牛盗人(うしぬすびと)

▲アト「{*1}そもそもこれは、鳥羽の離宮の。
牛奉行でござる。扨も、法皇御幸の御時、御車を曳く牛を某(それがし)預り、牛部屋を立てゝ番人を差し置き、昼夜守護致す所に、この中(ぢゆう)、雨の夜に、盗賊の所為(しわざ)と見えて、かのお預りの牛が失(う)せてござる。隣郷は申すに及ばず、山々谷々まで草を分かつて詮議致せども、さらに牛の行衛(ゆくゑ)が知れぬ。公卿・大臣御詮議の上、この牛盗人を訴人(そにん)致さば、同類たりともその科(とが)を許し、褒美は何なりとも、その者の願ひをお叶へなされう。とのお事でござる。まづ、この由を高札(たかふだ)に打つた。やいやい。をるか、やい。
▲二人「はあ。
▲アト「をるか。
▲二人「はあ。
▲アト「ゐたか、やい。
▲二人「お前に。
▲アト「念なう早かつた。汝等呼び出す、別の事でない。かの牛のありかゞ知れぬによつて、高札を打つた。高札(かうさつ)の表に付いて、牛盗人の訴人が来たらば、早々、この方へ知らせ。
▲二人「畏つてござる。
{と云つて、詰める。受ける。常の如し。}
▲子「この辺りの者でござる。鳥羽の離宮の牛盗人を訴人致さば、同類たりともその科を許し、褒美は何なりとも、その者の願ひをお叶へなされう。とのお事でござる。某(それがし)、存じてござるによつて、訴人に出よう。と存ずる。誠に、人の科を訴人致すと申すは、不心得な事でござれども、身に代へて大切な願ひがござるによつて、訴人に参る事でござる。何かと申す内に、これでござる。
{と云つて、案内乞ふ。太郎冠者出るも、常の如し。}
牛盗人の訴人の者でござる。その由、仰せられて下され。
▲太郎「その由、申し上げう。暫くそれに待ちませい。
▲子「畏つてござる。
▲太郎「申し上げまする。牛盗人の訴人と申して、幼い者が参つてござる。
▲アト「何ぢや。牛盗人の訴人と云うて、幼い者が来た。と云ふか。
▲太郎「左様でござる。
▲アト「急いでこれへ出せ。
▲太郎「畏つてござる。さあさあ、あれへ出ませい。
▲子「心得ました。
▲太郎「この者でござる。
▲アト「牛盗人の訴人と云ふは、汝か。
▲子「成程、私でござる。
▲アト「扨、その牛は、誰が盗んだ。
▲子「隣在所の兵庫三郎と申す者が盗み取つて、他郷の市へ牽いて往(い)て、売つてござる。
▲アト「して、それには何ぞ、確かな証拠があるか。
▲子「証拠までには及びませぬ。三郎を召し出されまして、対決の上で白状致させませう。
▲アト「これは、確かな事ぢや。やいやい。何にもせよ、まづ、この者を傍(かたは)らへ寄せて置け。
▲太郎「畏つてござる。さあさあ。まづ、これへ寄つて居さしめ。
▲子「心得ました。
▲アト「やいやい、次郎冠者も呼べ。
▲太郎「畏つてござる。次郎冠者、召すわ。
▲次郎「何ぢや。召すと云ふか。
▲太郎「早うお出あれ。
▲次郎「心得た。次郎冠者、お前に。
▲アト「扨、汝等は、隣在所の兵庫三郎と云ふ者を知つて居るか。
▲太郎「私は、家は存じて居りますが、面(つら)を存じませぬ。
▲アト「次郎冠者は、何とぢや。
▲次郎「私は、家も面(つら)も存じませぬ。
▲アト「何にもせよ、隣在所へ往(い)て、兵庫三郎を召し捕つて来い。
▲太郎「畏つてござる。
▲アト「人違(たが)ひでも苦しうない。異儀に及ばゞ、搦め捕つて来い。
▲次郎「畏つてござる。
▲アト「急げ、急げ。
▲二人「はあ。
▲太郎「何とこれは、一大事の事を仰せ付けられた。
▲次郎「その通りぢや。
▲太郎「まづ、捕縄(とりなは)の用意を召され。
▲次郎「心得た。捕縄の用意、ようおりある。
▲太郎「追つ付け、行かう。さあさあ、おりあれ。
▲次郎「心得た。
▲太郎「扨、あの兵庫三郎は、つゝと心得た者ぢや。と聞いたが、何としたものであらう。
▲次郎「されば、何とが良からうぞ。
▲太郎「とかく、騙すに手なしぢや。騙し捕りにせう程に、ぬからしますな。
▲次郎「心得た。
▲太郎「何かと云ふ内に、これぢや。身は、案内を乞うて、そびき出さう程に、汝はそれに屈(かゞ)うで居て、無体(むたい)に縄を掛けさしめ。
