佐渡狐(さどぎつね)(初番物)
▲アト「越後の国のお百姓でござる。毎年(まいねん)御嘉例として、上頭(うへとう)へ御年貢を捧ぐる。当年も相変らず持つて上(のぼ)らう。と存ずる。誠に、毎年相変らず御年貢を納むると申すは、めでたい事でござる。当年も、何とぞ首尾よう納めて参れば良うござるが。いや、これまで参つたれば、いかう草臥(くたび)れた。暫くこの所に待ち合(あは)せ、似合はしい者も通らば、言葉をかけて同道致さう。と存ずる。
▲シテ「佐渡の国のお百姓でござる。毎年御嘉例として、上頭へ御年貢を捧ぐる。当年も相変らず持つて上らう。と存ずる。誠に、戸ざゝぬ御代(みよ)と申すは、今この時でござる。天下治まりめでたい御代なれば、上々(うへうへ)のお事は申し上ぐるに及ばず、下々までも存ずる儘の折柄でござる。
▲アト「これへ一段の者が参つた。言葉を掛けう。なうなう、これこれ。
▲シテ「この方の事でおりあるか。
▲アト「成程、わごりよの事ぢや。そなたは、どれからどれへお行きある。
▲シテ「身共は、用を前に当てゝ、後(あと)から先へ行く者でおりある。
▲アト「これはいかな事。誰あつて、用を後ろにあてゝ、先から後(あと)へ行く者はあるまい。真実は、どれからどれへお行きある。
▲シテ「まづ、そなたは、どれからどれへお行きある。
▲アト「身共は、越後の国のお百姓でおりある。毎年御嘉例として、上頭へ御年貢を捧ぐる。当年も相変らず、今持つて登る事でおりある。
▲シテ「すれば身共は、そなたの向かひの者ぢや。
▲アト「向かひでは、つひに見ぬ人ぢやぞや。
▲シテ「佐渡の国のお百姓でおりある。
▲アト「はあ。扨は、国向かひ。といふ事か。
▲シテ「中々。
▲アト「して、何と。
▲シテ「毎年御嘉例として、上頭へ御年貢を捧ぐる。当年も相変らず、今持つて上る事でおりある。
▲アト「言葉をかくるも別の事ではない。何と、同道召さるまいか。
▲シテ「幸ひ、ひとりで連れ欲しう存じた。成程、同道致さう。
▲アト「それならば、いざ、お行きあれ。
▲シテ「何がさて、わごりよが先(せん)ぢや。まづわごりよから、お行きあれ。
▲アト「先(せん)と仰(お)せある程に、身共から参らうか。
▲シテ「一段と良からう。
▲アト「さあさあ、おりあれ。
▲シテ「心得た。
▲アト「扨、ふと言葉をかけたに、早速同心召されて、この様な悦ばしい事はおりない。
▲シテ「牛は牛づれ、馬は馬づれ。と云ふが、そなたも百姓、身共も百姓。この様な似合うた良い連れはあるまい。
▲アト「扨、佐渡は離れ島ぢやによつて、物事不自由にあらう。
▲シテ「いやいや。佐渡は大国ぢやによつて、何も不自由な事はない。
▲アト「それは、わごりよの国びいきと云ふものぢや。佐渡には余国に沢山なものがない。と聞いた。
▲シテ「いかないかな。佐渡にないものと云うては、ない。何でもある。
▲アト「いやいや。佐渡には狐がない。と聞いた。
▲シテ「狐か。
▲アト「中々。
▲シテ「狐はある。
▲アト「いやいや、狐はない筈ぢや。
▲シテ「狐には限らぬ。猪(しゝ)・猿・狼・狸、何でもゐる。
▲アト「いや。余のものはゐようが、狐に限つてない筈ぢや。
▲シテ「狐は取り分き沢山に居る。
▲アト「はあ。扨は、しかと云ふか。
▲シテ「しかと云ふが、何とする。
▲アト「それならば、かけろくにせう。
▲シテ「成程、かけろくにせうが。して、懸け物には何をかくる。
