酢薑(すはじかみ)(二番目)
▲アト「これは、津の国の姜売(はじかみう)りでござる。毎年(まいねん)、都へ姜を商売に持つて上(のぼ)る。当年も相変らず持つて上らう。と存ずる。誠に、津の国は姜の名物でござるによつて、毎年夥(おびたゞ)しう売る事でござる。何とぞ、当年も首尾良う売るれば、良うござるが。いや、何かと云ふ内に、早(はや)、都ぢや。これに暫く休らうで、心静かに商売を致さうと存ずる。
▲シテ「これは、和泉の堺の酢売りでござる。毎年、都へ酢を商売に持つて上る。当年も相変らず、今持つて上らう。と存ずる。誠に、酢と申す物は、五味の中のその一つでござるによつて、すわ御料理。と申せば、酢がさし出いで叶はぬ事でござる。殊に、和泉酢は名物でござるによつて、毎年夥しう売る事でござる。いや、何かと云ふ内に、早、都ぢや。さらば、このあたりから、心静かに商売を致さう。と存ずる。しいしい、そこ元へ。酢は召すまいか。酢は、酢は、酢買(か)う、酢買(か)う。和泉酢は、召すまいか。
▲アト「これはいかな事。身共がこれに居るを、知らぬさうな。やいやいやい、そこなやつ。
▲シテ「はあ。
▲アト「おのれは、何者ぢや。
▲シテ「私は、和泉の堺の酢売りでござる。お前は、どなたでござる。
▲アト「身共を知らぬか。
▲シテ「いゝや、存じませぬ。
▲アト「津の国の姜売りぢや。
▲シテ「何ぢや。
▲アト「姜売りぢや。
▲シテ「姜売りぢや。
▲アト「中々。
▲シテ「牛に喰らはれた。所の目代殿でもあるか。と思うて、よい肝をつぶした。おぬしが姜売りならば、身共は酢売りぢや。それが、何とした。
▲アト「よし、何を商売にせうとも、身共へ断りなしに、売らす事はならぬ。
▲シテ「それは、どうした事ぢや。
▲アト「身共が先祖が参内して、商人司(あきうどづかさ)を頂戴したによつて、身共へ断りなしに売らす事はならぬ。
▲シテ「それならば、身共が先祖も参内して、商人司を頂戴したによつて、身共にも断りなしに売らす事はならぬ。さりながら、おぬしが先祖が参内したが定(ぢやう)ならば、定めて系図があらう程に、語らしませ。
▲アト「語らう程に、ようお聞きあれ。
▲シテ「心得た。
▲アト「《語》扨も、辛(からく)天皇の御時、姜売り、御門(みかど)に参りしかば、やあ、あれなる姜売り、こなたへ。と御諚ある。
▲シテ「はあん。
▲アト「畏つて候ふ。とて、唐橋を打ち渡り、唐(から)門に入り、唐竹縁に畏る。その時、唐紙障子をからりとあけ、いかにもからき御酒(ごしゆ)を下さるゝ。肴には、からし・唐桃・辛蒜(からひる)や、唐木を焚(た)いて辛熬(い)りにせん。とこそあれ、やわか、ずいきを焚いて酢熬(い)りにせん。とはおりあるまい。
▲シテ「これは、聞き事な系図でおりある。身共のは、それ程にはあるまいけれども、語らう程に、ようお聞きあれ。
▲アト「早う語らしませ。
▲シテ「《語》扨も、推古天皇の御時、酢売り、御門に参りしかば、やあ、あれなる酢売り、こなた此方へ。と宣旨(せんず)ある。
▲アト「ほを。
▲シテ「畏(かすこま)つて候(すうら)ふ。とて、簀の子橋を打ち渡り、簀の子の縁に畏(かすこま)る。その時、翠簾の内よりも、すき御酢(ごす)を下さるゝ。一首(いつす)はかうぞ聞こえける。住吉の角(すみ)に雀が巣をかけて、さこそ雀も住み良かるらん。その外、千秋(せんすう)万歳重なつて、巌の上に亀遊ぶ、松の枝には鶴巣くふ。とこそあれ、やわか、姜の枝に、鶴が巣をくうだ例(ためし)はおりあるまい。
▲アト「これも、聞き事な系図でおりある。この上は、互の商売物によそへて、秀句を云うて、その秀句に云ひ勝つた者を、商人司にせう。と思ふが、何とあらう。
▲シテ「何ぢや、秀句を云はう。
▲アト「中々。
▲シテ「暫くそれにお待ちあれ。
▲アト「心得た。
▲シテ「《笑》きやつは秀句好きさうな。秀句は身共が得物でござる。なうなう。秀句、一段と良からう。
▲アト「それならば、そなたから行かしめ。
▲シテ「わごりよが先(せん)ぢや程に、まづそなた、行かしめ。
▲アト「先と仰(お)せある程に、身共から参らうか。
▲シテ「はあ。わごりよの商売物は、姜ぢやの。