▲次郎「心得た。
▲太郎「物も、案内もう。兵庫三郎、内におりあるか。
▲シテ「表に案内がある。あら、不思議や。俄(には)かに雲の景色が変つた。その上どうやら、胸騒ぎがする。案内とは誰(た)そ。
▲太郎「兵庫三郎といふは、そなたか。
▲シテ「成程、兵庫三郎は身共ぢやが、そなたはどれからわせた。
▲太郎「ちと、頼みたい事がある。これへ出ておくれあれ。
▲シテ「心得た。扨、身共に頼みたい。とは、何事でおりある。
▲太郎「別の事でもないが。
▲次郎「捕つたぞ。
▲シテ「こりや、何とする。
▲太郎「捕つたぞ。
▲シテ「何としをる。己は憎い奴の。
▲次郎「捕つたぞ。
▲シテ「こりや、何とする。
▲太郎「きつと縛れ、縛れ。
▲次郎「心得た、心得た。
▲シテ「やあら、汝等は、無体(むたい)に縄を掛けて、何とする。
▲太郎「鳥羽の離宮の牛奉行よりのお召しぢや。立ちませい。
▲シテ「それは、人違(たが)ひであらうぞよ。
▲太郎「人違ひでも苦しうない。との事ぢや。行け、行け。
▲シテ「身共が行く分は苦しうないが、後で汝等が迷惑せう。と思うて、それが気の毒ぢや。
▲太郎「それを汝が構ふ事はない。さあさあ、行け行け。何かと云ふ内に、これぢや。この由、申し上げう程に、そなたは縄を控へておゐあれ。
▲次郎「心得た。
▲太郎「申し上げまする。
▲アト「何事ぢや。
▲太郎「兵庫三郎を召し捕つて参つてござる。
▲アト「何、兵庫三郎を召し捕つて来た。
▲太郎「左様でござる。
▲アト「それは出かいた。急いでこれへ引き出せ。
▲太郎「畏つてござる。さあさあ、あれへ出ませい。この者でござる。
▲アト「兵庫三郎と云ふは、汝か。
▲シテ「兵庫三郎と申すは、私でござる。
▲アト「己は憎いやつの。ようお預りの牛を盗み取つたな。
▲シテ「はあ。扨は最前、捕り手の衆の向かはれたは、この牛盗人の御詮議よな。
▲アト「おんでもない事。
▲シテ「身にとつて、さらさら覚えござらぬ。
▲アト「あのまざまざしい{*2}面(つら)を見よ。己、何程陳じたりとも、これには確かな証拠があるぞよ。
▲シテ「証拠のあらう様がござらぬ。私が身に、覚えがござらぬ。
▲アト「まだぬかし居る。やいやい。最前の幼い者を、これへ出せ。
▲太郎「畏つてござる。さあさあ、あれへお出あれ。
▲子「心得ました。
▲シテ「やあ。牛盗人の訴人と仰せらるゝは、この子でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「あの、この子がや。
▲アト「おんでもない事。
▲シテ「はあ。
▲子「なうなう、三郎殿。身共が訴人に出るからは、逃れはあるまい。白状召され。
▲アト「やいやい、汝はあの者を、近付きの様に云ふが、そちがためには、何ぢや。
▲子「親でござる。
▲アト「やあ、親か。
▲子「子として、親の科(とが)を訴人に出づるからは、逃れはあるまい。白状召され。
▲シテ「あゝ、かくまで天命に尽き果つるものか。何を隠しませう。お預りの牛は、私が盗み取つてござる。
▲アト「そりあ、知れた。さうもおりあるまいものを。やい、縄がゆるいさうな。きつと締め上げい。
▲次郎「畏つてござる。
▲シテ「やい、そこな人でなしめ。己はいかなる天魔が見入れたれば、子として、親の科を訴人には出をつたぞいやい。その根性とは知らいで、おのれが生まれをつた時は、やれ三郎は、初(うい)の子に男(おのこ)を儲けた。果報者よ。あやかり者よ。と、そやされて、夫婦の者は夜も日も寝ずに、己を抱き抱(かゝ)へして育て上げ、二つ三つにもなつたらば、髪もしよぼしよぼ生え、四つ五つにもなつたらば、牛にも馬にも踏まれをるまい。十になつたらば、寺へ登せて手習ひをさせうず。己、十五になりをつたらば、元服をさせ、地頭へ連れて往(い)て、名代をも勤めさせ、末では己にかゝらう。と思うて、夫婦の者は年の寄るも構はず、己が成人を祈つた甲斐もなう、どこにか親の科を訴人に出る。といふ様な、不得心な事があるものか。己は子でない。敵(かたき)ぢやわいやい、敵ぢやわいやい。
