鴬(うぐひす)(二番目)
▲アト「この辺りの者でござる。この中(ぢゆう)、世間に小鳥の流行るは、夥(おびたゞ)しい事でござる。某(それがし)、伜の時分から小鳥に好いて、様々の鳥を飼うてござる。又、この鴬は、子飼ひでござる。およそ、ならびのなき鳥と存ずる。今日(けふ)は、野辺へ連れて参つて、囀らせて聞かう。と存ずる。誠に、我等如きの小鳥好きを致す。と申せば、似合(にあは)ぬ様にござれども、かやうに子飼ひの鳥を思ふ儘に飼ひ果(おほ)せて、上々(うへうへ)へ進上申せば、大分の価(あた)ひを下さるゝによつて、一向、渡世のためにもなる事でござる。いや、何かと云ふ内に、野へ出た。まづ、この所に置いて、鳴かせて聞かう。と存ずる。
▲シテ「これは、大内に於いて隠れもない。梅若殿と申す少人の御内(みうち)に、何某(なにがし)と申す者でござる。この中(ぢゆう)、世間に小鳥の流行るは夥しい事でござる。又、頼うだ梅若殿は、外の小鳥はさのみ好かせられねども、鴬とさへ申せば、善悪に構はず欲しがらせらるゝによつて、方々から鴬を上ぐる事でござる。身共も上げたい。と存ずれども、金銀を出して求むる事はならず、何と致さう。と存ずる所に、さる者が申すには、野辺へ出て荒鳥を刺せ。と申して、この棹を貸してござる。今日(けふ)は野辺へ出て、狙うて見よう。と存ずる。誠に、身共は終に、螽(いなご)を一疋刺いた事はござらねども、野辺には必ず、巣立ちの足の弱い鳥があるものぢや。その様な鳥は、刺し継いでも{*1}、随分刺さるゝものぢや。と承つた。あはれ、左様の鳥に出合(であひ)たいものぢや。いや、何かと申す内に、野へ出た。扨も扨も、春の野の景色は、青々として面白い事ぢや。いや、良い鴬の声が聞こゆるが。この辺りに藪もなし、木立もないが。ゑい、あれに、籠に入つた鴬がある。扨も扨も、良い鳥ぢや。何として、こゝにある事ぢや知らぬまで。おとりに置いたか。辺りに人もない。幸ひの事ぢや。取つて帰らう。
▲アト「なうなう。その鴬を、どこへ持つてお行きある。
▲シテ「拾うて行くわ。
▲アト「これはいかな事。主(ぬし)のある物を、拾う。といふ事があるものか。
▲シテ「身共は、放れて来た鳥か。と思うて。
▲アト「訳もない。籠に入つて、放れて来る。といふ事があるものか。
▲シテ「籠ともに、放れて来もしてこそ。
▲アト「扨々、むさとした事を云ふ人ぢや。籠ともに放れてくる。といふ事があるものか。こちへおこさしませ。
▲シテ「これは、戯言(ざれごと)ぢや。何を隠さう。身共は、さる少人の御内の者ぢやが、頼うだ人が鴬に好かせられて、様々の鴬を方々より上ぐるによつて、身共も上げたう思へども、大分の価(あた)ひを出して求むるも太儀なり。又、さる者が、野辺へ出て荒鳥を刺せ。と云うて、この棹を貸した。さりながら、身共はつひに螽を一疋刺いた事がない。と云うたれば、かの者が云ふには、野辺には必ず、足の弱い巣立ちなどがあるものぢや。と云うたによつて、もしその様な鳥でもあらうか。と思うて、手をさいた事でおりある。近頃云ひかねたれども、あれを身共にたもるまいか。
▲アト「成程、様子を聞けばおましたいものなれども、これは、身共が命もろともと秘蔵する鴬ぢやによつて、たゞやる事はならぬ。
▲シテ「只。と仰(お)せあるが聞き所なれども、折節持ち合(あは)せがない。又、重ねてお目に掛かつた時に、きつと礼を致さう程に、まづ、くれさしませ。
