伊呂波(いろは)(二番目)

▲アト「この辺りの者でござる。伜もやうやう成人致したによつて、寺へ登せて手習ひを致させう。と存ずる。かな法師、あるか。
{と云つて、呼び出す。出るも、常の如し}
汝呼び出す、別の事でもない。そなたもやうやう成人したによつて、寺へやつて手習ひをさせよう。と思ふが、何とあらう。
▲シテ「それは、ともかくもでござる。
▲アト「寺へやる。と云うて、別の事でもない。白い黒いを知るためばかりの事ぢや。
▲シテ「白い黒いを知るためばかりの事ならば、寺へは御無用でござる。
▲アト「それならば、白い黒いを知つて居るか。
▲シテ「成程、存じて居ります。
▲アト「白いは何ぢや。
▲シテ「鷺。
▲アト「黒いは。
▲シテ「鴉。
▲アト「これはいかな事。白い黒いといふは、その様な事ではない。たとへば、白い紙に黒う文字を書いて、それを読みあきらむるを、白い黒いを知る。と云ふ。こゝに、高野の弘法の作り置かれた四十八字のいろはがある。これを教へてやらうぞ。
▲シテ「何と仰せらるゝ。高野の小六が四十八になる。と仰せらるゝか。
▲アト「いやいや、さうではない。高野の弘法の作りおかれた四十八字のいろは、といふものがある。これを教へてやらう。と云ふ事ぢや。
▲シテ「それは、忝うござる。どうぞ、教へて下されい。
▲アト「まづ、読みから教へよう。いろはにほへと、ちりぬるをわか、やまけふこえてゑひもせず京。といふ事ぢや。
▲シテ「その様に、立て板に水を流す様に仰せられては、よう覚えませぬ。年寄りの坂を登る様に、ほつくりほつくりと一字づゝ教へて下されい。
▲アト「いつ年寄りの坂を登るを見た事もあるまいに、利根な事を云ふ。それならば、一字づゝ教へう。い。
▲シテ「とうしん。
▲アト「それは、どうした事ぢや。
▲シテ「藺(い)を引けば、灯心が出(づ)るによつて、申してござる。
▲アト「いつ藺(い)を引いて、とうしんの出(づ)るを見た事もあるまいに。知恵のつく時分は、つくものでござる。ろ。
▲シテ「かい。
▲アト「それは、どうした事ぢや。
▲シテ「舟に櫓(ろ)があれば、櫂(かい)もござるによつて、申してござる。
▲アト「いつ旅をして、舟に乗つた事もないに、櫓櫂の詮索をする。そちに一字づゝ教ふるによつてぢや。今度は二字づゝ教へう。ちり。
▲シテ「はきあつめて火にくべう。
▲アト「それは、どうした事ぢや。
▲シテ「いつもお座敷に塵があれば、やい、かな法師。あれが目に見えぬか。掃き集めて火にくべい。と仰せらるゝによつて、申してござる。
▲アト「いやいや。それは、走り知恵と云うて、役に立たぬ。その様な事で寺へ行けば、寺朋輩の仲も悪うなる。総じて、人に物を習ふは、師匠の口うつしを云ふものぢや。
▲シテ「扨は、お前の口うつしを云へば、良うござるか。
▲アト「その通りぢや。
▲シテ「それは、心安い事でござる。どうぞ、教へて下され。
▲アト「それならば、ひと下りづゝ教へよう。いろはにほへと。
{これより後、シテ、段々口真似するなり。}
ちりぬるをわか。
やまけふこえて。
ゑひもせず京。と読め。
いや、只、京。とばかり。
京と読め。とは、己が事ぢや。
いや、最前口うつしを云へ。と申したれば、真似をするさうな。
それは、己が事ぢや。
親を睨(にら)うで。鰈(かれ)といふ魚にならうぞよ。
いや、こゝな奴に物を云はせておけば、方領もない事を云ふ。己が様な奴は、かうして置いたが良い。
{と云つて、打ちこかす。シテ、同じくアトの通り引き廻し、打ちこかして入るなり。}
親をこの様にしをつて、将来が良うあるまい。やるまいぞ、やるまいぞ。
▲シテ「なるまいぞ、なるまいぞ。
{と云つて入るなり。アト、常の如く、追ひ込む。}