{と云つて、泣くなり。}
▲アト「やいやいやい、そこな奴。扨々、己はうつけた事をぬかし居る。何の、あの幼い者に、科があるものぢや。己が身を恨みをつたが良い。して、お預りの牛を盗んで、何にした。
▲シテ「さればの事でござる。当年は、親の年忌に当たつてはござれども、身上不如意にござつて、この法事を勤めう手立てがござらぬ。それ故、お預りの牛を盗み取り、他郷の市へ牽いて往(い)てこれを売り、その代(かは)りを以つて、親の追善の勤めてござる。
▲アト「まだそのつれをぬかしをる。牛を盗んで親を弔うたと云うて、何の孝養にならう事は。
▲シテ「殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒戒。これ皆、仏の戒めなり。仏在世の御時、しやうちん比丘とて貧賤第一なる御弟子のありしが、親の追善あらん。と思し召せども、御心に叶はず。或る所にて牛を一疋盗み取り、盗みたる牛売らう。といへば、勿体なし。只売らう。といへば、妄語戒を破る。所詮、山に入り、諸木に妄語戒を授け、戒の布施にとらばや。と思し召し、やがて深山に分け入り、諸材木に妄語戒を授け、布施に取りたる牛売らう。と宣へば、市人出合ひ、布に替ふる。やがて、お僧を供養し、かの布を布施に参らする。布施とは、布施す。と書きたるも、この謂(いは)れなり。仏弟子の御身にさへ、牛を盗んで親の追善をし給ふ。いはんや凡夫の某が、牛を盗んで親を弔ふ事、何の科にかなり候ふべき。
▲アト「盗みをする程の奴なれども、小賢しい事を云ひ出した。さりながら、綸言出て、再び還らず。科の軽重は追つての事。まづ、この者を獄屋(ごくや)へ引つ立て。
▲二人「畏つてござる。
▲子「まづ、お待ちなされませ。
▲アト「何と待てとは。
▲子「私へ褒美を下されい。
▲アト「誠に、牛盗人の詮議にかゝつて、そちが褒美の沙汰を忘れた。さあ、米が欲しいか銭が欲しいか、但し饅頭でもやらうか。
▲子「いや、その様なものは、欲しうござらぬ。三郎が命を助けて私へ下されい。
▲アト「それはならぬ。あれは大事の囚人ぢやによつて、獄屋へ入れねばならぬ。何なりとも、外の事を願へ。叶へて取らせうぞ。
▲子「扨は、勅にも偽りがござるか。この牛盗人を訴人致さば、同類たりともその科を許し、褒美は何なりとも、その者の願ひをお叶へなされう。とのお事ではござらぬか。
▲アト「いかにも、その通りぢや。
▲子「もし余の者が訴人致さば、三郎の命がござるまい。親の命が助けたさに、子として訴人に出ましてござる。三郎が命を助くる事がなりませずば、私ともに御成敗なされませ。
{と云つて泣く。シテも泣く。}
▲シテ「やい、かな法師。そちは、神か、仏かい。その様な心入れとは知らいで、最前からの雑言悪口、こらへてくれい。こりや、手を合(あは)せて拝みたけれども、縄目の恥に及うで居れば、手を合(あは)す事さへならぬわいやい、ならぬわいやい。
{と云つて泣く。アトも泣く。}
▲アト「扨々、不憫な事ぢやなあ。
▲太郎「左様でござる。
▲アト「よくよく、ものを案ずるに、ものゝあはれを知らざるは、只木石にことならず。その上、慈悲は上(かみ)より下る。と云へば、科ありとても親子の者。
{*3}早(はや)助くるぞ。三郎、と。
▲二人「畏つてござる。
▲アト「声の下より引つ立てゝ。
▲地「命助かる親と子は、嬉しさも中々に、思はぬ程の心かな。かくて伴(ともな)ひ、立ち帰り立ち帰り、親子の契り尽きせずも、富貴の家となりにけり。げにありがたき孝行の、威徳ぞめでたかりける、威徳ぞめでたかりける。

校訂者注
 1:底本、「抑これは鳥羽の離宮の」に、傍点がある。
 2:「まざまざしい」は、「しらじらしい」の意。
 3:底本、ここから最後まで、全て傍点がある(。但し、「畏つて御」は傍点を欠く)。

底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.