▲アト「わごりよに今始めて逢うて、又いつ逢はうもしれぬ。とかく、やる事はならぬ。
▲シテ「それは、聞き分けがない。これは、華奢どく{*2}ぢや程に、了簡をしてたもれ。
▲アト「いや、わごりよも了簡が悪い。持ち合(あは)せがなくば、或ひは、そのひと腰でも出して、これは重ねてお目にかゝるまでの印ぢや。などゝ仰(お)せあつてこそ、華奢どくなれ。只、くれいと仰(お)せあるが、華奢にはおりあらぬ。
▲シテ「ぢやと云うて、侍のひと腰が、何と放さるゝものぢや。
▲アト「いや、とかく鴬は身共のもの、腰の物はそなたのもの。どうなりとも、お主の勝手に召され。
▲シテ「はて、苦々しい事ぢや。何とせうぞ。いや、それならば、勝負にせうか。
▲アト「勝負とは。
▲シテ「この棹で、その鳥を刺さう。刺しおほせたらば、鴬を申し受けうず。又、え刺さずば、この刀をお主にやらうぞ。
▲アト「むさとした事を云ふ人ぢや。籠の内にゐる鳥の、刺されぬ。といふ事があるものか。
▲シテ「いや、最前も云ふ通り、身共は終に、螽を一疋刺いた事がないによつて、え刺すまいも知れぬ。その上、それが勝負ぢや。とかくこれは了簡して、どうあらうとも、刺させてたもれ。
▲アト「扨々、迷惑な事を云ひ掛けられた。その様に仰(お)せある程に、刺させう。その刀を出さしませ。
▲シテ「心得た。さらば。
▲アト「どれどれ。この籠の傍に掛けて置かうぞ。
▲シテ「さらば、刺すぞ。
▲アト「かまへてひと刺しでおりあるぞや。
▲シテ「いかないかな。まづ、二十刺しも刺さうぞ。
▲アト「いや、こゝな人が。籠に入れてゐる鳥を、それ程の内に刺されぬ。といふ事があるものか。ひと刺しよりはならぬ。
▲シテ「それならば、十五刺し、刺させておくれあれ。
▲アト「いや、ならぬ。
▲シテ「それならば、十刺し。
▲アト「思ひも寄らぬ事でおりある。
▲シテ「せめて五刺し。
▲アト「扨々、くどい事を云ふ人ぢや。ひと刺しよりは、ならぬ。と云ふに。
▲シテ「どうぞ、ひと刺し添へてたもれ。
▲アト「添へもならぬ。
▲シテ「扨々、堅い事を云ふ人ぢや。是非に及ばぬ。それならば、刺すぞや。
▲アト「早うお刺しあれ。
▲シテ「心得た。
▲アト「あゝ、これこれ。その様な事があるものか。つゝとあれからお刺しあれ。
▲シテ「どれから刺いたら大事か。
▲アト「その様に傍へ寄つたらば、刺されぬ。といふ事があるものか。つゝとあれから刺さしませ。
▲シテ「それならば、こゝから刺すぞよ。
▲アト「早う刺さしめ。
▲シテ「今刺すぞ。そりやそりやそりや、刺すぞ。
▲アト「あゝ、これこれ。その様に飛びかゝつて刺す事はなりませぬわいなう。
▲シテ「色々の難しい事を云ふものぢや。
▲アト「あれから尋常にお刺しあれ。
▲シテ「それならば、こゝからか。
▲アト「中々。そりや、外れた。
▲シテ「扨も扨も、口惜しい事をした。
▲アト「まづ、これは身共が物ぢや。
▲シテ「どれどれ、もう一度刺さう。
▲アト「懸け物をお出しあれ。
▲シテ「後(あと)で、何なりともやらう。
▲アト「いかないかな。懸け物を見ねば、刺さす事はならぬ。
▲シテ「逃げも走りもする者の様に、堅い事を云ふ人ぢや。
▲アト「刺さするさへぢやに、又、その様な我が儘な事を仰(お)せある。
▲シテ「是非に及ばぬ。これは、頼うだ人から預つてゐる太刀なれども、これを懸けう。
▲アト「どれどれ、又こゝに掛けて置かうぞ。
