隠狸(かくしだぬき)(二番目)
▲アト「この辺りの者でござる。某(それがし)、一人召し遣ふ下人が、狸を釣る。と承つてござる。呼び出し、様子を尋ねう。と存ずる。
{と云つて、呼び出す。出るも、常の如し。}
汝呼び出す、別の事でない。聞けば、汝は狸を釣る。といふ事ぢやが、定(ぢやう)か。
▲シテ「これは、存じも寄らぬ事を承ります。私はつひに、狸を釣つた事はござりませぬ。
▲アト「いやいや。嘘を云はぬ人が仰せられた程に、隠さずとも、あり様に云へ。
▲シテ「何程仰せられても、私はつひに、狸を釣つた事はござらぬ。
▲アト「扨は、しかと釣つた事はないか。
▲シテ「左様でござる。
▲アト「それならば、身共は早まつた事をした。
▲シテ「何となされました。
▲アト「汝が狸を釣る。といふ事を聞いたによつて、狸汁をして申し入れう。と云うて、早(はや)、人を廻した。今にもお出なされたらば、何としたものであらう。
▲シテ「これは又、早まつた事をなされた。今にもお出なされたらば、何となります。
▲アト「是非に及ばぬ。汝は太儀ながら市へ行(い)て、狸を求めて来てくれい。
▲シテ「畏つてはござれども、市へ狸を持つて出るものやら、又持つて出ぬものやら、存じませぬ。これは、ご許されませ。
▲アト「いやいや、確かに市へは持つて出る。と聞いた程に、求めて来い。
▲シテ「その上、価(あたひ)が何程致すやら、存じませぬ。これはどうぞ、ご許されませ。
▲アト「それならば、次郎冠者なりともやらうまでよ。
▲シテ「扨はどうあつても、お求めなさらねばなりませぬか。
▲アト「どうあつても、求めねばならぬ。
▲シテ「それならば、私が参りませう。
▲アト「行くか。
▲シテ「はあ。
▲アト「それならば、云ふまではないが、念を入れて、大狸を求めて来い。
▲シテ「その段は、そつともお気遣ひなされますな。
{常の如く、詰める。受ける。同断。}
これはいかな事。身共が狸を釣る事を、誰(た)が申し上げて御存じぢや知らぬ。成程、夜前も大狸を一疋釣つて参り、今朝、市へ持つて行(い)て売らう。と存じて、宿元に認(したゝ)めて置いた。何としたものであらうぞ。いや、まづあの狸は市へ持つて行(い)て売り、後はどうなりとも、成り合ひに致さう。まづ、急いで市へ参らう。
{と云つて、中入りするなり。主、立つて、}
▲アト「これはいかな事。太郎冠者が狸を釣る事を、全体、身共に隠す。と見えた。さりながら、きやつは酒を一つ呑ますれば、隠す事も、あり様に申す。今日(こんにち)は、市へ竹筒(さゝえ)を持つて参り、様子を見よう。と存ずる。誠に、狸を釣る。と、承つてはござれども、確かな証拠を見ぬによつて、しかとも申されぬ。さりながら、市へ参つたらば、大方様子が知るゝでござらう。いや、何かと云ふ内に、これぢや。これは、市の様子も早さうな。その上、太郎冠者もまだ来ぬ。と見えた。暫くこの所に待つてゐよう。と存ずる。
{と云つて、笛座に居るなり。}
▲シテ「狸は、狸。大狸はいらぬか。なうなう、そこ元へ。この様な大狸はいらぬか。狸、売らう。大狸はいらぬか。
▲アト「さればこそ、これへ参つた。ゑい、太郎冠者。
▲シテ「ゑい、頼うだお方。
▲アト「何と、狸は売るか。
▲シテ「ゑゝ。
▲アト「いや、狸は売るか。と云ふ事ぢや。
▲シテ「私は狸を買ひにこそ参れ、売らう。とは、申しませぬ。
▲アト「でも今、売らう。と、云うたではないか。
▲シテ「どこに申しました。
▲アト「はて、たつた今、云うた。
▲シテ「申しましたか。
