きあれ。
▲シテ「心得た。
▲アト「《語》扨も、鎌倉殿の御時、生食(いけずき)といふ御秘蔵の名馬があつた。何とかしつらう、このお馬が放れた。何が、大きな馬ではあり、癇は強し、雲を割つて駈くる。諸人、これを見て、何となる事ぢや。と云へども、何ともならず。早、お馬は遠うなつて、やうやうと、犬程に見えた。
▲シテ「はあん。
▲アト「犬程に見えたものが猫程になり、猫程に見えたものが雀程になつた。その時、身共が先祖が通り合はせて、あの馬を留めたう思し召さば、某一人して留めて参らせうずるものを。と申し上げたれば、諸人、一度にどつと笑はせられた。
▲シテ「さうであらうとも。
▲アト「いやいや、さのみな笑はせられそ。さらば、留めて参らせう。と申して、腰なる胴乱より、かの膏薬を取り出だし、わずか山桝の芽程引きちぎり、指の腹に付けて、息をほつとしかけ、かの馬にじつと向かはせたれば、何と強い膏薬ではないか。
▲シテ「何とであつた。
▲アト「そつとも向かうへ歩(あゆ)む事がならぬ。雀程に見えたものが猫程になり、猫程に見えたものが犬程になり、吸ふ程に吸ふ程に、ずるずるぴつたりと吸ひ寄せて、さあ、繋(つな)がせられい。と云うたれば、諸人、肝をつぶさせられた。
▲シテ「さうであらうとも。
▲アト「御感のあまりに、その膏薬の銘は何とあるぞ。と仰せられたによつて、未だ定まる銘もござらぬ。と申し上げたれば、馬吸(ばすひ)膏薬。と銘を下され、膏薬司(つかさ)を頂戴したが、何と、聞き事な系図ではないか。
▲シテ「扨々、聞き事な系図でおりある。身共がのは、それ程にはあるまいけれども、語らう程に、ようお聞きあれ。
▲アト「心得た。
▲シテ「《語》昔、禁中において、清涼殿の東の方にお庭を造らせらるゝ。或る人奏聞申すは、比叡山の麓に見事なる大石(たいせき)のある由、申し上ぐる。さらば、その石曳け。とあつて、国々在々よりの八千人の人足を以つて、やうやう内裏の築地までは曳き寄せたれども、大石なれば御門は通らず、築地を持ち越す事がならぬ。その時、身共が先祖、通り合はせて、あの石を入れたう思し召さば、某一人して入れて参らせうずるものを。と申し上げたれば、公卿・殿上人、一度にどつと笑はせられた。
▲アト「さうであらうとも。
▲シテ「いやいや、さのみな笑はせられそ。さらば、入れて参らせうずる。とて、腰なる火打袋より、かの膏薬を取り出だし、わずか芥子粒程引きちぎり、指の腹に付けて、息をほつとしかけ、かの石にじつと向かはせたれば、何ぼう強い膏薬ではないか。
▲アト「何とした。
▲シテ「むつくりむつくりと地離れがして、難なく築地を持ち越した。とてもの事に、置き所をも好ませられい。と云うて、お好みの所まで吸はせて行(い)て、下にどう。と置いたれば、大地震の揺(ゆ)る如くであつた。
▲アト「さうであらうとも。
▲シテ「なのめならず御感のあまり、石吸(せきすひ)膏薬と銘を下され、膏薬司を頂戴した。今のその石が内裏にあるが、その時の膏薬かぶれの跡が、少し残つて見ゆる。と云ふが、なんと聞き事な系図ではないか。
▲アト「これも、聞き事な系図でおりある。して、わごりよの薬種には、何を使ふぞ。
▲シテ「まづ、わごりよの薬種には何を使ふぞ。
▲アト「身共が薬種には、別に変つた物は無いが。まづ、雷のまつげ。
▲シテ「むう。
▲アト「海に生(は)へる竹の子。
▲シテ「ほい。
▲アト「蚤の牙の一尺八寸あるの。
▲シテ「したり。
▲アト「まづ、この様な物を使ふ事でおりある。
▲シテ「それは、珍しい薬種でおりある。
▲アト「して、そなたの薬種には何を使ふぞ。
▲シテ「身共が薬種も、別に変つた物もないが。まづ、空を飛ぶ胴亀。
▲アト「ほい。