▲アト「銘々のひと腰がけにせう。
▲シテ「それならば、身共もこのひと腰をかけう。
▲アト「扨、この批判は誰に頼まう。
▲シテ「いや、今日(けふ)の御奏者に頼まう。
▲アト「これは、一段と良からう。さあさあ、おりあれ。
▲シテ「心得た。
▲アト「扨、今日(けふ)はそなたの蔭で、思ひも寄らぬひと腰を申し受くる。と云ふものぢや。
▲シテ「それは、あちらこちらぢや。そなたの蔭で、存じも寄らぬひと腰を、この方へ申し受くる。と云ふものぢや。
▲アト「それは、追つ付け知るゝ事ぢや。
▲シテ「その通りぢや。
▲アト「いや、何かと云ふ内に、早(はや)御舘(みたち)ぢや。
▲シテ「誠に御舘ぢや。
▲アト「して、そなたは時のお奏者で上ぐるか、引付(ひきつけ)があるか。
▲シテ「身共は引付があるによつて、身共から上げう程に、暫くそれにお待ちあれ。
▲アト「心得た。
▲シテ「物もう、案内もう。
▲小アト「何者ぢや。
▲シテ「はあ、佐渡の国のお百姓でござる。毎年御嘉例として、御年貢を捧げまする。当年も相変らず今持つて上つてござる。御前の首尾を宜しう頼み存じまする。
▲小アト「御蔵の前へ納めませい。
▲シテ「畏つてござる。
▲小アト「やいやい、百姓は、汝一人か。
▲シテ「御門前に越後のお百姓が居りまする。
▲小アト「上頭へは一緒に申し上げう程に、これへ出よ。と云へ。
▲シテ「畏つてござる。扨、御奏者へ、ちとお願ひがござります。
▲小アト「それは、何事ぢや。
▲シテ「越後の国のお百姓と、ふと道づれになりまして、何か物事咄し合ひまする内に、佐渡は離れ島ぢやによつて、物事不自由にあらう。と申します。私は又、国びいきを致して、何も不自由な事はない。と申してござれば、佐渡には狐があるまい。と申しまする。私は、ある。と申しまする。この、狐のある、ない。と申す事を申し上がつて、かけろくに致いてござる。この御批判を宜しう頼み存じます。
▲小アト「何ぢや。佐渡に狐のあるないといふ事を、かけろくにした。と云ふか。
▲シテ「左様でござる。
▲小アト「して、佐渡に狐があるか。
▲シテ「ゑゝ。
▲小アト「いやさ、狐があるか。と云ふ事ぢや。
{と云ふ時、シテ、懐中より賂(まひなひ)を出し、}
▲シテ「これは近頃、寸志の品でござりまするが、どうぞお袖の下へお納めなされて下されませ。
▲小アト「やいやいやい、そこなやつ。おのれ、こゝを何所(どこ)ぢやと思ふ。役所に於いて、その様な賂(まひなひ)がましい事はならぬ。そちへ持つて行け。
▲シテ「いや、どうぞ、お納め下されませ。
▲小アト「はて扨、持つて行け。と云ふに。これは、迷惑な事ぢや。
▲シテ「これは、ありがたう存じまする。
▲小アト「して、佐渡に狐はあるまいがな。
▲シテ「ござりませぬ。
▲小アト「それならば、形(なり)格好も知らぬであらう。
▲シテ「かつて存じませぬ。
▲小アト「越後の国のお百姓が尋ねたらば、定めて迷惑するであらう。狐の形(なり)格好を、大略(あらまし)教へてやらうぞ。
▲シテ「それは、ありがたう存じまする。
▲小アト「まづ、狐といふものは、犬よりも少し小さいものぢや。
▲シテ「あの、犬より小さうござるか。
▲小アト「面(つら)は細う尖(とが)つてある。
▲シテ「はあ。
▲小アト「目はたつに切れてある。
▲シテ「たつに切れてござるか。
▲小アト「口は耳せゝまで切れてあり、尾はふつさりと長いものぢや。