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牛盗人(ウシヌスビト){*1}

▲アト「抑是は鳥羽の離宮の牛奉行で御座る、扨も法皇御幸の御時、御車を曳く牛を某預り、牛部屋を立て番人を差置き、昼夜守護致す所に、此中雨の夜に、盗賊の所為と見えて、かのお預りの牛がうせて御座る、隣郷は申すに不及、山々谷々迄、草をわかつて詮議致せ共、さらに牛の行衛が知れぬ、公卿{*2}大臣御詮議の上、此牛盗人を訴人致さば、同類たり共其とがをゆるし、褒美は何成り共、其者の願ひをおかなへなされうとのお事で御座る、先づ此由を高札に打つた{*3}やいやいおるかやい▲二人「はあ▲アト「おるか▲二人「はあ▲アト「ゐたかやい▲二人「お前に▲アト「念なう早かつた、汝等呼出す別の事でない、彼牛のありかゞ知れぬに依つて高札を打つた、高札の表に付いて牛盗人の訴人が来らば早々此方へ知らせ▲二人「畏つて御座る{ト云つてつめるうける如常}▲子「此辺の者で御座る、鳥羽の離宮の牛盗人を訴人致さば、同類たり共そのとがを許し、褒美は何なり共、その者の願ひをお叶へなされうとのお事で御座る、某存じて御座るに依つて、訴人に出うと存ずる、誠に、人のとがを訴人致すと申すは、不心得な事で御座れ共、身にかえて大切な願が御座るに{*4}依つて、訴人に参る事で御座る、何彼と申す内に是で御座る{ト云つて案内乞ふ太郎冠者出るも如常}{*5}牛盗人の訴人の者で御座る、其由仰せられて下され▲太郎「其由申し上げう、暫く夫にまちませい▲子「畏つて御座る▲太郎「申し上げまする、牛盗人の訴人と申して、幼い者が参つて御座る▲アト「何ぢや、牛盗人の訴人と云うて、幼い者が来たと云ふか▲太郎「左様で御座る▲アト「急ひで是へ出せ▲太郎「畏つて御座る、さあさああれへ出ませい▲子「心得ました▲太郎「此者で御座る▲アト「牛盗人の訴人と云ふは汝か▲子「成程私で御座る▲アト「扨其牛は誰が盗んだ▲子「隣在所の兵庫三郎と申す者が盗み取つて、他郷の市へ牽て往て売つて御座る▲アト「して夫には何ぞ慥な証拠があるか▲子「証拠迄には及びませぬ、三郎を召し出されまして、対決の上で白状致させませう▲アト「是は慥な事ぢや、やいやい何にもせよ、先づ此者を傍へよせて置け▲太郎「畏つて御座る、さあさあ先づ是へよつて居さしめ▲子「心得ました▲アト「やいやい次郎冠者もよべ▲太郎「畏つて御座る、次郎冠者召すわ▲次郎「何ぢや、召すと云ふか▲太郎「早うお出あれ▲次郎「心得た、次郎冠者お前に▲アト「扨汝等は隣在所の兵庫三郎と云ふ者を知つて居るか▲太郎「私は家は存じて居りますが、つらを存じませぬ▲アト「次郎冠者は何とぢや▲次郎「私は家もつらも存じませぬ▲アト「何にもせよ、隣在所へ往て兵庫三郎を召し捕つてこい▲太郎「畏つて御座る▲アト「人たがひでも苦敷う無い、異儀に及ばゞ搦め捕つてこい▲次郎「畏つて御座る▲アト「いそげいそげ▲二人「はあ▲太郎「何と是は一大事の事を仰せ付けられた▲次郎「其通りぢや▲太郎「先づ捕縄の用意を召され▲次郎「心得た、捕縄の用意ようおりある▲太郎「追付け行かう、さあさあおりあれ▲次郎「心得た▲太郎「扨あの兵庫三郎は、つゝと心得た者ぢやと聞いたが、何とした者であらう▲次郎「されば何とがよからうぞ▲太郎「とかくだますにてなしぢや、欺し捕りにせう程にぬからしますな▲次郎「心得た▲太郎「何彼と云ふ内に是ぢや、身は案内を乞うて{*6}そびき出さう程に、汝は夫にかごうで居て、むたいに縄を掛けさしめ▲次郎「心得た▲太郎「物も