▲シテ「榎になつた蛤。
▲アト「むう。
▲シテ「六月の十三日に降つた雪の黒焼き。
▲アト「したり。
▲シテ「その外、家伝の薬種が二、三味も入る事でおりある。
▲アト「扨々、珍しい薬種でおりある。この上は、膏薬を吸はせ比べて見よう。と思ふが、何とあらう。
▲シテ「一段と良からうが、して、どこに付けて吸はせうぞ。
▲アト「先祖も指の腹であつた程に、この度も、指の腹に付けて吸はせうか。
▲シテ「成程、尤もなれども、総じて人間の身に、鼻程強いものは無い。と云ふ。鼻に付けて吸はせうではないか。
▲アト「これは、一段と良からう。
▲シテ「それならば、まづ身拵へを召され。
▲アト「心得た。
{と云つて、両人、大小の前にて鼻に紙を付け、袖にて隠して、両人出る。}
▲シテ「拵へが良くば、あれへお出あれ。
▲アト「心得た。
▲シテ「さらば、膏薬を向かはせう。
▲アト「一段と良からう。
{と云つて、互に顔を見合はせ、「やあやあ」と云つて、アトの方より引く。仕方、口伝なり。}
▲アト「まづ、鎌倉の方へ吸ひ寄せて見せう。
▲シテ「いかないかな、吸ひ寄せらるゝ事ではないぞ。
▲アト「吸ひ寄せて見せう。
{「やつとな、やつとな」と云つて、アト引く事、三度あり。シテは、「何とする」と云つて、ひよろひよろとして引かるゝなり。}
▲アト「何と、何と。
▲シテ「これは、強い膏薬ぢや。今度は、上方の方へ吸ひ戻して見せう。
▲アト「いかないかな、吸ひ戻さるゝ事ではないぞ。
▲シテ「吸ひ戻して見せう。
{と云つて、吸ひ戻す事、三度なり。同断。扨、ねぢゆがめる事、互にあり。しやくり引きにする事三度、互にあるべし。何(いづ)れも、しかじかなり。仕様も工夫あるべし。後のしやくり引きにて、アトこける。仕方、口伝なり。}
▲アト「南無薬師。
▲シテ「勝つたぞ、勝つたぞ。
▲アト「やいやい。まづ、待て待て。
▲シテ「何と待てとは。
▲アト「今のは、負けたのではない。足の裏に松脂が付いて、すべりこけたのぢやわいやい。
▲シテ「あの卑怯者、勝つたぞ、勝つたぞ。
▲アト「もう一度戻つて勝負をせい。
▲シテ「なるまいぞいやい、なるまいぞいやい。
▲アト「あの横着者、やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云つて、アト、追ひ込み入るなり。}

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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膏薬煉(コウヤクネリ)(二番目)

▲アト「是は鎌倉に隠もない、膏薬煉の大名人で御座る、某が膏薬程世に強い膏薬は有るまいと存ずる所に、又上方にも強い膏薬を煉り出すと承つて御座るに依つて此度尋ねて上り、膏薬をすはせくらべて見ようと存ずる、誠に、某の膏薬程、世に強い膏薬は有るまいと{*1}存ずれば、又上方にも強い膏薬を煉出すと申せば、油断のならぬ事で御座る、いや是迄きたればいかう草臥た、しばらく此所に休らうで参らうと存ずる▲シテ「是は上方に隠もない、膏薬煉の大名人で御座る、某が膏薬程、世に強い膏薬は有るまいと存ずる所に、又鎌倉にも強い膏薬を煉出すと承つて御座るに依つて、此度尋ねて下り、膏薬をすはせくらべて見ようと存ずる、誠に、商売の習ひで御座るに依つて、そつとも油断は致さね共、又鎌倉にも強い膏薬を煉出すと申せば、中々油断のならぬ事で御座る、参つたらば大方様子が知るゝで御座らう▲アト「果異な事の、俄に松脂くさうなつた▲シテ「是はいかな事、是迄来たれば俄に松脂くさう成つた▲アト「あれあれしきりに匂う、どこに松脂を取扱う事ぢや知らぬ、しきりに匂う{此しかしかアトの通りシテと替り替りに云つて手にて煙を取つて見て、段々そばへより、行当るなり}{*2}やいそこなやつ▲シテ「何ぢや▲アト「此広い街道をよけては通らいで、人に行当ると云ふ事が有る者か▲シテ「いや爰な者が、此方からこそ云ひ分があれ、此広い街道をよけては通らいで、人に行当る、先づ汝は何者ぢや▲アト「身共を知らぬか▲シテ「いゝや知らぬ▲アト「身共は鎌倉に隠もない膏薬煉の大名人ぢや▲シテ「あのそなたがや▲アト「中々▲シテ「して何と▲アト「某が膏薬程、世に強い膏薬は有るまいと存ずる所に、又上方にも強い膏薬を煉出すときいたに依つて、此度尋ねて上り、膏薬をすはせくらべて見ようと思ふて是迄きたれば、俄に松脂くさうなつて、今わごりよに行き当つた事でおりある▲シテ「扨はさうでおりあるか、身共は上方に隠れもない膏薬煉の大名人でおりある▲アト「あのそなたがや▲シテ「中々▲アト「して何と▲シテ「某が膏薬程、世に強い膏薬は有るまいと存ずる所に、又鎌倉にも強い膏薬を煉出すと聞いたに依つて、此度尋ねて下り、膏薬をすはせくらべて見ようと思うて、是迄来たれば俄に松脂くさう成つて、今わごりよに行当るをも知らなんだ▲アト「扨はさうでおりあるか、爰で逢ふたこそ幸なれ、暫此所に逗留して互に系図をも語り、薬種をもあかし合ひ、其後膏薬を、すはせくらべて見ようと思ふが、何とあらうぞ▲シテ「夫は身共が望む所ぢや、一段とよからう▲アト「夫ならば先づ下にお居あれ▲シテ「心得た▲アト「扨そなたの系図を語らしめ▲シテ「先づそなたの系図から語らしませ▲アト「夫ならば語らう程によう御聞あれ▲シテ「心得た▲アト「《語》扨も鎌倉殿の御時、生食と云ふ御秘蔵の名馬があつた、何とかしつらう、此お馬がはなれた、何が大きな馬ではあり、癇は強し、雲をわつてかくる、諸人是を見て、何と成る事ぢやといへ共何共ならず、早お馬は遠う成つて漸と犬程に見えた▲シテ「はあん▲アト「犬程に見えた者が猫程になり、猫程に見えた者が雀程になつた、其時身共が先祖が通りあはせて、あの馬を留たう思し召さば、某一人して留て参らせうずる者をと申し上げたれば、諸人一度にどつと笑はせられた▲シテ「さうで有らう共▲アト「いやいやさのみな笑はせられそ、さらば留めて参らせうと申して、腰なるどうらんより、かの膏薬を取り出し、わずか山桝の芽ほどひきちぎり、指の腹につけて、いきをほつとしかけ、かの馬に、じつとむかはせたれば、何と強い膏薬ではないか▲シテ「何とであつた▲アト「そつとも向うへあゆむ事がならぬ、雀程に見えた者が猫程になり{*3}、猫程に見えた者が犬程になり、吸う程に吸う程に、ずるずるぴつたりと吸ひよせて、さあつながせられいと云ふたれば、諸人肝をつぶさせられた▲シテ「さうで有らう共▲アト「御感のあまりに其膏薬の銘は何と有るぞと仰られたに依つて、未定る銘も御座らぬと申し上げたれば、馬吸ひ膏薬と銘を下され、膏薬司を頂戴したが、何と聞事な系図ではないか▲シテ「扨々聞事な系図でおりある、身共がのは夫程には有るまいけれ共、語らう程にようお聞あれ▲アト「心得た▲シテ「《語》昔禁中において、清涼殿の東の方にお庭を造らせらるゝ、或人奏聞申すは、比叡山の麓に見事なる大石のある由申し上ぐる、さらば其石曳けとあつて、国々在々よりの、八千人の人足を以つて{*4}、漸内裏の築地迄は曳き寄せたれ共、大石なれば御門は通らず、築地を持越す事がならぬ、其時身共が先祖通り合はせて{*5}、あの石を入れたう思し召さば、某一人して入れて参らせうずる者を、と申し上げたれば、公卿{*6}殿上人一度にどつと笑はせられた▲アト「さうで有らう共▲