▲シテ「長うござるか。
▲小アト「毛色は狐色というて、うす赤いものぢや。間(あひだ)には白いもあるものぢや。
▲シテ「あの、白いもござりまするか。
▲小アト「さうさへ云うたらば、大方、汝が勝ちにならうぞ。
▲シテ「それは、ありがたう存じまする。とかく宜しう頼み存じまする。
▲小アト「汝は何知らぬ体(てい)で、越後の国のお百姓もこれへ出よ。と云へ。
▲シテ「畏つてござる。
▲アト「何と、上げさしましたか。
▲シテ「成程、上げておりある。
▲アト「そなたの事を申し上げたれば、上頭へは一緒に仰せ上げられう。とのお事ぢや。急いでお出あれ。
▲アト「心得た。物もう、案内もう。
▲小アト「何者ぢや。
▲アト「はあ、越後の国のお百姓でござる。毎年御嘉例として、御年貢を捧げまする。当年も相変らず持つて上つてござる。御前の首尾を宜しう頼み上げます。
▲小アト「御蔵の前へ納めませい。
▲アト「畏つてござる。扨、お奏者へ、ちとお願ひがござる。
▲小アト「それは、何事ぢや。
▲シテ「佐渡の国のお百姓と、ふと道づれになりまして、何か物事咄し合ひまする内に、佐渡に狐のある、ない。と申す事を、かけろくを致いてござる。何とぞ、御批判をなされて下されうならば、ありがたう存じまする。
▲小アト「何ぢや。佐渡に狐のあるないといふ事を、かけろくにした。
▲アト「左様でござる。
▲小アト「それは、汝が口ばかりを聞いた分では知れぬ。佐渡の国のお百姓にもこれへ出よ。と云へ。
▲アト「畏つてござる。なうなう、佐渡の国のお百姓。
▲シテ「何事ぢや。
▲アト「そなたにも、あれへ出よ。とのお事ぢや。急いでお出あれ。
▲シテ「何、身共にも出よ。と仰せらるゝか。
▲アト「中々。
▲シテ「心得た。佐渡の国のお百姓、出ましてござる。
▲小アト「今、越後の国のお百姓の云ふを聞けば、佐渡に狐のある、ない。といふ事を、かけろくにした。と云ふ事ぢやが、誠か。
▲シテ「左様でござりまする。
▲小アト「して、懸け物には、何をかける。
▲シテ「銘々のひと腰がけに致いてござる。
▲小アト「汝もさうか。
▲アト「左様でござる。
▲小アト「それならば、まづ、そのひと腰を、これへ出せ。
▲二人「畏つてござる。
▲シテ「これは、私のでござります。
▲アト「これは、私のでござる。
▲小アト「扨々、変つた事をかけろくにした。して、佐渡に狐のある。と云うたは。
▲シテ「私でござります。
▲小アト「汝は、佐渡の国のお百姓ぢやな。
▲シテ「左様でござる。
▲小アト「ない。と云うたは、汝ぢやな。
▲アト「はあ。
▲小アト「そちは、越後の国のお百姓か。
▲アト「左様でござる。
▲小アト「扨々、難しい事を懸けろくにした。ゑゝ、佐渡に狐は。
▲シテ「はあ。
▲小アト「居る。
▲シテ「ござりませうが。
▲小アト「ある、ある。
▲アト「あの、佐渡に狐がをりますか。
▲シテ「それ見よ。佐渡に狐はあるわ。
▲アト「はて、合点の行かぬ事ぢや。
▲シテ「これは、私が勝ちでござります。
▲小アト「おゝおゝ、そちが勝ちゞや。
▲シテ「左様ならば、これは私が取りませうぞ。
▲アト「あゝ、まづ、待て待て。
▲シテ「何と待てとは。
▲アト「佐渡に狐はない筈ぢやが。それならば、狐の形(なり)格好を知つてゐるか。
▲シテ「それを知らいでなるものか。
▲アト「それならば、形(なり)格好はどの様なものぢや。