▲シテ「大事の勝負ぢや。餅を直さう。扨々、無念な。今少しの事で、刺し損なうた。さらば、刺さう。
▲アト「早うお刺しあれ。又、外れた。
▲シテ「ゑゝ、口惜しや。どれどれ、もう一度刺さう。
▲アト「又、懸け物をお出しあれ。
▲シテ「せめて一度は添へに召され。
▲アト「いかないかな。添へといふ事はない。その上、この鳥は身共が秘蔵の鳥ぢやによつて、もはや刺させずとも、とつて帰らう。
▲シテ「それならば、何なりとも懸け物を出さう。
▲アト「いかないかな。望みにおりない。
▲シテ「それは余り心強い。了簡をして、もう一度刺させてたもれ。
▲アト「ならぬぞ、ならぬぞ。
▲シテ「いや、これ。まづ、お戻りあれ。扨々、気の短い男かな。ゑゝ、由(よし)ない事に、太刀も刀も取られた。あゝ。これに付けて、さる事の思ひ出られた。《語》昔、大和の国・高間の寺に、梅若殿と申す少人のありしが、かたち人に勝れ、美しくましませば、師匠の情(なさけ)、色に顕れ、一山の賞翫、類(たぐひ)なかりしが、定めなき世の習ひ、老少以て選ばねば、かの児、十六歳の春の頃、身を空(むな)しうなし給ふ。師匠の歎き、一山の愁歎、これに過ぎたる事なし。ある時、かの少人、鴬と化して、その寺の軒端にありし梅が枝に飛び来たり、一首の歌を詠み給ふ。初春の、あしたごとには来たれども、逢はでぞ帰る元の住家に。と、この歌を詠じて、師の坊に手向けられければ、皆人、猶も哀れさのあまり、涙の露、袖にあまる。某は、それには引きかへ、梅若殿故に、いつせき{*3}をとられて涙を流す。こちの梅若殿も、鴬にこそなられずとも、せめて雀になりともなつて、太刀・刀の戻る様な歌があれば、詠(うた)うて貰ひたい。扨々、思へば、うつけた事をした事かな。正真の腰折れといふは、身共が事ぢや。さらば身共も、一首連ねて罷り帰らう。初春の、太刀も刀も鴬も、さゝでぞ帰る元の住家に。ゑゝ、思へば思へば、この棹故ぢや。南無三宝、しないたり、しないたり。
校訂者注
1:「刺し継いでも」は、意味が取り難い。
2:「花車(きやしや)どく」は、「風流にふるまうこと」。花車尽(きやしやづく)。
3:「いつせき」は、不詳。
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
鴬(ウグヒス)(二番目)
▲アト「此あたりの者で御座る、此中世間に小鳥のはやるは夥敷い事で御座る、某忰の時分から小鳥に好いて、様々の鳥を飼うて御座る、又此鴬は子飼で御座る、凡ならびの無き{*1}鳥と存ずる、今日は野辺へ連れて参つて、さへずらせて聞かうと存ずる、誠に、我等如きの小鳥ずきを致すと申せば、似合ぬ様に御座れども、かやうに子飼の鳥を思ふ儘に飼おゝせて、上々へ進上申せば、大分の価いを下さるゝに依つて、一向渡世の為にも成事で御座る、いや何かと云ふ内に野へ出た、先づ此所に置て鳴かせて聞かうと存ずる▲シテ「是は大内に於て隠れもない、梅若殿と申す少人の御内に、何某と申す者で御座る、此中世間に小鳥のはやるは夥敷事で御座る、又頼うだ梅若殿は、外の小鳥はさのみ好かせられねども、鴬とさへ申せば善悪に構はずほしがらせらるゝ{*2}に依つて、方々から鴬を上る事で御座る、身共も上たいと存ずれども、金銀を出して求る事はならず、何と致さうと存ずる所に、さる者が申すには、野辺へ出て荒鳥をさせと申して、此棹を貸て御座る、今日は野辺へ出てねらうてみようと存ずる、誠に身共は終