シテ「いやいやさのみな笑はせられそ、さらば入れて参らせうずるとて、腰なる火打袋よりかの膏薬を取り出し、わずか芥子粒程引きちぎり、指の腹につけて、いきをほつとしかけ、かの石にじつと向はせたれば、何ぼう強い膏薬ではないか▲アト「何とした▲シテ「むつくりむつくりと地ばなれがして、なんなく築地を持ち越した、迚もの事に置き所をもこのませられいと云ふて、お好みの所まですはせていて、下にどうと置いたれば、大地震のゆる如くであつた▲アト「さうで有らう共▲シテ「なのめならず御感のあまり、石すい膏薬と銘を下され膏薬司を頂戴した、今の其石が内裏に有るが、其時の膏薬かぶれの跡がすこし残つて見ゆると云ふが、なんと聞事な系図ではないか▲アト「是も聞事な系図でおりある、してわごりよの薬種には何を使うぞ▲シテ「先わごりよの薬種には何を使うぞ▲アト「身共が薬種には別に変つた者は無が、先づ雷の睫げ▲シテ「むう▲アト「海に生る竹の子▲シテ「ほい▲アト「蚤の牙の一尺八寸あるの▲シテ「したり▲アト「先此様な物を使う事でおりある▲シテ「夫は{*7}珍らしい薬種でおりある▲アト「してそなたの薬種には何を使うぞ▲シテ「身共が薬種も別に変つた物もないが、先づ空を飛ぶどう亀▲アト「ほい▲シテ「榎に成つた蛤▲アト「むう▲シテ「六月の十三日に降つた雪の黒焼▲アト「したり▲シテ「其外家伝の薬種が二三味も入る事でおりある▲アト「扨々珍ら敷い薬種でおりある、此上は膏薬をすはせくらべて見ようと思ふが何と有らう▲シテ「一段とよからうが、してどこに付けてすはせうぞ▲アト「先祖も指の腹であつた程に、此度も指の腹に付けてすはせうか▲シテ「成程尤もなれ共、総じて人間の身に、鼻程強い者は無いと云ふ、鼻に付けて吸はせうではないか▲アト「是は一段とよからう▲シテ「夫ならば先づ身拵を召され▲アト「心得た{ト云つて両人大小の前にて鼻に紙を付け袖にて隠して両人出る}▲シテ「拵がよくばあれへお出あれ▲アト「心得た▲シテ「さらば膏薬を向はせう▲アト「一段とよからう{ト云つて互に顔を見合せやあやあと云つてアトの方より引く、仕方口伝なり}▲アト「先づ鎌倉の方へ吸いよせて見せう▲シテ「いかないかな吸いよせらるゝ事ではないぞ▲アト「吸いよせて見せう{やつとなやつとなと云つてアト引く事三度ありシテは何とすると云つてひよろひよろとして引かるゝなり}▲アト「なんとなんと▲シテ「是は強い膏薬ぢや、今度は上方の方へ吸い戻して見せう▲アト「いかないかな吸い戻さるゝ事ではないぞ▲シテ「吸ひ戻して見せう{ト云つて吸ひ戻す事三度なり同断、扨ねぢゆがめる{*8}事互にあり、しやくり引きにする事三度互に有るべし何もしかしか也{*9}仕様も工夫あるべし、後のしやくり引にてアトこける仕方、口伝なり}▲アト「南無薬師▲シテ「勝つたぞ勝つたぞ▲アト「やいやい先づまてまて▲シテ「何とまてとは▲アト「今のは負たのではない、足の裏に松脂が付いてすべりこけたのぢやわいやい▲シテ「あの卑怯者勝つたぞ勝つたぞ▲アト「最一度戻つて勝負をせい▲シテ「成るまいぞいやい成るまいぞいやい▲アト「あの横着者やるまいぞやるまいぞ{ト云つてアト追込み入るなり}

校訂者注
 1:底本は、「有るまい存ずれば」。
 2:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 3:底本は、「猫程なり」。
 4:底本は、「人足を持つて」。
 5:底本は、「合せはて」。
 6:底本は、「公郷(くげう)」。
 7:底本は、「其(それ)は」。
 8:底本は、「ねぢゆかめる」。
 9:底本は、「しか(二字以上の繰り返し記号)か也(二字以上の繰り返し記号)」。