▲アト「中々。
▲シテ「薑の辛い縁によそへて、身共から。
▲アト「おゝから。
▲二人「おゝから、おゝから。
{と云ひて、二人ともに笑ふ。}
▲シテ「これは、初手を喰はした。
▲アト「いや、さうもおりない。
▲シテ「身共は、この通りをまつすぐに参らう。
▲アト「そなたの商売物は、酢ぢやの。
▲シテ「中々。
▲アト「その酢の酸(す)い縁によそへて、真つ直(すぐ)。
▲シテ「すぐ。
▲二人「すぐ、すぐ。
{と云ひて、笑ふ。}
▲アト「さあさあ、おりあれ。
▲シテ「心得た。
▲アト「あれあれ、あの木をお見あつたか。
▲シテ「成程、見ておりある。
▲アト「あれは、唐松さうな。
▲シテ「傍に、杉の木もあるわ。
▲アト「纏うたは、唐草ではないか。
▲シテ「それは、わごりよの目違ひぢや。あれは、すひかづらでおりある。
▲アト「枝にとまつたは、山雀(やまがら)さうな。
▲シテ「巣起(すだ)ちと見えて、竦(すく)うでゐるわ。
▲アト「何ぢや、すくうで。
▲シテ「中々。
▲二人「すくうで、すくうで。
{と云ひて、笑ふ。}
▲アト「さあさあ、おりあれ。
▲シテ「心得た。
▲アト「扨々、そなたは、いかい口利きでおりある。
▲シテ「いやいや、そなたが口利きぢやによつて、追つ付きかぬる事でおりある。
▲アト「何かと云ふ内に、唐物店に着いた。
▲シテ「誠に。数寄屋道具もあるわ。
▲アト「ちと、見物致さうか。
▲シテ「一段と良からう。
▲アト「あれあれ、あの鏡をお見あつたか。
▲シテ「見ておりある。
▲アト「あれは、唐の鏡さうな。
▲シテ「姿見にしたらば、良からう。
▲アト「向かうの掛物は、唐絵さうな。
▲シテ「何かは知らぬが、墨絵で描(か)いたわ。
▲アト「讃も、唐筆と見ゆる。
▲シテ「定めて、子昂(すごう)が自画自讃でかな、あらう。
▲アト「何ぢや、子昂(すごう)。
▲シテ「おゝ、子昂(すごう)。
▲二人「すごう、すごう。
{と云ひて、笑ふなり。}
▲アト「さあさあ、おりあれ。
▲シテ「心得た。
▲アト「とかくそなたも、口利きでおりある。
▲シテ「いかないかな。そなたが口利きぢやによつて、やゝともすれば、負けさうにおりある。
▲アト「あれあれ。雨も降らぬに、傘をさいて行くわ。
▲シテ「後から、菅笠(すげがさ)も着て行くわ。
▲アト「いや、何かと云ふ内に、五條の橋ぢや。
▲シテ「誠に、五條の橋ぢや。
▲アト「あれあれ。川を渡る者が、からげて渡るわ。
▲シテ「あれは、裾を濡らすまい。といふ事であらう。
▲アト「何ぢや、裾を。
▲シテ「裾を。
▲二人「すそを、すそを。
{と云ひて、笑ふ。}
▲アト「扨々、面白い事ぢやが、さりながら、この様に云うてゐては、いつまでも埒があかぬ。何としたものであらう。
▲シテ「身共が思ふは、総じて昔から、酢姜と云うて、酢のいる所へは姜もいり、又姜のいる所へは酢がさし出いで叶はぬ事ぢや。向後(きやうこう)は和談をして、相商ひにせう。と思ふが、何とあらう。
▲アト「これは、一段と良からう。
▲シテ「それならば、稽古のため、売つてお見あれ。
▲アト「心得た。姜買(か)う。
▲シテ「酢買(か)う。
{段々云ひて廻り、詰める。二人、笑ふ。}
▲アト「扨々、面白い事ぢや。
▲シテ「いや、なうなう。今日(けふ)は、日も晩じた。明日(みやうにち)からは、相商ひに致さうぞや。
▲アト「必ず、その筈でおりある。
▲シテ「もう、かう参る。
▲アト「何と、お行きあるか。
▲シテ「中々。
▲二人「さらば、さらば。
▲シテ「暇乞ひに、一句以つて参らう。
▲アト「一段と良からう。
▲シテ「かうもあらう。
▲アト「何と。
▲シテ「蓼(たで)湯とて、何とて辛くなかるらん。
▲アト「梅水とても酸(す)くもあらばや。
▲シテ「一段と出来た。いざ、どつと笑うてのかう。
▲アト「一段と良からう。
▲シテ「つゝと、これへ寄らしめ。
▲アト「心得た。
▲シテ「さあ、笑はしめ。
▲アト「まづ、笑はしめ。
▲シテ「まづ。
▲アト「まづ。
▲二人「まづ、まづ、まづ。
{と云ひて、二人、笑ひ留めて、シテより入るなり。}
底本:『和泉流狂言大成 第四巻』(山脇和泉著 1919年刊 国会図書館D.C.)