案内もう、兵庫三郎内におりあるか▲シテ「表に案内がある、あら不思議や俄に雲の景色が変つた、其上どうやら胸さはぎがする、案内とはたそ▲太郎「兵庫三郎と云ふはそなたか▲シテ「成程兵庫三郎は身共ぢやが、そなたはどれからわせた▲太郎「ちと頼み度ひ事がある、是へ出ておくれあれ▲シテ「心得た、扨身共に頼み度ひとは何事でおりある▲太郎「別の事でもないが▲次郎「捕つたぞ▲シテ「こりや、何とする▲太郎「捕つたぞ▲シテ「なんとしおる、己{*7}は憎い奴の▲次郎「捕つたぞ▲シテ「こりや何とする▲太郎「急度しばれしばれ▲次郎「心得た心得た▲シテ「やあら汝等はむたいに縄を掛けて何とする▲太郎「鳥羽の離宮の牛奉行よりのお召しぢや、立ませい▲シテ「夫は人たがいであらうぞよ▲太郎「人たがひでも苦敷うないとの事ぢや、行け行け▲シテ「身共が行く分は苦敷うないが、後で汝等が迷惑せうと思うて、夫が気の毒ぢや▲太郎「夫を汝がかまう事はない、さあさあゆけゆけ、何彼と云ふ内に是ぢや、此由申し上げう程に、そなたは縄をひかえておゐあれ▲次郎「心得た▲太郎「申し上げまする▲アト「何事ぢや▲太郎「兵庫三郎を召し捕つて参つて御座る▲アト「何、兵庫三郎を召し捕つて来た▲太郎「左様で御座る▲アト「夫は出かいた、急で是へ引き出せ▲太郎「畏つて御座る、さあさああれへ出ませい、此者で御座る▲アト「兵庫三郎と云ふは汝か▲シテ「兵庫三郎と申すは私で御座る▲アト「己{*8}は憎いやつの、ようお預りの牛を盗み取つたな▲シテ「はあ、扨は最前捕手の衆のむかはれたは、此牛盗人の御詮議よな▲アト「おんでもない事▲シテ「身に取つて、さらさら覚え御座らぬ▲アト「あのまざまざしい面{*9}を見よ、己{*10}何程ちんじたり共、是には慥な証拠があるぞよ▲シテ「証拠のあらう様が御座らぬ、私が身に覚えが御座らぬ▲アト「まだぬかし居る、やいやい最前の幼い者を是へ出せ▲太郎「畏つて御座る、さあさああれへお出あれ▲子「心得ました▲シテ「やあ牛盗人の訴人と仰せらるゝは此子で御座るか▲アト「中々▲シテ「あの此子がや▲アト「おんでもない事▲シテ「はあ▲子「なうなう三郎殿身共が訴人に出るからはのがれは有るまい、白状召され▲アト「やいやい汝はあの者を、近付きのやうに云ふが、そちが為には何ぢや▲子「親で御座る▲アト「やあ親か▲子「子として、親のとがを訴人に出づるからは、のがれは有るまい、白状召され▲シテ「あゝ斯く迄天命につきはつる者か、何を隠しませうお預の牛は私が盗み取つて御座る▲アト「そりあ知れた、さうもおりあるまい者を、やい縄がゆるいさうな、急度しめ上げい▲次郎「畏つて御座る▲シテ「やいそこな人でなしめ、己{*11}はいかなる天魔が見入れたれば、子として親の科を訴人には出おつたぞいやい、其こんじやうとは知らいで、おのれが生れおつた時は、やれ三郎はういの子に、おの子をまふけた、果報者よ、あやかり者よとそやされて、夫婦の者は夜も日も寝ずに、己{*12}をだきかゝえしてそだてあげ、二つ三つにもなつたらば、髪もしよぼしよぼはえ、四つ五つにも成つたらば牛にも馬にもふまれおるまい、十に成つたらば寺へ登せて手習ひをさせうず、己{*13}十五になりおつたらば元服をさせ地頭へつれて往て、名代をも勤させ、末では己{*14}にかゝらうと思うて、夫婦の者は年の寄るもかまはず、己{*15}が成人を祈つたかひもなう、どこにか親のとがを訴人に出ると云ふやうな、不得心な事がある者か、己{*16}は子でない、敵ぢやわいやい敵ぢやわいやい{ト云つてなくなり}▲アト「やいやいやいそこな奴、扨々己{*17}はうつけた事をぬかし居る、何のあの幼い者にとがゞあるものぢや、己{*18}が身を恨をつたがよい、してお預りの牛を盗んで何にした▲シテ「さればの事で御座る、当年は親の年忌に当つては御座れ共、身上不如意に御座つて、此法事を勤う手だてが御座らぬ、夫ゆえお預りの牛を盗み取り、他郷の市へ牽て往て是を売り、其代を持つ以つて{*19}親の追善の勤めて御座る▲アト「まだ其つれをぬかしおる、牛を盗んで親を吊ふたと云うて、何の孝養にならう事わ▲シテ「殺生偸盗邪淫妄語飲酒戒、是皆仏のいましめなり、仏在世の御時、しやうちん比丘とて貧賤第一なる御弟子の有りしが、親の追善あらんとおぼしめせ共御心にかなはず、或所にて牛を一疋盗取り、盗みたる牛売らうといへば勿体なし、唯売らうといへば妄語戒を破る、所詮山に入り、諸木に妄語戒をさずけ、戒の布施にとらばやと思し召し、頓て深山に分け入り、諸材木に妄語戒をさずけ、布施に取りたる牛売らうと宣へば、市人出合ひ布にかゆる、頓てお僧を供養し、かの布を布施に参らする、布施とは、布ほどこすと書きたるも此謂なり、仏弟子の御身にさへ、牛を盗んで親の追善をし給ふ、いはんや凡夫の某が、牛を盗んで親を吊らう事、なんのとがにか成り候べき▲アト「盗みをする程の奴なれ共、こざかしい事を云ひ出した、乍去綸言出て二た度かへらず、科の軽重は追ての事、先づ此者を獄屋へひつたて▲二人「畏つて御座る▲子「先づお待ち成されませ▲アト「何と待てとわ▲子「私へ褒美を下されい▲アト「誠に牛盗人の詮議にかゝつて、そちが褒美の沙汰を忘れた、さあ米がほしいか銭がほしいか、但し饅頭でもやらうか▲子「いや其様な者はほしう御座らぬ、三郎が命を助けて私へ下されい▲アト「夫はならぬ、あれは大事の囚人ぢやに依つて獄屋へ入れねばならぬ、何成共外の事を願へ、かなへて取らせうぞ▲子「扨は勅にも偽が御座るか、此牛盗人を訴人致さば、同類たり共其とがを許し、褒美は何成共、其者の願ひをお叶へ成されうとのお事では御座らぬか▲アト「いかにも其通りぢや▲子「もし余の者が訴人致さば、三郎の命が御座るまい、親の命が助けたさに、子として訴人に出まして御座る、三郎が命を助くる事が成りませずば、私共に御成敗成されませ{ト云つて泣くシテも泣く}▲シテ「やいかな法師、そちは神か仏かい、其様な心入とは知らいで、最前からの雑言悪口、こらえてくれい、こりや手を合せておがみ度けれ共、縄目の恥に及うでいれば、手を合す事さへならぬわいやいならぬわいやい{ト云つて泣くアトも泣く}▲アト「扨々不便な事ぢやなあ▲太郎「左様で御座る▲アト「よくよく者を案ずるに、者のあはれを知らざるは、唯木石にことならず、其上慈悲は上より下るといへば、とが有りとても親子の者、はや助くるぞ三郎と▲二人「畏つて御座る▲アト「声の下より引たてて▲地「命助かる親と子は嬉しさも中々に、思はぬ程の心かな、かくて伴なひ立帰り立帰り親子の契りつきせずも、富貴の家となりにけり、実ありがたき孝行の、いとくぞ目出たかりけるいとくぞ目出たかりける。

校訂者注
 1:底本、(二番目)等の記載を欠く。
 2:底本は、「公郷(こうげう)」。
 3:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
 4:底本は、「御座にる」。
 5:底本、ここに「▲子「」がある(略す)。
 6:底本は、「乞ふうて」。
 7・8・10~18:底本は、「巳(おのれ)」。
 9:底本は、「顔(つら)」。
 19:底本は、「持つて」。