▲シテ「形(なり)格好か。
▲アト「中々。
{シテ、云ひ兼ねる所、仕様あるべし。アト、せき立てる。小アト、気の毒がり、あせる。三人とも、色々工夫あるべし。総て、尋ぬる間、同断。仕様あるべし。口伝。}
▲シテ「物ぢや。
▲アト「物とは。
▲シテ「猪。
▲アト「何ぢや、猪。
▲シテ「いや、犬より少し小さいものぢや。
▲アト「成程、犬より少し小さいものぢや。面(つら)は。
▲シテ「面(つら)は、かうぢや。
{と云ひて、小アトの蔭よりして見せる通りをするなり。仕方、これに準ずべし。口伝。}
▲アト「かうぢや。とは、何の事ぢや。
▲シテ「細う尖(とが)つてござりますなあ。
▲小アト「おゝ、細う尖つてあるとも。
▲アト「成程、細う尖つてあるものぢや。それならば、目は。
▲シテ「目は、二つある。
▲アト「二つなうてなるものか。どの様になつてある。
▲シテ「かうぢや、かうぢや。
▲アト「かうとは。
▲小アト「たつに切れてあるか。
▲シテ「たつに切れてござります。
▲小アト「むゝ、たつに切れてある。
▲アト「それならば、口は。
▲シテ「口は、耳ぢや。
▲アト「耳とは何の事ぢや。
{小アト、あせり、小さき声にて云ふ。仕方などして見せるを、アト、奏者を見るなり。}
▲シテ「耳せゝまで切れてある。
▲アト「尾は。
▲シテ「尾は、ない。
▲アト「尾のない狐があるものか。
▲シテ「丸い、丸い。
▲アト「何ぢや、丸い。
▲シテ「いやいや、ふつさりと長いものぢや。
▲アト「いか様、ふつさりと長いものぢや。それならば、毛色は。
▲シテ「毛色か。
▲アト「中々。
▲シテ「黒い。
▲アト「黒い狐があるものか。
▲シテ「狐色というて、うす赤いものぢや。
▲アト「成程、うす赤いものぢや。
▲小アト「間(あひだ)には、白いもあらうが。
▲シテ「成程、白いもござります。
▲小アト「はて、よう知つてゐるなあ。
▲アト「成程、白いのもあるものぢや。
▲小アト「これは、汝が勝ちゞや。
▲シテ「私が勝ちでござります。
▲小アト「それを取つて行け。
▲シテ「それは、ありがたう存じまする。左様ならば、もかう参りませう。
▲小アト「もう行くか。
▲アト「私も参りませう。
▲小アト「両人ともに、よう来た。
▲二人「はあ。
▲シテ「なうなう、嬉しや、嬉しや。今日(けふ)は、お奏者の蔭で、思ひも寄らぬひと腰を、この方へ申し受けた。といふものぢや。これは、身共がのよりは、大分拵へが良い。この様な嬉しい事はない。
▲アト「扨々、合点の行かぬ事ぢや。佐渡に狐はない筈ぢやが。その上、お奏者の顔付きも、合点が行かぬ。いや、致し様がある。やいやい、佐渡の国のお百姓。
▲シテ「何ぢや。
▲アト「まだ、問ひ落とした事がある。
▲シテ「いや、何も問ひ落とした事はあるまいが。
▲アト「いやいや、狐の啼き声は聞かなんだ。
▲シテ「それは、最前云うたぞよ。
▲アト「いゝや、聞かなんだ。
▲シテ「啼く声か。
▲アト「中々。
▲シテ「口で啼くわ。
▲アト「口で啼かいで、どこで啼くものぢや。何と云うて啼く。
▲シテ「啼く声か。
▲アト「中々。
▲シテ「犬より少し小さいものぢや。
▲アト「それは、形(なり)格好の事ぢや。
▲シテ「啼く声は、たつに切れてある。
▲アト「はて、それは、目の事ぢや。啼く声を云へ。と云ふ事ぢや。
▲シテ「狐色というて、うす赤いものぢや。
▲アト「それは、毛色の事ぢや。
▲シテ「間(あひだ)には、白いもあるわいやい。
▲アト「おのれは憎いやつの。
▲シテ「これは、何とする。
▲アト「この啼く声を云はねば、どちへもやらぬぞ。
▲シテ「何ぢや。この啼く声を云はねば、どちへもやらぬ。
▲アト「中々。
▲アト「中々。
▲シテ「それは、誠か。
{常の如く、詰める。}
▲シテ「いや。今、思ひ出した。物と。
▲アト「何と。
{常の如く、詰める。}
▲シテ「月星日(つきほしひ)。と啼く。
▲アト「おのれ、それは、鴬の事ぢやわいやい。
{と云ひて、両腰ともに引つたくりて入るなり。}
▲シテ「やいやい。せめて、身共がひと腰なりとも、返してくれい。
▲アト「ならぬぞ、ならぬぞ。
{と云ひて入る。シテ、常の如く、追ひ込むなり。}
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
佐渡狐(サドギツネ)(初番物)
▲アト「越後の国のお百姓で御座る、毎年御嘉例として上頭へ御年貢を捧る、当年も相かはらず持つて上らうと存ずる、誠に毎年相かはらず御年貢を納ると申すは、目出たい事で御座る、当年も何とぞ首尾よう納めて参ればよう御座るがいや、是迄参つたればいかう草臥た、しばらく此所に待合せ、似合はしい者も通らば、言葉をかけて同道致さうと存ずる{*1}▲シテ「佐渡の国のお百姓で御座る、毎年御嘉例として上頭へ御年貢を捧る、当年も相かはらず持つて上らうと存ずる、誠に、戸ざゝぬ御代と申すは今此時で御座る、天下治り目出たい御代なれば、上々のお事は申し上ぐる{*2}に及ず下々迄も存ずる儘の折柄で御座る▲アト「是へ一段の者が参つた言葉を掛う、なうなう是々▲シテ「此方の事でおりあるか▲アト「成程わごりよの事ぢや、そなたはどれからどれへおゆきある▲シテ「身共は用を前にあてゝ、後から先へゆく者でおりある▲アト「是はいかな事誰あつて用を後にあてゝ先きから後へゆく者は有るまい、真実はどれからどれへおゆきある▲シテ「先づそなたはどれからどれへおゆきある▲アト「身共は越後の国のお百姓でおりある、毎年御嘉例として上頭へ御年貢を捧る、当年も相かはらず今持つてのぼる事でおりある▲シテ「すれば身共はそなたの向いの者ぢや▲アト「むかいではついに見ぬ人ぢやぞや▲シテ「佐渡の国のお百姓でおりある▲アト「はあ偖は国むかいと云ふ事か▲シテ「中々▲アト「して何と▲シテ「毎年御嘉例として上頭へ御年貢を捧る、当年も相かはらず{*3}今持て上る事でおりある▲アト「言葉をかくるも別の事ではない、何と同道めさるまいか▲シテ「幸ひ独りでつれほしう存じた、成程同道致さう▲アト「夫ならばいざおゆきあれ▲シテ「何がさてわごりよが先んぢや、先づわごりよからおゆきあれ▲アト「先んとおせある程に身共から参らうか▲シテ「一段とよからう▲アト「さあさあおりあれ▲シテ「心得た▲アト「偖ふと言葉をかけたに、早速同心召されて、此様な悦ばしい事はおりない▲シテ「牛は牛づれ馬は馬づれといふが、そなたも百姓身共も百姓、此やうな似合うたよい連れは有るまい▲アト「偖佐渡は離れ島ぢやに依つて、物事不自由に有らう▲シテ「いやいや佐渡は大国ぢやに依つて、何も不自由な事はない▲アト「夫はわごりよの国びいきといふものぢや、佐渡には余国に沢山な物がないと聞ひた▲シテ「いかないかな佐渡にない物といふてはない何でもある▲アト「いやいや佐渡には狐がないと聞いた▲シテ「狐か