酢薑(スハジカミ)(二番目)
▲アト「是は津の国の姜売で御座る、毎年都へ姜を商売に持つて上る、当年も相かはらず持つて上らうと存ずる、誠に津の国は姜の名物で御座るに依つて、毎年おびたゞしう{*1}売る事で御座る、何卒当年も首尾よううるればよう御座るがいや何彼といふ内に早都ぢや、是にしばらく休らうで、心静に商売を致さうと存ずる▲シテ「是は和泉の堺の酢売で御座る、毎年都へ酢を商売に持つて上る、当年も相かはらず今持つて上らうと存ずる、誠に、酢と申す物は五味の中の其一つで御座るに依つて、すわ御料理と申せば、酢がさしでいで叶はぬ事で御座る、殊に和泉酢は名物で御座るに依つて、毎年おびたゞしう{*2}売る事で御座る、いや何彼といふ中に早都ぢや、さらば此あたりから、心静に商売を致さうと存ずる、しいしい、そこ元へ酢はめすまいか、酢は酢は酢こう酢こう、和泉酢はめすまいか▲アト「是はいかな事、身共が是に居るを知らぬさうな、やいやいやいそこなやつ▲シテ「はあ▲アト「おのれは何者ぢや▲シテ「私は和泉の堺の酢売で御座る、お前はどなたで御座る▲アト「身共を知らぬか▲シテ「いゝや存じませぬ▲アト「津の国の姜売ぢや▲シテ「何ぢや▲アト「姜売ぢや▲シテ「姜売ぢや{*3}▲アト「なかなか▲シテ「牛にくらはれた{*4}、所の目代殿でもあるかと思ふてよい肝をつぶした、おぬしが姜売ならば、身共は酢売ぢや、夫が何とした▲アト「よし何を商売にせうとも、身共へ断なしに売らす事はならぬ▲シテ「夫はどうした事ぢや▲アト「身共が先祖が参内して商人づかさを頂戴したに依つて、身共へ断りなしに売らす事はならぬ▲シテ「夫ならば身共が先祖も参内して、商人司を頂戴したに依つて、身共にも断りなしに売らす事はならぬ、去ながらおぬしが先祖が参内したが定{*5}ならば、定て系図が有らう程に語らしませ▲アト「語らう程にようおきゝあれ▲シテ「心得た▲アト「《語》偖も辛天皇の御時、姜売御門に参りしかば、やああれなる姜売此方へと御諚ある▲シテ「はあん▲アト「畏つて候とて、唐橋を打渡り、から門に入り、唐竹縁{*6}に畏る、其時唐紙障子をからりとあけ、いかにもからき御酒を下さるゝ、肴には、からし唐桃辛蒜{*7}や、唐木を焚いて辛熬にせんとこそあれ、やわかずいき{*8}をたいて酢いりにせんとはおりあるまい▲シテ「是はきゝ事な系図でおりある、身共のは夫程にはあるまいけれども、語らう程にようおきゝあれ▲アト「早う語らしませ▲シテ「《語》偖も推古天皇の御時、酢売御門に参りしかば、やああれなる酢売此方へとせんずある▲アト「ほを▲シテ「かすこまつてすうらふとて、簀の子橋を打渡り、簀の子の縁{*9}にかすこまる、其時翠簾の内よりも、すき御酢を下さるゝ、一つ酢はこふぞきこへける、住吉のすみに雀がすをかけて、さこそ雀も住よかるらん、其外千すう万歳重つて、巌の上に亀遊ぶ松の枝には鶴巣くうとこそあれ、やわか姜の枝に、鶴が巣をくうだためしはおりあるまい▲アト「是も聞事な系図でおりある、此上は互の商売物によそへて秀句をいふて、其秀句にいひ勝つた者を、商人司にせうと思ふが何とあらう▲シテ「何ぢや秀句をいはう▲アト「中々▲シテ「しばらく夫におまちあれ▲アト「心得た▲シテ「《笑》きやつは秀句ずきさうな、秀句は身共が得物で御座る、なうなう秀句一段とよからう▲アト「夫ならばそなたからゆかしめ▲シテ「わごりよが先ぢや程に先づそなたゆかしめ▲アト「先ンとおせある程に身共から参らうか▲シテ「はあわごりよ{*10}の商売物は姜ぢやの▲アト「中々▲シテ「薑のからいゑんによそへて身共から▲アト「おゝから▲二人「おゝからおゝから{ト云て二人共に笑ふ}