▲アト「中々。
▲シテ「はて、合点の行かぬ。何が耳に入つた事ぢやぞ。ゑゝ、それは、物でござる。
▲アト「物とは。
▲シテ「狸を売らうならば買はう。と申す事でござる。
▲アト「はて、持つて廻つた買ひ様ぢやな。
▲シテ「はあ。
▲アト「狸があつたか。
▲シテ「今朝に限つて一匹も持つて出ぬ。と申しまする。
▲アト「いやいや、まだ市の様子も早さうな。追つ付け、持つて出(づ)るであらうぞ。
▲シテ「いやも、この体(てい)ならば、持つては出ますまいによつて、私はも、かう帰らうか。と存じまする。
▲アト「なぜにその様に気を急(せ)く。身共はこれで、酒を一つ呑まう。と思うて、竹筒(さゝえ)の用意をした。そちにも振舞はう程に、暫くそれに待て。
▲シテ「これはいかな事。この様な市場で御酒(ごしゆ)を上がりましたらば、人が笑ひませう。
▲アト「笑うても苦しうない。それに待て。
▲シテ「申し申し。これは、迷惑な所へ来た。
{と云つて、狸を隠さん。とする所、色々、仕様あるべし。}
▲アト「さあさあ、太郎冠者。酒を持つて来た。
▲シテ「どうあつても、上がりますか。
▲アト「どうあつても呑む。
▲シテ「これは、悪うはござりますまいが、変つたお物好きでござる。
▲アト「扨これは、身共から呑うで、汝へさゝう。
▲シテ「それならば、お酌を致しませう。
▲アト「身共は手酌が良い。扨、これを汝へさゝうぞ。
▲シテ「左様ならば、頂きませう。
▲アト「身共がついでやらう。
▲シテ「これは、お酌、慮外でござる。
▲アト「苦しうない。
{と云つて、酌す。常の如し。シテ、呑む所、心持ちあるべし。}
何とあつた。
▲シテ「扨も扨も、これは結構な御酒(ごしゆ)でござる。これは、どの御酒でござる。
▲アト「そちに酒を振舞うて、惜しうない。これは、身共が寝酒にたぶる、遠来ぢや。
▲シテ「何、御遠来。
▲アト「中々。
▲シテ「さればこそ、私が、並々の御酒(ごしゆ)でない。と存じました。
▲アト「気に入つたらば、もう一つ呑め。
▲シテ「左様ならば、もう一つ下さりませう。
▲アト「さあさあ、呑め呑め。
▲シテ「これは度々、慮外でござる。
▲アト「慰みについでやらう。
▲シテ「ござります、ござります。
▲アト「ちやうど呑め、ちやうど呑め。
{シテ、呑む。前に同じ。}
▲シテ「たぶればたぶる程、良い御酒でござる。慮外ながら、これをお前へ上げませうか。
▲アト「どれどれ、身共が頂かうぞ。
▲シテ「これは、慮外でござる。
▲アト「苦しうない。
▲シテ「ちと、お酌を致しませう。
▲アト「いやいや、身共は手酌が良い。
▲シテ「ちやうど、上がりませ。
▲アト「これは、一つ受け持つた。太郎冠者、肴にひとさし舞へ。
▲シテ「これはいかな事。この市場で舞を舞ひましたらば、人が笑ひませう。
▲アト「笑うても苦しうない。是非とも舞へ。
▲シテ「是非とも舞へ。でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「これは、迷惑な事でござる。それならば舞ひませうか。
▲アト「早う舞へ。
{シテ、「あんの山」を舞ふ。狸を隠す舞ひ様、色々工夫あるべし。}
良いや、良いや。扨々、面白い事であつた。
▲シテ「やうやうと舞ひました。
▲アト「今のは真つ只、兎が出た様にあつた。
▲シテ「何の、その様にござりませう。
▲アト「いやいや、兎ばかりではない。まだ余のものも出たやうな。
▲シテ「何ぞ出たを御覧(ごらう)じましたか。
▲アト「狸が出た様にあつた。