▲アト「中々▲シテ「狐はある▲アト「いやいや狐はない筈ぢや▲シテ「狐にはかぎらぬ、猪猿狼狸なんでもゐる▲アト「いや余の者はゐようが、狐にかぎつてない筈ぢや▲シテ「狐はとりわき沢山に居る▲アト「はあ偖はしかといふか▲シテ「しかといふが何とする▲アト「夫ならばかけろくにせう▲シテ「成程かけろくにせうが、して懸物には何をかくる▲アト「銘々の一と腰がけにせう▲シテ「夫ならば身共も此一と腰をかけう▲アト「偖此批判は誰に頼まう▲シテ「いやけふの御奏者に頼まう▲アト「是は一段とよからう、さあさあおりあれ▲シテ「心得た▲アト「偖けふはそなたの蔭で、おもひもよらぬ{*4}一と腰を申しうくるといふものぢや▲シテ「夫はあちらこちらぢや、そなたの蔭で存じもよらぬ一と腰を、此方へ申し請くるといふものぢや▲アト「夫は追付しるゝ事ぢや▲シテ「其通りぢや▲アト「いや何彼といふ内に早みたちぢや▲シテ「誠に御舘ぢや▲アト「してそなたは時のお奏者で上ぐるか{*5}、引付があるか▲シテ「身共は引付があるに依つて、身共から上げう{*6}程に、しばらく夫にお待あれ▲アト「心得た▲シテ「物もう案内もう▲小アト「何者ぢや▲シテ「はあ、佐渡の国のお百姓で御座る、毎年御嘉例として御年貢を捧げまする{*7}、当年も相かはらず今持つて上つて御座る、御前の首尾を宜しう頼み存じまする▲小アト「御蔵の前へ納めませい▲シテ「畏つて御座る▲小アト「やいやい百姓は汝一人か▲シテ「御門前に越後のお百姓が居りまする▲小アト「上頭へは一所に申し上げう{*8}程に是へ出よといへ▲シテ「畏つて御座る、偖御奏者へちとお願が御座ります▲小アト「夫は何事ぢや▲シテ「越後の国のお百姓とふと道づれになりまして、何か物事咄し合ひまする内に、佐渡は離れ島ぢやに依つて物事不自由に有らうと申します、私は又国びいきを致して、何も不自由な事はないと申して御座れば、佐渡には狐があるまいと申しまする、私はあると申しまする、此狐のあるないと申す事を、申し上つてかけろくに致いて御座る、此御批判を宜敷う頼み存じます▲小アト「何ぢや佐渡に狐のあるないといふ事を、かけろくにしたといふか▲シテ「左様で御座る▲小アト「して佐渡に狐があるか▲シテ「ゑゝ▲小アト「いやさ狐があるかといふ事ぢや{ト云ふ時シテ懐中よりまいないを出し}▲シテ「是は近頃寸志の品で{*9}御座りまするが、どうぞお袖の下へお納め成れて下されませ▲小アト「やいやいやいそこなやつ、おのれ爰を何所ぢやと思ふ、役所に於て其様なまいないがましい事はならぬ、そちへ持つてゆけ▲シテ「いやどうぞお納め下されませ▲小アト「果偖もつてゆけといふに、是は迷惑な事ぢや▲シテ「是は有難う存じまする▲小アト「して佐渡に狐は有まいがな▲シテ「御座りませぬ▲小アト「夫ならばなりかつこうも知らぬであらう▲シテ「曽て存じませぬ▲小アト「越後の国のお百姓が尋ねたらば、定て迷惑するで有らう、狐のなりかつこうを大略おしへてやらうぞ▲シテ「夫は有難う存じまする▲小アト「先づ狐といふものは犬よりもすこしちいさい者ぢや▲シテ「あの犬よりちいさう御座るか▲小アト「つらは細うとがつてある▲シテ「はあ▲小アト「目はたつに切れてある▲シテ「たつにきれて御座るか▲小アト「口は耳せゝ迄きれてあり、尾はふつさりと長いものぢや▲シテ「長う御座るか▲小アト「毛色は狐色といふてうす赤いものぢや、間には白いもある物ぢや