に螽を一疋さいた事は御座らねども、野辺には必ず巣立の足のよわい鳥があるものぢや、其様な鳥は指付いでも随分さゝるゝものぢやと承つた、あはれ左様の鳥に出合たいものぢや、いや何かと申す内に野へ出た、偖も偖も、春の野の景色は、青々として面白い事ぢや、いやよい鴬の声が聞ゆるが、此辺に藪もなし、木立もないが、ヱイ、あれに籠に入ツた鴬がある偖も偖もよい鳥ぢや、何として爰に有る事ぢやしらぬ迄、おとりに置たか、辺りに人もない、幸の事ぢや取ツて帰らう▲アト「なうなう其鴬をどこへ持つておゆきある▲シテ「拾うてゆくは▲アト「是はいかな事、主のある物を拾うと云ふ事が有ものか▲シテ「身共は放れて来た鳥かと思ふて▲アト「訳もない籠に入て放れてくるといふ事{*3}が有ものか▲シテ「籠共に放てきもして{*4}こそ▲アト「偖々むさとした事をいふ人ぢや、籠共に放てくると云事が有ものか、こち{*5}へおこさしませ▲シテ「是ハ戯言ぢや、何を隠さう、身共はさる少人の御内の者ぢやが、頼うだ人が鴬にすかせられて、様々の鴬を方々より上るに依ツて、身共も上げたう思へども、大分のあたいを出して求るも太儀なり、又さる者が野辺へ出て荒鳥をさせと云ふて、此棹をかした去ながら、身共はついに螽を一疋指た事が無いと云たれば、彼者がいふには野辺には、必ず足のよはい巣立抔が有ものぢやと云ふたに依て、若其様な鳥でも有ふかと思ふて、手をさいた事でおりある、近頃云ひかねたれ共、あれを身共にたもるまいか▲アト「成程様子を聞けばおましたいものなれ共、是は身共が命諸共と秘蔵する鴬ぢやに依つて、たゞやる事はならぬ▲シテ「只とおせあるが聞所なれ共、折節持合せがない、又重てお目に掛ツた時に急度礼を致さう程に、先づくれさしませ▲アト「わごりよに今始めて逢うて、又いつ逢はうもしれぬ、兎角やる事はならぬ▲シテ「夫は聞分がない、是はきやしやどくぢや程に、了簡をしてたもれ▲アト「いや和御科も了簡がわるい、持合がなくば、或は其一ト腰でも出して、是は重てお目にかゝる迄の印ぢや、抔とおせあつてこそきやしやどくなれ、只くれいとおせあるがきやしやにはおりあらぬ▲シテ「ぢやといふて侍の一ト腰が何と放さるゝものぢや▲アト「いやとかく鴬は身共のもの、腰の物はそなたのものどう成ともお主の勝手に召され▲シテ「果にがにが敷い事ぢや、何とせうぞ、いや夫ならば勝負にせうか▲アト「勝負とは▲シテ「此棹で其鳥をさそう、指おゝせたらば鴬を申し請うず、又ゑさゝずは此刀をお主にやらうぞ▲アト「無差とした事をいふ人ぢや、籠の内にゐる鳥のさゝれぬと云ふ事が有ものか▲シテ「いや最前も云ふ通り、身共は終に螽を一疋さいた事がないに依ツて、得さすまいもしれぬ、其上夫が勝負ぢや、兎角是は了簡して、どう有らうともさゝせてたもれ▲アト「偖々迷惑な事を云ひ掛られた、其様におせある程に、さゝせう其刀を出さしませ▲シテ「心得た、さらば▲アト「どれどれ此籠の側に掛て置うぞ▲シテ「さらばさすぞ▲アト「かまへて一トさしでおりあるぞや▲シテ「いかないかな先二拾さしもさゝうぞ▲アト「いや爰な人が、籠に入てゐる鳥を、夫程の内にさゝれぬといふ事があるものか、一トさしよりはならぬ▲シテ「夫ならば拾五さしさゝせておくれあれ▲アト「いやならぬ▲シテ「夫ならば十指▲アト「思ひもよらぬ事でおりある▲シテ「責て五さし▲アト「偖々くどい事をいふ人ぢや、一トさしよりは成ぬと云ふに▲シテ「どうぞ一トさしそへてたもれ▲アト「添もならぬ▲シテ「偖々堅い事をいふ人ぢや、是非に及ぬ夫ならばさすぞや▲アト「早うおさしあれ▲シテ「心得た▲アト「あゝ是々、其様な事が有ものか、つゝとあれからお指あれ▲シテ「どれからさいたら大事か▲アト「其様に側へ寄ツたらば、さゝれぬと云事が有ものか、つゝとあれからさゝしませ▲シテ「夫ならば爰から指すぞよ▲アト「早うさゝしめ▲シテ「いまさすぞ、そりやそりやそりや指すぞ▲アト「あゝ是々、其様に飛かゝつて刺す事は成ませぬわいのふ▲シテ「色々の六か敷事をいふものぢや▲アト「あれから尋常におさしあれ▲シテ「夫ならば爰からか▲アト「中々、そりやはづれた▲シテ「偖も偖も口惜い事をした▲アト「先づ是は身共が物ぢや▲シテ「どれどれ最一度さそう▲アト「かけ物をお出しあれ▲シテ「跡で何成共やらう▲アト「いかないかな懸物を見ねばさゝす事は成らぬ▲シテ「逃も走りもする者のように、堅い事を云ふ人ぢや▲アト「さゝするさへぢやに、又其様な我儘な事をおせある▲シテ「是非に及ぬ、是は頼うだ{*6}人から預ツてゐる太刀なれ共、是をかけう▲アト「どれどれ、又爰に掛て置かうぞ▲シテ「大事の勝負ぢやもちを直さう、偖々無念な、今少しの事で刺そこなうた、去らばさそう▲アト「早うおさしあれ、又はづれた▲シテ「ゑゝ口惜や、どれどれ最一度さゝう▲アト「又懸物をお出しあれ▲シテ「責て一度は添に召され▲アト「いかないかな添といふ事はない、其上此鳥は身共が秘ざうの鳥ぢやに依ツて、最早さゝせず共とつてかへらう▲シテ「夫ならば何なり共かけ物を出さう▲アト「いかないかな望におりない▲シテ「夫は余り心強い、了簡をして最一度さゝせてたもれ▲アト「ならぬぞならぬぞ▲シテ「いや是先づお戻りあれ、偖々気の短い男かな、ヱゝよしない事に、太刀も刀も取られた、あゝ是に付けて去る事の思ひ出られた《語》昔大和の国高間の寺に梅若殿と申す少人の在しが、容ち人に勝れ美くましませば、師匠の情色に顕れ、一山の賞翫たぐいなかりしが、定めなき世の習、老少以てゑらばねば{*7}、彼児十六歳の春の頃、身を空敷成給ふ、師匠の歎き一山の愁歎是に過たる事なし、ある時彼少人鴬と化して、其寺の軒端にありし梅が枝に飛来、一首の歌を詠給ふ、初春の、あしたごとには来れども{*8}、逢はでぞかへる元の住家に、と此歌を詠じて師の坊に手向られければ、皆人猶もあはれさのあまり、涙の露袖にあまる、某は夫には引かへ、梅若殿ゆへにいつせきをとられて涙を流す、こち{*9}の梅若殿も鴬にこそなられず共{*10}、責て雀になりともなつて、太刀かたなの戻る様な歌があれば詠ふて貰たい、偖々思へばうつけた事をした事かな、正真のこしをれといふは身共が事ぢや、さらば身共も一首つらねて罷りかへらう、初春の、太刀もかたなも鴬も、さゝでぞ{*11}帰る元の住家に、ゑゝ思へば思へば此棹ゆへぢや、南無三宝しないたりしないたり。
校訂者注
1:底本は、「ながらびの無き」。
2:底本は、「ほしからせらるゝ」。
3:底本は、「くるとい事」。
4:底本は、「放(はなれ)てきもしつてこそ」。
5・9:底本は、「此方(こち)」。
6:底本は、「頼うた人」。
7:底本は、「ゑらはねば」。
8:底本は、「来れとも」。
10:底本は、「なられす共」。
11:底本は、「さゝでそ」。
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