▲シテ「是は初手をくわした▲アト「いやさうもおりない▲シテ「身共は此通りをまつすぐに参らう▲アト「そなたの商売物は酢ぢやの▲シテ「中々▲アト「其酢のすいゑんによそへてまつすぐ▲シテ「すぐ▲二人「すぐすぐ{ト云て笑ふ}▲アト「さあさあおりあれ▲シテ「心得た▲アト「あれあれあの木をお見あつたか▲シテ「成程見ておりある▲アト「あれは唐松さうな▲シテ「そばに杉の木もあるは▲アト「纏うたは唐草ではないか▲シテ「夫はわごりよの目違ひぢや、あれはすいかづらでおりある▲アト「枝にとまつたは山雀さうな▲シテ「巣起と見へて竦ふで{*11}ゐるは▲アト「何ぢやすくうで▲シテ「中々▲二人「すくうですくうで{ト云て笑ふ}▲アト「さあさあおりあれ▲シテ「心得た▲アト「偖々そなたはいかい口利でおりある▲シテ「いやいやそなたが口利ぢやに依つて、追つきかぬる事でおりある▲アト「何彼といふ内に唐物店についた▲シテ「誠にすきや道具もあるは▲アト「ちと見物致さうか▲シテ「一段とよからう▲アト「あれあれあの鏡をお見あつたか▲シテ「見ておりある▲アト「あれは唐の鏡さうな▲シテ「姿見にしたらばよからう▲アト「向かうの掛物は唐絵さうな▲シテ「何かはしらぬが墨絵でかいたは▲アト「讃も唐筆と見ゆる▲シテ「定て子昂が自画自讃でかな有らう▲アト「何ぢやすごう▲シテ「おゝすごう▲二人「すごうすごう{ト云て笑ふなり}▲アト「さあさあおりあれ▲シテ「心得た▲アト「兎角そなたも口利でおりある▲シテ「いかないかなそなたが口利ぢやに依つてやゝ共すればまけさうにおりある▲アト「あれあれ雨もふらぬに傘をさいてゆくは▲シテ「後から菅笠もきてゆくは▲アト「いや何彼といふ内に五條の橋ぢや▲シテ「誠に五條の橋ぢや▲アト「あれあれ川を渡る者がからげて渡るわ▲シテ「あれは裾をぬらすまいといふ事で有らう▲アト「何ぢやすそを▲シテ「すそを▲二人「すそをすそを{ト云て笑う}▲アト「偖々面白い事ぢやが去ながら、此様にいふていてはいつ迄も埒があかぬ、何としたもので有らう▲シテ「身共が思ふは、総じてむかしから、酢姜といふて、酢のいる所へは姜もいり、又姜のいる所へは酢がさしでいで叶はぬ事ぢや、向後は和談をして相商ひにせうと思ふが何と有らう▲アト「是は一段とよからう▲シテ「夫ならば稽古の為売つてお見あれ▲アト「心得た、姜こう▲シテ「酢こう{段々云て廻りつめる二人笑ふ}▲アト「偖々面白い事ぢや▲シテ「いやなうなう、けふは日もばんじた、明日からは相商ひに致さうぞや▲アト「かならず其筈でおりある▲シテ「もうかう参る▲アト「何とお行あるか▲シテ「中々▲二人「さらばさらば▲シテ「暇乞に一句以つて{*12}参らう▲アト「一段とよからう▲シテ「かうも有らう▲アト「何と▲シテ「たで湯とて、何とてからくなかるらん▲アト「梅水とてもすくもあらばや▲シテ「一段と出来た、いざどつと笑ふてのかう▲アト「一段とよからう▲シテ「つゝと是へよらしめ▲アト「心得た▲シテ「さあ笑はしめ▲アト「先わらはしめ▲シテ「まづ▲アト「先▲二人「先々々{ト云て二人笑留めてシテより入也}
校訂者注
1・2:底本は、「おびたゝしう」。
3:底本は、「姜売やぢ」。
4:底本は、「牛にくらはれか」。
5:底本は、「誠(じやう)」。
6・9:底本は、「椽(えん)」。
7:底本は、「葫(から)[ひる]」。[ひる]は[草冠に安](テキストにない)。
8:底本は、「すいき」。
10:底本は、「りごりよ」。
11:底本は、「竦縮(すくふ)で」。
12:底本は、「持つて」。
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