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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伊呂波(イロハ)(二番目)

▲アト「此辺りの者で御座る、忰も漸成人致したに依つて、寺へ登せて手習ひを致させう{*1}と存ずる、かな法師あるか{ト云つて呼び出す出るも常の如し}{*2}汝呼び出す別の事でもない、そなたも漸成人したに依つて、寺へやつて手習をさせやうと思ふが、何と有らう▲シテ「夫は兎も角もで御座る▲アト「寺へやると云うて別の事でもない、白い黒いを知る為ばかりの事ぢや▲シテ「白い黒いを知る為ばかりの事ならば、寺へは御無用で御座る▲アト「夫ならば白い黒いを知つて居るか▲シテ「成程存じて居ります▲アト「白いは何ぢや▲シテ「鷺▲アト「黒いは▲シテ「鴉▲アト「是はいかな事、白い黒いと云ふは其様な事ではない、たとへば白い紙に黒う文字をかいて、それを読みあきらむるを白い黒いをしると云ふ、爰に高野の弘法の作り置かれた、四十八字のいろはがある、是をおしえてやらうぞ▲シテ「何と仰せらるゝ、高野の小六が四十八になると仰せらるゝか▲アト「いやいやさうではない、高野の弘法の作りおかれた四十八字の、いろは、と云ふ者がある、是を教えてやらうと云ふ事ぢや▲シテ「夫は忝う御座る、どうぞ教えて下されい▲アト「先づよみからおしやう、いろはにほへと、ちりぬるをわか、やまけふこえてゑひもせず京と云ふ事ぢや▲シテ「其様にたて板に水をながす様に仰せられては、よう覚えませぬ、年寄の坂をのぼるやうに、ほつくりほつくりと一字づゝ教えて下されい▲アト「いつ年寄の坂を登るを見た事もあるまいに、利根な事を云ふ、夫ならば一字づゝおしえう、い▲シテ「とうしん▲アト「夫はどうした事ぢや▲シテ「いを引けばとうしんが出るに依つて申して御座る▲アト「いついを引いて、とうしんの出るを見た事もあるまいに、知恵のつく時分はつく者で御座る、ろ▲シテ「かい▲アト「夫はどうした事ぢや▲シテ「舟にろがあればかいも御座るに依つて申して御座る▲アト「いつ旅をして舟に乗つた事もないに、ろかいのせんさくをする、そちに一字づゝ教ゆるに依つてぢや、今度は二字づゝ教えう、ちり▲シテ「はきあつめて火にくべう▲アト「夫はどうした事ぢや▲シテ「いつもお座敷にちりがあれば、やいかな法師、あれが目に見えぬか、掃き集めて火にくべいと{*3}仰せらるゝに依つて申して御座る▲アト「いやいや夫ははしり知恵と云うて役に立たぬ其様な事で寺へ行けば、寺ほうばいの中も悪うなる、総じて人に物を習うは師匠の口うつしを云ふ者ぢや▲シテ「扨はお前の口うつしを云へばよう御座るか▲アト「其通りぢや▲シテ「夫は心安い事で御座る、どうぞ教えて下され▲アト「夫ならば一と下りづゝ教よう{*4}いろはにほへと{是より後シテ段々口真似するなり}{*5}ちりぬるをわか{*6}やまけふこえて{*7}ゑひもせず京とよめ{*8}いや唯京とばかり{*9}京とよめとは己{*10}が事ぢや{*11}いや最前口うつしをいへと申したれば真似をするさうな{*12}夫は己{*13}が事ぢや{*14}親をにらうで、かれと云ふ魚に成らうぞよ{*15}いや爰な奴に物をいはせておけば方領もない事を云ふ、己{*16}がやうな奴はかうして置いたがよい{ト云つて打こかすシテ同アトの通り引廻し打こかして入るなり}{*17}親を此様にしおつて将来がようあるまい、やるまいぞやるまいぞ▲シテ「なるまいぞなるまいぞ{ト云つて入るなりアト常の如く追込}

校訂者注
 1:底本は、「致さう」。
 2・4~9・11・12・14・15・17:底本、全て「▲アト「」がある(全て略)。
 3:底本は、「くべい仰せ」。
 10・13・16:底本は、「巳(おのれ)」。