▲シテ「訳もない事を仰せらるゝ。狸といふものは、この様な所へ出(づ)るものではござらぬ。
▲アト「すれば、狸はどこへ出るものぢや。
▲シテ「山へ出まする。
▲アト「山へ出(づ)るか。
▲シテ「まづ、狸を捕らう。と存じますると、山へ参りまして、大きな穴を掘りまして、その穴の中へ、上々の若鼠を油揚げに致して入れて置きまする。又、狸の参る道へは、こまかな餌をちよぼちよぼと撒(ま)いて置きますると、その香ばしい匂ひにひかされて、狸が穴の端(はた)へ参つて、ぢつと狙うで居りまして、やがて跳び付けう。と致すを、猟師が手頃な手木を持つて、ほうど打擲して捕りまする。
▲アト「はて、良う知つて居るなあ。
▲シテ「いや。とやらして捕る。と申す話を承つてござる。
▲アト「大方、その様にして捕るであらう。
▲シテ「しかとした事は存じませぬ。
▲アト「扨、何かと云うて、遅なはつた。これを汝へさゝう。
▲シテ「又、頂きませうか。
▲アト「もう一つ呑め。
▲シテ「ちと、軽うおつぎなされませ。
▲アト「はて、ちやうど呑め。
▲シテ「軽う軽う。あゝ、こします、こします。
{と云つて笑ひ、酒半分程呑みて、むせるなり。}
▲アト「何とした、何とした。
▲シテ「あまり大盃で、とつかけとつかけ下されて来て、ちと、きけました。
▲アト「それならば、静かに呑め。
▲シテ「休んで下さりませう。
▲アト「身共が、肴にひとさし舞はうか。
▲シテ「これは、一段と良うござりませう。
▲アト「地を謡うてくれい。
▲シテ「畏つてござる。
{アト、小舞。「花の袖」良し。舞ひ様、心持ちあり。口伝。}
良いや、良いや。
▲アト「不調法をした。
▲シテ「これでは、たべずばなりますまい。
▲アト「さあさあ、呑め呑め。
▲シテ「又、慮外ながら、お前へ上げませう。
▲アト「これへくれい。
▲シテ「ちと、お酌を致しませう。
▲アト「いやいや、身共は手酌が良い。
▲シテ「ちやうど、上がりませ。
▲アト「これは又、ちやうど受け持つた。扨、最前の兎の舞は、あまりに短かうて、見足らなんだ。もそつと長い舞を舞うて見せい。
▲シテ「最前の兎の舞さへ、やうやうと舞ひました。これはどうぞ、ご許されませ。
▲アト「はて、許せ。と云ふ事があるものか。平(ひら)に舞へ。
▲シテ「その上今日(こんにち)は、ちと、指神(さすがみ)がござつて、どうも舞が舞ひにくうござる。
▲アト「舞に、さすがみ。といふ事は、つひに聞いた事がない。早う舞へ。早う舞へ。
▲シテ「これはどうぞ、ご許されませ。
▲アト「それなら、物とせう。
▲シテ「何となされまする。
▲アト「連れ舞にせう。
▲シテ「それは猶、迷惑でござる。
▲アト「さあさあ、立て立て。
▲シテ「これはいかな事。
{これより連舞。「鵜飼ひ」。シテ、アトとも、舞ひ様あり。}
▲アト「良いや、良いや。
▲シテ「お蔭で、やうやうと舞ひました。
▲アト「扨、最前の兎の舞が、いかう面白かつた。あれを身共に教へてくれい。
▲シテ「何の、お前にはお習ひなされいでも、よう御存じでござる。
▲アト「身共はかつて知らぬ程に、教へてくれい。
▲シテ「左様ならば又、お屋敷でなりとも教へませう。まづ今日は、ご許されませ。
▲アト「それまでが、何と待たるゝものぢや。それならば、物とせう。
▲シテ「何となされます。
▲アト「これも、連れ舞にせう。
▲シテ「又、連れ舞。
▲アト「立て立て。
▲シテ「これはいかな事。