▲シテ「あの白いも御座りまするか▲小アト「さうさへいふたらば、大方汝が勝にならうぞ▲シテ「夫は有難う存じまする、兎角宜敷う頼み存じまする▲小アト「汝は何しらぬ体で、越後の国のお百姓も是へ出よといへ▲シテ「畏つて御座る▲アト「何と上げさしましたか▲シテ「成程上げておりある▲アト「そなたの事を申し上げたれば、上頭へは一つ所に仰せ上げられうとのお事ぢや急でお出あれ▲アト「心得た、物もう案内もう▲小アト「何者ぢや▲アト「はあ、越後の国のお百姓で御座る、毎年御嘉例として、御年貢を捧げまする{*10}、当年も相かはらず持つて上つて御座る、御前の首尾を宜しう頼み上げます▲小アト「御蔵の前へ納めませい▲アト「畏つて御座る、偖お奏者へちとお願ひが御座る▲小アト「夫は何事ぢや▲シテ「佐渡の国のお百姓と、ふと道づれになりまして、何か物事咄し合ひまする内に、佐渡に狐のあるないと申す事をかけろくを致いて御座る、何卒御批判を被成て下されふならば、有難う存じまする▲小アト「何ぢや佐渡に狐の有ないといふ事をかけろくにした▲アト「左様で御座る▲小アト「夫は汝が口ばかりを聞いた分ではしれぬ、佐渡の国のお百姓にも是へ出よといへ▲アト「畏つて御座る、なうなう佐渡の国のお百姓▲シテ「何事ぢや▲アト「そなたにもあれへ出よとのお事ぢや、急でお出あれ▲シテ「何身共にも出よと仰せらるゝか▲アト「中々▲シテ「心得た、佐渡の国のお百姓出まして御座る▲小アト「今越後の国のお百姓のいふを聞けば、佐渡に狐のあるないと云ふ事をかけろくにしたといふ事ぢやが誠か▲シテ「左様で御座りまする▲小アト「して懸物には何をかける▲シテ「銘々の一と腰がけに致いて御座る▲小アト「汝もさうか▲アト「左様で御座る▲小アト「夫ならば先づ其一と腰を是へ出せ▲二人「畏つて御座る▲シテ「是は私ので御座ります▲アト「是は私ので御座る▲小アト「偖々かわつた事をかけろくにした、して佐渡に狐のあるといふたは▲シテ「私で御座ります▲小アト「汝は佐渡の国のお百姓ぢやな▲シテ「左様で御座る▲小アト「ないといふたは汝ぢやな▲アト「はあ▲小アト「そちは越後の国のお百姓か▲アト「左様で御座る▲小アト「偖々六ケ敷い事を懸ろくにした、ゑゝ佐渡に狐は▲シテ「はあ▲小アト「居る▲シテ「御座りませうが▲小アト「あるある▲アト「あの佐渡に狐がおりますか▲シテ「夫見よ佐渡に狐はあるは▲アト「果合点のゆかぬ事ぢや▲シテ「是は私が勝で御座ります▲小アト「おゝおゝそちが勝ぢや▲シテ「左様ならば是は私が取りませうぞ▲アト「あゝ先づまてまて▲シテ「何とまてとは▲アト「佐渡に狐はない筈ぢやが、夫ならば狐のなりかつこうを知つてゐるか▲シテ「夫を知らいでなるものか▲アト「夫ならばなりかつこうはどの様な物ぢや▲シテ「なりかつこうか▲アト「中々{シテ云兼る所仕様可有アトせき立る{*11}小アト気の毒がり{*12}あせる三人共色々工夫有べし総て尋る間同断仕様有るべし口伝}▲シテ「物ぢや▲アト「物とは▲シテ「猪▲アト「何ぢや猪▲シテ「いや犬よりすこしちいさい者ぢや▲アト「成程犬よりすこしちいさい者ぢや{*13}つらは▲シテ「つらはかうぢや{ト云て小アトの蔭よりして{*14}見せる通りをするなり仕方之に準ずべし{*15}口伝}▲アト「かうぢやとは何の事ぢや▲シテ「細うとがつて御座りますなあ▲小アト「おゝ細うとがつてある共▲アト「成程細うとがつてある者