{アトより。「あんの山」舞ひかける。シテもつけて舞ひ、「何ぢやるろ」まで、両人舞ふ。それより後、シテばかり舞ひて、「兎ぢや」と留める。アト、又「ちやつとすいした」より舞ふ。}
それそれ。
▲アト「狸ぢや。
{と云つて、狸出す。シテ、肝つぶす。}
▲シテ「あゝ。その狸は、どれから出ました。
▲アト「おのれの腰にあつたを、取つて置いた。
▲シテ「南無三宝。顕はれた。
▲アト「あの横着者、やるまいぞ、やるまいぞ。
{と云つて、常の如く追ひ込み入るなり。}
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
隠狸(カクシダヌキ)(二番目)
▲アト「此辺りの者で御座る、某一人召遣う下人が、狸を釣と承つて御座る、呼出し様子を尋うと存ずる{ト云つて呼出す出るも常の如し}{*1}汝呼出す別の事でない、聞けば汝は狸を釣と云ふ事ぢやが定{*2}か▲シテ「是は存じもよらぬ事を承ります、私はついに狸を釣つた事は御座りませぬ▲アト「いやいやうそをいはぬ、人が仰せられた程に、隠さず共あり様にいへ▲シテ「何程仰せられても、私はついに狸を釣つた事は御座らぬ▲アト「扨はしかと釣つた事はないか▲シテ「左様で御座る▲アト「夫ならば身共ははやまつた事をした▲シテ「何となされました▲アト「汝が狸を釣と云ふ事を聞いたに依つて、狸汁をして申入れうと云うて早人を廻した、今にもお出成されたらば何とした者で有らう▲シテ「是は又早まつた事を成された、今にもお出成れたらば何と成ります{*3}▲アト「是非に及ばぬ、汝は太儀ながら、市へいて狸を求めて来てくれい▲シテ「畏つては御座れ共、市へ狸を持つて出る者やら、又持つて出ぬ者やらぞんじませぬ、是は御ゆるされませ▲アト「いやいや慥に市へは、持つて出るときいた程に求めてこい▲シテ「其上価が何程致すやら存じませぬ、是はどうぞ御ゆるされませ▲アト「夫ならば次郎冠者なり共やらう迄よ▲シテ「扨はどうあつても、御求め被成ねばなりませぬか▲アト「どうあつても求めねばならぬ▲シテ「夫ならば私が参りませう▲アト「ゆくか▲シテ「はあ▲アト「夫ならば云ふ迄はないが、念をいれて大狸を求めてこい、▲シテ「其段はそつとも{*4}お気遣なされますな{常の如くつめる請る同断}{*5}是はいかな事、身共が狸を釣事をたが申し上げて御存ぢやしらぬ成程夜前も大狸を一疋釣つて参り、今朝市へ持つていて売らうと存じて、宿許に認て置た、何とした{*6}者であらうぞ、いや先づあの狸は市へ持つていて売り、後はどう成共成合に致さう、先づ急いで市へ参らう{ト云つて中入りする也主立つて}▲アト「是はいかな事、太郎冠者が狸を釣事を、全体、身共に隠すと見えた乍去、きやつは酒を一つ呑ますれば、隠す事もあり様に申す、今日は市へさゝえを持つて参り、様子を見ようと存ずる、誠に、狸を釣ると承つては御座れ共、慥な証拠を見ぬに依つて、しかとも申されぬ、乍去市へ参つたらば、大方様子がしるゝで御座らう、いや何彼と云ふ内に是ぢや、是は市の様子も早さうな、其上太郎冠者もまだこぬと見えた、暫く此所に待つてゐようと存ずる{ト云つて笛座に居るなり}▲シテ「狸は狸大狸はいらぬか、なうなうそこ元へ此様な大狸はいらぬか、狸売らう大狸はいらぬか▲アト「さればこそ是へ参つた、ゑい太郎冠者▲シテ「ゑい頼うだお方▲アト「何と狸は売るか▲シテ「ゑゝ▲アト「いや狸は売るかといふ事ぢや▲シテ「私は狸を買ひにこそ参れ、売らうとは申しませぬ▲アト「でも今売らうと云ふたではないか▲シテ「どこに申しました▲アト「果、たつた今云ふた▲シテ「申しましたか▲アト「中々▲シテ「果合点のゆかぬ、何が耳に入つた事ぢやぞ、ゑゝ夫は物で御座る▲アト「物とは▲シテ「狸を売らうならば買はうと申す事で御座る▲アト「果持つて廻つた買ひやうぢやな▲シテ「はあ▲アト「狸があつたか▲シテ「今朝に限つて一匹も持つて出ぬと申しまする▲アト「いやいやまだ市の様子も早さうな、追付持つて出るで有らうぞ▲シテ「いやも此体ならば持つては出ますまいに依つて、私はもかう帰らうかと存じまする▲アト「なぜに其様に気をせく、身共は是で酒を一つ呑まうと思うて、さゝえの用意をした、そちにも振舞はう程にしばらく夫にまて▲シテ「是はいかな事、此様な市場で御酒を上りましたらば、人が笑ひませう▲アト「笑ふても苦敷うない、夫にまて▲シテ「申し申し、是は迷惑な所へ来た{ト云つて狸を隠さんとする{*7}所色々仕様あるべし}▲アト「さあさあ太郎冠者、酒を持つて来た▲シテ「どうあつてもあがりますか▲アト「どうあつても呑む▲シテ「是は悪うは御座りますまいが、変つたお物好で御座る▲アト「扨是は身共から呑うで汝へさゝう▲シテ「夫ならばお酌を致しませう▲アト「身共は手酌がよい、扨是を汝へさゝうぞ▲シテ「左様ならばいたゞきませう▲アト「身共がついでやらう▲シテ「是はお酌慮外で御座る▲アト「苦敷うない{ト云つて酌す、常の如しシテ呑む所心持可有}{*8}何と有つた▲シテ「扨も扨も是は結構な御酒で御座る、是はどの御酒で御座る▲アト「そちに酒を振舞うておしうない、是は身共が寝酒にたぶる遠来ぢや▲シテ「何御遠来▲アト「中々▲シテ「さればこそ私が並々の御酒でないと存じました▲アト「気に入つたらば最一つ呑め▲シテ「左様ならば最一つ下さりませう▲アト「さあさあのめのめ▲シテ「是は度度慮外で御座る▲アト「慰についでやらう▲シテ「御座ります御座ります▲アト「恰度のめ恰度のめ{シテ呑む前に同じ}▲シテ「たぶればたぶる程よい御酒で御座る、慮外ながら是をお前へ上げませうか▲アト「どれどれ身共がいたゞかうぞ▲シテ「是は慮外で御座る▲アト「苦敷うない▲シテ「ちとお酌を致しませう▲アト「いやいや身共は手酌がよい▲シテ「恰度上りませ▲アト「是は一つ請もつた、太郎冠者肴に一とさしまへ▲シテ「是はいかな事、此市場で舞ひを舞ひましたらば、人が笑ひませう▲アト「笑うても苦敷うない是非共まへ▲シテ「是非共舞えで御座るか▲アト「中々▲シテ「是は迷惑な事で御座る、夫ならば舞ひませうか▲アト「早う舞へ{シテあんの山を舞ふ狸を隠す舞様色色{*9}工夫可有}{*10}よいやよいや扨々面白い事であつた▲シテ「漸と舞ひました▲アト「今のはまつたゞ兎が出た様にあつた▲シテ「なんの其様に御座りませう▲アト「いやいや兎ばかりではない、まだ余の者も出たやうな▲シテ「なんぞ出たをごらうじましたか▲アト「狸が出たやうにあつた▲シテ「訳もない事を仰せらるゝ、狸と云ふ者は、此様な所へ出る者では御座らぬ▲アト「すれば狸はどこへ出る者ぢや▲シテ「山へ出まする▲アト「山へ出るか▲シテ「先づ狸を捕らうと存じますると山へ参りまして、大きな穴を掘りまして、其穴の中へ上々の若鼠を油あげに致して入れて置きまする、又狸のまゐる道へはこまかな餌をちよぼちよぼ{*11}とまいて置きますると、其香ばしい匂ひにひかされて、狸が穴{*12}のはたへ参つて、ぢつとねらうで居りまして、頓て跳び付けうと致すを、猟師が手頃な手木を持つて、ほふどちようちやくして捕りまする▲アト「果よう知つて居るなあ▲シテ「いやとやらして捕ると申す噺を承つて御座る▲アト「大方その様にして捕るであらう▲シテ「しかとした事は存じませぬ▲アト「扨、何彼と云うておそなはつた、是を汝へさゝう▲シテ「又いたゞきませうか▲アト「最一つ呑め▲シテ「ちと軽うおつぎ成されませ▲アト「果恰度のめ▲シテ「軽るう軽るうあゝこしますこします{ト云つて笑ひ酒半分程呑みてむせるなり}▲アト「何とした何とした▲シテ「あまり大盃でとつかけとつかけ下されて来てちときけました▲アト「夫ならば静にのめ▲シテ「休んで下さりませう▲アト「身共が肴に一とさし舞はうか▲シテ「是は一段とよう御座りませう▲アト「地を謡うてくれい▲シテ「畏つて御座る{アト小舞花の袖吉、舞様心持あり口伝{*13}}{*14}よいやよいや▲アト「不調法をした▲シテ「是ではたべずば成ますまい▲アト「さあさあ呑め呑め▲シテ「又慮外ながらお前へ上げませう▲アト「是へくれい▲シテ「ちとお酌を致しませう▲アト「いやいや身共は手酌がよい▲シテ「恰度あがりませ▲アト「是は又恰度請けもつた、扨最前の兎の舞ひはあまりに短かうて見たらなんだ、最卒度長い舞ひをまうて見せい▲シテ「最前の兎の舞ひさへ漸と舞ひました、是はどうぞ御許されませ▲アト「果ゆるせと云ふ事が有る者か平にまへ▲シテ「其上今日はちとさすがみが御座つて、どうも舞ひが舞ひにくう御座る▲アト「舞ひにさすがみと云ふ事は、ついに聞いた事がない、早うまへ早うまへ▲シテ「是はどうぞ御ゆるされませ▲アト「夫なら物とせう▲シテ「何となされまする▲アト「つれ舞ひにせう▲シテ「夫は猶迷惑で御座る▲アト「さあさあ立て立て▲シテ「是はいかな事{是より連舞鵜飼ひシテ、アト共舞様あり}▲アト「よいやよいや▲シテ「お影で漸と舞ひました▲アト「扨最前の兎の舞ひがいかう面白かつた、あれを身共に教えてくれい▲シテ「なんのお前にはお習ひなされいでも、{*15}よう御存じで御座る▲アト「身共は曽て知らぬ程に、教えてくれい▲シテ「左様ならば又お屋敷でなり共教えませう、先づ今日は御ゆるされませ▲アト「夫迄が何と待たるゝ物ぢや、夫ならば者とせう▲シテ「何となされます▲アト「是もつれ舞ひにせう▲シテ「又つれ舞ひ▲アト「立て立て▲シテ「是はいかな事{アトよりあんの山舞ひかける、シテもつけて舞ひ、なんぢやるろ迄両人舞ふ、夫より後シテばかり舞ひて兎ぢやととめる、アト又ちやつとすいしたより舞ふ}{*16}それそれ▲アト「狸ぢや{ト云つて狸出すシテ肝つぶす}▲シテ「あゝその狸はどれから出ました▲アト「おのれの腰にあつたを取つて置いた▲シテ「南無三宝顕はれた▲アト「あの横着者、やるまいぞやるまいぞ{ト云つて常の如く追込入るなり}
校訂者注
1・8・10:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
2:底本は、「誠(ぜう)」。
3:底本は、「何とも成ります」。
4:底本は、「些度(そつと)も」。
5・14・16:底本、全て「▲シテ「」がある(全て略)。
6:底本は、「何として者で」。
7:底本は、「隠さんとずる」。
9:底本は、「舞様也(二字以上の繰り返し記号)工夫可有」。
11:底本は、「ちよは(二字以上の繰り返し記号)」。
12:底本は、「狸が空」。
13:底本は、「舞心持、様口伝あり」。
15:底本、ここに一字分のスペースがあり、「、」はない。
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