ぢや、夫ならば目は▲シテ「目は二つある▲アト「二つなうて成るものか、どの様になつてある▲シテ「かうぢやかうぢや▲アト「かうとは▲小アト「たつにきれてあるか▲シテ「たつに切れて御座ります▲小アト「むゝたつにきれてある▲アト「夫ならば口は▲シテ「口は耳ぢや▲アト「耳とは何の事ぢや{小アトあせり小さき声にて云仕方抔{*16}して{*17}見せるをアト奏者を見る也}▲シテ「耳せゝ迄きれてある▲アト「尾は▲シテ「尾はない▲アト「尾のない狐があるものか▲シテ「丸い丸い▲アト「何ぢや丸い▲シテ「いやいやふつさりと長いものぢや▲アト「いか様ふつさりと長い物ぢや、夫ならば毛色は▲シテ「毛色か▲アト「中々▲シテ「黒い▲アト「黒い狐があるものか▲シテ「狐色といふて、うす赤いものぢや▲アト「成程うす赤い物ぢや▲小アト「あいだには白いもあらうが▲シテ「成程白いも御座ります▲小アト「果ようしつてゐるなあ▲アト「成程白いのもある物ぢや▲小アト「是は汝が勝ぢや▲シテ「私が勝で御座ります▲小アト「夫を取つてゆけ▲シテ「夫は有難う存じまする、左様ならばもかう参りませう▲小アト「もうゆくか▲アト「私も参りませう▲小アト「両人共によう来た▲二人「はあ▲シテ「なうなう嬉しや嬉しや、けふはお奏者の蔭で、思ひもよらぬ一と腰を、此方へ申し請けたといふものぢや、是は身共がのよりは大分拵がよい、此様な嬉しい事はない▲アト「偖々合点のゆかぬ事ぢや、佐渡に狐はない筈ぢやが、其上お奏者の顔付も合点がゆかぬいや致しやうがある、やいやい佐渡の国のお百姓▲シテ「なんぢや▲アト「まだといおとした事がある▲シテ「いや何もとい落した事は有るまいが▲アト「いやいや狐の啼声はきかなんだ▲シテ「夫は最前いふたぞよ▲アト「いゝや聞かなんだ▲シテ「なく声か▲アト「中々▲シテ「口で啼わ▲アト「口でなかいでどこで啼く物ぢや、何といふてなく▲シテ「啼声か▲アト「中々▲シテ「犬よりすこしちいさいものぢや▲アト「夫は成格好の事ぢや▲シテ「なく声はたつに切れてある▲アト「果夫は目の事ぢや、啼く声をいへといふ事ぢや▲シテ「狐色といふて薄赤いものぢや▲アト「夫は毛色の事ぢや▲シテ「あいだには白いもあるわいやい▲アト「おのれは憎いやつの▲シテ「是は何とする▲アト「此なく声をいはねばどちへもやらぬぞ▲シテ「何ぢや此なく声を言はねばどちへもやらぬ▲アト「なかなか▲シテ「夫は誠か{如常つめる}▲シテ「いや今思ひ出した物と▲アト「何と{如常つめる}▲シテ「月星日となく▲アト「おのれ夫は鴬の事ぢやわいやい{ト云て両腰共に引たくりて入也}▲シテ「やいやいせめて身共が一と腰なり共返してくれい▲アト「ならぬぞならぬぞ{ト云て入るシテ如常追込なり}
校訂者注
1:底本は、「存する」。
2:底本は、「申し上くる」。
3:底本は、「相かはらす」。
4:底本は、「おもよらぬ」。
5:底本は、「上くるか」。
6・8:底本は、「上けう」。
7・10:底本は、「捧けまする」。
9:底本は、「品て」。
11:底本は、「アトせ 立る」。一字カスレ、判読困難。
12:底本は、「気の毒かり」。
13:底本、ここに「▲アト「」がある(略す)。
14・17:底本は、「シテ」。
15:底本は、「之に順すべし」。
16:底本は、「杯」。
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